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「……クォーク、……クォーク……っ!」
何度、その名を呼び続けただろうか。幾度も幾度も繰り返されたミナの金切り声が耳に障ったかのように、目を閉じて横たわる彼の眉が、不意に顰められた。無意識のような仕草で上瞼と下瞼が擦り合わされ、頬を地面につけたまま、酷く辛い寝起きのような朦朧さでゆっくりと開かれる。
「クォーク……!」
一言彼の名を叫んだのを最後に、後はもう、ミナは声を出す事が出来なかった。彼のすぐ傍にへたり込み、次々と溢れ出て来る嗚咽に喉を詰まらせていると、ぼんやりながらも状況を認識したらしいクォークが仄かな笑みを浮かべてみせた。
「ああ……ミナ……無事か。よかった……」
掠れた声に、ミナは何度も頷いた。ぼろぼろと、大粒の涙が流れては、顎を伝って落ちていく。子供のように泣きじゃくるミナに苦笑して、クォークは慎重に上体を起こし始めた。
「馬鹿、何て顔してるんだ。……この位で死んでたら、兵士なんか務まらないよ」
頭の方から確かめるように順繰りに手を触れながら地面に座り直したクォークは、その時には自分の左腕が動かない事に気付いた様子だった。
「いって……」
小さく呻きながら腕当てを外し、目を閉じて、上腕部の骨を確かめるように右手の指で触っていく。しばらくそうしてからクォークは、何ということもなさそうに呟いた。
「あー、折れてるな」
身体の他の部位も一通り点検し終えてから、彼は無事な方の手でポケットから回復薬を一本取り出して傍らに置き、ミナを振り返った。
「ミナ、ちょっと後ろから肩支えてて。骨の位置戻す」
「え……」
ミナはぞっとしてクォークの顔を見つめ返した。あっさりと物凄いことを聞いたような気がして思わず絶句していると、彼は促すように顎を振った。
「こういう怪我は、ちゃんと処置しないで薬飲んだら骨が変な風にくっついたりして余計面倒な事になるんだよ」
それはミナも知らない訳ではなかった。魔法の回復薬の効果は絶大だが、あくまでも治癒力を限界以上に高めるものに過ぎないので、骨折や脱臼を勝手に良いように治してくれはしないし、潰された臓器や切断された四肢が生えてくることもない。魔法ですらどうにもならない事はあるものだ。
そうする以外に命を救えないような重傷に対する応急処置としては、先に魔法の薬を服用する事もあるが、そうでないなら必要に応じ、整復なり縫合なりの処置を行ってから飲むのが常識だ。ただ、それは普通なら専門知識を持つ衛生兵が行う処置で、しかも、物凄く痛い事らしい。
戦場や砦の処置室で、何度か聞いたことのある大の男の喚き声が思い出されてミナは怖気づいたが、再度促され、やむなく恐る恐るクォークの背後に回った。彼に指示された通りに肩を掴んで押さえると、彼はおもむろに折れた腕を掴んだ。目を閉じて、小さく息を吸う。
「……っ……」
奥歯を強く噛み締めながら無事な方の手で腕を掴んで折れた腕を一旦引き、骨を擦り合わせるようにして骨折部位の位置を正す。見ているだけで背筋が凍るような痛々しい作業をクォークは黙々とこなした。
「ごめん、薬飲ませてくれる?」
軽く眉間に皺を寄せるクォークに請われて、ミナは最初に彼が置いた小瓶を即座に手に取り、震える指でどうにか蓋を開けて彼の口元で傾けた。流し込まれた中身を一気に飲み干して、漸くクォークはふうと一息ついた。半ば閉じていた瞼を開き、まず視界に入ったミナを一目見て困ったように苦笑する。
「……何で君が泣いてるの」
「い、痛かった、よね……」
涙を零しながら喉を詰まらせて言うと、その苦笑の中にどこか嬉しそうな気配が混じる。
「そりゃな。けど君だって兵士なんだからこの程度の負傷、見慣れたもんだろ。泣くなよ」
「ごめんなさい……」
「君に落ち度はない。謝るな」
「…………」
次々に禁止されて何も言えなくなる。困ってクォークを上目遣いに見つめると、彼は負傷した左腕を支えたまま小さく笑った。
「じゃあさ、暫く傍にいて、くっついててよ。ちょっと寒い」
魔法の薬を飲んだと言えども、失った血や体力までもが即座に回復するわけではない。寧ろ、本来人間が持ちうる以上の生命エネルギーが治癒の為に使われるからか、重傷を治癒した後は許されるならその場で眠ってしまいたくなる程の強い倦怠感に襲われることもあるのはミナも知っている。
鎧の上からではろくに熱が伝わるとも思えなかったが、ミナは彼が求める通りに、負傷していない方の腕にぴったりと寄り添った。
チャリオットの音の途切れた渓谷はとても静かで、彼の寝息に似た深い呼吸音だけが微かに耳に届く。座ったまま俯いて一言も喋らなくなったクォークは、まだ眠ってはいないようだが物凄く眠そうで、ミナは顔を向けてそっと尋ねた。
「眠い?」
「割と。寝たらミナが負ぶって連れて帰ってくれるって信じてる」
「む、無理……」
鎧も含めたら多分倍は体重が違う。くすくすと笑われて、それが冗談だと気付きミナはむうっと頬を膨らませた。
と、その時。唐突に二人のポケットの中にある物が同時に、細かい振動を発した。――通信石が発する着信の合図だ。何事かと思わず顔を見合わせて、手に取る。
「はい、こちらクォーク」
『私だ』
聞こえてきたのは《ベルゼビュート》の部隊長の声だった。ハスキーな声が、いつになく張り詰めた様子の早口で、一息に告げて来る。
『情報部の古狸どもめが下らん計画を立てている事が判明した。お前達を殺害した上駐屯地をも壊滅させるとの計画だ。こちらは現在ナイトで駐屯地に急行中。間もなく現地に入り、場合によっては制圧する準備を整えている。そちらにも一分隊向かわせる。現在地を送れ』
その言葉に、ミナは目を見開き、クォークもほんの少しだけ面食らった表情をしてから、くっくっと喉の奥で笑った。
『何がおかしい?』
緊迫感の腰を折るような態度に憮然として問い返して来る部隊長に、クォークは笑い声を無理矢理収めながら返答する。
「現在地はゲーラ渓谷。でも終わったよ。もう終わった」
『何だと?』
要領を得ずに尋ね返して来た部隊長に、しかしクォークは返信せずに勝手に通信を終え、石をポケットの中に仕舞い込んだ。再度石は震えるが、笑いながら無視してしまう。
「いいの?」
前にも聞いたその言葉にクォークは、余程今のやり取りが面白かったのか、収まりきらない笑いを手の甲で押さえながら大丈夫と言って、口の端を上げた。
「意外にも人情家な所があるんだな、あの人。ちょっと驚いた……。単に舐めた真似されて切れただけかもしれないけど」
まさか助けに来てくれるとは思わなかった、と、前髪を手で掻き上げながら呟いた声は本当に嬉しそうで、ミナもつい顔を綻ばせた。額に手を当てたまま、クォークの瞳がミナの方を向き、ふとそこに悪戯めいた笑みが浮かぶ。
「迎えに来てくれるってんなら、わざわざ疲れた身体を引きずって帰ることもないな。有難く寝てようか」
「へっ?」
クォークは気楽な声でそう言って、素っ頓狂な声を上げるミナの肩を抱えてそのまま後ろに倒れ込んだ。どさっ、と固い地面にクォークの腕をクッションにして仰向けになる。
「ちょっと、だ、だめよこんな所で! また魔物が出たりしたらどうするの!」
「大丈夫だよ。あれさえいなくなれば、本来この辺にいるのは新兵が倒せる程度の魔物だけだろ、寝ぼけてたってどうにでもなるって。大体、戦場で昼寝してた子に言われたくないぞ」
「そ、それを言われると何も言えないけど……」
もごもごと言葉を詰まらせるミナをクォークは柔らかい視線で見つめてから、ゆっくりと瞼を閉じる。
「何か久々に熟睡出来そうなんだ……少しだけ寝かせて」
今にも寝入ってしまいそうな曖昧な声での呟きに、ミナはびくりと頭を上げてクォークを見下ろした。
「え、やだ、それって何だか不吉な言い回しじゃない? や、やめてよクォーク?」
「死なない死なない」
ミナの勘違いにクォークは上機嫌に笑う。確かに時間を考えれば、薬も十分に効き渡り、折れた骨ももう殆ど癒合していると思っていい頃合いで、もう心配する必要もない筈なのだが、紛らわしいことを言うのはやめて欲しいとミナは眉を寄せた。そんな彼女を宥めるように、クォークはミナの身体を腕で巻き取るようにして自分の胸元に引き寄せた。
横向きで向かい合い、彼の上腕を腕枕にするという密着した格好が落ち着くようで全然落ち着かない。居心地の悪さにじたじたと身じろいでいると、「寝にくい」と一言言われて両腕を回されぎゅうと抱き締められるという更にとんでもない事態になってしまった。
「ク、クォークぅ……」
困って間近にあるクォークの顔を見上げるが、彼は余程眠たいのか気持ちよさそうに目を閉じていて、訴えは聞き入れてもらえそうになかった。仕方がないので、ミナは自分から彼の胸にすり寄って、とりあえず居心地の確保に努める事にした。
丁度すっぽりと収まる場所を見つけて、目を閉じる。
荒涼とした渓谷の空気は少し埃っぽいものの、熱くも冷たくもない爽やかな風が頬に心地いい。高鳴っていた鼓動も徐々に落ち着きを取り戻して、ただただ静かな気配だけを心に満たす。
「昨日の晩、ミナに、ちゃんと言葉にして好きだって言って、気がついたんだ」
静寂を壊さない、ゆったりとした彼の声が鼓膜に触れ、ミナは瞼を開かないまま、その独白のような声にそっと耳を傾けた。
「俺にも、本当に人を好きになる事が出来たんだって事に。俺の手は、多分君が思っているよりもずっと酷く汚れてて……、でもそんな俺なんかにも、まだこんな人間らしい感性があったんだって、気付いて……驚いたけど、嬉しかった」
穏やかな囁きを続けながら、ミナの肩を包む腕がほんの少し震え、力が篭る。
「……君の事を知れば知る程、今迄気にも留めていなかった筈の、自分の穢れが気になってきて……俺は無垢な君を侵す毒にしかならないんじゃないかって、思ったりもしたんだけど……それでも、君と一緒に生きたいって、もっと君に触れたいって気持ちの方が、強くなった」
じわり、と何かが溢れて来るのをミナは感じた。涙かもしれない。もっと胸の奥の方から出て来る何かかもしれない。彼の広い背中に手を回し、精一杯の思いを込めてしがみつくと、彼の唇がミナの耳朶に触れた。
「……ねえ、ミナ。家に帰ったら、ミナの事、抱きたいんだけど。いい?」
「え……?」
平坦であるようで、どこか酷くぎこちない、緊張した声で耳元に囁くクォークに、ミナは目を開けた。少しだけ身体を離して見上げると、真剣な面持ちが、揺らぐことなくミナを見ていた。
ミナは戸惑うように下を向いてから、再度窺うように彼の顔を見上げ、真っ直ぐにミナを見つめている黒い瞳と視線を合わせた。
「ええと、今も、抱かれてるように思うんだけど……?」
肩に腕を回されて身体を密着させているこの格好は、確認するまでもなく抱いているという状態に他ならないんじゃないだろうか。
「…………。」
何で今更わざわざそんな事の了承を求めて来るんだろう、とミナが心から疑問に思って首を傾げると、クォークは何かを言いたいような、何かを堪えているような、言いたい事を探しているのに見当たらないような、許されるなら慟哭してしまいたいような、そんな一言では言い表せない複雑極まりない表情を浮かべて沈黙し――やがて半端に開いた口から力なく息を吐き出して目を逸らした。
「……ああ、はい。抱き締めてますね。そうですね」
「え、ええ? な、なんで呆れてるの?」
「何で手篭めとか襲うとかいう言い回しは分かってこの表現が分からないんだ……」
「な、何? よく聞こえない。何て言ったの?」
二言目はぼそぼそとした感じになって聞き取れなかったが、何にせよ明らかに声の調子が何かを諦めた感じになっている理由が全く分からなくて、ミナは顔を上げて尚も問いかける。が、クォークは生温い微妙な笑顔を浮かべてミナの頭を撫でるばかりだった。訳のわからない事を言う子供を適当に宥めている感満載の仕草に不服を覚えたミナは、説明を要求してクォークの胸を拳で叩くが彼は知らんぷりを決め込むことにしたようだった。
「……ま、いいよ、今はね。うん。寝る。おやすみ」
「え? ねえ、ちょ、ちょっとクォーク? 私何かまた悪い事言った?」
それだけ言ったきり、クォークは瞼をしっかり閉じて何も言わなくなった。明らかな狸寝入りをしながらも、じたじたするミナを押さえつけるように、或いは離してやるものかとでも言うかのようにきつく抱き締め続ける彼の腕の中で、ミナはいつまでも、答えを返されるあてのない追及を続けるのだった。
【Fin】