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 二台の馬車が、森の中の小道をひた走っていた。ただの馬車ではない。戦闘用の兵員輸送馬車を模した召喚獣――『チャリオット』だった。通常の馬車よりも、召喚獣『ナイト』よりも速い驚異的な速度で、森の中の狭隘な悪路を疾走していく。
 乗員は先を行く一台がミナ、追従するもう一台がジンとクォークだった。

「最大の方法だって?」
 問い返すクォークにジンは眦を決して頷いた。
「この砦には前線用の設備が備わっています。先程シェリーが言っていた通信機器というのも、本来は戦場で自国兵、援軍の他国兵問わず軍団通信を送るように設定を変更したりするものなのですが……。それと同時に、汎用召喚術式も用意してあります」
「あんたらの専門用語で言われても分からない。要するに?」
「召喚を行えます。クリスタルも用意してきた物がここに」
「成程、ナイトを喚んでそれで追えば……」
 少なくとも、通信が回復する場所まで出て連絡を入れれば、被害を最小限に抑えられるかもしれない。一縷の光明を見たようなクォークの呟きに、しかしジンは、いえ、と首を横に振った。
「喚ぶのはチャリオットです。チャリオットの方が速度が出ますし、……何よりもこれこそが、対『デーモン』の切り札となる召喚獣なんです」
 ミナとクォークは、揃ってジンを見た。
「僕たちに限らず召喚獣の研究者は、必ず召喚獣に弱点を作ります。レイスやキマイラがナイトに弱いように。ナイトが歩兵に弱いように。『デーモン』は、チャリオットの突撃を弱点としています。……正確に言うと、そう作らざるを得なかったという所なのですが……」
 今は関係のない事です、と言い掛けた言葉を打ち切り、ジンはクォークに持っていた五つの小袋のうち、二袋を差し出した。
「クリスタルは五十個あるので、二台召喚出来ます。クォークさん、ミナさんを乗せて一台召喚して下さい。ただ、もし『デーモン』に追いついても、突撃は行わないで下さい。乗員がいる場合、対『デーモン』への接触は……やや危険なので。僕がやります」
「分かった」
 ジンからクォークに手渡されようとしていた袋に、横から手が伸びる。
「召喚は私がやるわ」
「ミナ?」
 クォークの手に渡り掛けていたクリスタルを奪い取り、ミナは胸に抱きかかえた。
「裏方にかけてなら、私の方がクォークよりも経験を積んでる。私の方が上手くやれる」
「それはそうかもしれないけど」
 眉を寄せるクォークの、その言葉を聞かなかった顔をして、ミナは彼に言い放った。
「あと、クォークはジンさんの方に乗って。突撃も私がやる」
「……ミナ?」
 声を低めたクォークを、ミナは睨むような視線で見つめたまま、しかし一歩、怯えた子猫のように後ずさった。ジンが戸惑った面持ちで、胸に手を当てる。
「今は僕を信用して下さい。シェリーがあんな事をした以上、僕が信じられないのも当然ですが……」
「そういう訳じゃないの。寧ろ逆。さっきは護ってくれて有難う。……大丈夫、召喚に慣れているのは本当なの、ちゃんと出来る」
「駄目だ。ミナ、クリスタルを返すんだ」
 掴みかかるように伸ばされたクォークの手を辛くも避けて、ミナは砦の門扉の方に駆けていく。戦場で召喚を行う時のように抱えるクリスタルに対して念じていると、やおら、袋に入れられたままのそれが、りぃんと共鳴するような音を立て、外からも分かる青白い輝きを放ち始めた。ミナは叫ぶ。
「『チャリオット』召喚します!」

「速……っ」
 大型馬車が通るには余りにも狭く曲がりくねった道を、ミナの操るチャリオットは一条の矢の如く駆け抜けていった。出発時のごたごたで僅かに遅れはしたが、今二台のチャリオットの距離が開いているのは単にそれだけが理由ではなかった。先頭を行くミナのチャリオットは明らかに早かった。彼我のチャリオットの基本性能が違うとも思えないので、純粋に運転技術の差だろう。断続的に続くカーブを、立ち並ぶ木々に触れるか触れないかという程の位置を躊躇なく抉って曲がって行くのを見て、ジンは嘆声を漏らした。
「本当にっ……上手いですね、彼女っ……」
「感心してないで追いついてくれ」
 言う間にも、ぐんぐんと前の馬車との距離が開いていく。クォークは前に向かって怒鳴った。
「ミナ、突出するな!」
 しかしミナは制止の言葉を聞く様子を見せない。そもそも声が届くような状況ではないが、仮に届いていたとしても同じように無視されたであろう。彼女は焦燥に駆られるように、更に馬車を牽引するオークに鞭を入れていた。
「おいあんた、もうちょっと速度出せないのか!」
「あ、あんなには無理ですよう! やれるもんならあなたがやってくだうわわわっ」
 反論にかまけて操縦を誤ったか、速度に負けてぐいんと大きく外側に振られ、ジンが女のような高い悲鳴を上げる。その間にも更にミナは離れていった。クォークは苦々しく思ったが、自分が操っていた所で結果は同じであろう事は明白で、それ以上何も言うことは出来なかった。チャリオットなど召喚した事すらない。
 やがて、遥か先の道の終端に見え始めたオレンジ色のクリスタル柱に、ミナは真っ直ぐに突進していく。
「……無茶するな!」
 躊躇いなく正面からクリスタルに飛び込んで、吸い込まれるように消えていく姿に、ただクォークは叫び声を上げるしかなかった。


 クリスタルに飛び込んで、ミナは前にも味わった少し気持ち悪い眩暈を堪えて目を見開いた。そこは、それまでの深い森の風景とは一転、開けた青空と乾ききった赤茶色の世界だった。道の両脇に連なるのは、恐ろしく急峻な絶壁。上は梢に、下は這い回る木の根に遮られた狭い林道とは違い、崖に挟まれる渓谷の道はある程度の幅もあり、点在する巨岩にさえ気をつければ更に速度を上げられそうだった。
(どうか、どうか間に合いますように)
 それだけを一心に祈って、ミナは前方に視線を凝らす。追跡の時間も含めれば、間に合うかどうかは殆どぎりぎりと言った所の筈だった。クォークからクリスタルを奪い取って召喚を行ったのは一重に、時間がない、と思ったからだった。長年、最前線で白兵戦の経験を積み重ねてきたクォークよりも、ずっと研究室に籠りきりで研究に没頭してきたのであろうジンよりも、エルソードで兵士になったものの前線が怖くていつも裏方ばかりやっていたミナの方が、きっと早くあの悪魔たちの元へ辿り着ける。――そんな直感が、先程二人だけに魔物の対処を押しつけてしまった罪悪感と相まって、ミナを独断での召喚に走らせたのだ。
 砂混じりの強い風が頬を叩いていく。飛ばされた小石までもがぴしりとぶつかって来るが、構ってはいられない。爆音じみた走行音を鳴らし、乾いた地面に乱暴に轍を刻みつけ、切り立った岩を迂回した直後、遠くに動く黒いぽつんとした影を認めた。突風の中で目を凝らして、それが『デーモン』たちの後姿だと確認して、ミナは思わず歓声を上げた。
「いた! 間に合った!」
 その辺りから渓谷はやや下り坂になっていて、なだらかに下る道の先に、生い茂る緑とそれに囲まれる石造りの砦が見えた。あれが駐屯地だろう。まだ十分に距離はある。直線に入り、ミナは少しだけ申し訳ない気持ちを覚えながらも、馬車を引くオークに鞭を入れた。チャリオットの速度が加速度的に上昇する。豆粒のようだった悪魔たちの背が見る見る小石大、拳大と膨らんでいく。
 と、その時。馬車の刻む轟音に入り混じって、ざざっと異質なノイズが耳に触れた。手綱と一緒に握っていた通信石を一瞬だけ見下ろす。封じられていたという通信が回復しつつあるのか、今迄うんともすんとも音を発しなかったそれから聞こえてきたものだった。
『……ナ、ミナ……っ!』
 ミナを呼ぶ、ノイズ混じりの音声にミナは気付くが答えずに、ただそれを固く握り締めた。勢い良く引かれた線の如く後ろに流れていく風景の、真ん中にある黒い姿だけをじっと睨み続ける。
 ただ息すら止めて一心に馬車を走らせて。
 視界を埋め尽くす大きさになった蟠る闇の中央に、ミナのチャリオットが突き刺さった。


 ジンのチャリオットは丁度駐屯地を見渡せる坂に差し掛かった所だった。駐屯地に向かって緩やかに延びる道の遥か先に、ミナの馬車が見えた。その更に少し先に、黒い点がいくつか視認出来る。『デーモン』だ。その悪魔たちの姿にはミナも気付いているらしく、ミナの馬車は更に速度を上げ始めた。ジンの肩を掴んで、クォークが身を乗り出す。
「ミナ、ミナ……っ!」
 殆ど無意識のうちに、砕けんばかりに通信石を握り締めて叫ぶが、前の馬車は止まることはなく、やがて眩い光を纏い始める。二人の位置からは点のようにしか見えないチャリオットは、炎の弾丸となって渓谷に光の尾を刻み――
 一直線に、悪魔の一団を貫いた。
「……やった!?」
 ぱっと一瞬の光の散ったその場所を凝視して、額に汗したジンが叫ぶ。
 光弾に撃ち抜かれたその場所に、最早悪魔の黒点はなかった。唯一、ミナの馬車だけが慣性に従って走行を続けていた。
「やった、やりましたよ、ミナさん!」
 跳び上がらんばかりの勢いで歓喜の声を上げたジンの隣で、クォークは安堵のあまり崩れ落ちそうになるのをどうにか堪えて、御者台の座面に膝をついた。自分の手が出せない状況で他人の戦闘を見る事が、ここまで恐怖と緊張を齎すものだったとは知らなかった。自分で戦っていた方が余程気が楽だ――と彼女も思い知ったからこその、この挙動だったのかもしれないが。
 ミナの馬車は加速を止めて、緩やかに速度を落としてゆく。先程とは逆に徐々にその大きさを増してゆく遠方の馬車を、握り締めた通信石を意識せずに額に当てて見ていると、クォークは、その馬車に妙な変化がある事に気付いた。
 それが何であるか、距離があり過ぎてまだ確認は出来ない。出来ない……が、何か――
 その時、ざざっと異質なノイズが耳に触れた。焦点も合わない程の至近にある通信石に、はっと視線を向ける。
『やっ……やだっ、何なの、これっ……』
 掠れたノイズの向こうから聞こえてきたのは、何かに怯えたミナの声だった。安堵を一瞬で吹き飛ばされて、石に向かって声を張り上げる。
「ミナ!? どうした!?」
『い、いやあっ……た、助けて、……クォーク……っ』
 どんな剣よりも痛烈に彼を切り裂く彼女の悲鳴が、響いた。

「何……なんだよ、あれは」
 間近まで接近したミナのチャリオットの様相を目の当たりにして、クォークは愕然として呟いた。
 ミナのチャリオットの走行速度はかなり緩んだものの、停止はしなかった。一定の速度を保ったまま、荒涼とした渓谷を走り続けている。ジンの御するチャリオットはミナのそれにほぼ馬車一台分程の距離まで詰め寄って、斜め後ろを追走していた。この至近距離からは、目の前の馬車に起きている異様な変化を仔細に観察する事が出来た。――出来た事には出来たが、見た所でそこに何が起きているかは全く分からない。
「おい!? 何か凄く気味の悪い事になってるんだけど!?」
 幌が掛けられている荷台の中にはどす黒い闇の塊としか言いようのない物が詰め込まれていて、布の隙間や巻き上げられた窓から紫色がかった黒色の、湯気のような炎のような、如何とも名状し難い薄気味の悪い何かがゆらゆらと漏れ出ている。その闇色の炎は時折模様のような濃淡を形作っているのだが、その模様が不意に苦悶を浮かべる人の顔のように見えることに気がついて、クォークは余りの気色の悪さに頬を引き攣らせた。
「『デーモン』を構成していたエネルギー……の筈です」
 先程の明るい表情とは一転、暗然とした口調で呟くジンに、クォークは目を向ける。
「そう言えば、あの女も何か変な事を言ってたな。あんなおぞましい物とか何とか。……そのエネルギーってのは一体何なんだ?」
 問われてジンはぐっと顎を引き、数秒の間顔を歪めて躊躇い、やがて吐き捨てるように告げた。
「戦死した兵士達の……魂。戦場から、古代の秘術によって回収された、生命エネルギーの残滓です。無為な存在として拡散し、消え行くだけのエネルギーを再利用する術として、この『デーモン』生成術は考案されました」
 明かされた内容に、クォークは一瞬目を見開いたが、言葉は発しなかった。ジンは苦しげではあったが淡々と、己に課された説明責任を果たすかのように、若しくは懺悔のように続ける。
「チャリオットが切り札になるのもその為です。チャリオット……その御者『カロン』は、本来、死者を運ぶ冥界の渡し守。それを、呪的契約によって縛り、召喚獣として操っているのです。故に、『デーモン』と接触すれば、それを分解し、『デーモン』を構成していた死者の魂を乗せて、共に冥界へと戻る能力を持ちます」
 己がどれだけ忌まわしい研究に手を染めたかという自覚はあるのだろう。自分こそが死者の魂であるかのような血の気の失せた顔で言葉を紡いだジンから僅かに視線を外して、クォークは深く吐息した。
「……別にここであんたを非難するつもりはないよ。俺にはその資格もないしな。そんなことよりも、ミナのチャリオットと併走して、出来る限り車体を寄せろ」
「な、何をするつもりですか」
「あっちに飛び移る」
「!? 無謀な!」
 驚愕の声を上げるジンに、クォークは発作的に斧を振るい、刃をジンの首元に突き付けた。首の皮の寸前で、鈍色の光がぎらりと輝く。
「四の五の言ってる場合か。あんたは黙って言う通りにすればいいんだよ」
 その有無を言わせない迫力に、ジンは息を詰まらせ、それ以上の反論は呑み込んだ。渓谷の道幅はそれなりにあるものの、二台並べば一杯という程度で、彼の操縦技術ではかなりの危険を伴うものだとはジンもクォークも認識していた。ジンは、しきりに視線を前後させ、前に続く道の状況を確認してから、やがて腹を括ったようにオークにぴしりと鞭を入れ、命じられた通りに馬車をミナの真横へと進めた。
 その間にクォークは、木枠を伝って屋根に登り、併走するミナの馬車を間近に確認していた。嵩張る斧を持っていくかどうかで瞬時悩み、結局持っていく事にして、片手に硬く握り込む。獣の遠吠えのように耳元で激しく鳴り渡る風に目を眇めながら、すぐ隣の屋根を睨み据え、――ゆらり、と二体の馬車が急接近した瞬間、クォークは木枠を蹴った。
 と、同時に、足元でがごん、と激しい音を聞く。
 その音で集中を失う事はなかったもののいささか驚いて、指先に触れたミナの馬車の木枠を掴みながら顔を横向けると、ジンの馬車は急激に制御を失いよろめき始めていた。馬車同士が接触したか、岩にでも乗り上げたか。――まさか蹴った衝撃ではあるまい。
 全速ではないものの、まだ十分に速度が乗った状態で蛇行する馬車と、それをどうにか御しようとするジンの必死の形相が、景色と共に後方に流れていく。そのまま岩壁にでも衝突したら、と多少は肝を冷やして振り返ったが、ジンは絶壁の際ぎりぎりを走行しながら速度を緩め、どうにか停車に成功したようだった。ひとまず息をつき、視線を前へと戻す。
 クォークは風圧に逆らいながら布の張られた屋根を這い、御者台に転がり込んだ。
 これまで乗って来たジンの物と全く同じ作りの御者台には、手綱を握った少女がぽつんと座り、俯いていた。
「ミナ?」
 意識がないのか、と思ったがそうではないようだった。少女は俯いたままながらも、自分の手足の如く自然に手綱を捌いている。クォークは彼女の隣に身を滑り込ませ、少女の顔を覗き込んだ。
 チャリオット召喚時に召喚者が纏う事になる、奇怪な意匠のフードの中に暗く沈む横顔は確かにミナだったが、ぼんやりと開かれたその瞳には生気がない。顔色も悪く、身に纏う装束と相まってまさに冥界からの使者のようにも見えた――
「ミナ、おい、ミナ!?」
 背筋に冷たい汗が伝うのを感じて目の前の細い肩を強く掴んで揺さぶると、小さな身体は抵抗もなくがくがくと揺れた。人形のように意思のない、真っ白な顔の中にある紫色の唇が薄く開かれる。
「はやく……帰らなきゃ……私たちの……国に……魂を……連れて……帰らなきゃ……」
 一瞬、意味を解する事が出来なかった呪文のような呟きに、クォークは目を瞠った。私たちの国、というのはネツァワルでも、ましてやエルソードでもないだろう。……恐らくは、冥府の国だ。この召喚獣『チャリオット』の御者『カロン』の住まう国――
「ミナ、しっかりしろ! 召喚を解除するんだ! 君はカロンじゃない、ミナだ!」
 両手で掴んだ肩を乱暴に揺らし、クォークは力を込めて呼びかけた。こんな事をしては操縦を誤って事故を起こすかもしれないが、このまま黙って冥府に連れて行かれるくらいならばその方がいくらかは助かる道があるだろう。
 ――そんなクォークの行為を妨害するかのように、後ろからどす黒い気配が忍び寄ってくる。荷台の窓からゆらゆらと触手のように伸ばされてきたそれに、クォークは触れられる直前で気がついて、反射的に斧で斬り払った。それは見た目通り炎のようなものらしく、何の手応えもなかったが、断ち切れた一端がそのまま虚空へと溶けた。
『……どうして……』
 唐突に微かな囁き声がクォークの耳に触れた。今度のそれは、ミナの声ではなかった。男とも女とも、子供とも老人ともつかない――意識の中に言葉のみを残すような、声。微かな息遣いのようにも、大音声で叫ばれる悲鳴のようにも何故か聞こえるそれが、絶え間ない潮騒と化してさざめき始める。
『……どうして……我々は死んだ……』
『……何故殺された……』
『……何故死して尚、苦痛を味わわねばならない……』
 はっとしてクォークは今一度、荷台に視線を向けた。ゆらゆらと黒い炎がこちらを『見て』いる。馬車の走る轟音の中、何故聞こえるのかもどこから聞こえてくるかも定かではない声だったが、クォークは疑いなくそこが出所だと理解した。
「戦場で死んだ魂、か……」
 ジンの言葉を口中で繰り返し、クォークは眉根を微かに寄せてから、深く息を吐いた。全く、国軍は本当にろくな事をしない。
「知った事か、ただの運だろう……とでも、うちの部隊長なら言うんだろうな。……俺がそっちに入っていたとしたって全く不思議はないんだ、俺に聞かれたって困る」
 その黒々と揺らめく炎がこちらの言葉の意味を解せるかなどということは特に考えもせず、クォークは呟いていた。呟いてから、自分の声に含まれていた痛みに気付き、苦く笑う。自分に、メルファリアの大地に数え切れない程の人血を吸わせてきた側である自分に、傷ついた声を出す資格なんてあろう筈がないのに。
 黒焔は、尚もさざめき続けた。
『……どうして……ねえ、どうして、私たちが……』
『……もう嫌だ……もう殺されたくない……殺したくない……』
『……寒い……暗い……』
『……熱い……痛い……痛い……』
 亡者の声は、次第に問いかけの体すら成さない、散漫なものになっていく。
『……ここは苦しい……』
『痛い……痛い……』
『……もうやめて……もうゆるして……』
『痛い……』『たすけて』『もう……、』

『……帰りたい』

 ふと、クォークはその場で瞳を閉じた。この切迫した状況にありながら、いやに凪いだ気持ちを覚え、深く吐息してから目を開く。幌から伸びる黒い炎が、ちろちろと二人の生者を撫ぜる。熱も冷気も感じないそれを、クォークはもう振り払いもせずに見つめていた。『デーモン』からは憎悪にも近い攻撃衝動が見て取れたが、その炎には一切害意はないように感じられた。あの敵意は、ジンたち研究者の手で無理矢理に植えつけられた感情であったのだろうか――。悪魔の呪縛から離れ、しかしいまだこの世に括りつけられるそれは、悪しきものでもなんでもなく、ただ、その身を苛む苦痛からどうにかして逃れんと助けを求めて縋るか弱い手だった。
 このまま、この哀れな魂たちを安らかな冥界に連れ帰ってやりたいようなそんな気持ちを覚えて、クォークはミナが飲まれたものの正体を悟った。
「……成程ね、これはミナには抗えないな」
 小さく笑って声に出す。他人の痛みを知ることの出来る、心優しい彼女には、この魂たちの切望を拒絶しきる事は出来なかったのだろう。助けを求めてきた以上、嫌だという気持ちはあったのだろうが、哀れな魂たちに縋りつかれ、結果、それを受け入れた。
 ――けれど。
「残念だけど、俺はミナみたいに、まっとうな心のある人間じゃないんで」
 苦笑する唇の端に言葉を乗せて、クォークは炎を真っ直ぐに見やった。
「……あんたらのうちのどれくらいが、俺が殺した命なんだろうな。ここは侘びの一つも入れるつもりで、あんたたちの望みを叶えてやるのが正しいのかもしれないけど……」
 目を細め、哀悼を込めて呟いて、――救いを求める手を、無情に断ち切る。
「俺はまだ、そっちには行けない。……行けなくなった。人を殺す事しか知らない無価値なモノだった俺が、ミナを護るって……彼女と一緒に生きていたいって、そう思えるようになったから」
 人形のように前を向いて座ったままのミナの隣に膝をつき、血の気の薄い白い手の甲にそっと指を重ねる。と、その瞬間、それまでずっと硬く手綱を握り締めていた彼女の手から不意に力が抜けた。軽く目を見開いてすぐ傍のミナの顔を見ると、フードの奥で未だ生気のない表情をしたまま、彼女は両の瞳から一筋ずつの涙を流していた。
 きらきら、と暖かい雫が風圧に弾けて後方へと飛んでいく。その涙の雫が揺らめく黒い炎に触れて、ほわり、と目に見えない波紋を広げた。
 僅かに――ごく僅かに、黒い炎が二人からその手を引いていく。
「……悪いね」
 クォークは一言囁くと、握り締めていた戦斧を車外に放り捨て、代わりにミナの肩を両腕で抱き寄せた。そのまま小さな身体を固く腕の中に包み込んで抱え上げ、御者台の端に足を掛けた。高速で流れていく赤茶色の筋でしかない硬い地面を睨み据え、機を見計らって馬車の外に身を躍らせる。
 全身を打つ、大剣による渾身の一撃にも勝る激しい衝撃。そして耳を衝く轟音。遠く響く獣の慟哭。
 逆さまになった、砂埃に半ば以上を覆い隠された狭い視界の中心で、死者の魂を乗せた馬車が、涙滴に似たきらきらとした光の粒を拡散させながら、柔らかく薄れていくのが最後に見えた。

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