7
斧を構えたまま、クォークがミナの身体を押して後方に下がらせる。その隣では、武器を携帯していない様子だったジンが、『デーモン』を睨みながら鞄から取り出した、宝石のような、ごく短い杖のような複雑な物体を宙に放った。それは、ジンのすぐ横にふわりと浮かび上がる。――彼は魔導具使いであったようだ。
それぞれの武器を構えてみせた二人を、シェリーは余裕の体で眺めやり、おもむろに、腕を真横に振った。
「行きなさい、お前たち! そのまま、北に真っ直ぐよ」
その指令に従って、悪魔の群は、クォークたちの方ではなく、その反対側――砦の裏手に回る方角に突進して行った。
「……何だ?」
「ま、まさかっ!?」
相対した脅威にいきなり背を向けて遁走されるという予想外の展開に、思わず呆気に取られた声を上げるクォークの横で、その意図を察したらしいジンが悲鳴のような声を上げた。クォークがちらりと横目を向けて問うと、ジンは早口で告げた。
「砦の裏道から抜けた先に、トランスポートクリスタルがあります。ゲーラ渓谷の奥地に出る……駐屯地の、かなり近辺にまで戻れる物です」
「何だって……? 血迷ったか」
駐屯地には無関係な者も大勢いるが、国軍関係者だっている筈だ。クォークに不可解な視線を向けられて、シェリーは大仰に肩を竦めてみせた。
「血迷ってなんかないわ。最初から予定通り。今回の実験ついでに部内で厄介だった奴らにも『事故』に遭って貰うのが上の意向でね。一部の義勇兵と、多少の民間人も巻き込んでしまうけど、ま、しょうがないわ」
呟きながら、彼女は意識を目の前の三人に戻して、今度は十数個の灰緑色のイヤリングをじゃらっと纏めて掴み取る。
「これからは闇で研究を続けなくちゃならない以上、無駄遣いは控えたい所だし、……何よりちょろちょろと隙間を縫って逃げ切られても困るからね。あんたたちにはこれで十分でしょ」
それが再び落とされるのを待たず、地を蹴って走り出したクォークに向けて、シェリーはつぶてのようにイヤリングを全て投げつけた。周囲一帯に、くすんだ色の宝石がばらまかれ、次々と煌めきながら砕け落ちる。先程の様子から、召喚を完了するまでには数秒のタイムラグがあるようで、その間にシェリーの元へ到達するは可能であっただろうが、クォークはそれを断念して足を止めた。ミナを放置する訳にはいかないと判断したのだろう。
その辺りも計算ずくだったようで、シェリーは悠然と囁いた。
「これね。魔物の中で一番『デーモン』に性質の似た魔物を使った試作品。ちょっとコントロールの甘い所があるけど……」
愉しげに忍び笑いを発する少女の姿が掻き消えていく。スカウトの技、ハイドだ。
「気をつけた方がいいわよ。そいつらも、そこそこ強い魔物だから。ジンはともかく、ミナちゃんにはちょっと大変な相手かもね」
軽やかに嘲る声と入れ替わり、三人の周囲の黒煙が多数の人間大の影を形作った。
「ひっ……」
思わずミナは悲鳴を上げる。湧き出でてきたのは、暗く腐れたような色をした不気味な人骨の群――ミナが最大級に嫌う骸骨の魔物だった。その数、五十は下らない。未だかつて一挙に目にした事もない数の死霊に分厚く取り囲まれて、ミナはそれだけで意識を失いそうな気分になったがどうにか気力を持ち直す。こんな所でのんびり気絶している訳にもいかない。
ジンが魔物の群を睨みながら、ポケットの中をまさぐった。こちらからはシェリーの姿は見えないが、彼女からは見えるらしく、それで思い出したとでも言うようにシェリーの声が付け加える。
「そうそう。あんたたちが出掛けてた間に砦の通信設備をいじって、妨害呪波を発生させてるから。通信石は作動しませんので悪しからずー」
姿なき声が馬鹿にした調子でけたけたと笑う。ジンは声のした方を漠然と見てから、ポケットからはそのまま手を抜き出し、魔物に向き直る。
「……最初に出たあの骨も、あんたの仕業だったか。あれは何のつもりだったんだ?」
ミナの傍らに戻って来たクォークが、油断なく武器を構えて魔物を牽制しながら問うと、「んんー?」と不思議そうに唸る声が聞こえた。あたかも問われた事に心当たりがないような様子だったが、すぐに思い至ったらしく、ぽんと手を打つような音が鳴る。
「昨日、念の為に実験で喚び出した奴かしらね? 召喚に成功してそのまま放ったらかしにしといたけど、始末しといてくれたんだ? ありがとありがと」
――と、そんな場違いな雑談じみたやり取りが交わされる中。
視界の片隅で、のろのろと動く骸骨の一匹が、ゆらりと矢をつがえた。ミナは、クォークの視線でそれを知るが、次の瞬間、彼の眉が少し訝しげにひそめられた。引き絞られた弦から小さなものが解き放たれ――
とすっ、
と、ささやかな音が響いた。数多くの気配が織りなす緊張の中、聞き漏らしてしまったとしてもおかしくない程の小さな音だったが、それは、何故か耳に残った。その音の発生源も何故か分かって、ミナは視線を向ける。
それは細い矢だった。細い一本の矢が、人骨の群の向こうで、直前までハイド状態にあった筈のシェリーの胸から、突き出すように生えている。
「え?」
見下ろした彼女の顔の目と口が、呆けたように丸くなり、そのまま自分でも気付かない様子で、シェリーは突き押されたように倒れた。とさり、と、やはりささやかな音。
「え? な……ん……?」
彼女の口からは呟きと共に、ひゅう、と不自然に空気が通る音が漏れた。ミナには聞き覚えがあった。肺をやられた兵士は、苦悶にそんな音が混じる。咄嗟に救護に向かおうという意識が働いて足を動かしかけたミナを、クォークは腕を掴んで止めた。非難の視線をクォークに向けた隙に、のろのろと動いた骸骨の垣根がシェリーの姿を隠す。クォークが、周囲を囲繞する骸骨たちに満遍なく視線を向けたままシェリーに対して呟いた。
「あんた、スカウトに関しては本当に新兵だったんだな。知らなかったのか。骸骨の魔物にハイドは通用しないって」
淡々とした指摘は聞こえていたかどうか。骸骨たちの一部が、後ろで倒れる人間に気付いてゆらゆらと群れから離れて行く。
「ひっ……ひあっ……」
喘ぎとも悲鳴ともつかない声が骸骨の群に隠されて見えない向こうから響き――
直後、分厚い刃で肉を断つ音と、音にならない絶叫が辺りにこだまして、ミナは固く耳を塞いだ。
「さて」
それからほんの一呼吸程の間しか置かず、何事もなかったかのようにクォークが呟いた。様々な葛藤があったらしく、今もまだぶるぶると肩を震わせているジンに、クォークは抑揚のない声を投げた。
「ミナには一切注意を向けさせないように戦いたい。出来るか?」
あっさりとシェリーの件を終了案件として捨て去ったクォークの問いに、ジンは一瞬唇をわななかせたものの、いっぱしの兵士らしく、すぐに思考を切り替えてみせた。
「一角を切り崩して砦の通用門まで一気に駆け抜けるのはどうですか」
「ミナを連れては無理だな」
「……ですね。分かりました」
クォークの背になる位置で詠唱を行ってから、ジンは再度魔導具を構えた。続けて、クォークがミナへ意識を注ぐ。
「ミナは手を出すな。そんなちゃちな装備でちょっかいを出しても、邪魔になるだけだから」
言葉に一切の回りくどい気遣いも含ませない、厳然たる事実のみを突き付ける言い方での指示に、ミナはきつく奥歯を噛んで、頷いた。
大振りの斧による重い斬撃が、最後に残っていた骸骨の魔物をぐしゃりと叩き割った。
際限がないと思える程に迫り来る骸骨の群に、クォークは絶え間なく斧を叩き付け、時には身体を盾にしてその攻撃からミナを庇い、――機械的な作業のように、蠢く骨の塊を砕き続けて、ついには周囲を余さず取り囲んでいた全ての敵を葬り去った。ジンも、空から隕石を落とすという魔導具の高位魔法を振るって、かなりの数の魔物を倒した。群をなす魔物は恐るべき脅威に値する存在であったが、これで始末できると考えたシェリーの目論見は、彼らを甘く見過ぎであったと言わざるを得ない。
「生きてるか? ジンさん」
「ええ、どうにか」
げほ、と咳き込みながら答えたジンを目で確認してから、クォークはミナを振り向いた。最初の宣言の通り、ミナは全ての攻撃から護られ、一切の傷も負っていない。その代わりにクォークとジンには無数の裂傷を負わせる事になった。魔法薬での治療を終えた今は、防具への損傷と血糊の跡として痕跡を残すのみだが、彼らを負傷させた事実が消える訳ではない。足手纏いにしかならなかった自分があまりにも悲しくて悔しくて、ミナは泣くのすら許されない気持ちで唇をきつく噛んだ。
「……ごめんなさい」
「問題ない。この貸しは、装備と階級が整ったら返して貰うよ」
魔法薬を飲み終えたクォークはひらりと手を振って、それよりも、とジンを再度見た。
「大分時間食ったな。ここから駐屯地ってどれくらいあるんだ」
「ここからトランスポートクリスタルまでは走れば十分程、クリスタルを出てからは三十分程です。人と『デーモン』の足は然程変わりませんから」
「……まだどうにか到達してないか」
恐らく、戦闘時間は三十分には満たない程度であった筈である。言いながらクォークは通信石を取り出した。
「こちらクォーク。応答願う」
念じるように握ったそれに呼びかけるが、しかし石は鈍い輝きを保ったまま何のいらえも返さなかった。
「駄目か。はったりだったら嬉しかったんだけどな」
「ど、どうすればいいの?」
怯えた声で問いかけたミナに、クォークは静かな声音で冷徹に返す。
「駐屯地に連絡を取ることも救援を呼ぶ事も出来ない以上、万策尽きたとしか言えないな。出来るのは、せいぜい徒歩で加勢に向かうくらいだが……」
時間的に間に合う筈もないし、仮に間に合った所で三人程度の助力など焼け石に水だろう。あの六匹の悪魔の脅威は、五十を超える骸骨の脅威を恐らくは遥かに超える物だ。駐屯地にも戦える兵はいる。全滅には至らないだろうが――
「そんなっ……」
彼だって反論されても困る。そんな事は分かっていても抑えが効かず、クォークに食ってかかるようにして叫んだその時、
「……いえ」
暫くの間、少し離れた場所で襤褸切れのように倒れるシェリーを見つめていたジンが、二人の方を向き、何かの入ったいくつかの袋を示しつつ言った。
「方法はあります。唯一僕たちに出来る……最大の方法が」