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 まどろみの中にあるミナの意識に最初に入ってきたのは、優しくて暖かい大きな手だった。大好きな、節くれだった大きな手が、ゆっくりと頭を撫でている。まるで小さな子供か猫にでもなったような気分でくすぐったくも気持ちいいその感触を堪能した。睡眠と覚醒の狭間の幸せな空間で、寝起きの猫のように背をきゅうと丸める形で伸びをすると、ふと気付いたように手が離れてしまい、何で離すのかと不服に感じながら、ミナは眠い目を擦って視線だけを持ち上げた。
「起こした? ごめん」
 謝罪と共にクォークの穏やかな眼差しが降ってくる。ううん、と喉の奥で答えながら、ミナは何とはなしに自分が今置かれている状況を確認した。石造りの小さな窓から見える空は既に青く、差し込んでくる光は白く明るい。微かに、小鳥の鳴き声も耳に触れた。気持ちのいい朝の風景。そこから遡るようにして、眠る前の夜を思い出す。
 あの後――気がかりな魔物やシェリーの件について少し話をして、ついでに少しだけ他愛もない事も喋って、その場で一緒に眠ったのだった。隣に座って、手を繋いで。眠さに負けてうとうとと寄りかかってしまい何度か体勢を立て直そうとした記憶はあるけれど、笑うクォークに「そのまま寝てなよ」と言われて、彼に思い切り凭れかかる格好で眠ってしまったように思う。しかし今は、そんな曖昧な記憶にある情景よりも、更にクォークとの位置関係が妙に近いようなそうでないような……
 という辺りでミナははっとして、半開きだった瞼をかぱっと開けた。
 ミナは重ねた自分の手を枕にする格好で、うつ伏せ気味に寝ていた。……そこまでは良かった。しかしその自分の腕の更に下にあるのは床ではなくクォークの太腿で、しかも何だか物凄い事になっていた。
 膝枕……のひどいやつ、とでも言うべきか。胡坐をかいたクォークの膝の上に、頭どころか胸から上辺りまで乗っかる格好になっていた。左側から乗り上がって右腿を枕にしているとか、自分でもどうすればこんな寝相になるのかちっとも分からない。
「お、起こしてくれればよかったのに」
 顔を真っ赤にしながら身を起こし、ミナがもごもごとそう言うと、クォークはからかうような笑みを浮かべた。
「折角の役得なのに何で起こす必要があるんだよ。……寝苦しくないのかなあとは思ったんだけど、気持ちよさそうに寝てたんで」
 申し訳ない気持ちでしゅんとクォークを見上げていると、彼は苦笑してミナの頭をぐりぐりと撫でた。ミナの頭に手を置いたまま立ち上がり、軽く伸びをする。
「ジンさんは?」
「さあ。一晩中、ここには戻って来なかったけど」
 クォークの何でもない声での返答に、ミナは目を丸くする。
「まさかずっと起きてたの?」
「寝てたよ。けど誰か来れば分かるだろ」
「……普通は分かんないと思う……」
 ミナがぼんやりと感心している間に、クォークは鞄から紙包みを取り出してミナに放った。パンとチーズが入っている。魔法薬の薬瓶も投げ寄越してきたが、中身は薬ではなく普通の水だった。
 簡単な朝食を食べ終える頃になっても、ジンが現れる様子はなかった。
「ジンさんの身にも何か……って事はないよね……?」
「多分。砦から出てたりしたらちょっと分かんないけど、少なくともこの付近で不審な物音はなかったと思う」
 食事の間中も石塔の窓から外を見下ろしていたクォークの横にミナも行き、彼が見ていた窓の外を眺めてみる。ここに来る時に通った大きな城門は固く格子が下りていた。多分あれが動かされればクォークは分かっただろうから、夜からそのままなのだろう。但し、通用門くらいはあると思われるので、ジンが外出していないという保証にはならない。
「あ。ちょっと部隊に連絡入れておくから、身支度するならしてて」
 急に思い立ったようにクォークは言い置いて、鞄から拾い上げた通信石を一つ持って部屋を出た。部隊外の人間には聞かせられない事でも話すのだろうか、とミナは思ったが、クォークの鞄の中を首を伸ばして覗いてみると、通信石はまだ残っていた。それを手に取れば会話を聞く事は可能なので、聞いておいた方がいいのだろうかと少し悩んだが、結局そのままにしておいた。クォークの事なので、うっかり忘れて行った訳ではなく、聞きたければ別に構わないというつもりで残して行ったのだとは思ったが、聞くべきであるならわざわざ席を外さなかっただろうと考えた。
 簡単に身支度を整えてから、戻って来たクォークと合流して階下へ降り、二人は塔の外に出た。砦の外観は、白日の元によく見れば、かなり古びている様子は窺わせるもののやはり堅牢な作りをしている。城門の近くまで行ってみると、夜は気付かなかったがすぐ脇に小さな扉が設えられていた。そこに目を向けた途端、その扉が突然がちゃりと内側から開いたので、ミナはびっくりして思わず一歩後ずさった。
「あっ……お二人とも、お目覚めでしたか。おはようございます」
 現れたのはジンだった。彼にとっても外に二人がいたのは予想しないことだったのか、少し驚いた顔をして、けれどもごく普通に挨拶をしてきた。開け放たれた扉の奥は暗く、通用門ではなく部屋なのかなあとミナが何となく覗いていると、ジンが目で示して、「あ、ここ、通用門を兼ねた守衛所っぽい部屋です」と説明した。
「あんたは一晩中、ここにいたのか?」
「ええ。……シェリーが戻って来るかも知れないと思って……」
 暗く沈んだ声での返答で、彼女の連絡は、未だ何もない事を悟る。ジンは、自分が齎したその空気を振り払うように首を振って、決然とした表情で顔を上げた。
「一方的に巻き込んでおきながら、大変手前勝手なお願いですが、どうか今しばらく調査にご協力をお願いします」
「ああ。あんたの所にも連絡は行ってると思うが、一応そっちの上とも話はついてる。一時的に協力させて貰う」
 クォークの言葉にジンは深々と感謝の一礼をした。たった一晩でそんな所まで話が進んでいたのか、とミナは内心で驚いたが、クォークの真似をした無表情を保つ。
 ジンは守衛室と言っていた部屋に二人を招き入れ、狭い部屋の中央に置かれた木製のテーブルに、一枚の地図を広げた。
「この周辺の地図です。念の為、状況を確認させて頂きたく思います。ここが、最初のトランスポートクリスタルによる転送地点ですが、そこからこの道なりに北西方角へ歩かれた……で間違いありませんね」
「ああ。……恐らくこの辺りのどこかで、骨の魔物を見た。時間はまだ、夕方にもなっていないくらいだったと思う」
「骨……」
 険しい表情で呟いてジンは、クォークの示した地点に印を書き入れた。それを待って、クォークは続ける。
「そこから更に暫く歩いて……この辺りになるのかな。まあ、この辺はあんたたちの方が正確に把握しているだろうが……あんたたちの言う『デーモン』一匹と遭遇した。道の右手……北側の、少し遠めの場所から、明らかにこっちの気配に気付いて真っ直ぐ近づいて来た。そして知っての通りこの場所で、一時間弱程掛けてそれを倒した。……あんな、重装備のウォリアーでも一発二発殴られたら軽く死ぬレベルの魔物をけしかけておいて殺す気がないとか白々しくて笑えるぞ」
「馬鹿な……」
 牽制だか嫌味だかを混ぜ込んだクォークの台詞に、しかしジンは、それとは別の点に驚愕したように呻いた。
「直接攻撃力としては、せいぜいレイス程度に抑える設定にしてあった筈……。それだと全くリミッターが効いていない……」
 独り言の口調でぶつぶつと言う様子を一瞥してから、クォークは、地図上のその地点をとんと指で突いた。
「続けるぞ。その後、程なく同じ悪魔が今度は二体現れた。流石にこれは逃げに逃げ、更に北西に進み……、あんたと会って命拾いしたって所だ。その地点は地図で言うと?」
「この辺りです」
 と、指差した地点の辺りから林道は緩くカーブして西に伸び、この砦であろうバツ印が北にぽつんと穿たれている。
「疑惑を抱いてたらきりがないんで一旦あんたの言葉を信用して話を進めると、二回目の二匹は、何か事故があって召喚された訳なんだよな。勝手に召喚獣が……しかも二匹も召喚されるなんて、どういう状況になればそんな事が起こり得るんだ? そもそも、『デーモン』召喚って、何が必要でどういう風に行う物なんだ?」
 召喚術には、その術を実行する何らかの特殊な条件が必ず存在する。ナイトであればクリスタルを対価に、拠点に設置された召喚用の魔法装置を駆動させて召喚する。レイスであれば魔法建築物であるゲートオブハデスがその役目を担い、キマイラならばキマイラブラッドという物質が必要となる。
 クォークの問いに、ジンは力無く首を横に振った。
「すみません……。召喚術については、僕は殆ど知らないんです」
 その返答を受けて、流石のクォークも唖然とした表情から数秒の間、脱する事が出来なかった。
「何だそれ。そんな馬鹿な事があるのか? 曲がりなりにもあんたの作ったものだろう」
 呆れを隠そうともしない声で言われて、ジンは心底申し訳なさそうに肩を窄める。
「今回は、異例の二研究室合同の開発案件だったもので……。『デーモン』はキマイラと同じ要領でゼロから生成した召喚獣ですが、僕たちの第一研究室は、『デーモン』そのものの作成、及び制御機構の組み込みを担当しました。そしてもう一方、シェリーの所属する第二研究室が、召喚術……異界へ封印した『デーモン』を、現世に喚び出す術の方を。……お恥ずかしながらそちらについては、僕は詳しい事は何一つ知らないのです。ただ、建築物は不要で、触媒のみを用いて任意の場所にて召喚出来る、とは聞いてはいましたが」
「……身内だろ、情報の共有くらいしろよ。触媒っていうのは、キマイラブラッドとか、ドラゴンソウルみたいな召喚に必要な物の事か?」
「はい。……今回の物が具体的にはそれがどういう物なのかも、僕は……」
 クォークに嘆息しつつ、「野良の方がまだ連携って物を知ってるぞ」と呟かれて、ジンは更に首筋を縮めた。
 その後、三人は現場の捜索をするべく砦の外に出た。ミナとクォークが最初に悪魔に出会った場所付近を中心に捜したいと言うジンに、周辺を今も徘徊しているかもしれない『デーモン』についての危惧をミナが訴えると、彼はやや慎重な顔で大丈夫だと請け合った。
「あれはキマイラと同様、一定時間……およそ半日が経過すると、自己崩壊を起こし消滅する仕様になっています」
 との事だった。その上で、度々発生している予想外な状況がやはり心配だったか、もう大丈夫な筈ですが念の為、と例のマントを二人に渡した。「後で絶対返して下さいね、それ外部流出したら本気で僕やばいんで」としつこく念を押すジンだったが、クォークはそんな言葉を無表情で聞き流していた。もしかしたらこれをどうにかして持ち帰る算段について考えていたのかもしれない。
 近くにまで戻ってきているかもしれないシェリーの姿を探し、時折声で呼びかけながら林道に出て少し行くと、昨日『デーモン』にさんざん追い回された辺りに差し掛かった。昨晩よりは少しは明るみが差している朝の森に、悪魔の爪痕は今も生々しく残っていた。ミナは眉根を寄せて、半ばから折り取られて力無くぶら下がる、太い枝を見上げた。暗闇の中から地獄の使いのように襲い来るあの恐ろしい姿を思い出してぶるりと腕を擦った。
 点々と続く凄惨な傷跡を追うようにして昨日来た道を遡って行き、他よりいくらか周辺の樹木への損傷の大きさが目立つ場所で、三人は足を止めた。どこを見ても様相のあまり変わらない深く静かな森だが、その場所にだけはミナも何となく見覚えがあった。昨日、最初の悪魔とクォークが、一時間近くにも及ぶ戦闘を繰り広げた場所だ。
「僕はあちら側から探してきます」
 完全に別行動をしている間にまた誰かが行方不明になるような事態に陥っては目も当てられないので、互いに常に声を掛けられる位置にいるようにするという事を確認して、三人は付近の調査を開始した。

「ね、ちょっと、心配し過ぎなんじゃないかな、って思うんだけど」
 ぽそり、とミナが傍らのクォークに囁くと、彼は地面近くの様子をつぶさに見ながら、うん?と声を上げた。ミナはクォークの傍に立ったまま、少し離れた場所でせわしなく揺れ動いている、ジンの猫耳のようなフードを眺め続けている。クォークに、周りは見なくていいからジンの監視だけしていてくれと頼まれたからなのだが、何だかサボっているようで居心地が悪い。
「極力目を離したくないんだよ。見てない隙に何をされるか分かったもんじゃない」
「あ、うん。ジンさんの事についてもそうなんだけど、寧ろ……」
 呟きかけた所で、クォークがミナを振り向いて手招いた。別に何かを見つけたという訳ではなく、離れ過ぎだと言っているのだが、その距離はミナが少々ぼんやりとしていた分の三メートル程しか離れていない。
 呼ばれるままに彼の傍にててっと駆け寄ると、クォークは安心したように作業を再開した。さっきから、幾度かこんなやり取りが繰り返されている。手の届く範囲にいろとは言われたが、本当に離れる事を許して貰えないとは思わなかった。何だか、乳離れ前の子猫にでもなった気分だ。
 ジンはシェリー自身を探して歩いているがクォークは何らかの痕跡を見出そうとしているのか、人が隠れない深さの茂みも細かく掻き分けてかなり綿密に周辺を調べている。
「こんなに傍にいたら邪魔じゃない?」
 その繊細な作業の邪魔はしないようには気を付けているが、こうまでして気を配って貰う事自体が迷惑をかけている気がしてそう問うと、クォークはミナが婉曲に尋ねた意味を察してはっきりと即答した。
「邪魔じゃない。って言うか、変に歩き回って余計な足跡を付けて欲しくないって理由もあるから気にしなくていい」
「あ、そ、そっか、そうよね」
 言われて気がついて、ミナは自分の自意識過剰振りに大いに汗顔した。理由もなく過保護な特別扱いを受けているとでも思った自分が恥ずかしい。
「どこへ行ってもちゃんとついてくるミナが和むって理由も当然あるけどね」
「わ、私魔導具じゃないわよっ」
 フォローするように付け加えられたクォークの冗談に、ミナはジンの方に目を向けたままぷぅと頬を膨らませた。そのまま暫く、時折呼び声を上げつつ周辺を見て回っているジンの姿を目に映してから、ミナはぽつりと呟いた。
「……ねえ、クォーク。やっぱり私、ジンさんが私たちを殺そうとしてたとは思えない」
「ん?」
 クォークが顔を上げてこちらを向く気配を感じて、ミナは思い切ってジンから目を離し、クォークの方に視線を向けた。
「召喚獣、自然消滅するって言ってた。だとしたら、わざわざ殺す予定の人に恩を売ってまで戦力が欲しい状況じゃなかった筈だもの、私たちを助けたのはやっぱり善意だと思う。あのマントだって嫌そうだったけど貸してくれてるし」
「うん」
 意外と呆気なく、クォークは肯定の頷きを返してきた。
「善意かどうかはともかく、それを聞いて、殺す気まではなかったのかなとは俺も思った。……でも、まあ、念の為。まだ腑に落ちない部分はあるし、何より相手は国軍だしな」
「国軍は、念の為でそんなに警戒しなくちゃいけない相手なの? 味方なのに?」
 首を傾げてミナがクォークの目をじっと見ると、クォークはミナから視線を外し、森の奥の方を見た。特に何がある訳でもない、曖昧なほの暗さを抱く木々の彼方を視界に映して、茫洋と呟く。
「味方……まあ、味方だな。同じネツァワルの組織として、大局的な利害関係が一致するという意味では。けど、仲間じゃない。君は、俺が昨晩あの男に言った事を、考え過ぎだと思っただろう?」
 不意に戻された視線がミナの方を見て、ミナはつい正直に頷いてしまう。昨日のは、言い募られるジンが少し可哀想なくらいだった。
「決して考え過ぎなんかじゃない。あいつらは、同じ国の……同じ組織内の者ですら、より一層の利が齎されると判断すれば理不尽な裏切りも辞さない。そういう奴らだよ。……ま、うちだってそんなに余所の事を言えたような部隊じゃないけどな」
 陰惨とした暗さに沈みかけた声音を、そんな自虐的な明るさで浮上させて、クォークは肩を竦める。気を取り直すように視線を地面に戻して作業を再開させたその矢先、クォークは何かを見つけたらしく、その場に屈み込み、そっと下草を手で分けた。
「ジンさん、ちょっと」
 一通り、地面の上から何かを拾い上げた所でクォークが声を上げると、かなり離れた場所にいたジンは即座に振り返り、走って近づいてきた。
「何かありましたか?」
「……これなんだが」
 クォークがいくつかの小さなものを手のひらに乗せて示す。それは、砕けた青い石の破片だった。深い青色の欠片がいくつかと、同じ青い石が一つ繋がった、小さな金色の金具――イヤリングの止め具。それが二つ。
 ジンとミナは同時に目を瞠った。ミナの脳裏に、これの元の姿が思い描かれる。深い海の色をした、大振りのティアドロップのイヤリング。既に原型を留めないが、この色は、シェリーが身に着けていたものに違いない。
「シェリー……っ」
 膝に手をつき俯いて、歯を軋ったジンの姿は悲壮な悔恨に満ちていて、やはりとてもではないが演技のようには見えなかった。そんな彼に対し、クォークが少し労わるような声で言った。
「落ち着け。彼女の身に何かあったという証拠でもなんでもない」
「……ええ……」
 酷く落胆した声音ながらもジンはそう返答して、目頭を手のひらで強く擦った。痛ましい気持ちでミナはその様子を見て、目を逸らすようにクォークの手のひらに視線を戻す。無残にも壊れた美しい石の残骸も、やはりミナの胸を痛めたが、見ているうちにふとある事に気がついて、ミナはそっとそれを指先で触れながら、クォークの顔を見上げた。
「ねえ、クォーク……これ」
 その時、ミナの声を遮るように、ジンが小さく声を漏らした。
「失礼、通信が入りました」
 二人に背中を向けて何歩か離れ、ポケットから取り出した通信石に握り締めながらジンは小声で何事かを喋り出した。その声は小さくよく聞こえないが、そもそも聞き耳を立てる趣味はない。
「どうした?」
 と、ミナに対して言い掛けた言葉の続きを促して来たクォークに、ミナは再び目を向けて、気付いた事を口にしようと唇を開く。
「このイヤリングの……」
 ――が、何の悪戯か、再度の台詞もジンに遮られた。
「何ですって!? 話が違うじゃないですか、少なくとも今日いっぱいは許可を頂けるとの……!」
 今度は先程よりもかなり大きな、憤慨とも言える強さの声で、ミナとクォークは思わず揃ってジンの黒いフードに注目した。ジンは二人の視線に気付いた様子は見せなかったものの、どうにか堪えたという感じで声のトーンを落とし、通信相手との会話を続ける。
「…………ええ、ええ。……了解しました」
 そう低く呟いて彼はポケットの中に石を戻した。最後は抑制的な口調であったものの、振り向いた青年の顔は、やるかたない憤懣に赤く染まっていた。向き直って初めて二人の目に気付いたらしく、驚いたように一瞬息を飲んだが、嘆息と共にそれを吐き出した。
「……撤収命令でした。調査及びシェリーの捜索は断念し、本部へ帰還せよとの」
「それって……」
 ミナが声を掠らせながら呟く。ふと、先程クォークが吐き捨てた言葉が頭を掠めた。同じ国の、同じ組織内の者ですら、より一層の利が齎されると判断すれば理不尽な裏切りも辞さない――。シェリーは見捨てられたのだろうか。そんな事があり得るのだろうか。いくら秘密の任務だからと言ったって、まだ殆ど捜索らしい捜索もしていないというのに。
 呆然とするミナに、しかしジンは冷静に首を振って見せた。
「いえ……。僕も、分かってはいたんです。彼女も訓練を受けた兵士です。もし無事なら、砦か駐屯地に徒歩で戻りつくなりして、連絡を取る事を試みている筈。今になっても何の知らせもないというのは、やはり……」
「で、でも怪我をして動けなかったりするのかもしれないじゃない、そんなのって」
 思わずミナがジンに食ってかかると、彼は苦しげに顔を歪めた。それは彼こそが叫びたい言葉だという事に気がついて、ミナは俯いた。
「シェリーを心配してくれて有難う御座います。……一旦、砦へ戻ります」
 宣言して、ジンは木立の中を歩き出した。

 以降、砦の城壁が深く立ち並ぶ古樹の奥に見え始めるまで、ジンは一言も発する事はなかった。明らかに悄然とする彼に話しかけるのは憚られ、ミナは先程から言いそびれていた事をクォークだけに話しておいた。砦の頼もしい威容を目前にするに至り、ジンは一度だけごく微かな吐息を漏らしたが、それ以上は特に何も言うでもなく、木立の間から出て城門脇の通用門に真っ直ぐ足を向けた。砦の周辺はほんの少しだけ開けていて、森の中とは少し様子の違う、砂利混じりの乾いた地面が顔を覗かせていた。
 硬い地面をざくざくと進んでいると、出し抜けに、最後尾を歩いていたクォークの足音が止んだ。直前のミナがまずその事に気付き、先頭を歩んでいたジンも数歩進んだ所で気付いて振り向く。クォークは、城門やミナたちではなく、横合いの森の中に視線を向けていて、つられたようにして二人も何もない森の中を見やった。
 その低木の茂みの奥に、クォークは低い恫喝の声を突き付けた。
「そこに潜んでる奴。出て来い」
 ざわり――
 鳴ったのは、梢を揺らした風の音だった。三人の顔が向く先の茂みは葉一枚動かさない。しかしクォークは一切視線を揺らがせないまま、軽く担ぎ上げていた両手斧をゆらりと下ろし、茂みに向けて勢いよく振り抜いた。一閃から生み出された強烈なソニックブームが、真っ直ぐに垣に突き刺さる。
 その直前、低木を割って転がり出てきた人影に、ジンが驚愕の声を上げた。
「シェリー!?」
「も、もう、おっかないなぁ……」
 おどおどとした目つきで、冷淡な眼差しを向けるクォークを見やりながら、出会った時と同じ新兵の装備を身につけたツインテールの少女は無抵抗を示すように両手を肩の高さに上げ、ゆっくりと進み出て来た。見た所、特に怪我などもなさそうだ。
「シェリー、よく無事で……一体今までどうしてたんだ」
 目を丸くしながら呼びかけるジンに、シェリーは憤慨した様子で声を上げた。
「どうしてたんだって!? どうもこうもないわよ! 何だか分かんないけど、喚び出してもいないのに急に『デーモン』が召喚されて暴れ出してさあ! 泡食って逃げ出して、一晩中ハイドして死ぬ気で隠れて隠れて……必死こいて砦に戻って来てみればもぬけの殻でいい加減泣きたいのにいきなりソニック叩きつけられて! あたしが一体何をしたってのさ!」
 くるくるとした髪の房を揺らしながら、まさにぷんぷんという擬態語が一番相応しそうな怒り方をするシェリーに、ジンが肩から力を抜いて歩み寄って行く。それを斧の構えを下ろさずにじっと見つめながら、クォークは何気ない声で言った。
「グルじゃないんなら近づかない方がいいぞ。多分、あんたも纏めて殺す気だ」
 その声に、ジンは思わずといった様子で足を止め、ぽかんとした顔をクォークへと向けた。シェリーが、スカートの腰に手を当てて、不愉快を顔全体で表現する。
「はぁ? 殺すとか訳分かんないんですけど」
「だったら何でそんな場所でこそこそとハイドしてたんだ? 砦の中に入って待ってればいいじゃないか。まるで、俺たちが砦に戻りついて油断するのを待っていたみたいだぞ?」
「何それ、すっごい失礼な言い掛かり。外にまで出て仲間の帰りを待ってたのに、それで殺意認定とかマジ無神経なんだけど。つまんない冗談はやめてよね」
 呆れた声で吐き捨てて、近づくのを止めたジンに逆に歩み寄ろうとし始めたシェリーに、クォークの、大きくはないが強い声での制止が響いた。
「動くな」
 冗談で済ませる雰囲気など微塵もない剣呑な声音に、シェリーの足がぴたりと止まる。瞳の中に気圧されたような動揺を一瞬浮かべたが、それを迷惑そうな横目に意識的に変化させて、スカウトの女は自分を見据えるウォリアーを睨んだ。
「何よ。まだなんか疑いたい訳?」
「武器を隠し持って近づいて来る奴は信用しない事にしてるんでね」
 瞬間。ぴん、と、緊張の細い糸が二人の間に張られるのをミナは感じた。シェリーの瞳から鬱陶しがるような色味が失せる。
 互いに感情の色の薄い瞳で見つめ合うこと数秒、先に糸を緩めたのはシェリーの方だった。すっと手を、胴衣の隙間に滑り込ませる。
「スカウトの性分でね。……はい、これで満足? 後はポケットにハンカチしか入ってないわよ」
 呟きながらあっさりと、胴衣とスカートに挟んでいた小振りな短剣を固い地面に放り出し、ポケットをひっくり返してピンク色のハンカチも見せた。
 薄い笑みを取り戻したシェリーに、しかしクォークは、静かな声で先程の問いを続ける。
「……殺す気がなかったと言うのなら、何故二回目の召喚を行った? あんたのイヤリング、あれこそが、召喚に使う『触媒』とやらなんだろう? 砕けた物が、二つ落ちてた。普通なら、あんな所で割れたりはしないよな」
 石畳の街路で馬車に轢かれたなどしたならともかく、森の柔らかい地面の上では、あの巨大な魔物に踏まれた所で石などが砕けることはそうそうない。これは破壊されたのではなく、自ずと砕け散ったのではないか。ドラゴンソウルなどが、召喚時、その対価の如く砕け散るように――。彼はそう言っているのだ。
 シェリーは細めた目でクォークをじっと見てから、ふぅと溜息をついた。
「そーよ。本当は秘密なんだけどね。……さっきも言ったけど、あんたたちへの召喚実験を終えた後、帰ろうとしたら耳につけてたイヤリングが、何もしてないのにいきなり起動し始めたのよ。その拍子に通信石も落とすし、砦にも帰るに帰れなかったしでもう最悪」
「嘘だな」
 淀みなく喋るシェリーの口をぴしゃりとした断言で閉じさせて、クォークは自分のポケットから布包みを取り出し、その中のイヤリングの残骸を指でつまみあげた。
「このイヤリングの金具。何でネジ、完全に締めてあるんだ?」
 クォークの指に挟まれるイヤリングの金具は、留め具の後ろについている、小さなネジを締める事で耳たぶに留める作りになっていた。そのネジは今は最奥まで締められて、ぴたりと閉じた状態になっている。
「これは、俺じゃなくてミナが気づいたことだけどな。直前まで耳につけてたのが落ちたんなら、耳たぶの厚み分だけネジが緩めたままになってる筈だろ。って事は、これはずっと耳につけてた奴じゃなくて、鞄の中にでも入れて持ち歩いていた予備か何かなんじゃないのか? あんたは一つ目も二つ目も、自分の意思で鞄から取り出して、自分の意思で使った。耳のイヤリングは、今日になって俺たちがこれをあの場所で発見したのを知り、辻褄を合わせる為に外しておいたって所かな。……違うか?」
 温度のない、どこまでも淡白な声で確認するクォークに、シェリーはすぐには答えなかった。神さびた砦を囲む深い古樹の森に、濃密な静寂が落ちる。やがて、三人の視線を注がれたシェリーの唇が、皮肉気な笑みを形作った。
「……はっ。こっちが嘘つくの待ってたんだ。タチ悪いね。けどそれで証拠を握ったつもりになって貰っちゃ困るなぁ」
 シェリーはスカートのポケットに手を突っ込むと、そこから先程のピンク色のハンカチを取り出した。小さく畳まれていたそれを開いて、クォークに示して見せる。ハンカチとしてはかなり大判な布の内側は、襞状になっているらしく、大振りの石がついたイヤリングが几帳面な列を成していくつもぶら下がっていた。最上段の一列、五個が深い青色の石で、残りは何の違いがあるのか、同じ形状のややくすんだ灰緑色の物。その灰緑色の段の内、左端が一つ分だけ、使用済みとでも言うかのように開いている。
「あんたの言う通り、実験には、本当は耳につけてた奴じゃなくてこっちに保管しておいた奴を使った。ま、厳密に言うと耳の方が予備だった訳だけど。けどそれは、触媒の実態をジンにも知られたくなかったから。同じ研究所の所属でも、研究室が違けりゃ秘密にしなくちゃいけないことも多くてね。……で、この中の一つが何故か急に誤作動を起こし始めちゃったから、慌てて取り出して投げ捨てたのよ」
「それだけあるうちの一つだけが?」
 首を傾けて何気なく問うクォークに、今度はシェリーもくすくすと笑いながら気楽に返す。
「そうみたいねえ。その辺の原因は、研究員に重々調査してもらわないとね」
「パーティ行動中では生命線にもなり得る通信石もなくしてしまう程慌ててたのに、悠長にそこから一つだけを外して捨てた?」
「全部放り捨てる訳にもいかないもの。『デーモン』を召喚するこれってね、今の段階では、ものっすごい高価なモノなのよ。下手な宝石なんかメじゃないくらい。この作戦に於いても、極力使用量は抑えるようにって言われてるくらいなの」
 囁きながら、海色の石を愛おしげに指先で撫でていたシェリーが、――唐突に、そのうち二つを指で挟んで引き外した。その挙動に反応してクォークが即座に足を一歩踏み出そうとしたが、シェリーは脅迫するようにイヤリングを前に突き出し、それを押し止める。
 三人を順に眺めやり、楽しげな微笑を浮かべた少女が、くっと一瞬背筋を縮め、盛大に噴き出しながら仰け反った。
「ふっ……あははは、やーめた! 後は捕まえて締め上げて吐かすだけって顔した相手に何言っても無駄よねぇ! もういいわ、どうせここで死んで貰う予定なんだし」
 突如態度を翻したシェリーに、未だ理解が追いつかないらしく呆然とした様子のジンが、混乱の渦に身を沈めたまま呻く。
「何で……馬鹿な。どうしてこんな事を……? こんな事をして、一体何の得があると言うんだ……。こんな事件を起こしたら、即刻研究は中止させられる。全てが水の泡じゃないか。これまでずっと日陰を歩んできた僕たちの研究が、初めて広く認められるチャンスなのに……」
 ただただ訳が分からないと首を横に振るジンにシェリーは、憐れみにも似た視線を向けて、一笑に付す。
「馬鹿はあんたたちの方だわ。あたし達が栄誉なんかを求めて一体どうするのよ。……この召喚獣を、戦場なんかで運用させる訳にはいかないの」
 断固たる響きを持つシェリーの声に、ミナは、確かにこんな強力過ぎる召喚獣が戦場に持ち込まれては酷い事になり得る――と、無意識に同意した。その視線に気がついたのか、今の今迄彼女の存在などない物のように扱っていたシェリーが、初めてミナ一人に対して嫣然と微笑した。
「そうでしょう? これだけの強力な召喚獣が運用者なしで召喚出来るのよ、馬鹿の一つ覚えみたいに主戦場でぶつけ合うよりもずっと素敵な使い途があるじゃない。工作員に敵国に持ち込ませ、首都で召喚させたらもっとずっと楽しい事になると思わない? 運用者も不要で足も付きにくく、一人で何匹も召喚が可となれば、もうそう使う為に作られたって言っても過言ではないわよね」
「……!?」
 しかしシェリーの口から紡がれたのは、あまりにもミナの考えとはかけ離れた言葉で、ミナはそのまま絶句して凍りついた。
「だから、この研究は凄惨な『事故』の所為で、公式の記録からは抹消されなければならないの。このまま表舞台になんて出して、戦場で殴り合う事しか知らない無能な兵士どもにくれてやるには過ぎたおもちゃだわ。……ねえ、ジン、栄誉の事を言ってたけど、逆に考えて。確かに『デーモン』が発表されれば、一時は華々しく迎え入れられるでしょう。でも手柄は全部、戦場の兵士たちの物。でもあたしたちの工作員に使用させれば、全てあたしたち情報部の手柄で絶大な戦果を挙げる事が出来るのよ」
「そ、そんな……いくらなんでもそんな非道が許される訳がないだろう!」
「あはは! 今更何いい子ぶってるのよ。この『デーモン』自体だって大概なものじゃない! あんなおぞましいモノを作っておきながら、よくもまあ偉そうな事が言えたもんだわ」
 嘲るように高く笑うシェリーに、ジンは奥歯を噛み締める。ミナにはそのやり取りの意味は分からなかったが、ジンを不敵な笑みで眺めながらシェリーは、高く掲げたイヤリングを、ふ、と指から離した。
 淡い陽光にゆらめく光を返しながら、それは重力に従い落下してゆき――
 地面に触れた瞬間、硬い筈の石は、シャボン玉のように果てしなくあっさりと、砕けて散った。
 その途端、砕けた青い石から、噴煙のような、質量を感じるもうもうとした黒い煙が大量に湧き上がり始めた。黒煙は、瞬く間に巨大ないくつもの塊に纏まって、その重量感をみるみると増し……肉感のある黒鉄色の体躯に変じて行く。
「そうそう。言い忘れてたかもしれないけど、この召喚術、触媒一個で複数召喚出来るのは本来の仕様なの。正確に言えば一個につき最大三匹」
 聳える六体もの悪魔の群の向こうから、くすくすとした笑い声が響いた。

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