5
魔物が、意識を削ぎ取るような烈しい声で雄叫びを上げた。
剥き出しの敵意、或いは、痛切な悲鳴の声にも似た――。無意識にそう考えた自分に気付いて、ミナは首を振った。悲鳴だなどという不吉な発想を頭から振り払い、木の杖を持つ手を胸の前で握り締めて強い視線を目の前の背中に向ける。いつもならばとても広く感じるクォークの背は、ちょっとした建物程もある悪魔たちの前ではいかにも小さく儚いもののように見えた。
その小さな姿が――滑るように巨大な影の一つに向かって走り出す。
敵が迫る前にクォークが自ら飛び込んで行ったのは、少しでもミナと悪魔との距離を開ける為だろう。それを察して、ミナは少しでも彼の負担にならないように後ずさろうとした。その時、ぱきり、と地面の小枝を踏んでしまい、クォークが標的としなかった方の悪魔がそれを耳触りに感じたか、ミナにゆらりと視線を動かした。
その様子を視野の隅に入れたクォークが、急遽進路を変更し、そちらの魔物へと斬りかかって行く。
「神経質な奴だな、そんな物音で敵から気を逸らすなよ」
魔物の死角から斧の一閃を叩き込み、直後、即座に地を蹴って真横に跳躍。襲撃者に向かって振られた魔物の反撃は、今度こそ虚空を切るのみだったが、着地しようとした所にもう一匹の悪魔が迫り来る。
ぶん、と太い音を立てて振られた二つ目の剛腕もクォークは躱して体勢を整えた。――そこに、一匹目が再度肉薄する。
クォークは今度はそれを避けず、逆に迎え撃つかのように斧を上段に構えて跳び込んでいった。そのまま斬りかかるかと思いきや、魔物の横腹を掠めるようにすり抜けて、そのやや後ろの地面に斧を叩きつける。ドラゴンテイル――同心円状に地面を伝う振動波によって敵を撃つ技だ。一方に攻撃した際の隙をもう一方に取られるという状況の対策として、隙を突かれにくい離れた位置を取りながらの遠当てで戦う戦術を選んだ――という事なのだろうが。
強烈な打撃で地面を打ち据えて、僅かの間硬直したクォークに、広い間合いを開けたまま魔物の腕が振られる。その腕の一振りから鋭い槍のような衝撃波が放たれるのを目にして、彼は即座に回避行動を取ろうとするが、間に合わない。
衝撃波にしたたかに打たれ、指先で弾かれた小石のように軽々と吹き飛ばされて転がるクォークに、ミナは顔を蒼白にして叫んだ。
「いやああっ!! クォーク……っ!!」
地面を二、三度横転したクォークは、そのまま転倒の勢いを利用するように少し離れた場所で身を起こした。膝立ちの体勢で口から唾を吐き捨て、ミナに顔を向ける。思ったよりも無事な様子に思わずほっと笑みを漏らすミナに、しかしクォークは切迫した声を張り上げた。
「ミナ、逃げろ!」
その一喝を聞いて、ミナは先程の自分の悲鳴に、魔物の一匹がまたも反応していた事に気付く。クォークの背中に庇われない状態で、悪魔の憎悪に燃える赤い眼と直接対峙して、ミナは完全に竦み上がった。呆然と魔物の巨躯のみを目に映し、足を動かすという思考さえもが働かない。
棒立ちになったまま、地響きを上げて迫り来た魔物の、振り上げられる鉤爪を仰ぎ見る。
次の瞬間、ミナは何の前触れもなく、後ろに引きずり倒された。揺れた視界の端に、クォークの姿を――彼に襲い掛からんとしているもう一匹の悪魔にすら意識を払わず、こちらに駆けつけようとしているその姿を収めたのを最後に、世界が暗転する。
殺された、
と、ミナは思った。が、断絶したのは視力だけで、聴力はそのまま残っている事に、クォークがミナの名前を叫ぶ声で気付く。死ぬというのはこういう状態なのだろうか。全くの暗闇の中で、好きな人の声だけを聞いて過ごす――。声を聞くだけであっても彼の傍にいられるのなら嬉しいけれど、好きな人のあんな悲痛な声だけを永遠に聞き続けなければならないのだとしたら、こんなにも酷い責め苦はない。
そこまで思った時に、唐突に口元を何かで覆われる感触がして、耳元に、聞き覚えのあるような気もする声が囁いた。
「そのまま、そこでじっとしていて下さい。絶対に声を立てないで。彼にも、この装備を渡してきますから」
「…………っ!?」
何がどうなっているのか理解しかねて、思わず息を飲む。そこでようやく気がついた。――息? 死者に息がある訳がない。
この声は? 装備って? 混乱に喘いでいるうちに、ふと自分が何か、布状の物を被せられている事に気が付いた。視界が効かないのはこの為だった。もそもそと出口を探すように布を手繰り、袋の口のようになっている部分から顔だけ出すと、フードに猫の耳のような尖りのある黒いローブを身に纏った後姿が必死に駆けているのが見えた。
「クォークさん! これを!」
「お前は……」
黒ローブの青年は、見ていてはらはらする危うい挙動で魔物を掻い潜り、呆気に取られて呟くクォークに、大きな布を手渡した。マント状になっていたそれをまず青年が頭から被り、クォークもそれに倣うと、不思議な現象が起きた。忽然と、二人の姿がその場からかき消えたのだ。あたかもスカウトの使うハイドのように。
姿を消し、恐らくはその場に立ち止まった状態で二人が気配を押し殺していると、暫くの間は戸惑うように付近を見まわしていた魔物たちだったが、やがて諦めたのか、はたまた見失った獲物を探しに行くつもりか、森の奥の方へと歩み去って行った。
「……ミナさん、クォークさん、こちらへ。あれは索敵範囲がかなり広いので、暫くはそのままお静かに願います」
微かな葉ずれの音だけをさせて近づいてきた姿のない気配が、同じくあちらからは見えないのであろうミナに囁き声でそう伝えた。
林道を外れ、灌木を掻き分けて進む青年――駐屯地へと向かう道で出会ったソーサラーの青年ジンの後姿を、ミナはクォークに手を引かれながら追いかけて歩いていた。
あの不思議なマントは、着用したままでは連れ立って歩くのに支障があるからだろう、十分に魔物たちが離れ去った事を確認した後に脱ぎ、彼に返している。先導する青年からは未だ何の説明もなかったが、道なき道を進む彼の足取りから察するに、明確な目的地があるようだったので、二人は今は黙ってついていくことにした。
深い森を半時間程も歩くと、果たして、木立が唐突に途切れ、巨大な構造物が目の前に現れた。既に夜の帳が落ちかけていた空の下、それはひっそりと、しかし堂々と聳えていた。
駐屯地や、各戦地の拠点と同じように切石を積み上げて作られた無骨な砦だが、その規模はいまだかつて見たことがない程に大きい。まさに城塞と呼ぶに相応しい構造物だった。恐ろしく高い城壁が重層的に張り巡らされ、その城壁には、今は開け放たれているがいかにも強固そうな格子の門扉が設えられている。一見しただけではあるが、もし仮に敵軍に包囲された所で備蓄さえあれば何ヶ月でも篭城出来そうだと推測出来る堅固な要塞だった。
「凄い……」
「古代の建築様式だな」
思わず嘆声を漏らしたミナの隣から、クォークが呟くような声で言った。
「二大王国時代からトルクマイヤ帝国時代に掛けては、防衛拠点はこういった大規模な城塞が主流だったらしい。中央大陸にもいくつか古い時代の遺構が現存してる。各国の首都は今でもその名残で城郭を備えてる所が多いけど、帝国の時代が終わって戦乱の時代に入ってからは、戦地の砦の規模は縮小傾向にある」
「どうして? トルクマイヤの時代よりも、今の方が戦争が起こる機会は増えた筈なのに。……皮肉なことだけど……」
今から数百年前、あるエルフの女性が主導した反乱を嚆矢として、帝国の圧政に苦しんでいた民衆が各地で蜂起し、長き戦いの末帝国支配に終止符が打たれた。そして、現在へと続く戦乱の時代が始まったとメルファリアの歴史書には記されている。帝政末期の百年程の期間を除けば、民衆は抑圧され忍従を強いられて、反抗などが許される状況ではなかった為、大規模な戦闘自体ならば現代の方がずっと多く起きている筈である。なのに逆に今の方が大きな砦を建てる事がなくなってしまったというのはどういう事なのだろう。
その問いに対してもクォークは澱みなく解説を加えた。
「大帝国時代に建てられた砦は、戦闘の為というよりは寧ろ国力誇示の為に近い物があったと思うけど、基本的に砦の役割は防衛拠点だから。戦線も敵味方すらも常に流動的なこの戦乱の時代に、広大なエスセティア大陸にこの規模の砦で防衛線を敷くだけの余裕のある国なんてないよ。……それに、資金があるなら防衛よりも攻撃に使うのが、今の国の方針だしな」
「……攻撃に?」
ウォリアーらしからぬ、と言っては失礼だが意外なクォークの博識振りにミナは舌を巻きながら、その言葉が意味する所が分からず首を傾げると、クォークは少し離れた場所でこちらを見ていたジンを一瞥した。特に何も言葉はなかったが、ジンは責められたかのように俯いた。しばしの沈黙が場を支配する。
「……まあ、この砦なら、もし万が一あの魔物共がまた嗅ぎ付けてやってきた所でどうにでもなるだろ。今晩はここで凌ぐっていう意味で連れて来たと解釈していいんだよな?」
重苦しいものになりかけた空気を切り替えるようにクォークが言うと、ジンも首肯して見せた。
「ええ。……一部だけですが、片付けてある部屋があります。ご案内します」
大きく口を開ける城門をくぐるとジンは、門のすぐ傍の滑車を使って格子を下ろした。先程クォークに聞いた話によれば古代遺跡に相当する建造物であるらしいというのに、そういう機構がちゃんと動くんだなあ、とミナがぼんやり見ている間に門を下ろし終えたジンは、二人を城門内にある城壁と一体化して作られている塔の中へといざなった。
「物見台を兼ねる外塔です。兵士の詰め所として使われていたようで、見た目よりは広さがあります」
螺旋階段を登りながらジンはそう説明し、二階に当たる場所にあった木製の扉の前で足を止めた。
扉を開けた先は外観のイメージそのままの、石牢のような殺風景な一室だった。端の方に木箱がいくつか積んではあるが、説明の通り、確かにそれほど手狭ではない。クォークは、まずはジンに部屋に入らせ向こう端まで行かせてからミナを連れて部屋に入った。彼は扉は開けたまま部屋をぐるりと見回すと、入口に近い木箱に腰を下ろした。その間に、ジンは部屋に備え付けてあったらしいランプに火を点し、別の木箱の上に置いた。青褪めた夜闇に沈んでいた周囲が一転して暖色の光で満たされて、ミナは何となくほっとして息を吐いた。
しかし、この木箱といいランプといい、ただの遺跡にはある筈のない物だ。先程の城門がきちんと動いた事も、やはり普通に考えればおかしいかもしれない。ここは現在も使用されている施設なのだろうか。
クォークに倣って彼の左隣へ座ったミナが、沈黙したままのジンを見やると、ほぼ同時にクォークも彼へと視線を向けた。
「さて。これは一体どういう事なのか、説明して貰おうか、ジンさん?」
簡潔極まる問い掛けに、小さな窓を背にしたままのジンは答えあぐねるように視線を彷徨わせた。その逡巡の姿勢にクォークはふんと鼻を鳴らす。
「この期に及んで全てを隠しおおせると思ってる訳じゃないだろ。別に全部洗い浚い話せとは言ってない。こっちがある程度状況を把握出来て、そちらが言える範囲で構わない……まさか、自国の正規軍関係者を拷問に掛ける訳にも行かないしな」
「……っ!?」
その瞬間、ジンは声なき驚愕の悲鳴を上げ、見開いた目をクォークへと向けた。ミナも少なからぬ驚きを感じて、涼しい顔をしているクォークを見る。
「正規軍関係者……? でもその人、確か《ビブリオテーク》って部隊の……」
「そんなに驚く程の話じゃないさ。さっきのマントといい、こんな国軍所有地に隠されていた古代砦の存在といい、どう考えてもただの義勇兵が持ってていい装備や知識じゃないだろ。大方その《ビブリオテーク》自体が、義勇兵部隊に名を借りた国軍の一部隊なんだろう。一般の兵士の動向を探る為に、秘密裏にそういう部隊が作られてるって噂は聞いた事がある」
淡々と語るクォークを、ジンは凝視したまま一言も発しなかった。口を動かす様子を中々見せないソーサラーに、クォークは表情を変えぬまま、続ける。
「推測がついてる部分について、こっちから言っておいた方が話し易いならもう少し付け加えようか? このインクルシオ駐屯地は情報部の管轄だったな。そしてあのマント……ああいう一般には公開する予定のない特殊装備を独自に開発する部署が、情報部内にあった筈だ。確か……」
クォークが視線を向けると、とうとう観念したらしく、ジンは小さく頷いて見せた。
「……ご賢察の通り、僕は軍属の者です。正式な所属は、ネツァワル国軍情報部、魔法技術研究所。そこに籍を置く研究員です」
「魔法技術研究所?」
クォークが確認するように繰り返す声に、ジンは腹を括ったのか、素直に首肯した。
「はい。今回の僕たちの任務は……我々が開発した、新召喚獣の性能試験でした」
「新召喚獣の試験……? あの悪魔は召喚獣なのか?」
「はい。当研究所は、全く新しい召喚獣の生成と、召喚術式の開発に成功しました。それがあれ……仮称『デーモン』です。今回は、予め報告書から選抜してあった、あなた方を含めた何組かの実験協力者……状況を詳しくご説明していないので、協力者と言うのもおかしい話ですが……を、転送設定を変更したトランスポートクリスタルで、通常の訓練地とは離れたこの場所に転送、その後スカウトであるシェリーがハイドで接近し召喚を行い、その性能を実戦形式で試験する……そういう計画となっていました」
告げられた内容に、クォークはごく僅かにぎょっとした表情を浮かべる。
「……ってことは、まさかあの『デーモン』とやらは彼女だったのか?」
「う、嘘!?」
クォーク本人は、おいおい殺しちゃったじゃないか、と眉を顰める程度のドライにも程がある反応だったが、ミナは木箱から立ち上がって甲高い声を上げた。まさか、そんな……と動揺しながらジンに視線を向けると、しかし彼は緩く首を横に振った。
「いえ、違います。……誰でもありません。あれは、全く新しい手法を用いて実現した、運用者のない召喚獣なのです」
クォークは怪訝な視線でジンを見た。
「運用者の……ない召喚獣? それは、異界から召喚した召喚獣を、誰にも同化させないで動かしてるって事か?」
「はい……。従来は、召喚獣と召喚者の生命エネルギーを同期させることによって、召喚獣の現世での実体化を実現していましたが、それとは全く別のエネルギー供給源を用意する事で、喚び出しさえすれば後は無人で召喚状態を継続させる事を可能にしました」
「それって……召喚自体は上手くいったとしても、それでどう制御するんだ?」
通常ならば、召喚獣はそれと同化した召喚者が、自分の意思でコントロールする事になる。召喚獣から召喚者を取り除いたら、後には行動原理も思考回路も常人とは異なる異界の生物しか残らないのではないだろうか。
「魔物の飼い慣らしについて、別個に研究が進められていました。……駐屯地でもグリフォンの飼い慣らしの実験を進めていますが、その技術を応用して、召喚獣の制御も実現しました」
「成程。飼い慣らした魔物を戦場に投入するって案自体は、結構昔から研究されていたな」
クォークが、何かを考えるように顎に手を当てる様子を見てから、ミナは気になっていた事を恐る恐る口にした。
「……それで、シェリーさんは……今、どうしているの? 姿が見えないようだけど……」
ミナの問いに、ジンはびくりと肩を震わせた。その反応を目の当たりにして、ミナは起きて欲しくないと思っていた事が既に起こっているかもしれない事実に気付いてしまう。ジンは、身振いを抑えるようにぐっと歯を噛み締めてから、薄く唇を開いた。
「今から二時間程前、あなた方に対し、予定通り第一回目の召喚実験を開始しました。シェリーが森林内にて配置につき、『デーモン』召喚を取り行い、クォークさんがそれを討伐されるまでの『デーモン』の戦闘データを、僕は砦から取得しました。そこまでは全くの予定通りだったのですが、……その状況終了直後の事でした」
ジンは瞳に浮かんだ苦痛を、瞼を閉じて呑み込んで、力を込めてその眼を開いてから続けた。
「僕の撤収指示に対し、了解の返答をした彼女は、その言葉も終わらぬうちに、悲鳴のような声を上げたのです。彼女は確かにこう言いました。『待って、触媒が勝手に』『デーモンが急に』……それを最後にパーティ間通信の音声は途切れ、存在位置の探査すらも不能になりました。何が起きたのかは分かりませんが、恐らくは、通信石を紛失、或いは破壊するような事態が……」
「なん……ですって……」
それだけ呟いて、ミナは言葉を失った。ジンは、青褪めていながらもどうにか冷静を保とうと努力している面持で、更に続ける。
「予定通りであれば、僕はそのまま砦にてデータの解析に当たる事になっていましたが、事態を放置する訳にも行かず、研究所から持ち込んでいたあのマントをあるだけ持って現場へと向かいました。その途上、予定にない二匹の『デーモン』に襲われているあなた方を発見するに至り、……手に負える状況ではないと判断し、一旦あなた方をお連れして砦に戻る事を選択しました」
「じゃ、じゃあ、まだシェリーさんはあの辺りにいるかもしれないの?」
いてもたってもいられない気分になったミナは、再度木箱から立ち上がりかけたが、横のクォークにそっと肩を押さえられる。既に日も落ちたこの時間に、あんな恐ろしい魔物が徘徊する森を人探しに出るなんて、いくら特殊な装備があると言っても自殺行為だ。
「何で……ただの新兵に、そんな任務を」
夜の森の中、不安に思っているであろう彼女を慮って、つい目の前の男を責めるような言葉を口にすると、ジンは苦渋の表情で弁明した。
「……彼女は、この計画の為に兵籍をスカウトに変更しましたが、ああ見えてウォリアーとして練熟した一流の兵士です。……多少の問題ならば、独力で対処が可能なだけの経験は備えていたのですが……」
その経験を以ってしても対応しきれない何かが起きたという事か。眩暈を起こしてよろけたミナを、クォークが支えた。ミナの頭を自分の胸元に引き寄せて、落ち着かせるように撫でる。ミナはクォークに縋ってぎゅっと目を閉じた。
「他にお前らの身内はここにはいないのか?」
ゆっくりとした低い声で尋ねるクォークに、ジンは力なく否定した。
「……駐屯地になら部の者もいますが、こちらには……。これは部内でも機密に当たる実験でしたので……」
「機密、ねえ。……その割には、部外者の俺たちには随分と詳しく教えてくれてるようだけど」
クォークの声色に、つと、剣呑なものが混じったのを感じて、ミナは伏せていた額を鎧から離して彼の顔を仰いだ。ソーサラーの青年を見るクォークの顔は感情の読めない無表情で、彼の意図が那辺にあるかは判然としない。しかし、視線を向けられるジンには何かしら察する所があったようで、にわかにしどろもどろとし始めた。
「それは……その……緊急事態ですから……」
「口を封じるつもりだったな? それも、恐らく最初から」
相手の弁明を切り捨てて冷たく呟いたクォークを、ミナは息を飲んで見つめた。呼吸すら忘れて表情のない彼の瞳を見上げていると、クォークはミナの方を見ないまま、彼女の頭を再度そっと抱き寄せて顔を伏せさせた。まるで、何も見せたくない、何も聞かせたくない、と言っているかのように。それでも声は聞こえて来て、ミナは食い入るように耳を傾けた。
「おかしいとは思ってたんだ。そもそも部隊で一人ずつだなんて変則的な召集の掛け方も妙だったし、駐屯地で説明の一つも貰えなかったのはやはり腑に落ちない。あの指揮官については、上から熟練兵を受け入れるとだけ聞いて詳細は全く知らされていなかったって所かも知れないが……お前たちは、目的通りの実験を行い、その結果、仮に俺たちが生き残ったとしても結局は始末し、戦死として部隊に報告して全てをなかった事にするつもりだったんじゃないか? ……後に現れた二匹の『デーモン』も、さも予定外のような口ぶりだったが、実は俺たちを殲滅する為の予定内の行動なんじゃないのか? けれど何らかの緊急事態が発生し、手駒に欠けるこの状況では、今殺すよりも生かして一時的な協力者とした方が有利だと判断したが故に助けた……」
「そ、そんなことは」
「ないとは言わせない。お前たち情報部の研究所は、戦場で正式運用される建築物や召喚獣を研究開発する部署ではなかった筈だ。さっきも言ったが、一般には公開する予定のない特殊装備を独自に開発するのがお前らの仕事。……時には国際法にも抵触するその研究内容は、一般の兵士に見られていいものではない筈だ」
「違う! 僕は、僕たちは……っ」
終始、遠慮がちな雰囲気だったジンが、クォークの弁舌にいきり立って声を荒げるが、クォークは冷徹な態度を崩さなかった。感情の色のない瞳でジンを睥睨したまま、それまで木箱の上で軽く握っていた右手を持ち上げる。
「悪いけど保険は掛けさせて貰った。……聞いてたな?」
言うのと同時にクォークは、手首を振ってジンに向けて、手のひら大の楕円形の石を一つ放った。通信石――軍内や部隊内、パーティ内での遠隔通信に用いる、特殊な魔法処理を施されたクリスタルの欠片で、それはパーティ用に設定してある。
『ああ、聞いていたとも。中々興味深い話だった。お陰でハイティーが非常に旨く飲めたぞ』
聞こえてきたパーティ間通信は、今度は石を受け取ったジンの耳にも届いたようだった。彼の眼がはっと目を見開かれる。先程から、言われた言葉を逐一繰り返すような尋ね返し方をしていたクォークの意図に彼はようやく気付いたらしい。クォークは、彼に対し言っていた言葉を同時にそのまま、首都で設定してきたパーティ間通信にも流していたのだ。
『ジン研究員と言ったか? 初めまして。部隊《ベルゼビュート》の部隊長の任にある者だ。部下が世話になったようだな。感謝するぞ』
ゆったりと、寛いだ風情のハスキーボイスが、すぐ耳元で囁かれているかのような鮮明さで届く。この状況を聞いて尚、愉快を隠しきれない女の声音に奇妙な恐ろしさを――または底知れなさを感じたかのように、ジンがごくりと唾を飲んだ。その音が伝わったかどうかは定かではないが、部隊長の笑みを含んだ声が悠然と続く。
『何やら焦眉の急を告げる事態である様子、このネツァワル国に属する部隊として、助勢を惜しむ道理はない。よかろう、事態の収束へと向け二人を貸してやる。……だが、うちの部下共に毛一筋程でも危害を加えてみろ……《ベルゼビュート》は例え国軍とて、我らに仇なす者には一切容赦しない。持ちうる全ての手段を投入して、貴様らに血の報復を行うだろう。たかが一部隊と侮るなよ……?』
猛獣に首筋を舐められたかのような顔をして、ジンは再度喉を鳴らした。
「今にも失禁しそうな顔をしてたわよ、可哀想に」
一連の説明を終えた後、逃げるようにジンが部屋を退出するのを見送ってから、ミナがぽつりと呟くと、クォークは軽く肩を竦めた。
「俺に言うなよ、脅したのは俺じゃない」
その時になって、未だミナを抱きかかえた格好であった事に彼は気付いて、静かに腕を離した。そうしてから手の中の通信石を見下ろして、独り言のような声で呟く。
「……っていう訳だそうだ。とりあえず、さっきの話の裏付けを頼む」
耳の中に響くように、いらえはすぐに返って来た。
『うむ、今晩中にサイトに調査させよう。そちらは大丈夫そうか?』
「多分な。この状況で俺たちを始末した所で連中にメリットはない。更に事情が変わらない限りはわざわざそんな無駄はしないだろう。ま、込み入った部分は追々あんたが政治的に収拾つけてくれると期待してるよ」
『その方面は任せておけ。情報部の弱みを握った上に恩を売れるとなればこちらとしては願ったりだ』
「そりゃ良かったな。ついでに特別ボーナスも期待してるぞ」
『戻ったら褒美にこの私手ずからアップルでも剥いてやろう』
「いらん。……連絡は、明朝こちらから定時報告の時刻に入れる」
『了解した。その頃までには何かしら、こちらも準備が出来ているだろう』
「了解。サイトにも宜しく頼むと伝えておいてくれ」
うむ、と了承の声が聞こえて、そこから不意に思い出したように言葉が続けられた。
『……ああ、所でそのサイトに聞いたのだが、お前あの娘に』
「報告は以上、通信終了する」
途端、一方的にそう告げたクォークは、ミナの手からも通信石をもぎ取って、先程一旦ジンに渡した物と三つ纏めて鞄の中にぺしーんと叩きつけるように投げ入れた。
「……まだ何か言いかけてたけどよかったの?」
「いい。どうせ業務連絡じゃない」
ミナがしぱしぱと目をしばたかせながら鞄を指差すと、クォークはぶっきらぼうに言った。彼の、怒ったような拗ねたような、軽く唇を尖らせ気味の表情に首を傾げていると、その目が半眼でミナに向けられた。
「君だろ、サイトに余計な事言ったの。あいつに下手な事言っちゃ駄目だよ、あいつに言うと大体全部、部隊長に筒抜けなんだから。ったくあの犬め……」
「サイト? って誰?」
「うちのスカウトの」
「……ああー、あの男の人? 名前初めて知ったわ」
先日買い物途中に雑談した彼の事だろう。《ベルゼビュート》の部隊員でミナが話す相手は多くないのですぐに思い至る。
「この間、首都でたまたま会ったからお話したけど、ちょっと世間話しただけよ? 何かまずかった?」
「いや、いいんだけどね。別に」
やはり微妙に拗ねたような顔を崩さないまま、クォークは再度鞄を漁り始めた。鋼板と革とで出来た籠手を外してそれも適当に放り込み、代わりに携行用の小型ストーブと細いナイフ、丸パン二つ、ベーコンを一ブロック手早く取り出した。火をつけたストーブを床に置いてその前に胡坐をかいて座り、パンを横にスライスしてナイフに刺し、軽く直火で炙る。続けて分厚く切ったベーコン二切れも同様に火を通し、脂身が程よくとろけてストーブの炎につやつやと照り輝き始めた所で、パンに挟んでミナに差し出した。
脂の焦げた香ばしい匂いにミナの胃がきゅうと鳴った。駐屯地を出る前に軽く昼食は食べてきたけれど、とっくの昔にそれは消化されきっている。
「用意がいいのね」
木箱から降りクォークの隣にのそのそ移動して、有難くそれを受け取りながら首を傾けると、もう一つ作った同じものにかぶり付きながら彼はごく当たり前のように言った。
「火が使える状況なら温かい物を食べたいからな。同じ食材でもそれだけで、気力の持ちが随分違う」
前線での経験に裏打ちされた物であろう彼の言葉を聞きながら、ミナも大きく口を開けてベーコンサンドを頬張った。熱々の分厚い肉の歯応えと、さくっと焼けたパンに染み込む肉汁の甘さに幸せすら感じてほうっと溜息をつく。
「それよりミナ、首都に戻りつくまでは、俺の目の届く範囲にいろよ。出来れば手も届く範囲で」
言われて、ミナはパンを持つ手を膝の上に下ろし、きょとんとクォークを見た。
「あの人のこと、そんなに信用してないんだ? 勘だけど、嘘はついてないと思うよ。……私たちを殺すつもりはなかったって部分も含めて」
何となく、そんな風にミナには思えた。クォークに言い募られて見せたジンの憤りは、多分、本心だと思う。特に根拠はないけれど。
クォークは、温かいものを食べたいなどと言っていた割にはつまらない作業のようにもそもそとパンを齧り続け、口の中に放り込んだ最後の一片を無感情に飲み下してから、パン屑のついた指先を舐めた。
「……君の直感は信頼に足るものだとは思うんだけどね。ただあの召喚獣らしきものの件もあるし」
「手の届く範囲って、……夜も?」
出し抜けに緊張感を露わにしたミナに、クォークは、ああ、と何気なく呟いてから初めて彼女の様子に気付いたらしく、顔を横に向けた。直前まですぐ隣にいた筈なのにいつの間にやら人一人分位の距離を置き、じっと顎を引いた上目遣いで見つめているミナと目を合わせ、彼は一瞬意図を測りかねて眉をひそめ、次の瞬間にはたと気付いてぽかんと口を開けた。
「え。……もしかして、警戒してる?」
「し、してないもん!」
かあぁ、と湯気が立たんばかりの勢いで顔を赤くして反射的に言い返したミナに、クォークはしばし唖然とした表情を向けてから、にやりと意地悪く目を細めて顔を近づけた。
「へえ? 警戒はしてないんだ。じゃあ期待されてるのかな?」
「〜〜〜〜!?」
声なき悲鳴を上げながら、ずざざっ、と石床の上を尻を滑らせて後ずさったミナを満足げに見て、クォークは声を上げて笑った。
「冗談だよ、何もしないって。……って言うか何で今更になって警戒するんだよ。普通、警戒するなら家に呼んだ時点でするもんじゃないか?」
クォークの言葉にミナはほけっと彼の顔を見上げてから、やおら視線を下げて黙考し、再度がばっと彼を見た。
「そ、そこも警戒すべき所だったの!?」
「逆に何でそっちは警戒しないでいいと思えたのかの方が俺には分かんないぞ。いくら寝室は別でも、何かしようと思えばいくらでも出来る環境じゃないか」
くつくつと喉を震えさせながらクォークは床に座り直して、木箱に背を預けた。石塔の小さい窓から夜空に目を向けて、溜息のような声で囁く。
「……よかった。男として全然意識されてないんじゃないかと少し心配してた」
「え?」
言われた事がよく分からず目をまたたかせるミナを横目で見て、彼は口の端に淡い笑みを浮かべる。
「同じ家に住んでても平気な顔してるし……ってまあ、怯えて欲しかった訳ではないけど。お父さんとか言うし。サイトには恋人って聞かれて『よくわかんない』って答えたんだっけ? 今朝だって、キスしようとしてもぼんやりしてるしさ。意識されてるようにはとても思えないじゃないか」
「キ……!」
やっぱりあれはそういう意図だったんだ、と改めて気づいてミナは今度こそ顔から火を噴いた。
「あれはっ、た、ただびっくりして! って言うかっ、そ、そうなのかなとは思ったけど勘違いだったら恥ずかしいじゃない!」
「勘違いしようもないと思うけどなぁ。……かじるとでも? 確かにミナのほっぺたは焼き立ての白パンみたいで美味しそうだけど」
クォークが軽く笑いながらミナを手招きする。ちょっと警戒しながら小首を傾げて見ると、ここにおいでと床を手で叩くので、膝をついたまま這って近づいて、彼の隣に彼の方を向いてちょこんと正座する。
何だろうと思って見ていると、彼はおもむろに伸ばした指で、ミナの頬の弾力を確かめるようにちょいちょいとつついてから、立てた五本の指で、かぷり、とかじる真似をした。幸せそうに目を細めてミナのほっぺたで遊ぶクォークを、ミナはむーと睨んだ。別に嫌ではないけれど、もちもちっぷりを指摘されているようで恥ずかしい。
睨んだついでに、ミナは唇を尖らせて別件についても抗議した。
「でもサイトさんの件はクォークだって悪いのよ、私ちゃんとクォークに好きだって言われたことないもの、分かんないじゃない」
「……そうだっけ?」
「言われてないよ! クォークは私には、『何で先に言われちゃうんだろう』って言っただけよ!」
居直り気味に身を乗り出したミナに、さっきとは逆に今度はクォークが上半身を引いた。
「そ、それ殆ど言ってるも同然じゃないか」
「言ってるも同然なのと言ったのとでは全然違うもん!」
硬い床をぺしぺしと手のひらで叩いて非難すると、ミナの手を庇うように、クォークの手のひらが床との間に差し入れられた。温かくて大きな手が、ミナの小さな手を下から捕まえて、包み込むように握り締められる。
「あー、うん、それは俺が悪かった」
仄かな苦笑を浮かべたクォークは、少し逡巡するように視線を揺らしてから伸ばしてきた腕で、ミナの肩をそっと抱き寄せた。彼の腕に包まれて、小さな調理用のストーブとランプ以外には熱源のない部屋に満たされていた夜の冷気が少し和らぐ。
「……さっき、君があの魔物に襲われそうになった時……本当に、怖かった。魔物の爪が君に向かって振り上げられてるのに、俺の手は君に届きすらしなくて。何であそこにいるのが俺じゃないんだって、君を失うのが怖いって、心の底から思った。怖いだなんて、他人に対しても、自分に対しても、今迄感じた事はなかったのに」
クォークは、柔らかい髪の掛かるミナの首元に唇をうずめ、一言一言、確かめるように囁いた。もしかしたら彼が今迄行ったことのない類の心情の吐露であるのかもしれない、意図的に抑制された声での告白を、ミナはクォークの肩口に頬を預けて聞く。「薄情だろ?」と微かに笑う彼に、ミナは強く首を横に振った。薄情じゃない。だって彼の腕は冷たい鎧越しでもこんなにも温かい。
その温かさと同じ声が、耳に穏やかに染み込んで来る。
「俺はそんな人間なのに、君は迷いなく俺の事を大切だと言ってくれて。……君が俺の中で占める割合の大きさを思い知った」
そこまで囁いてから、クォークは両肩を支えてミナの身体を少し起こさせて、上向いた彼女の顔を覗き込んだ。緊張に固く強張った真摯な眼差しは、彼がよく見せる無表情とは似ていたけれど全く違うもので、ミナは飛び出てしまいそうなくらいに心臓を高鳴らせて彼の言葉を待つ。
時間すら止まったような静寂の中で少しの間見つめ合って、やがて彼の唇が微かに動いた。
「好きだ、ミナ。君が教えてくれた想いに、俺は力で報いる事しか出来ないけど……何があっても、君は俺が護る」
――蕾が、ふわりと綻んだ。そんな気がした。
心の奥底から湧き出でる気持ちが、ミナを自然と笑顔にさせて、同時に涙をこみ上げさせた。
溢れる気持ちの赴くままに彼の胸にしがみつきたくなるが、それを我慢して、ミナはクォークの手首の辺りをぎゅっと掴んだまま、じっと彼の瞳を見つめ続けた。問いかけるような彼の視線を受け、緊張を無理矢理飲み込んで、その体勢で瞼を閉じる。瞬間、ミナの意図を察したらしく、クォークが息を止めた気配がした。自分から求めるような真似は本当は物凄く恥ずかしかったけれど、震えそうになるのを堪えてひたすら待つ。
ほんの数秒のことだったのだろう、ミナには永遠にも思える時間の果てに、そっと近づいてきた温かい感触が、唇を柔らかく塞いだ。