- PREV - INDEX - NEXT -






「やれやれ。これはあんまり呑気にしてる訳にも行かなくなったな」
 圧倒的な存在感と威圧感を惜しげもなく放出する悪魔を前にしてぽつりと呟かれたクォークの声は、台詞の割に大して困ってもいなそうな――せいぜいが、「急に雨が降ってきて困ったね」程度の困り具合しか含まれていないように聞こえるものだった。そのお陰なのかどうかは定かではなかったが、ミナの身体はどうにか虚脱状態から脱し、クォークに斜め後ろから視線を投げた。
「そ……んなのんびり構えてる場合じゃないと思うの。……一体何なの、これ……? こんな魔物、見たことないわ……」
 メルファリアには許多の魔物が生息し、その姿も一見愛らしい物から薄気味の悪い物、見るからに獰猛そうな物まで多岐に渡るが、これ程までに生物の本能的な恐怖を揺さぶる姿をした異形など見た事も聞いた事もなかった。――こんな魔物がもし中央大陸で一度でも発見されていれば、場合によっては各国が休戦協定を結びさえして討伐作戦が行われていたことだろう。各国が掌中に収めたがっている大陸にこんな手に余りそうな先住者がいるとなれば、人同士が悠長に争い合っている場合ではない。
「俺も見た事はないけど、それこそ、今考えてるような場合じゃないと思うな」
 言われてみればごくまっとうな意見に反論の余地を失って、ミナはクォークの背中越しに、その魔物の姿を恐る恐る見た。瞬間、妖しい光を放つ血の色をした双眸と真正面から目が合って、ミナはたじろいだ。
「ひえっ……」
 気圧されて、情けない悲鳴を上げながらよろめく。そんなミナの怯えに反応したかのようなタイミングで、クォークと睨み合って動きを止めていた悪魔が突如、耳をつんざく咆哮を上げた。大音声を叩きつけられた周囲の梢がびりびりと震え、ざあっと葉を散らす。直後、手負いの仔兎に襲い掛かる獣の如く、魔物は真っ直ぐにミナに突進を開始した。
 その進路を遮る形で、クォークが半歩足をずらす。
「お前の相手はこっち」
 他愛のない雑談のような声音で宣告したクォークは、その口調とは裏腹な強烈な踏み込みで、悪魔に正面から立ち向かって行った。魔物は、脆弱な少女から向かい来るウォリアーに目標を変更して、大木の如き剛腕を振り上げる。その懐に、クォークは臆することなく飛び込んだ。即座に、魔物の鉤爪が足元の小虫を叩き落さんとばかりに振り下ろされたが、それがクォークの身体を捕らえるよりも早く、彼の斧が鋭く唸りを上げていた。地を這う程に低く構えた両手斧を跳ね上げ、がら空きになった悪魔の脇腹に厚い刃を激しく叩き込む。
 それに僅かに遅れて、魔物の爪が彼目掛けて振り下ろされて来るが、クォークはバックステップでそれを躱した。
 そんな一瞬の交錯を経て、ミナの近くに軽い足音で着地したクォークは、魔物の脇腹にごくごくささやかな切創が刻まれているのを視認して、その切創と同じくらいささやかに面倒臭そうな表情を浮かべた。
「拠点の壁を直接殴ってるみたいな手応えだ。ダメージ交換にもなりやしない」
 平坦な声にミナははっとして、彼の顔から身体へと視線を動かすと、防具の上腕部に深々と刻まれた三条の爪痕と、腕を伝って籠手の指先から鮮血が滴り落ちる様が見えた。ミナの目には辛うじて避けたように見えたが、僅かに引っかけられていたらしい。
「クォークっ、血っ……」
「掠っただけでこれとはびっくりだ。まともに貰ったら死ぬな」
 と言いつつ、その横顔は至って平静な無表情で、どこまで本気で驚いているのか傍目には非常に分かり難い。ポケットから取り出した回復薬の蓋を片手で無造作に開けつつ、悪魔を見続けていた目がちらりとだけミナの方を向いた。
「ミナは離れてろ。君じゃ掠っただけでもやばい」
 一口で呷って空になった薬瓶を投げ捨てて、再度悪魔に対して武器を構える。
「だ、だめだよ、ここは逃げよう」
 こんなにも体格にも膂力にも差のある相手では、いくら彼とてどうしようもない。クォークの鎧の背部に触れてそう懇願すると、彼は少しだけ困った声を出した。
「逃げるったってなー……地の果てまで追ってきそうだぞ、こいつ。逃げた挙句に駐屯地にまでついて来られたら余計大変な事になると思うんだけど」
 悪魔は、普通の魔物のように攻撃本能に駆られてただ遮二無二飛びかかって来るばかりではなかったものの、機を窺うように絶えず炯々と目を光らせて二人を睨み据えている様子を見れば、こちらに――恐らくは人間という存在に、並ならぬ敵意を抱いていることは疑うべくもない。彼の言う通り、逃げた所でどこまでも追い縋ってきそうな気配はあったし、先程の、巨体の割に俊敏な動きを見れば振り切ることも難しそうに思えた。
 となれば、確かに安易な逃走は更なる惨劇の幕開けとなりかねない。駐屯地に乗り込んで来た巨大な悪魔にばっさばっさとなぎ倒される民間人や新兵達……。ミナは我知らずぶるりと震えた。まさに阿鼻叫喚、想像するのも憚られる恐ろしい光景だ。
 しかし、だからと言って彼にそんな魔物の対処を押しつける訳にもいかない。
 どうしていいか分からず、泣きそうな顔になって後ろから見上げるミナを、クォークはその顔が見えているかのように穏やかな声で宥めた。
「ほんの僅かずつはダメージ与えられてるみたいだし、地道にやるさ。何時間掛かるか分かんないけど」
「で、でも……」
「大丈夫。動き自体は単調だから、一匹なら多分どうにでもなる。パンでも食いつつ離れて見てて。万が一うっかり俺がやられたら全力で逃げろ。その時は駐屯地になすり付けるのも有りでいいから」
「……え……駄目でしょそれ……」
 能天気な口調で出された恐ろしい指示に、ミナが思わず呆然と突っ込むと、クォークは小さく笑ってから、再度地を蹴った。


 グアアアアア、という獣じみた断末魔の咆哮が辺りに響き渡った。繰り返し繰り返し悪魔を斬りつけていた戦斧の刃が、ついに分厚い皮膚を突き破り、その切っ先を臓腑へと届かせたのだった。脇腹を深々と抉られ赤黒い血を噴き出しながらもながらもしぶとく直立を続けていた悪魔だったが、徐々に力を失い崩れ落ちていく。最後の足掻きとばかりにその巨体は攻撃者にのしかかるように倒れて来るが、クォークは悪魔の身体から斧を抜き取ると、軽やかにステップしてそれを避けた。直前まで彼がいたその場所に、ずずんと音を立てて悪魔は倒れ伏す。
「ふー」
 機械的な作業のように悪魔を切り刻み続けていたクォークが、大振りな斧の刃を地面に下ろし、やれやれとでもいうように大きく息を吐いた。
 何時間、は流石に誇張だったが、それでもクォークは、一時間程度は一切の休息を挟むことなく、悪魔の猛攻を掻い潜りながら武器を振るい続けていた事になる。結局ミナはその間、言われた通りに少し離れた場所に立ち尽くして、呆然とその一部始終を見つめ続けていただけだった。援護として魔法の一つも差し挟むことすら出来なかった――恐らく余計な事をした方が、彼にとっては迷惑になっただろうが。
「お……お疲れ様……大丈夫?」
 驚異的な身体能力と集中力に感嘆を通り越して唖然としつつ労いの言葉を掛けると、額の汗を拭いながらもどうという事はなさそうに彼は呟いた。
「モンスマ耐久三時間よりは幾分楽なもんだ」
「なにその苦行……」
 戦斧を肩へと担ぎ上げ、危なげない足取りで戻って来たクォークを、ミナは駆け寄って出迎えた。最初の一撃以降、彼が激しい攻撃を食らうような場面はなかったのは見ていて分かっていたが、それでも彼の手に触れた瞬間には、その無事に心から安堵して、溜息が出てしまう。両手で握った彼の手を、感謝の祈りを捧げるように額にこつんと当てるミナを、クォークは空虚だった表情に仄かな笑顔を戻して見下ろした。
「……それにしても、本当にこれ、何だったのかしら……」
 クォークの手を額から離したミナは、悪魔の死骸へ恐る恐る視線を向け、小さく呟いた。この一時間の間に周囲の暗闇は更に色濃くなっていたが、倒れ伏した魔物はその闇よりも尚暗く沈んでいて、底のない漆黒の穴のように見えた。クォークもミナに倣うように魔物に顔を向けたが、数秒で興味を失うと小さく肩を竦めた。
「さあね。既知の魔物ではない事は確かだけど。俺たちに出来るのはせいぜい上に報告を上げるくらいだ。後は国軍に調べて貰えばいいさ」
「そうだけどー……」
 身も蓋もない正論にぷぅと頬を膨らましながら抗議すると、クォークは軽く苦笑していたが、不意に何かを感じたように顎を上げた。視線だけでどうしたのと問うミナに、そのまま静かにするよう手を上げながら、彼はゆっくりと後ろを――森の奥の方を振り向いた。ミナの目や耳にはまだ何の情報も齎されてはいないものの、既視感を感じる彼の反応に、ミナは嫌な予感を覚える。
「クォーク……?」
 思わず囁き声で彼の名前を呼んだのと、ミナの耳に音が届き始めたのは同時だった。
 がさがさめきりと先程と似た音を立てて、また何かがこちらに向けて迫って来る。そして――
 今度は、右と、左。
 木立を割って湧き出でてきた、先程のものと全く同じ二体の巨大な黒い悪魔を無表情で眺めていたクォークは、ミナを振り返るや、一切の迷いもなくあっさりと言った。
「よし。ミナ、逃げるぞ」
「どっ、どこへ」
「それは逃げながら考えよう」
 くるりと同時に魔物に背を向けて駆け出した二人を、二匹に増えた魔物はユニゾンの咆哮を奏で、怒涛の如き足音を立てて猛追し始めた。

 予想した通りにこの悪魔には、一旦目標と定めた相手を逃すつもりはないようで、執拗なまでの追走が続けられた。魔物の動きは巨体の割に機敏だったが、狭い林道では左右から張り出す巨木の群に阻まれて思うようには進んで来れないようだった。ただ、思うように進めないのは二人も――否、ミナも同じことで、林道とはいえ凹凸もあり、暗闇に支配されつつある森を疾走するのは困難を極めた。張り巡らされた木の根に度々足を取られて躓くのを、殆どクォークに抱えられるような格好で逃げていく。結果、魔物との距離は広がったり詰まったりを繰り返しながら、延々と不毛な逃走劇が展開され続けていた。
 めきりみしりと絶え間なく迫り来る音が鳴り響き続ける背後を、ミナは振り向く勇気すら持てなかったが、彼女の代わりに背後に度々視線を向けて警戒するクォークが、腕の一振りで傍らの大木をへし折って道幅を広げていく悪魔に称賛じみた声を投げた。
「おーこりゃ凄い。キマイラも裸足で逃げ出すな」
 驚くべき事にこの状況に及んですら、そんな呑気な事を言うクォークに、ミナは魔物よりも彼に向け、感嘆に近い溜息をついた。だんだん、怯えるばかりの自分の方が間違っているような気すらしてくる。
「キマイラは最初っから裸足だわ、大体の場合は」
 彼の言葉に釣られた台詞を発したミナに、クォークは顔を向けた。
「大体の場合って。裸足じゃない場合もあるような言い方を……」
「あるわよ。知らない? ソーメリー祭のシーズン中にキマイラを召喚すると神様の悪戯か、何とキマイラが靴を履いてるのよ。そしてその靴の裏には何と、それはそれは可愛らしい肉球のプリントが! 毎年私あれを見るのが楽しみで楽しみでついついナイトの回数が増えるのよね」
「……まじで?」
「次の冬にじっくり見てみてね。……ってこんな話してる場合じゃないと思うんだけど」
「そうだな。いっぺん肉球プリント靴を見るまで死ぬわけにはいかないな」
 そうね、と、かくりとした首の振りだけでミナは相槌を打った。
「問題は、どこに逃げるかなんだが……」
 不意に、クォークがほんの少しだけ声の調子を真面目な物にして呟いた。
「駐屯地には新兵もいるけど熟練兵もいるだろうから、倒す一つの手だとは思うんだけど……」
 どうする? という感じの目で見られてミナはじっとりとその目を睨み返した。どうもこうもない。
「新兵を犠牲にして魔物退治とか論外」
「いや基本的には論外なのは分かるよ俺だって。ただ仮に、駐屯地スルーして首都まで逃げたりしたらどう考えても大惨事率はその比じゃないし、かといっていつまでもは逃げ回れないし、いくらなんでもこれ二匹はちょっと相手にするの嫌だし……」
「そもそも、駐屯地の方角が分からないじゃない、ここからどれくらいの距離があるのかも」
 流石にそろそろ息が弾み始めてきているミナに、クォークは少し考える素振りを見せながら言った。
「んー……何となくならさっきの地図で、恐らくこの場所はここだろうっていう見当はつけてある。逆にこれ以上この方角に進むと、地図に載ってる範囲から出ちゃって本格的に遭難しかねないんで、林道を外れて駐屯地を目指してみるっていうのもありかなー……と思ってたんだけど」
 言ってクォークは、ミナの肩を抱えていた手を離し、走りながら鞄のポケットから先程の地図の書かれたメモ帳と、深緑色の小袋に詰め込まれた荷物を取り出した。それを丸ごとミナに押しつけて来る。
「な、なに?」
「その地図で言うとここはB1付近だと思う。あと袋の中に、コンパスとか、最低限の必要な物は纏めてある。……ミナ、暫く足止めしてるから、先に逃げてくれないかな。後で追いつくから」
 何気ない声音で言われて、ミナは一瞬ぽかんとしてクォークを見上げたが、その意味に気付いて激高した。突き付けられた荷物を両手で押し返して叫ぶ。
「い、嫌よ! そんな手に引っかかるもんですか! 一人で犠牲になって私だけ安全に逃がそうって魂胆見え見えだわ!」
「魂胆って言うのそれは……? 運さえ良ければちゃんと倒して帰れるよ」
 嘆息を交えつつ、ミナの手首を強引に取って荷物を再びその手の中に押し込んでから、クォークはそれ以上の議論はしないとばかりに足を止めて、ミナに背を向けた。斧を低く構え、森の奥を睨みやる。魔物たちとは少し距離が開いていた所だったが、二人がそんなやり取りをしている間に、気配は間近にまで迫りつつあった。
「行かないからね、私! 言っとくけど、私《ベルゼ》の部隊員じゃないから、クォークの命令聞く義務だって無いんだから!」
「そういう問題じゃない。頼むから駄々を捏ねないでくれ、君をフォローするだけの余裕なんてないんだよ」
「フォローなんかいらないわよ! もし私が襲われ始めたら、その間にクォークが魔物を倒すなり逃げるなりすればいいだけじゃない!」
「そんな事出来る訳が……」
 悪魔の前に立ちはだかりながらも、流石に困惑した視線を向けたクォークに、ミナは瞳に涙を溜めながら言い放つ。
「あなたが私にしろって言ってることはそういうことでしょ!? 私にだって出来る訳ないじゃない、私が一番大切なのは私じゃなくてクォークなんだから、私が生きてたってクォークがいなきゃだめなのっ!」
 一瞬――
 クォークが、天を仰ぐように顎を上げた。嘆いているのか。呆れているのか。ミナには分からなかったが、彼は何も言わずに魔物の方に視線を戻した。既に二匹の悪魔は、今にも二人に襲いかかろうかという距離に入っている。
 クォークが、ミナの方を見ないまま、不意にぼやくような声で呟いた。
「全く……。よりにもよって君がそういう事言うかな」
 その言葉の意味する所に、ミナは気付いてかあっと頬を染めた。お前が言うな、と言われても反論出来ない真似を以前しようとした事がミナはある。
「わ、私はいいの。私の事はクォークが護ってくれるんだから」
 反射的に口をついて出た、あまり思考を経ていない言い訳に、クォークはまた振り返ろうとしたが、今度ばかりはその欲求をぐっと堪えたようだった。
「……結構、滅茶苦茶な事言うよな、ミナって」
 呆れ声にはおかしくて堪らないとでも言うかのような響きが混じっていて、ミナは更に顔を赤らめた。

- PREV - INDEX - NEXT -