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「今日は随分とご機嫌だな」
森の中の小径を跳ね回るように歩いていたミナは、そう声を掛けられて、背負ったバックパックの下で手を組みながらくるりと振り向いた。五、六歩離れた後ろから、クォークが微笑ましげな視線でミナを眺めている。
「そうかな?」
言われてミナは自分の顔をふにっと触ってみた。普段より特に機嫌よく振舞っていたという自覚はなかったが、もし自分でも気付かないうちににやにやしていたのだとしたら恥ずかしい。常緑の木々に囲まれるインクルシオ駐屯地への道のりは空気も綺麗で清々しく、輸送の馬車も通る道だからか比較的整えられていて歩き易かった。指示では集合は現地にてということになっていて、指定された時間にはまだ少し早いからか周囲には人気もない。周りに遠慮せずにそんな気持ちのいい場所を歩く事が出来るのは確かに気分のよいことだった。
とは言え、それだけが上機嫌の理由ではない事は自分でも分かっている。浮かれているように見えるのだとしたら、きっとそれはクォークの所為だ。新兵訓練に召集された以上、熟練兵のクォークとは暫くの間離れ離れていなくてはならないとばかり思っていたのに、まさか彼も一緒に駐屯地に行ける事になるなんて。到着すれば別口の任務に就かされる事になるのだろうけど、同じ駐屯地にいるのと、遠く離れた戦地にいるのとでは気持ちとしては全然違う。嬉しくない筈がなかった。
丸い両頬の中にその喜びをふくふくと溜め込んだ笑顔で、ミナは小走りに彼の隣に駆け寄る。ん?と首を傾げたクォークの穏やかな微笑みを、ミナは少しだけもじもじとしながら上目遣いで見上げた。
「ね、手を繋いでもらってもいい?」
駐屯地まではほぼ一本道で、迷子になる心配もないけれどいいかなと、緊張しながらお願いしてみると、クォークは少しだけ驚いたように目を丸くしてから、くすりと笑って手を差し出してくる。
「勿論」
「えへへ」
差し出された手をぎゅっと握って顔を綻ばせるミナを、クォークは満足そうに眺めて、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
ミナは握っている彼の手を見、次いで自分の目線よりもずっと高い所にある彼の横顔を見上げた。訓練の時は厳しいけれど普段は優しい所や、温かくて大きな手や、どんな事からも護ってくれそうな広い背中の印象はやはり『お父さん』だと思うけれど、その言葉は彼にとっては愉快な物ではなかったようなので今度は何も言わずに見ているだけにする。
と、不意に、前を見ていたクォークの視線がミナの方をちらりと向いて、ふっと緩んだ。特に深い意味はなかったのかもしれないが、考えている事を見透かされてしまったような気になってしまうのは、そんなちょっとした罪悪感を抱えていたからかもしれない。
「本当に可愛いな、ミナは」
けれど呟くような声で降って来たのは非難とは対極に位置する言葉で、ミナは急に恥ずかしくなって俯いた。今迄家族以外に言われたこともなかったそんな褒め言葉は、今初めて彼の口から聞く物ではなかったけれど、何度聞いたって慣れそうにない。
クォークの手を握り締めたままそわそわと困りながら歩いていると、前に向き直っていた筈の彼の瞳がまた自分の方に向いている事に気がついた。その目はもう先程までのように笑ってはいなくて、ミナは射竦められたように思わずその場に足を止める。
同じく立ち止まったクォークと向かい合う格好になってその顔を見上げていると、繋いでいた手がするりと離されて、ミナの頬に伸ばされてきた。指の腹で頬骨をなぞるように触れられるそのくすぐったい感触が、何故だか凄くどきどきする。
「ク、クォーク?」
ずっとそのままでいたらそのどきどきに心臓を壊されてしまいそうで、ミナは震える喉を懸命に動かして名前を呼ぶが、彼は何も答えなかった。ただ返事の代わりのように、頬に伝わらせていた指をついっと動かして、何故かミナの唇に触れ――その唇に、何故か彼の顔が近づいてくる。
(わ、わあ…………!?)
唐突な挙動にミナは声を出す事も出来なかった。口を半開きにする所まではどうにか出来たものの、その辺で頭が真っ白になってしまって、棒立ちになったまま、近づいてくる彼を呆然と見つめてしまう。
そして――、
「はいはいそこォー! 往来でいちゃつかなーい!!」
彼の顔が近づききる直前。
横合いから唐突かつ無遠慮に飛び込んできた、ぱんぱんと何かを叩く音とかん高い声が、ミナを純白の世界から呼び戻した。
眼前のクォークを思わずセスタスのスキル・インテンスファイもかくやという勢いで突き飛ばし、来た道の方を全力で振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。小径の真ん中に両足を開いて堂々と立つ、ミナと同じ新兵の装備を身に着けた、少女とも思える女性だった。身長もミナと同じくらい低く、明るい金色の髪を頭の横でくるくるとした長いツインテールに結っていて、ミナ以上に幼い印象を与える容姿をしている。
少女は胸の前で合わせていた手を下ろし――ぱんぱんというのは手を打ち鳴らした音だったようだ――、その手を腰に当てるポーズを取ると二人を半眼で見た。幼げな娘に見えたがよく見ると、ややきつめの瞳と、新兵には珍しく両耳に下げている青い大振りなイヤリングが、子供めいた印象を裏切っている。もしかしたら実年齢はミナより少し上かもしれない。
泰然とした様子の少女と、突き飛ばされても特に動じる事もなかったクォークに挟まれて、ミナだけはその場で一人、どういう顔をしていればいいのか分からず大いにうろたえた。いちゃついていた……いちゃついていた……んだろうか、今のは。
所在なくおたおたするミナの肩に、クォークの手が軽く置かれた。クォークはミナの身体をやんわりと引き寄せて、そのまま何かから庇うように自分の背後に押しやり、ミナは何だろうと彼を斜め後ろから見上げる。その時になって、ミナも少女の背後――首都の方角から、もう一つ人の気配が近づいてきつつある事に気がついた。物凄い勢いで地面を蹴る音がぜいぜいという荒い呼吸音を引き連れて接近してくる。クォークの後ろからひょこりと顔を覗かせたミナの目に、黒い長衣と同色の頭巾を身に纏ったソーサラーらしき男が必死な形相で駆け寄って来るのが映った。
「すっ、すいませんっ、うちの新人がご迷惑をっ」
ずざあっと音を立てて少女の横に滑り込んで来た黒ずくめの青年は、何よりもまず先に、クォークとミナに向かって直角に腰を折った。
「こいつ新兵の癖してほんともー礼儀とか知らない生意気な奴でっ! ほらシェリー、ちゃんと謝れよお前もっ!」
どことなく猫耳のようなとんがりのある黒いフードを被る頭を起こした青年は、少女の後頭部をごりごり押しながら再度頭を下げようとする。
「えー。別にあたし謝るようなことなんて何もしてないんですけどー?」
「やかましいっ! お前みたいな小生意気な女は存在自体が謝罪の必要性有りだ!」
「何それひっどーい! マジムカつくー」
「その言い方がマジムカつくわ!」
何やら妙にテンポよく言い合ってから、青年は三度ミナ達に深々と頭を垂れた。
「僕は部隊《ビブリオテーク》のソーサラー、ジンと言います。そっちの馬鹿女はシェリー、スカウトです。あなた方も駐屯地に?」
馬鹿女とか何よ、と途中で口を挟んだ少女、シェリーの台詞に意図的に被せて言ったジンと名乗るソーサラーに、クォークが軽く頷いて見せた。
「ああ。俺は《ベルゼビュート》のクォーク。彼女はミナ。宜しく」
クォークの簡潔な紹介に、闖入者その一の振る舞いと闖入者その二の勢いに唖然としていたミナは、はっと我に返って頭を下げた。男は新兵のミナにも礼儀正しく一礼し、少し意外そうに呟いた。
「へえ、《ベルゼビュート》の……。《ベルゼ》も新兵、取るんですねぇ……って、あ」
自分の失言に言葉途中で気がついて、慌てて口を塞いだジンに、クォークは微苦笑を返した。
「いや、《ベルゼ》は新兵育成は他所に押しつけて気儘に遊んでる不良部隊、って認識で合ってるよ。彼女はうちの新人じゃなくて、俺の個人的な知り合いだから」
「す、すいません……」
「ばぁーか、どっちが失礼だよ!」
混ぜっ返すシェリーをジンはむむっと睨んだが、自分に非がある件だからか、今度は彼女を叱らなかった。
そのソーサラーとスカウトの二人組とは目的地が同じであるという成り行き上、そのまま駐屯地まで同行する事になった。ミナにとって、ネツァワルに来て初めて出会った同年代の少女であるシェリーは、一見気の強い蓮っ葉な雰囲気の女の子に見え、仲良くなれるか心配したがそれは幸いにも杞憂だった。印象そのものには変化はなかったものの、話してみると少女は案外とっつきやすい人柄で、十分も経った頃には男二人を置いて女だけで盛り上がる格好になっていた。
「へぇ、二週間前に田舎から出てきたばっかなんだー。あたしは元々首都住まいだけど。……じゃあ結構大変じゃない? ベインワットは家賃も高いし」
他国からの移住者であるという事実は、人によっては悪感情を抱かれかねないという事なので秘密にするように言われていた。ミナ自身、少し前なら、敵国からの移住者などと聞けば恐れ警戒しただろうから当然だろう思う。
「あ、ううん。クォークの所に置いてもらってるから」
「ひゅー。やるじゃん」
事実を告げると口笛を吹いて賞賛されたが何がやるじゃんなのかよく分からない。とりあえず曖昧に笑って受け流しながら、ミナは視界の端できらりと光ったシェリーのイヤリングに目を留めた。金銭に余裕のある古参の兵なら装飾品に気を回す者も多いが、新兵の持ち物としては珍しい、と改めて思う。
「そのイヤリング、綺麗ね」
海の色を思わせる深い青色をした大振りなティアドロップ型の石の中に、たゆたうような淡い不思議な光が閉じ込められている。その神秘的な輝きはまるで竜の魂を封じていると言われるドラゴンソウルのようで、自然と人の目を引きつける何かがあった。
「それ、どこのお店で売ってたの?」
「ああ、これ? 売り物じゃないの。手作りのを貰ったんだ」
「へえー!」
いいでしょ、と指で弾いて見せてくれるのを、ミナはしげしげと見つめた。その誇らしげな様子は、もしかしたら、大切な人からの貰い物なのかもしれない。少しだけ羨ましく思って、無意識にミナは今一番大切に思っている人の姿をほわほわと脳裏に描いてしまう。
――と。
「ミナ、どこ行くんだ。森の中に突っ込む気?」
視界の外から思い浮かべていたのと同じ声を掛けられて、小径をうっかり外れ茂みの中に突進しかけていたミナは飛び上がって驚いた。
「わ、私も欲しいだなんて思ってないよ!?」
「は?」
面食らった顔をするクォークに、ミナは一層慌てて「なななんでもないです!」と首を振った。
午前の早めの時間にベインワットを出発してきたミナ達は、正午には目的地であるインクルシオ駐屯地に到着した。
首都から数時間という近郊ではあったが山中と聞いていたので、もっと寂れた場所だとばかり思っていた駐屯地は、広場に物売りなどもやってきていて意外な賑わいを見せていた。武具や消耗品の売り買いの声も響く敷地の様子をきょろきょろと見回しながら通り抜けて拠点に出頭し、駐屯地の責任者である国軍の士官に面会した。
挨拶もそこそこに与えられた任務は、駐屯地の東、アマーブレの森の奥の研究施設に書簡を届ける事だった。指揮官からその命令を拝受する際に、「子供のおつかいかよ」とクォークが相手に聞こえない声でこっそり茶々を入れていたがミナもちょっとそう思った。しかし、駐屯地から目的地までの道中には野生の魔物も頻繁に出没するらしいので、成程、確かに訓練も兼ねているのだなと納得する。ミナがかつてエルソードの兵士となった頃の新兵訓練と言えば、首都の近隣に巣食う魔物の討伐だったので、実質それと同じ事だろう。
シェリーとジンの二人組も似たような別種の任務を割り当てられたようで、彼らとは指示を受けた拠点前で別れた。
「じゃ、短い間だったけど、ありがと。またね。彼氏と仲良くすんのよー」
「か、かれっ……」
別れる間際、シェリーにそう手を振られ、ミナが動揺している間に彼女はすたすたと去って行った。
ミナは目の前に蠢く魔物をじっと睨みながらも意識は手に持った杖に集中した。
ヒガンテスコ山の麓に広がる広大なアマーブレの森は、首都から駐屯地に来るまでに通ってきた明るい森とは違って、見上げんばかりの大樹が立ち並ぶ深い樹海で、野生の魔物が多く跋扈していた。森を切り開かれて作られた林道を徘徊するそれら――人の膝丈ほどの大きさもある蜘蛛の形をした魔物、ヴェノモスと対峙して、ミナはぐっと腰を落とす。
杖を構えた腕を後方に引き絞り、胸の前に拳大の火球を生み出す。行けっ、と念じながら杖を前方に振ると、火球は縛めから解き放たれたかの如く飛翔し、狙い違わず目前のヴェノモスに命中。蜘蛛の魔物は弾かれたように引っくり返って足をじたばたとさせ、やがて動かなくなった。
しかしミナは、断末魔の苦悶を上げる魔物には目もくれず、次なる獲物へと視線を動かしていた。
首都の近辺は魔物の活性も低く、新兵の貧弱な装備と心もとない技術でも難なく倒せるような力無い魔物しか出没しない。この蜘蛛たちも見てくれこそ凶悪そうに見えるがその例に漏れず、動きも遅く力も弱い。少し慣れれば傷すら負わずに討伐する事が出来るようになる、そんな相手だった。
但し、魔物は時折群生しているので、それらによってたかって襲い掛かられるとやや話は別である。人間の兵士同士の戦いに於いても、どれ程練達の兵であっても数人の敵兵を相手にするというのは非常に難しい事だが、それは魔物との戦いにも言える事だった。魔物には人間のように仲間と連携して戦うような知能はないが、数を頼みに押し込まれると厳しいことにもなり得る。
――要するに、今がそういう状態であるのだが。
のろのろと迫りくる蜘蛛の群を、一つ一つ着実に魔法をぶつけて処理しながらもミナはその数の多さに辟易としていた。
一方、相棒の筈のクォークは、すぐ近くの岩の上に膝を立てて座り、ミナの様子を黙って眺めている。彼の操る強力な両手斧技、ドラゴンテイルの一発二発できっと片がつく筈の状況であるにも関わらず、彼は全く手を貸すつもりがないようだった。うっかり見落とした魔物に背中をどつかれる羽目になってすら助けてくれない徹底した冷徹さは一種の尊敬すら覚える。
「クォークのスパルター。サディストー。クォークのSはどSのSー」
普段は優しい癖に、こと訓練になると人が変わったように厳しくなる彼に視線を向けないまま唇を尖らせて悪態をつくと、クォークは至極冷静な突っ込みを返してきた。
「俺の名前の綴りにSなんてないよ。……本当にどうしようもなくなったら助けてあげるって。でも蜘蛛くらい頑張れば一人で捌けるだろ。この場合、手伝わないのが優しさ」
「むむぅ〜〜〜〜。こんな痛い優しさいらなーい」
実際、数は多いとはいえこの魔物一体一体は前述の通り非力な為、幾度となく攻撃は食らいはするものの、戦場でなら日常茶飯事過ぎて治療もしないくらいの掠り傷しか負ってはいない。厳しい状況と言ってもそういう範囲内での話なので、彼の態度は新兵を指導する熟練兵としてそう間違った物ではないのは事実である。
「……でも、それなら何でクォークまで呼ばれたのかしら。このおつかい任務って、普段新兵が一人で言いつけられてるのと変わらないのよね?」
魔物に向かってぶんぶんと杖を振り、魔法の光弾を撃ち放ちながら、ミナはさっきから不思議に思っていた事を口にした。「新兵って駐屯地行くと、訓練って名目のパシリとして使われるらしいのよね、ダルいわー」――というのは雑談中のシェリーの言だが、通常このインクルシオ駐屯地にやって来る新兵は、今ミナが命じられているような雑用を一人で請け負う事になるらしい。ミナはてっきり、自身は新兵訓練としての任務をこなし、熟練兵はそれとは別個の特殊な任務があるものだとばかり思っていたのだが、指揮官からの指示は、同行者があるならそれと共に任務をこなす事、であったのだ。
「そもそも、『トランスポートクリスタルの最終調整』っていう話だった筈なのに、そんな話、ちっともなかったし。なんか変よね」
状況が刻々として変化する戦場でなら、命令内容がその時々に応じて全く変わってしまう、ということもないではないが、戦地からも程遠いある意味平和な訓練施設でそのような混乱が生じるというは少し奇妙にも映った。指揮官はその事には特に触れもしなかったし、何か上の方で連絡の不行き届きでもあったのだろうか。
「まだ始まったばかりだから今の段階では何とも言えないけど」
立てた膝の上に手を組み、そこに顎を乗せて寛ぎながらクォークがそう前置きして呟く。
「変と言えば変かもな。さっきから忙しいのはミナばっかりで、俺には全然仕事が回って来ないもんな。こんな楽な任務でいいのかなあとは思ってたよ」
「……暇なら手伝ってくれていいのよ?」
飄々とそんな事を言うクォークをじとっと睨みつけると、彼はしれっとした顔をして、それより前、と鼻先でミナの背後を指した。彼女がくるりと振り返ると、蜘蛛の魔物が細長い足をミナに向かって振り上げている所だった。わっ、と思った瞬間に、ざしゅっ、とまた軽い切り傷。
「うううっ。酷い」
「酷くない」
その後もミナは一人で地道に魔物を退治し続け、鬱蒼とした森を先へと進んでいると、クォークはふと思い出したように、ポケットからメモ帳のような数枚の紙束を取り出した。
「そこをもう少しだけ行った所に、トランスポートクリスタルとやらがあるらしいな」
「それ何? 駐屯地近辺の『マップ』って配布されなかったよね?」
ミナはクォークの手元を首を傾げて覗き込んだ。彼の持つ紙には簡単な地図のようなものと説明書きが記されているようだったが、拠点では何も貰わなかったし、彼がメモを取っている様子もなかったように思う。ぼんやりしていて貰い損ねたんだろうかと心配すると、クォークは、いや、と首を振った。
「部隊の資料室で探してきた、このインクルシオ駐屯地についての資料。今回のはちょっと例を見ない命令だったから、調べられる範囲だけでもと思って調べてきたんだ」
「へえー、流石大部隊の幹部様、やる事に抜かりがないわね」
そんな事前調査なんかちっとも頭になかった、と感心すると、クォークはあっさりと肩を竦めて見せた。
「普段なら別にここまでしないけどね。……で、今行こうとしてる森の奥の研究施設っていうのは……ここか。二回程、この位置とこの位置にあるトランスポートクリスタルによる転移を繰り返すと着くらしい」
「……転移ってちょっと怖いわよね、どういう感じなのかしら」
指揮官から説明を聞いた所によると、トランスポートクリスタルとは、触れた者の身体を空間を越えて全く別の所に転送するという、通常のクリスタルとは全く別種の特殊な力を持ったクリスタルであるらしかった。そんな不可思議な現象は体験した事はおろか聞いた事すらなくて、ミナはどうしても得体の知れない物に感じる不安感を覚えるのだった。
しかし、そんな事よりもずっと怖いのは……
「……そんな力を持ったクリスタルが、もし戦争に投入されたら……って思うと、怖いね……」
そのクリスタルの仕組みがもし解明されて、万が一、その力を応用して、兵士を好きな所に送り込めるような魔法装置が開発されでもしたら。戦場の様相はかつてない程劇的に変化するだろう。労せずして敵の背後を取り、敵軍を抵抗すら許さず壊滅に至らしめ、逆に他国にその技術が伝われば、こちらもまた容易に敵に背後を取られるようになる――血塗られた戦場は、今よりも尚悲惨な、最早戻り得ぬ程に混沌を極めた地獄と化すのではないだろうか……?
恐ろしい想像にミナが顔を青褪めさせると、クォークはふっと吐息のような笑声を上げた。その音にミナは視線を上げる。彼はミナを笑った訳ではなかった。彼女を見ず、真っ直ぐ前を向いている彼の視線に感情の色は一見浮かんでいないように見える。
「まさにそういう使い方をしたいからこそ研究してるんだろうさ。まさか国軍が、平和利用の為にわざわざそんなものの調査に乗り出している訳もない」
顔つきこそ無表情だったが、その声には明確な嘲りの響きがあった。彼はただ淡々と、声音だけで冷笑する。
「下らない話だ。どうせ新しい技術を開発したって、戦場で使用すればすぐさま他国に対抗策を研究される。或いは盗まれる。そしてまたより強い力が求められる。ずっとその繰り返しなのに。結局より大陸を染める血潮の量を増やすだけにしかならないのに、何が楽しくて次々と無価値なモノを産み出して行くんだろうね」
――吐き捨てられていく痛烈な言葉を聞きながら、ミナは特に根拠もなくふと思った。その言葉の棘の向く先は、本当に言葉通りに国軍なのだろうか。
ミナはクォークの顔を見上げたまま、無言で彼の手を握った。その瞬間、クォークは彼にしては激甚な反応を示した。今この時初めて彼女の存在に気付いたかのようにぎくりと身体を強張らせるのと同時に、咄嗟に引っ込めようとした手を、ミナは両手で掴んで引き留める。
恐らくは反射だったのだろう、その一連の反応を終えると、クォークは表情のなかった瞳に、何事もなかったかのような穏やかな微笑を戻した。
「ごめん、変な事を言った。……まあ、そう心配しなくても大丈夫なんじゃないかな。まだそこまでの事が出来ると決まった訳じゃないし、あんまりにも非人道的な戦術は、国際法で一応禁止されるし。昔、空飛ぶキマイラとか、なんかもうどうしようもないのがどっかで秘密裏に開発されたらしいけど、あれは流石にアウトだったっぽいしね」
取ってつけたような彼の表情の変化に、ミナは何か言おうと唇を開きかけたが、言葉を差し挟む間を見つけるよりも先にクォークが、「……ん」と何かに気付いて声を上げた。動かされた彼の視線を追って、木立の向こうから漏れ来る温かい色をした光にミナも気付く。
「わぁ……これがトランスポートクリスタル……」
大樹を迂回して行きついた先には、きらきらと輝きを放つクリスタル柱が静かに佇んでいた。間近まで近寄ってそれを見上げ、ミナは感嘆の吐息を漏らした。
大きさや形や魔力の片鱗である燐光を放つ様は、大陸中の至る所にある大クリスタルと変わりないようだが、目の前にある大クリスタルの色は、氷のように澄んだブルーの普通のクリスタルとは対照的な、燃えるようなオレンジ。普通のクリスタルが晴れた空だとすればこのトランスポートクリスタルはまさに夕焼けの色だ。
「こんなの初めて見た。でもこの色も綺麗ね。これに触ると、どこかに勝手に移動するわけね?」
呟きながら何気なくぺたりとその表面に触ると、トランスポートクリスタルは、にわかにミナを包み込むように強い光を放ち始めた。
「お、おい」
クォークが慌てた声を発してミナの二の腕を掴む。その瞬間、ぐらり、と眩暈を起こしたように視野がひしゃげて、ミナは思わずぎゅっと目を瞑った。
一秒後。音も振動もなく、瞼の奥から感じる光だけが消えている事に気がついて、恐る恐る瞼を開けた。右を見て、左を見て、ぐるりと後ろを見る。周囲の景色はここまで歩いてきたのと変わらない大樹に囲まれた深い森で、後ろにはミナの腕を掴んだクォークがちゃんといる。ただ、直前までそこにあった夕焼け色のクリスタルは綺麗さっぱりと消えていた。
――否、消えたのは自分たちの方という事になるのだろう。
「……怖いねーとか言ってた割に何の躊躇もなくいきなり触るんだもんな……。別に危険はないんだろうけど意表突かれてびっくりしたぞ」
「え、えへ。ごめんね」
はぁ、と溜息をついてみせたクォークに、ミナは頭を掻いて謝罪した。
「けど、本当に変わったクリスタルね。空間を超えるって……何かすっごく変な感じ。異界から呼び出される召喚獣ってこんな気持ちなのかしら」
「そうなのかもな」
他愛のないミナの思いつきにクォークは軽く苦笑して、再度歩き出した。