子猫と森と慟哭の獣
１
声は、ただ無為に、閉じた世界の中に響き続けていた。
誰にも聞かれる事はなく――或いは気付くものもあったのかもしれないが、誰にも見向きされる事はなく――狭い水槽の中に広がる波紋の如く、発せられてはただ冷たい壁に阻まれて跳ね返り、己をも巻き込み揺らがせて、原形も留めぬ程に掻き乱しては消えていく。
逃れ得ぬ痛苦に苛まれ、絞り取られた挙句の残滓たるそれは、最早悲鳴の体すら為さぬ、呻きの連鎖に過ぎなかった。
痛い。痛い。痛い。痛い。
ひたすらに痛みを、苦悶の絶叫のみを、意思なきままに訴え続ける獣の慟哭が、ただ無為に、有りや無しやも知れぬ出口を求めて彷徨い続けていた。
揺らめく黒い炎の中で。永劫に。
＊ ＊ ＊
「ううう。痛いよう。クォークのサディストー」
乾いた固い地面に転がされたまま立ち上がれないでいるミナは、着衣が土埃に汚れるのも構わずその場に突っ伏した体勢から鬱々とした視線だけを上げて、恨み言じみた泣き言を口にした。
華奢で小柄な体格と、今はぼさぼさに乱れてはいるが顎先までの長さに切り揃えた栗色の髪をした、やや子供じみた雰囲気の少女である。女性として成長途上な感のある線の細い身体は、編み上げの胴衣でウェストを絞った生成りのシャツと茶色い麻のスカートに包まれている。首都に身一つでやって来た兵士志願者に国からお情け程度に支給される、新兵の制服とも言える簡素な装備だ。少女が縋るように握り締める粗末な木の杖は、同じく国から支給される武器で、彼女がこれでも一応はソーサラーの端くれである事を示している。
対して少女のすぐ傍に立ち、その怨嗟の視線を一身に受ける、彼女を地べたに這い蹲らせた張本人は、片手剣を手にした鎧の男だった。男の身に纏う鎧は軽装の物ではあったが見事な意匠が施されていて、一見して最高級の業物と知れる。その男自身も、戦場の最前線で戦うウォリアーとして申し分のない均整の取れた長身偉躯を持ち、黒髪黒眼の落ち着いた風貌と相まって、足元のちまっとした少女とは全く格の違う熟達した兵士の風格を見せていた。
少女が身につけている装備と呼ぶのもおこがましい質素な衣服は、庶民の普段着と大差のない拵えのものではあるが、軍務に服する者にとってはそれが新兵への支給品であることは瞭然なので、この状況は見る者が見ればごく普通の新兵訓練か、せいぜい熟練兵の新兵いじめというよくある光景と察する事が出来る筈である。が、もし一般人が見たならいたいけな市井の娘を兵士が襲っているようにも見えるかもしれない。
そう見られてうっかり通報されちゃえばいいんだクォークのばかー。へんたいー。
……などと地面にへたばる当のミナは今現在割と真剣に思っていたりもするのだが、残念ながらこの場所は義勇兵の訓練用に解放された国軍所有地であるので一般人の目は期待出来ない。
いつまでもべそべそと地に伏している少女を、傍らの男は黙したまま、やや長めの前髪の下から温度のない眼差しで見下ろしていた。冷たい、というよりはただただ感情のない瞳。手中の剣を担ぎ上げ、刃の潰されたそれでとんとんと肩を叩きながらそうしていた彼――クォークは、やがて嘆息混じりの声を漏らした。
「ミナが訓練用でも両手斧で殴られるのは痛いって言うから使い慣れない片手剣でやってあげてるのに、それですら文句を言われても。これ以上のハンデはちょっと思いつかないんだけど」
「ソニックブームで延々タコ殴りって悲し過ぎる」
普段の訓練では、ウォリアーが習得する多彩な武技で手を変え品を変えしこたま殴られている所なのだが、今日の彼は何故か剣閃による衝撃波、ソニックブームしか使って来ず、それのみでしこたま殴られる羽目になっていた。ソニックブームは技としては然程威力のあるものではないのだが、遠距離攻撃対決でウォリアーに完敗するというのは何と言うかソーサラーとしてのアイデンティティの危機を感じて身体よりも心に痛い。――尤も、どういった手段で戦ったとしても一度だって勝てた試しなどない相手なのだが。
頬をぷうっと膨らませて八つ当たりじみた事を言うミナに、クォークはやれやれとばかりに肩を竦める。
「しょうがないじゃないか、片手剣じゃ勝手が違い過ぎてストスマもヘビスマもドラテも撃てないんだから。ソニック以外の何で戦えって言うんだ」
「……通常？」
ソーサラーが魔力によって魔法を操るように、ウォリアーも精神力を武器に『乗せる』事によって様々な技を放つが、精神力を乗せないただの斬撃を兵士達は『通常』と呼ぶ。反撃も何もしてこない建築物を破壊するには適しているが、兵士同士との戦いには普通用いられない弱い攻撃だ。
「ほー。通常オンリーで叩きのめされて極限まで凹まされたいと」
「割と現実的な気がしてきたからやっぱりヤメテ」
いくら天と地程の実力差がある相手とはいえ、流石にそこまで酷い条件なら負けはしない――と思いたいが、何故かどう想像力を働かせても彼に勝てる気がしないのもまた事実だった。
……という所まで考えが及んだ所で今更ながらのとある事実にミナは唐突に気づいた。そもそもよく考えたら今の自分はネツァワル国兵士として新規登録されたばかりの新兵で、かつて住んでいた祖国、エルソードで一度は修めた上級魔法の使用許可をまだ殆ど与えられていない身分であったのだ。今現在使える魔法は通常と初級魔法のファイアのみ。多様な攻撃手段というアドバンテージすらなかったら勝てる要素が一個もないではないか！……あくまでも訓練なので、別に勝つ必要がある訳ではないのだが、何だか物凄く空しい対戦をしていたような気がする。
一人で唖然としていると、クォークは肩に担いでいた剣を下ろし、地面から拾い上げた鞘の中に落とした。
「まあ大体の所、バッシュも使えない片手とファイアしか使えない新兵とで訓練するってのがそもそも一体何を想定してるんだって話で。意味が無いのでそろそろ止めて街に戻る事を提案したいんだが如何だろうか」
ミナが今しがた気づいた衝撃の事実に彼もまた気づいたようで、さらりとそんな事を言ってくる。
「意味ないとか、ここまで散々人を殴った挙句になんて事に気付くのよ……」
自分も気づいていなかったのだから人の所為にするのはお門違いではあるのだが、やり場のない怒りの矛先を目の前の男に向けてミナが唇を尖らせると、クォークは軽く目をしばたいてから平然とのたまった。
「いや最初から気付いてたけどね？ この後部隊長に呼ばれてなければこのままもう暫く続けてたんだけど」
「な、なにそれ。今日の訓練って一体何だったのよ」
思わず愕然として問うと、クォークは感情の色の薄かった顔にふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。冷厳とした兵士の印象が薄れ、どこか少年めいたあどけなさが宿る。
「ミナと遊ぶのが楽しかったってだけに決まってるじゃないか。って言うか誘ってきたのそっちだし。流石に自分からは言い出さなかったなーこれは。訳分かんな過ぎて」
「……ミナ『で』遊ぶのが、に聞こえたわ今」
あんまりと言えば果てしなくあんまりな発言に、しかし言い返す気力も失せて、ミナは指先で軽くこめかみを押さえて首を横に振った。
「もういいわ、何でも。私も駐屯地に出発する準備、そろそろしないといけなかった所だし」
何気なく今後の予定を呟くと、感情の色が戻りつつあったクォークの目が、不意に冷たく細まった。
「……ふーん」
先程までの温度のない無表情とは違う、明らかな冷気を感じる眼差しに、ミナは少し怯んで上目遣い気味に彼の顔を見上げる。
「？ 何で急に機嫌悪くなってるの？」
「別に？ 悪くなってないけど？」
「な、なってるじゃない、声が変な尖り方してるじゃない」
「尖ってないけど？」
やはり妙に拗ねた声で言われてミナは首を傾げるしかなかった。何か知らず知らずのうちに機嫌を損ねる事でも言ってしまったのだろうかと心配になるが、ひらひらと手が振られてきたのでそういう訳でもないらしい。手を繋ごう、という無言の要求に、ミナは素直に応えた。ウォリアーは武器を持つ手は他人に預けないという話は稀に聞かれるが、どうやらそれは冗談であったようで、クォークはミナと街を歩く時は大抵手を繋ごうとしてくる。単にミナが慣れないベインワットで迷子にならないようにという配慮なのかもしれないが、ミナも彼と手を繋ぐのは好きなので、求められれば特に理由は聞かずに彼の大きな手を握ることにしていた。
「えへへ、クォークの手って大きくて、何だかお父さんみたい」
「…………お父さん？」
クォークの手をぎゅっと握り、ミナがにっこりとしてそう告げると、何故か彼の頬がぴくっと引き攣った。そのくらい安心する、という幸せな気持ちを伝えただけの筈なのにそんな変な表情を向けられて、ミナは、あれまた何か悪いこと言ったかなあと首を傾げた。
多くの通行人で賑わう王城前の街路を荷物片手に歩きながら、ミナは額に手を翳して空を見上げた。
雲ひとつないまっさらな空が清々しい。突き抜けるような色の濃い青空に、ベインワットの赤茶色の町並みが一層映えて見えるのを、ミナはほっこりとした気分で眺めていた。
ミナが生まれ育ったエルソード国をとある事情で出奔し、このネツァワル国首都ベインワットに移り住んでから二週間が経とうとしている。最初のうちこそ、学問の国エルソードにはない荒々しさすら感じる街の活気に戸惑い、知らない家に連れて来られた子猫のようにはわはわしていたものの、次第にこの街の空気にも馴染んできつつあった。
エルソードでは未開の魔境の如く恐れられているネツァワルだが、実際に住んでみると特に危険を感じることもないごく普通に文明的な国だった。野蛮な魔獣の国と聞いていたが、別に道を歩いていてもいきなり背後から知らない獣人に噛み付かれるという事もない。と、元からのネツァワル国民であるクォークに言ったら微妙な顔をして「当たり前なんですけど。そういう教育してるから、エルソードは陰険だって言われるのに……」と返された。当たり前だったらしい。そしてエルソードは他国からは陰険と認識されているらしい。
部隊の本部へと向かうクォークと別れたミナは、兵士としての支度と今日の夕飯の買い物を兼ねて、一人で街を歩いていた。買い物の荷物を詰めた紙袋を両腕に抱え直しててぽてぽと足を進めながら、界隈の様子をぐるりと見渡す。ベインワットの中でも特にこの商業区の中心、王城前の市場の賑わいは顕著で、いつ来ても多くの人でごった返している。市場には、様々なものを売る露店が立ち並び、商人達は競うように威勢のいい呼び声を上げていて、見るもの聞くもの何もかもが物珍しいミナはついついそんな声に誘われてふらふらと顔を覗かせてしまう。
エルソードとは雰囲気も違えば市場の品揃えも違っていて、どれだけ見ていても飽きることはなかった。エルソード国の首都にして最大の港町でもあるリベルバーグでは、市場を覗けば四季折々の新鮮な魚介類がいつでも豊富に取り揃えられているが、山岳地帯のベインワットでは魚は保存食に加工したものか、僅かな川魚しか手に入らないらしい。魚が好きなミナとしては残念な限りだが、その代わり肉類にかけては無類の品揃えを誇り、リベルバーグでは見たことのない種類の食肉も多く見る事が出来た。
知らない食材を目にするというのは大抵とてもわくわくする経験だったが、時には恐ろしい事件に遭遇する事もある。それは数日前の事だった。ある露店の店頭にでんと置いてあった、一見巨大な甲殻類のようにも見える謎の肉をしげしげと眺めていたら、店の主人がニヤリと笑ってこう言ったのだ。
「ああ、それ？ 貴重な白ヴェノモスの肉だよ」
……即座にフェンサーのスキル・ペネトレイトスラストもかくやという勢いで飛んで逃げ帰り、その後ヴェノモス肉はこの国でもゲテモノの類であると知って一安心したのだが、あの瞬間は本当にどうしようかと思った。ネツァワルに来た事を後悔なんて少しもしてはいないけれど、巨大蜘蛛の魔物が主要な蛋白源ですという国ではちょっと暮らしていく自信がない。
ともあれ時にはそのような文化の相違に驚かせられることもあったが、ミナはネツァワルでの新しい暮らしを十分に楽しんでいた。
（……でも、戦争が始まったらこうも行かないわよね）
ふと影が差すように脳裏を掠めた考えに、ミナはぎゅっと紙袋を抱えて、中に入っているアップルの山に顔を伏せた。
この二週間は大きな武力衝突もなかったようで、熟練のウォリアーであるクォークも戦場に駆り出される事もなくのんびりとしていたが、いつまでもこうはいかないだろう。このメルファリアに於ける平和とは、いつだって束の間のものなのだ。そもそも、部隊の幹部であるクォークが本部に呼ばれたという事は、確実に近々何かがあるという事だ。それとは別にミナも明後日から、首都から少し離れた所にある駐屯地に召集されて新兵訓練を受ける事になっている。それが済めば本格的に兵士として徴用され、戦場に赴く事になり――いずれは祖国のエルソードとも戦う事になるだろう。
思わず溜息をつきそうになって、その寸前で呑み込むようにして堪える。
最初からそうと分かってここに来たのだ。自分でそうと決めてここに来たのだ。――後悔なんて、
「してない、よ」
「何がっすか？」
決意を新たにする為に小さく声に出して呟いた独り言に思いがけず声を返されて、ミナは飛び上がって驚いた。背中にいきなり氷でも落とされたかのような大仰な反応に、声を掛けた方も十分びっくりしたらしい。ミナが慌てて振り向くと、後ろに立っていた顔見知りの若い男は、軽く手を上げた挨拶のポーズのまま目を丸くして固まっていた。
「あ、こ、こんにちは」
ミナが照れ隠しの笑いを浮かべながらちょこんと頭を下げると、男も「あ、はい」と、手を上げたまま曖昧に頭を下げてきた。
男は、クォークの所属する部隊《ベルゼビュート》の兵士だった。《ベルゼビュート》の部隊員については、以前色々あってミナは少し苦手としているのだが、クォークの友人であり部下であるそうなこの人当たりのいいスカウトの青年とだけはミナも懇意にしている。と言ってもたまたま顔を合わせれば少々立ち話をするという程度の間柄ではあるが。
「ええと、何かすみません。考え事の邪魔したみたいで」
「う、ううん、別に」
律儀に謝罪してくる青年に、紙袋を胸に抱えてミナはぶんぶんと首を横に振った。その勢いに押されたように、紙袋の中からアップルが転げ落ちそうになって、慌てて手で蓋をする。零れんばかりに色々な食材の詰まったその中身を目にして、スカウトの青年は羨ましそうに目を細めた。
「いいなあ、クォークさんは。毎日彼女の手料理が食えるなんて幸せっすねえ」
言葉通り、羨ましい、という以外には特に他意のない、何気ない口調で男が言った瞬間。ミナはがばっと顔を上げた。
「え、ええええええ！？ かのっ、かのじょ！？」
「ええええ！？」
頬を朱に染めて素っ頓狂な声を上げたミナに、青年もまた意表を突かれたらしい驚愕の声を上げる。
「えええってちょっと、こっちがえええ？なんですけど？ えーとあなた……俺の記憶が間違ってなければ、エルソードからわざわざ移住してきた、クォークさんの恋人……っすよね？」
「こいっ……」
どういう表情をしたものか迷ったらしい微妙な半笑いで確認してくる青年に、ミナは先程と同じようにその単語を繰り返しかけて途中で絶句した。頬のみならず顔全体、髪の毛の付け根に至るまでを丸ごと真っ赤にしてにわかにそわそわし始める。
「そっ、そうなのかな？ そうなるのかな？ ど、どうなんだろう？ わ、私そういうのよくわかんないっ」
移住に纏わる事情に彼が関係しているのは間違いないし、以前成り行きで、両思いだという事も確認してはいるけれど、はっきりと付き合おうと言われた訳ではないしどうなんだろう。こういう場合はどういう関係って言うんだろう。
荷物を片腕に抱えながら、湯気を吹きそうな頬に手を当ててミナはおろおろと視線を揺らした。その様子を、驚愕を収め今は困惑に見舞われる青年が眉根を寄せて見つめた。
「……あ、あの。確かあなた今、クォークさんの部屋に住んでるんじゃなかったでしたっけ……？」
それについては指摘の通りだったので、ミナは素直に頷いた。
「うん。新兵の間は宿の宿泊補助が出るからそっちを使うつもりでいたんだけど、クォークが部屋余ってるって言うから、貸してもらう事にしたの。クォークには本当に感謝してるわ」
ミナがこのネツァワルにやって来て以降、全く衣食住に困ることなく過ごせているのは彼のお陰に他ならない。兵士として登録しているので最低限の生活は保障されているが、戦争に行くにも義勇兵は装備も糧食も手弁当なので、ある程度の階級になるまでは色々苦労を強いられるのが常だった――だからこそ、義勇兵の互助組織たる部隊制度が発達しているのだが。ともあれそんな中、クォークの他には知り合いも親類もなかった異邦の地で受けた彼の親切な申し出はとても有り難く、申し訳ないとは思いつつもつい甘えてしまったのだ。
先の問いとは打って変わって明瞭に、けろりと答えるミナの顔を青年はまじまじと、信じられない物を見るような目で覗き込んで、深刻な問題に突き当たったかのように険しく眉根を寄せた。
「……もしかして、それだけなんですか？ ただ何事もなく同居してるだけ？」
「え？ ううん。そんなことないよ。お部屋を貸してもらう代わりに、ご飯作るのとお掃除とお洗濯は、私がやる事に決めたのよ。クォークはそこまでしなくていいって言ってたけど、私家事好きだし」
「……えーと……」
「それがどうかしたの？」
何の穢れもない純真なミナの瞳に居た堪れなくなったかのように、スカウトの青年は目を逸らした。
「ああ……いえ。何でもないっす。俺が間違ってました。色々と」
「え？」
青年がそんな事を言う意味がさっぱり分からずミナがきょとんと首を傾げると、彼は「もう本当にマジで何でもないっす気にしないで下さい忘れて下さい綺麗なままのあなたでいて下さい」と頑なに言葉を濁した。
その、言いたい事がありそうなのに言わない様子が、先程のクォークの態度を彷彿とさせて、ミナは少し不安になる。
「ね、ねえ、私何か人の気に障るような事を言ってるのかしら。さっきも何だか、クォークを怒らせちゃったみたいなんだけど」
「クォークさんが？ あなたに怒る？」
耳垂れる犬のような上目遣いになって恐る恐る問うと、そんな天変地異が起こり得るのかとでも言いたげな怪訝な顔をされたので、別れる直前にクォークと交わした会話の内容を簡単に話してみた所、青年の怪訝な顔が何故か物凄く渋い顔になった。
「お父さんて……。あなた、よく残虐だって言われません？」
「残虐？」
少なくとも自分に対しては耳慣れない単語に、ミナは再度首を傾げる。そんな言葉、これまでの生涯で一度たりとも言われたことがない。
「……純真さもそこまで行くと美徳を通り越してなんていうか……。クォークさんも可哀想に……」
頭痛でも感じたかのように額を押さえながら首を横に振るスカウトに、ミナはさっぱり訳が分からず瞼をぱちぱちとしばたかせるのみだった。
――時を同じくして、部隊《ベルゼビュート》本部最上階、部隊長の執務室。
「新種のクリスタルの話は聞いているか？」
飾り気の欠片もない実用的な調度のみで整えられた一室で、革張りの椅子に足を組み深く座して待ち受けていた女は、呼び立てた部下が入室するや否や前置きもなく切り出した。
豪奢な金の巻き毛をポニーテールに結い上げた派手な容貌の美女だが、怜悧な瞳はその一つを無骨な眼帯に隠されている。但しそれは女の麗容をいささかも損なう事はなく、却ってそこに氷の刃を思わせる鋭さを加え、凄艶とすら言える美貌に仕立て上げている。尤も、黒樫の机を挟んで正面に立つクォークにとっては、その女の見目麗しさなどは全く興味をそそられる物ではなく、寧ろ道端のぺんぺん草でも眺めている方が無害な分、余程ましだと思うくらいであったのだが。
単刀直入な部隊長にこれ幸いにと倣い、クォークも余分な言葉を挟まずに返答する。
「結構前に、首都から少し離れた山奥に突然生えてきたっていう赤いクリスタルの事だろ。確か、トランスポートクリスタルとかいう名前が付けられた。国軍の情報部による調査に新人の義勇兵が、訓練も兼ねて駆り出されてるらしいな。……ミナも明後日からあっちの駐屯地に入る事になってるけど」
最後の一文だけ不愉快を隠そうともしない声音で呟かれた言葉に、部隊長はにやりとたちの悪い笑みを浮かべて片眉を上げた。
「ふん、恋人の新兵訓練の機会を国軍に掻っ攫われて不服そうだな。折角何も知らぬ無垢な女を手元に囲い、戦闘技術から夜の技術まで全部一から自分好みに仕込むというドリームプランを立てたのに、台無しにされて残念だったな、いやらしい男め」
「いやらしいのはあんたの頭。何でそう発想がいちいち卑猥なんだあんたは」
顔を顰めてクォークは言い返す。エルソードから移住してきたばかりのミナに余っていた部屋を貸して同居することになったのは事実だし、戦場に出られる階級になるまでは付きっ切りで面倒を見てやれると思っていた所に水を差されて不愉快なのも間違いないが、別に下世話な思惑があっての事ではない。
と、クォークは目の前の女に険悪な視線を送ったが、当の部隊長は蛙の面になんとやらという風情で、折角整っている顔をにやにやと下品かつ悪辣に歪めながら、昂然と顎を上げて言った。
「何を取り澄ました振りをしている。敵国の兵であった者を手練手管を弄して拐かし自国に引きずり込んだ挙句自宅にまで連れ込んだ助平野郎が一体何をほざいているのだ、白々しい。どうせ毎晩よろしくやっておるんだろうに。……それとも何だ、まだ指一本触れてないとでも抜かしてみるか？ んん？」
「…………私生活についてわざわざ報告する気はない」
言いがかりも甚だしい台詞への反論も我慢して、余計な揚げ足を取られないように否定にも肯定にもならない言葉を選んだ――つもりだったが、微妙に言葉に詰まってしまったのは失敗だった。
平静な顔を取り繕いつつクォークは内心臍を噛むが、発してしまった言動は撤回出来ない。動揺に気付かれない事を、それが駄目ならせめて前者に対して図星を突かれて動揺している風にでも見えるようにと祈っていたが、願い空しく部隊長は、クォークの返答が暗に意味する内容に正確に気付いたようだった。しかしその答えは彼女にとっても想定外だったらしく、下卑た笑みを浮かべていた顔が、彼女らしからぬ唖然とした表情に切り替わった。
「……まさかお前本当に手を出してないとか？」
クォークは無表情のまま答えなかったが、部隊長はそれを以って肯定と見做した。
「は？ 何やってんのお前？」
呟かれた声に混じっていた色合いは人を小馬鹿にするだけでなく、あろうことか憐れみすら含んだものだった。
「馬鹿か貴様は？ いや馬鹿と言うより三歳児か？ 惚れた女と二週間も同棲して唾の一つもつけんとか、寧ろその方が不健全だ。ある種の病気だ。最早逆に女に失礼に当たるわそれ」
「失礼って……あのなあ！ 一緒に住み始めたからっていきなり手を出すとかどんなケダモノだよ！ 元々二人用の寮で一部屋開いてたから貸したんだ、変な邪推はやめてくれ」
流石に沈黙でやり過ごす訳にも行かない事を言われて反論すると、部隊長は品性の欠片もないごろつきさながらに唇をひん曲げた。
「ああン？ カマトトぶってんじゃねーぞコラ？ テメェそんな好きな女と同居なんてフラグを自らぶっ立てといて、本当に僅かたりともその先の展開なんて期待してませんでしたって胸張って言えンのか？ あ？ その完璧な据え膳シチュエーションを前にして、そんなフシダラな想像はびたイチゴールドたりともした事がありませんとか薄ら寝ぼけた台詞吐いてみるか？ ああ？」
「言っ……」
歯噛みして言葉を飲むクォークに部隊長はここぞとばかりの嘲笑を浴びせ掛ける。
「言えんよなあ？ そのくらい可能性としては当然考慮内だよなあ？ 毛も生え揃わんガキの頃から面倒を見ているが、そこまで一般常識のない男に育てた覚えは流石にないぞ」
「俺はあんたにまともな一般常識を教えて貰った覚え自体がないけどな！」
クォークは失調しかけた神経を整える意味合いで一声強く吠え、部隊長を睨め付けた。
「で、そのクリスタルがどうしたって！？ ここにいてもあんたの鬱屈した欲求不満のはけ口にされるだけなんだったら俺帰らせて貰うけど！？」
「どっちが欲求不満だ、これしきの冗談でささくれ立ちおって」
くっく、と喉の奥で嗤う声のおまけつきで返されるが、部隊長も大元の話題に戻る事には異存はないようだった。仕事に関しては腹が立つ程に切り替えが早い。
「そのトランスポートクリスタルについてはここ一年程で急速に研究が進み、間もなく実用段階に入るとの事なのだが、それに向けての最終調整がこの度、そのインクルシオ駐屯地にて行われる事になったのだそうだ。ついてはそれに協力する熟練兵を各部隊より一人ずつ派遣するよう、国軍から要請があった。丁度いいからクォーク、お前あの娘と一緒に行って来い」
「……へぇ？ まあ、俺としてはラッキーな話だけど」
軽い口調ではあるものの、その言葉は相当な警戒心を含んでクォークの口から発せられたものだった。
義勇兵の互助組織である所の『部隊』は、組織図的には国軍の外郭部隊に当たるのだが、普段は独自性が尊重されていると言うか――軍隊らしい規律などは一切求められず、ほぼ野放しと言っていい状況に置かれている。国軍は通常、部隊に関しては、攻略すべき戦術目標の通達と、時折大規模な特殊作戦への大雑把な参加命令を下してくる以外には、各部隊がそれぞれ勝手気儘に提出する作戦立案書に、本当に読んでいるのだかいないのだかよく分からないスピーディーさで判子をついて返してくる程度の仕事しかして来ない。そんな国軍が、各部隊に対しこれ程までに細かい指示を出して来るとは珍しい――否、これまでに一度も記憶にない事だった。
それに――
「何か不安がありそうだな」
尋ねてきた部隊長に、クォークは表情を変えずに唇だけ開く。
「そりゃあ、聞いた事もないような異例の命令だからな。警戒はして当然だろ。……そもそも、国軍の研究なんかにろくな物があった試しがない」
「ふむ？」
表に出すつもりのなかった暗澹とした感情が声になってしまっていた事に、目の前の部隊長の真意の読み難い瞳で不意に気がついて、クォークは軽く咳払いをした。
「国軍がたまに命じてくる大規模作戦なんかがその最たる例じゃないか。度々繰り返される召喚獣の能力調整実験や『トライリス』とかいう新兵器の運用試験は言うに及ばず、いつぞやの……『介入』だっけか？ あの新戦術の採用とか。俺はあの時、幼児に悪意なくぶん回されるぬいぐるみの気持ちが分かったような気がしたぞ」
「ああ。あれは中々に貴重な体験であったな。召喚獣や建築物等の機能上の変更は何もなく、国軍の指示した通りの戦術で戦うという事が、戦場に通底する一定の秩序にかくも致命的に混迷を齎す事が出来るのかと感嘆にすら似た驚嘆を覚えた。あの時の国軍の蒙昧極まりない挙動には故意に暗愚を演じている節すら感じられて、軍の深部に巧みに潜入した他国のスパイによる謀略かとすら危惧したものだが単なる上層部の脳腐れの所業だと知ってより一層の驚愕を禁じ得なかったものだ」
「よくもまあそうつらつらと罵りの文句が出て来るものだと感心するが、概ね同意する」
小気味よく慇懃無礼な悪罵を並べ立てる部隊長の口に、クォークは軽く賛意を示して肩を竦める。部隊長は鋭利な隻眼をすっとクォークに向け、上官として命令を下した。
「という訳だ。今日はこのまま戻り、駐屯地出立に向け準備に当たるがいい」
「了解」
クォークもまた部下として短く返答して、踵を返す。さして広くはない執務室内を真っ直ぐ下がり、真鍮のノブに手を掛けた所で、背後から呼び止めるように声が掛けられた。
「で。何で手を出さないのだ？ それとも出せないのか？」
「……その話はもういいだろ」
唐突に蒸し返して来られた話題にクォークは振り向かないままうんざりと答えるが、部隊長は嘲笑じみた声を放つのを止めなかった。
「まあ大方の想像はつく。どうせあの娘の安易に手を出すのも憚られる純粋さに怖気づいたって所だろう。馬鹿だなお前、そんな世間知らずな女こそ、さっさと上手い事丸め込んで好きにしてしまえばいいものを」
どこまで知ってるんだこいつ、と背筋が寒くなったものの、クォークは無反応を通した。半分方カマ掛けの質問で相手の反応を窺いそこから真意を探っていくのはこの部隊長が得意とするやり方だ。捕虜を尋問する時だけに使って欲しい技術である。
女性の言葉とはとても思えない猥褻極まる発言を無視してドアノブを回すと、声は続けて投げ掛けられてきた。
「何もいきなり襲い掛かって無理矢理ことに及べと言っている訳じゃない。ただ、満足の行かない状況にいつまでも甘んじていた所でいい事はないと言っているだけだ。……我々は兵士だ。今日と変わらぬ明日がいつでもあると思うな。後悔したくないならな」
一度だけ、肩越しに背後を振り返る。部隊長の眼差しからはいつの間にかからかいの色は消え、意図の読みづらい怜悧な瞳がただ静謐にクォークを見ていた。