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「はっ!?」
 と、叫んでがばっと頭を持ち上げたミナに、目を通していた書物から視線を外してクォークが顔を向けた。
「おはよう、ミナ」
 巻貝のように丸まった体勢から頭だけを上げた格好で、ぽかんと口を開いたミナは、クォークの瞳をしばらく無言で見詰めてから、周囲をぐるりと見回した。テーブルの上、ミナのすぐ傍に火の入れられたランプが置かれ、熱と光を柔らかく放射している。テーブルの上は読書に困らない程明るいが、ソファよりももっと離れると、部屋にはランプひとつでは照らし出すことの出来ない闇がとっぷりと落ちていた。まだ夕方にもなっていない時間だった筈なのに――と、少しの間呆然としていたが、五秒程して漸く現実に思考の焦点が合い、ミナは茶色い小さな身体を慌てて起こした。
「ご、ごめんなさい! 私、いつの間にか寝ちゃってた!?」
「うん。よく寝てたね」
 彼の眼差しに怒った様子は全く含まれていないことはすぐに知れたが、申し訳なく思って頭を下げる。と、クォークの指がミナの額を擦った。
「いいんだよ。子猫なんだから、ちゃんと寝ないと身体がもたないよ。……というか俺の所為だしね」
 寝入る前の記憶は少し曖昧で、ははっと笑って付け加えられた彼の言葉の意味は、ミナにはよく思い出せなかった。
「サイトさんは?」
「帰ったよ。もう日も落ちたし、俺も今日はこの辺にしとこうかと思ってた所。……ミナが寝てる間にそこの山は全部目を通してみたけど、目ぼしい情報は見つからなかった」
 目線でクォークが指した先を見れば、今朝方用意した文献のもう半分以上が片付いている。
「……ごめんなさい」
 再度小声で謝罪すると唐突に、クォークの大きな手が、わしっとミナを捕まえた。
「へっ?」
 と、思うや否や、今起き上がったばかりのミナは、再びテーブルの上にころんとひっくり返された。仰向けにされ、濃い目の茶色をした毛並みの中でそこだけ白い腹をわしわしと、しかし優しくからかうように撫でられ始める。
「!? あはっ!? ちょっ、ちょっとクォークっ、そこくすぐったっ……ひゃははっ、やめてっ」
 こしょこしょと白い腹毛を掻き回す指の動きにミナは身をくねらせるがやめて貰えない。じゃれかかって来る兄弟猫のようにいつまでも悪戯を止めないクォークの手に、ミナは反撃とばかりにしがみついた。ぐっと前脚で捕まえて、後脚を合わせててしてしてしと蹴り付けると、怯むように手が引かれたのでミナはすぐさま起き上がり、戦闘態勢を取った。テーブルの端の方に引かれた手がちろちろと動くのを睨み据え、お尻を左右に振り動かしながらタイミングを見計らっていたミナは、その指がぴくりと違う動きを見せたのを機と取って、電光石火の勢いで飛び掛かる――
 ――五分くらいして、クォークの指を小さな牙であぐあぐと噛んでいる最中に、ミナははたと我に返った。
「はっ……私は一体何を……?」
「子猫のいる生活ってのもいいもんだな。ミナが元に戻ったら、改めて猫を飼おうか」
 ずっと堪えていたらしき笑い声をくつくつと漏らしながらそんな事を言ったクォークの手を、ミナは恥ずかしさをごまかす為にぺふっと叩いて、拗ねるように言った。
「戦場に出て、家を開けている時間が長過ぎるもの。無理だわ」
「そうでもないよ。長期間家を空ける時は、大家に預かって貰えばいい」
 笑いを納める努力を一応しつつクォークはそう言って、さてと、と立ち上がる。
「ミナは腹減ってない? 減ったなら何か用意するけど」
「……ん。食べる」
 寝起きは少し気分が凹んでいた為か空腹は感じなかったが、ひとしきり動いた今は、大分お腹が空いていたことを自覚出来た。
 ミナはどうやら子猫過ぎるようで、肉や魚をそのまま食べるのは少し大変だという事はここ数日の生活で分かっていたので、ぬるめに暖めたミルクにちぎったパンを浸して柔らかくしたものを食べることにしていた。クォークは自分の分まで拵えるのは面倒だったのか、戦闘糧食の余りらしき固くなったパンとベーコンをそのまま持ってきた。
 二人分の夕食を用意しソファに戻ったクォークは、自分で休息を提案したにも関わらず、食事中も資料を手放そうとしなかった。片手でベーコンを齧りながら、油がつかないように逆の手でページを捲っている。
 文字の羅列を真剣に追う眼差しに、ミナは最早何度目かとも知れない申し訳なさを感じて俯いた。迷惑を掛けてごめんね、と言いたいが、その発言はまたきっと彼に困った顔をさせるだけなのだろうと思うと口を噤むより他はない。浮上しかけていた気分がまた深い穴の中に沈んで行く。
「もし……私がこのまま、人間に戻れなくても、」
 パン粥の皿に目を落としたままのミナの口から、彼女自身も意図しないままに、か細い呟きが滑り落ちた。
「ずっと飼っててくれる?」
 弱々しい問いに、クォークはページを捲る手を一瞬止めたが、本に視線を向けたまま、すぐに答えた。
「うん」
「何があっても一生飼っててくれる?」
「うん」
「クォークが結婚してお嫁さん貰って子供が生まれて、お嫁さんに子供に猫の毛が悪いからって言われても捨てないでいてくれる?」
「うん……って、ミナ? 何を言ってるんだ?」
 流石に今度は顔を上げて、クォークはミナを見た。ミナも顔を上げて、じわじわと潤み始めた目でじっと彼の黒い瞳を見る。
「……私やだ。クォークが他の女の人と結婚するの見るのやだ」
「ミナがいるのに他の人と結婚なんてする訳ないだろ」
「それもやだ! 猫じゃクォークを幸せに出来ないもん! クォークがちゃんと幸せになってくれないとやだあ!」
 癇癪を起こした子供のように叫び出したミナを目の当たりにして、クォークは僅かに狼狽の表情を浮かべながらも本を閉じ、ミナに真正面から向き直る。
「ちょ、ちょっとミナ、落ち着け、何先走ってるんだ。そんな事まで考えなくたって大丈夫だから。すぐに元に戻れるって。あの魔女だって言ってただろ、ただの揺らぎにしか過ぎない変化だって。大丈夫、『真実の愛』って奴も絶対見つかるよ」
「分かんないじゃない、だってクォークやサイトさんがこんなに一生懸命探してくれてるのに見つからないんだよ? 魔女にとっては簡単な事なのかもしれないけど、人間にとってもそうだとは限らないじゃない! もう無理だよ、私一生猫なんだよ、クォークと一緒にいられない……一緒にはいられてもただの飼い猫でしかいられないなんてやだよぉ……!」
 張り詰めていた糸が切れたようにわあっと泣き出してしまったミナを、クォークは暫くの間、愕然とした様子で見下ろしていたが、テーブルの上のミナと顔の高さを合わせるように床に膝をつくと、彼女の背をそっと撫でた。
「ごめん、そこまで追い詰められてるとは気付いてなかった」
 前脚で顔を覆って嗚咽するミナをあやす声に、ミナは顔を隠したまま首を横に振った。謝って貰うようなことじゃないのに。ただ、想像したら物凄く悲しくなってきてしまっただけなのに。それでも顔を上げる事は出来ずにしゃくり上げ続けていると、穏やかなクォークの声が、波打ち際で聴く潮の音のように自然と耳に染み入って来る。
「大丈夫。本当に、どうしても元に戻る方法が見つからなかったその時は、俺が何百回でも何千回でもキマ血を使って不良品を探すよ。一緒に猫として暮らそう。それだったらいいだろ?」
 真っ直ぐな、一切のごまかしの感じられない声音で告げられたその言葉に、ミナは思わず顔を上げた。びっくりして涙すら止まる。
「……そ、それ全然問題解決してない……よ?」
「解決してるじゃないか。ミナとしては、猫と人間だから駄目なんであって、猫同士なら問題ないんだろ?」
 心底不思議そうに言うクォークを、ミナはぽかんと口を開けて見つめた。確かにそんな意味合いにもなる言葉は言った気はするが、でもその対処法は何かがおかしい気がする、と思って反論しようと口を開くものの、当たり前の事を当たり前に言っているようなクォークの顔を見ていると、肝心の何がおかしいのかがよく分からなくなってくる。そこまで自信を持って断言されると、何も問題ないような気もする。
 呆けたように彼の顔を見つめていると、クォークはミナの背骨を指でつうっとなぞった。子猫のミナは、お腹の方こそ子猫らしく膨らんでいるが、全体的には元のミナと同様にやせっぽちで、背筋はこつこつと骨ばっている。その感触を楽しむように尻尾の方まで繰り返し撫でながら、彼は落ち着いた低い声で囁いた。
「俺はミナが猫だろうと恋愛出来るけどね」
「!? そ、それって、獣か……ナンデモナイデス」
 彼とは真逆に声のトーンを跳ね上げて変な事を口走りかけたミナを、クォークはまばたきもせずに凝視したまま数秒程絶句した。控え目な反応ながらも実は結構驚いているらしい。
「……いや流石に猫とどうこうするのは物理的に無理だろうけどさ。……本当に君は時折変わった事だけ知ってるな。それもエルの友達から聞いた言葉?」
 非難や軽蔑ではなく、純粋に不思議そうに問う声に、ミナは大分迷ってから、渋々こくりと頷いて、もごもごと答えた。
「ホルデインの羊飼いは羊を連れて何日も山に篭ると欲求のはけ口として羊にすらそんなことをするそれはそれは恐ろしい奴らなんだぞーって……」
「……どこまで他国民に対して敵意に充ち溢れてるんだエル民は」
 こめかみに指を当て、少し眉を顰めて悩むような仕草をするクォークを、テーブルの上から見上げていたミナは、やがてしゅんと項垂れた。ミルクの入った白い皿に自分の顔がシルエットになって映る。短毛ながらもふんわりとした毛で覆われた丸い頭に、顔の大きさに比較して随分と大きな三角の耳が生えた、小さな猫の姿。
「猫でもいいとか、健全な思考じゃないよ……」
 か細い声でミナが呟くと、クォークは何を言っているのか分からないとばかりに真顔で首を傾げた。
「どこが? ミナはミナじゃないか。姿形がちょっとふわふわな毛玉でも、俺には可愛い女の子にしか見えないけどね」
 クォークはミナをテーブルの上からひょいと持ち上げると、「ひあっ?」と悲鳴を上げる彼女を捧げ持つようにしてソファの上に寝転んた。仰向けの格好で、小さくて柔らかい子猫の身体を顔の前に持ってきて、ミナの丸い目を覗き込んで微笑む。
「綺麗な瞳も可愛い声も、俺の事を一生懸命想ってくれる優しい所も何一つ変わってない。俺の大好きなミナだよ。別に元々身体が目当てだった訳じゃあるまいし、猫になったから駄目って道理はないだろ」
「そっ、そういうもの、かなあ……?」
「そういうものだよ。……もしかしてミナは猫になって、人間の男よりも雄猫の方がよくなっちゃった?」
「は!? 雄猫!?」
 突拍子もない事を聞かれてミナは丸い目を更に丸く見開いた。姿形が猫になったと言ったって、そして多少発作的に猫の本能が顔を出す事があると言ったって、ミナの頭の中が本質的に変わってしまった訳ではない。ミナが好きなのはクォークだけだ。……と考えた所で、自分の言った事も彼にとってはそれくらい突拍子も無い事だったのだろうかと思い当たる。
 え、でもなんかそれおかしくないかな? 私クォークに上手い事丸め込まれていませんか、と悶々と考えている間に、クォークは持ち上げていたミナの身体を自分の顎の辺りに下ろした。そしてそのまま彼女の口と鼻に、纏めてちゅっとくちづける。
「!?」
「はは、ミナの鼻、冷たいな。猫は鼻濡れてるのが元気な証拠なんだっけ?」
 いきなり不届きな事をしたクォークの頬、というか唇の近くをミナは咄嗟にひっぱたく。が、子猫に爪をしまった前脚でぺふんと打たれて懲りる人間などいる訳がない。抗議を受けた事にすら気付かない様子で彼は再度キスをしてきた。今度はそのまま唇を離さずに、ミナの口吻と触れ合ったまま、大きな手のひらで小さなミナを包み込むように優しく撫でる。
 あったかい……
 その心地よさと温もりに、酷く穏やかな気持ちになって、自然と喉がごろごろと鳴る。惜しみなく与えられる想いに応えたくて、ミナはざらざらの舌で彼の下唇をぺろりと舐めた。
「ミナ……」
 熱を帯びた声で名前を囁かれてミナは顎を上げた。クォークが顔を更に寄せてきて、彼女の頬、首、耳に次々と優しくくちづけを落として行く。
「……え」
 口へのキスまでは単なる猫好きの挙動とも思えたがこれは妙に――言うなれば人間の恋人にそうするような艶かしさのある触れ方で、ミナは自分が猫であることも忘れて真剣に動揺した。
「ま、待ってクォーク、」
 慌てて制止を試みるも子猫の身体はこのウォリアーに抵抗するにはあまりにも頼りない姿だった。いや、それに限っては猫だろうと人間の姿だろうと大差は無いかもしれない。彼にとっては人間のミナを制圧するのだって、それこそ子猫の前脚を捻るようなものだろう。
 優しい彼の唇が、ミナの三角の耳をそっとつまむように甘噛みし、ミナは唐突なその刺激にひゃっと首を竦ませた。
 触れられた場所がじわじわと熱を持ってきているようで、少し怖いようなぞくぞくするような気分になってくる。彼の行為から逃れようと必死に身を捩るが、ミナの身体は穏やかながらもしっかりと押さえ込まれてしまっていて身動きを許されない。
 柔らかな茶色の猫っ毛の中に長い指が梳き入れられてそのくすぐったい感触にミナは身体を強張らせる。彼女の細い腰には反対側の腕が回されてぐいと引き寄せられた。そして耳元から離れた彼の唇がミナの唇に触れ、……
「……ん?」
「……え?」
 その時になって、漸く何かがおかしい事に二人は同時に気付いた。まばたきで風が送れる程の間近でクォークと目が合って、「わっ!?」と悲鳴を上げてミナは上体を跳ね起こす。
 そうした事で自分の身体を見下ろす格好になって、ミナはまじまじと視界の中にある物を確認した。身に纏っているのは茶色の毛皮ではなく、近頃愛用していた、赤地に白十字の意匠が染め抜かれたソーサラー用の簡易鎧。十本の細い指と手のひらには肉球はなく、その手のひらで触ってみた顔もつるつるしていてひげもない。
「え、な、なんで……? 人間……?」
 鏡を見なくとも分かる。紛れもなく、ミナは人間の――元通りの姿に戻っていた。喜ばしいと思う以前にさっぱり訳が分からなくて、ぼんやりと呟く事しか出来ない。
 のろのろと視線を下げ、やはり唖然としてミナを見上げているクォークと見つめ合う。
「し、『真実の愛』って……」
「結局あの考え方で合ってた……って事か?」
 何かしらの薬草でも薬品でも魔法の道具でも、特殊なクリスタル鉱石でもなんでもなく。純粋な気持ちとしての『真実の愛』が、本当に魔法を解呪する最後の鍵だったという事なのだろうか。確かに、猫でもいいと言い切ってしまえるような行き着く所にまで行き着いた愛情は、『真実の愛』に相違ないものなのかもしれないが……
 いやそれだとしてもやはりおかしい気がする。魔法の基点となる、何らかのきっかけくらいはあった筈だ、とミナは混乱しながらも元エルソード国民らしく思考を巡らせて――はたととある場面に思い至った。
 魔女は言った。『真実の愛ひとつまみ』、と。
「ひ、ひとつまみ、って…………ま、まさか…………」
 クォークの唇に今しがたつままれた、その感触を耳たぶに思い出してミナは恥ずかしさのあまりに卒倒しそうになった。辛うじて意識を保ちながら、ドラゴンのファイアーボールの直撃を受けたかの如くに灼熱する顔の中でも、特に凄まじい熱を持つ耳たぶを押さえて絶句していると、「ああー……確かにつまんだなぁ」と微妙に納得したようにクォークが声を漏らす。
「……魔法って結構、アバウトなものなんだな」
 クォークが呆れ交じりにも聞こえる声でぽつりと呟いた。ソーサラーとして看過出来ない感想を聞いたような気がしたがそれどころではなくて、ミナは文句を言う事はおろか動く事すら出来ないままその場で放心していた。口から魂か何かがはみ出てしまいそうな気分だ……
 と、この時に至ってミナはようやっと、今自分がへたり込んでいる場所に気がついた。つまり――あろうことかクォークの腰の上に跨っているという途轍もなくはしたない体勢であったことに。
 これ以上はもうないと思う程赤くなっていた筈だった顔を、更に限界を突き抜ける勢いで真っ赤にして、慌てふためき転がるようにして彼の上から降りた。
 そんなミナを妙に不服そうに見送って、ソファの上にのそりと上半身を起こしたクォークは、床に崩れ落ちて肩で息をする彼女にちらりと横目を向けた。
「……続きは?」
「か、身体目当てじゃないとか言った癖にっ! クォークのえっち!」
 不埒極まりない視線から自分を護るように身体に腕を巻きつけて、ミナは誰よりも大好きな彼を力いっぱい非難した。


 * * *


 夜空の気配をそのままに映す、静謐なる闇の中。ただ一つ在る、満ちた皓月の如き真円の輝きが、夜陰を退けその場にいる姿に淡い色彩を与えている。
「デバガメとハ感心しなイぞ、テオネラ」
 光に照らし出された姿の一つ、中空に浮かぶ異形の人形――ゴブリンの姿を模したぬいぐるみが、長い鼻の下にある口を動かすことなく、やや風変わりなイントネーションの音声を発した。魔女テオネラ謹製の魔導具だ。生なき道具であるそれではあったが、孤独に生きる魔女の寂しさから、思考と会話の機能がつけられている。
「ちゃんと元に戻れるか気になったんですもの」
 鈴を転がすような声で魔女はいらえて、たおやかな仕草で目の前の白光の光源をさっと一撫でした。と、初々しくも微笑ましい若い恋人達の姿を映していた球体は、あえかな光のみを放散する、無色透明な水晶玉へと戻った。
 最早何も映っていない水晶玉を、その水晶玉の如くに透徹した魔女の眼差しが、魔女にしか見えない深奥を覗き見るようにして見つめている。その主の姿に魔導具が黒蝶貝のボタンで出来た眼を向けていると、不意に魔女は、そこに何か面白いものでも見つけたかのようにふっと口元を緩めた。
 それが、今実際にある何かを見た訳ではなく、過去を視た――要するに思い出し笑いである事を魔導具は見抜いていた。
「テオネラよ。お前はアノ男に問うたな。かの娘の為二命ヲ捧げらレルかと」
 実際に問うていたのは『この魔法の解呪の為に』命を掛けられるかだが、真の意味ではその前置きはさしたる意味を成さない。
「……お前ハあの答えデ満足したカ?」
 毅然とした態度で魔女を見据え、その言葉を冷静に峻拒した男を魔導具は回想する。
 先の返答は、今ここで切るべきではない手札を切らずにおいたという、たったそれだけの結論にしか過ぎず、かの娘が本当の窮地に立たされたならば、あの男は己の命を投げ打つ事に一切の躊躇を覚えないのだろう。あたかもそれが、自分が彼女を幸せに出来る唯一の道であるかのように、頑ななまでに信じて――。
 魔導具の問い掛けに、魔女はフフッと吐息のような笑声を漏らし、舞を舞うように緩やかに腕で空を薙いだ。
「あんな問いに正答などありはしませんわ」
 魔女の動きに操られ、魔導具はダンスの相手の如く彼女の周囲を巡る。主の意のままに漂いつつ、魔導具は可動式の首関節をやれやれと動かした。無闇に人の心を揺らすばかりの問答を好むのは、魔女の悪い癖だ。――そう諌めればきっとこの魔女は、人なるものを読み解く為の試行の一つだとでも言うのだろうが。
「ソレにしてモ、『真実の愛』トハ。偶然起きた魔法ノ誤作動ニしてハ些カ出来過ギな話ダッたナ」
 気を取り直し、偶然が成したある種の奇跡への感嘆を魔導具が言葉にすると、魔女は魔導具を周回させるのを止め、子供じみた大きな目を丸くして「え?」と呟いた。
「ああ、あれ。最後の条件だけは別物ですわ。二人がここにやってきた時に、こっそり追加の呪いをちょちょいとですね、掛けておいたのです」
 今度は魔道具の方が「ハ?」と一声呟く。
「だって、ただ不味い水とけだものの血を飲むだけだなんて、あまりにも可哀想じゃないですか。奇しくも愛を知らなかった王にそれを教えた魔法が再現されたのです。ここはそれになぞらえた役得の一つ、あってもいい所でしょう?」
 …………これも人を解読する為の試行の一つなのだろうか。仮に問えばにこやかに肯定しそうだが、多分違う。もし自分に表情を変える機能が備わっていたとしたら、この作り物の顔にめいいっぱい苦悩を浮かべていただろう、と魔導具は思った。彼女に製作されてよりこちら、かなりの月日を共に過ごしてはいるが、いまだに魔女というものはよく分からない。
 そんなしもべの困惑を知ってか知らずか、悠久の刻を生きる古代の魔女は、見た目だけは無邪気な少女然とした顔に、得意満面の笑みを浮かべて言うのだった。
「古来より、魔女とは人に試練を与える存在なのです」

【Fin】

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