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 煤けた建物から漏れ来るぼんやりとした明かりのみが周囲を照らすうらぶれた夜道を、ミナはとぼとぼと歩いていた。
 クォークの部屋を抜け出る事には成功したものの、ミナに行くあてなどなかった。真夜中のベインワットの裏通りを一人のろのろと歩きながら、ミナはこれからどうしようかと悩んだ。自宅を知っている友人は何人かいるが、こんな真夜中に訪れる非常識はしたくないし、ネツァワルでのミナの友人は今の所もれなく《ベルゼビュート》の部隊員だ。ミナよりも余程クォークの方に縁がある。クォークを裏切ってまでミナを匿ってくれはしないだろう。
 くしゅん、と小さなくしゃみをして、ミナは剥き出しの腕をさすった。兵士登録の際に支給される簡素な服は、デザインが好きなので普段も街中では着用しているのだが、襟ぐりと腕が開き過ぎて、肌寒い夜間に着て出歩くには少し心許ない服装だった。戦場に着て行くローブなら防寒性能も高いが、それがあるのは自分の寝室のクローゼットの中で、壁一枚しか挟んでいない隣室をクォークに感づかれずに漁れる自信はなかった。
「クォーク」
 小さく、口の中でその名を呟く。彼の事を思っただけでじわりと涙が滲んできた。きっと今頃彼はミナがいない事に気がついて酷く心配しているだろう。何も言わずに、通信石さえ置いて出てきてしまったのはやはり卑怯だった。けれどもこれ以外にミナにはどんな手段も思いつかなかった。ミナよりもずっと口の上手い彼とあのまま話を続けていたら、宥められてあやされて、クォークはまた自分の事を我慢して、ミナにとって一番良いようにしてしまう。そんなのは嫌だった。
 クォークの事は大好きだ。優しくて温かくて大きな、誰よりも大切な人。ずっと一緒にいたい。けれど、だからこそ彼の気持ちを踏みにじって自分だけが都合の良いままでいるなんて事がこれ以上出来る訳がなかった。でもミナが彼の所に居座っている限り、クォークはあの女性の元に行くことが出来ない。彼が悪いのではないのに、誤解を解く事すら出来ない。それにミナ自身も、いくら彼の為であると分かっていても、クォークと元の恋人が誤解を解消し愛情を取り戻す様を間近で見つめて平静でいられるとはとても思えなかった。
 逃げる事しか出来ない自分の不甲斐なさにまた涙が滲んでくるが、歯を食いしばってそれを堪えてこれからの事を考え始める。
 財布も、服と同じ理由で持って来れなかったのが痛かった。財布さえあれば適当な宿屋で夜明かしが出来たのだが、ない物ねだりをしても始まらないのでこのままこの界隈をうろついて夜が明けるのを待つ事にする。朝になったら、前に見学に行った部隊に登録手続きに行こう。一度見学に行ったので運がよければ顔を覚えて貰えているかもしれないし、無一文でも兵士として働く為の援助はして貰える筈だ。
 ろくに前も見ないで歩きながら考え事をしていると、突然肩が何かと接触し、軽いミナの身体は突き飛ばされてよろめいた。
「ご、ごめんなさい」
 たたらを踏みながら反射的に謝罪の言葉を口にする。顔を上げようとしたその時、「痛ってえなァ……」という濁声と共にぬっと視野になお暗い闇が落ちた事に気がついた。噎せ返るような人の熱と酒の匂い。さっと視線を上げると、前方に半円を描くようにして複数の気配がミナを取り囲んでいた。
「おお? こんな所を随分可愛いお嬢ちゃんが歩いてんじゃねえかァ。どうしたんだいお嬢ちゃん、迷子かァ?」
「だったらちょっと俺たちと遊んで行こうぜぇ?」
 ミナの行く手を阻むように立ちはだかっているのは、三人の酔った男たちだった。どうやら兵士らしい、いずれもいかつい体躯の持ち主で、粘りつくような視線と言葉でミナを舐め回している。ミナを包囲する輪を縮めてにじり寄ってくる酔漢から、ミナはふるふると首を振って身体を引いた。いくらミナでも、この状況で男たちの意図に気付かない程世間知らずではない。
 じりじりと退路を求めて後ずさる。が、それこそが男たちの罠であった事に、ミナは男たちに圧され闇の満ちる裏路地に押し込まれてから初めて気がついた。両脇を高い建物の壁に挟まれる細い路地に足を踏み入れてしまった事にびくりとして一瞬だけ背後を振り向くと、奥は行き止まりだという事実に気付かされてぞっとする。
「……あ……」
 目の前に視線を戻せば、路地を塞ぐ男たちの巨体。その向こうの通りにはいくらか人の気配は見えるが、誰もこの暗がりのささやかな騒動などに視線を向ける様子はない。
 これ以上後退は出来ない、と判断したミナは、立ち並ぶ男たちの僅かな隙間に視線を向け、意を決してそこを目がけて走り出した。身体の小さなミナならば、虚を突いて通り抜けられるかもしれない。
 が、酔っているとはいえ相手も一端の兵士であったようで、何の苦もなくミナの逃走に反応し、易々と彼女の肩をひっ掴んでぐいと引っ張った。
「痛っ……! やめてっ、離してっ!」
 男たちの余りに乱暴な挙措にミナが甲高い悲鳴を上げると、通行人の一人が気付いて視線をちらりと向けてきたが、揉め事に巻き込まれるのが嫌だったのかそのまま足早に過ぎ去って行った。凍えるような絶望を感じ、ミナの目に涙が浮かぶ。そうこうしているうちにずるずると路地の奥に引きずり込まれて行ってしまう。
 嫌だ……!
 ミナの力ではどうやっても抗しきれない。もう一度、叫ばないと。救援を呼ばないと。そう分かっているのに、一度萎えてしまった気持ちは咄嗟には立て直す事が出来ない。口を開こうにも奥歯がかたかたと鳴るばかりで声はもう出そうになかった。辛うじて、ミナを抱える男たちにも聞き取れない程の蚊の鳴くような声が喉の奥で漏れる。
「たす……けて……、クォーク……!」
 その悲鳴と呼ぶ事も出来ない悲鳴に――
「あっれ、ミナちゃんじゃん、こんな所で何やってんの?」
 答えたのは、ミナが呼んだその人のものではなく、けれどもミナにより一層の驚愕を与える女性の声。
 ――アイラ、さん?
 クォークの恋人の、氷ソーサラーの声だった。

 後ろ暗い行いをしようとしていた所に明確な指向性を持つ声を向けられて、男たちは一斉に路地の入口の方へと振り返った。
 そこに立っていたのは女が一人。女にしては身長が高いが、華奢かつグラマラスな女性然とした容貌の持ち主で、瞬時高まった男たちの殺気に近い剣呑な気配が、そのシルエットを目にしてざらりと溶けて行く。代わりに彼らから、自分に向けているのと同じ悪意が湧き出てくるのをミナは察した。
「だっ、だめっ! 来ないでっ、逃げて」
 彼女が加勢してくれたとしても三体二、勝ち目のない戦線に安易に足を踏み入れさせる訳にはいかないと、さっきは竦んでしまって声を出す事が出来なかった口が今度は動いて声を張り上げる。その途端に男の一人に口元をぐっと掴まれて、物理的に呼吸を遮られミナはうぐっと喉を鳴らした。
 その様子を、女ソーサラーは、自らが操る氷の魔法にも匹敵するような冷たい眼差しで見つめている。熟練の兵士たる彼女がこの状況が如何なるものであるか把握していないという事はないであろうのに、何故か彼女は全く躊躇なく、ヒールの高い靴をこつこつと鳴らしてミナたちの方へ淀みのない足取りで近づいてきた。
 男たちまであと数歩と近づいた所で、綺麗な顔に綺麗な笑みを浮かべ、アイラは口を開いた。
「友達が世話になったみたいね、ありがと。もういいわよ。とっとと失せな、ケダモノくせぇゲス野郎共が」
「……何だとこのアマ」
 単純明快な挑発にあっさりと煽られて、男たちの殺気が再燃する。が、そのうちの一人が途中ではっとしたように目を見開いて仲間に囁いた。
「まずいよ、その女《ベルゼ》だ」
 その一言に残りの二人は揃って仲間の方をぎょっと振り向き、明らかにたじろいだ視線をアイラに戻すが、引くも進むも即座には決めかねたようだった。ネツァワル国中に雷名を轟かす部隊《ベルゼビュート》の威光に怖気づかないネツァワル兵は中々いない。が、いくら大部隊の部隊員とはいえ、出会い頭に舐めた真似をしてきた女たった一人にすごすごと背中を見せて退散するのは彼らのプライドが許さないのだろう。
 そんな相手の逡巡を見て、アイラがあくまでも明るく軽く、更なる嘲弄の声を上げる。
「遊びたいならそれでもいいけど、その子、ウチのクォークの女よ? ウチの幹部の女に手ェ出そうなんてあんたら勇気あるわねー」
 その言葉はミナも唖然とする程に効果覿面だった。それを聞いた途端酔いも醒めた様子でざっと顔を青くした三人は、ミナから放り出すように手を離すと捨て台詞一つ吐かずに路地を脱して行った。
 自分とすれ違ってそそくさと逃げて行く男たちを目で追うアイラが、「……ついてんのかあいつら」と一言ぼそりと言ったが最初の単語はミナには聞き取れなかった。スラングかもしれない。
 去って行った男たちからはすぐに興味を失って、アイラはミナの方へと顔を戻す。ミナはいまだ多少震える膝に叱咤して直立の姿勢を取ると、すぐさま頭を深く下げた。
「あ、あの、ありがとうございました。助かりました」
 まさか、この人に助けて貰えるなんて……。恐らく相当に恨みを買っている筈なのに。信じられないという思いと感謝してもし足りない気持ちが色々混ざり合って頭を上げられずにいると、頭上から砕けた声が降ってくる。
「ん、いい、いい。でもこんな所でホント何してるの? ベインワットはリベルバーグみたいなお上品な街とは違うのよ。夜はあんまり出歩かない方がいいって、あの馬鹿教えなかった?」
 その声は何のわだかまりもなさそうであるどころか、明らかにミナを案じる気配が滲み出ていて、ミナは恐る恐る顔を上げた。自分の所為で傷つけたであろう人にここまで親切にして貰ってもいいのだろうか。やはりクォークが選んだ人は人間が出来ているのだと、安堵と同時に敵いっこないという身を切る程の切なさがこみ上げて来る。
「……違うんです。私が勝手に出てきちゃって」
 引き換え自分は何て弱くて卑怯者なんだろう。自己嫌悪に苛まれて泣いてしまいそうだ、と、そう思った瞬間に。
「ミナっ!!」
 今度こそ聞き間違えようもなく、大好きな彼の、切羽詰まった叫び声が耳に飛び込んできた。

 狭い路地を中央で塞ぐ形になっていたアイラを半ば突き飛ばして突進してきた男が、そのまま覆い被さるような勢いでミナの身体を抱き締めた。それが誰かなどという事は勿論考えるまでもない事だったものの、目にも止まらないくらいの速さで掛け込んできたと思った瞬間に抱え込まれ胸板に強く頭を押し付けられる体勢を取られてしまったので、認識が追いついてこない。
 暫くの間、息も詰まる程に抱き締められながら、ふと、ミナを強くかき抱くその力強い筈の腕がぶるぶると小刻みに震えていた事に気付いて、漸くミナの思考の歯車が回り出した。
「クォーク……? どうしてここに……?」
 ぼんやりと呟くミナに、クォークはその体勢のまま、急き込むような短い早口で告げてくる。
「迎えに来た。遅くなってごめん。良かった無事で……」
「無事じゃないわよ、バッチリ変な野郎どもに絡まれてたわよ、大切なカノジョなんだったらちゃんと責任持って見てなさいよね」
 後ろから掛けられる呆れたような声を耳にして、クォークは今初めて気付いたように、ミナを抱え込んだまま顔だけで後ろを振り返った。
「……アイラ? 何でお前がここにいるんだ?」
「てめぇ人突き飛ばしてそれかよ」と、ぼそりとアイラは呟き、けれどもそれについては返答を待たず、がしがしと頭を掻いて続ける。
「たまたま通りすがっただけよ。悲鳴が聞こえるから首突っ込んでみたらミナちゃんでびっくりしたわ。あんたこそ何やってんのよヒーローさん、ちょっと登場遅いんじゃない?」
 アイラの揶揄にクォークは、うっと息を呑んで怯んだが、呻くような声で弁明する。
「……ミナが出て行った事に気付いて、ミナと交友のある部隊員の誰の所にも行ってないって確認取ってから、ウチの下の方を使って商業区一帯を捜索させてたんだよ。一人が割合早く見つけたものの複数の兵士に絡まれてて、一人じゃ手に負えなそうだからって即こっちに連絡してきて、監視だけはさせたまますぐに駆け付けたんだけど。……お前が見てるなら話は早い。どこの奴らだった?」
「知らないわよ。仮に知ってても暴力沙汰の加担なんてしないわよ、後が面倒臭い」
 クォークの剣呑な視線もなんのそのという雰囲気でふんと鼻息を吐き出したアイラから、彼は再度ミナの方に顔を戻し、彼女の小さな肩をもう一度ぎゅっと抱き締めてから言った。
「ミナ、悪かった。ミナを誤解させて悲しませたのは全部俺の所為だ。……ちゃんと説明するから。帰ろう」
「で、でも」
 ミナは困惑してすぐ間近にあるクォークの顔を見上げた。クォークが深く話し合うべきなのはミナではなくアイラである筈だ。クォークはミナの言わんとしている言葉を読み取って、抱き締めていた身体を少し離すとミナの肩に手を置き、身を屈めて真正面から視線を合わせてきた。
「俺にとって最も優先されるべきなのは、他の誰でもない、君だよ、ミナ。責任感なんかじゃない。俺はそんなに大層な人間じゃない。俺は、君の事が好きだから一緒にいるんだ。……俺はあの時以来、何度も君が好きだと言ってきたつもりだ。君の事を愛していると行動で示してきたつもりだ。俺のこれまでの態度が全部偽りだったと、本当にそう思うのかどうか、もう一度だけ考え直して欲しい」
 焼けつく程に強い眼差しで訴えられて、ミナは初めて自分の言動が、彼を嘘吐き呼ばわりしているに等しい物であったということに気づく。反射的にミナは首を横に振った。彼が嘘などつく筈がない。――けれど、彼の言葉が真実である筈もない。突きつけられた明らかな矛盾に動揺してミナは瞳を揺らす。
「で、でも、おかしいわ。だって、私アイラさんとは比べ物にならない程弱いし、美人でもないし、人間も出来てないし……クォークに好きになって貰える所なんてちっともないのに……そんなの……」
 どう考えてもおかしい。今そこにいる女性と比べて、ミナがどれ程劣っているかなんて言うまでもない事なのに。事実を並べ立てているだけで募る劣等感の所為で、また涙を滲ませてしまうミナに、クォークは少し呆れたように声の調子を緩めて告げた。
「あのねえ、強いだとか弱いだとか見た目の派手さとか、そんなの人を好きになるのに必要な要素じゃないだろ、野生生物じゃあるまいし」
「や、野生生物……」
 ミナの想像力の及ばない切り捨て方をされてつい唖然としてしまう。それに、とクォークは付け加えた。
「アイラより人間が出来てないとか何のギャグだ。あいつを人間出来てると表現したら世界中に聖人しかいないことになるぞ」
「そ、そんなこと」ないと思うがクォークは聞く耳を持たず、ミナの背を手で優しく押して裏路地から出る方向へと誘導する。
「だから、まずはとりあえず家に帰ろう。な」
 穏やかな声に促されるまま、二、三歩歩いた所で、はたと気づいてミナは慌てて足を踏ん張った。これではまさしく『振り出しに戻る』だ。クォークとまともに話し合ったら、言いくるめられるに決まっているからこそ卑怯にも逃げ出したのだというのに。
「ミナ……、君は相変わらず変な所で頑固だね」
 てこでも動かないという態度を取るミナを持て余したようにクォークが呟くが、いざ彼の腕力を以ってすればミナなど、てこなんて使わなくても軽々と持ち運ばれてしまうのは明白である。どうしたら彼の手から逃れられるだろう。ない知恵を絞って考えながら、毛を逆立てた猫のように威嚇の体勢を取ってクォークと対峙していると、再び彼の背後からのんびりとした女の声が投げ掛けられてきた。
「あのさぁ、あたしの記憶が正しければ、あんたと私って別に説明が困難な程込み入った関係じゃなかった気がするけど。あんたら何ごたごたしてんの?」
 全く気負いのないあっけらかんとした口調でそんな事を言うアイラを、クォークが怒りを隠そうともしない険悪な視線で振り返る。
「お前の所為でもあるだろ、お前がミナにあんな紛らわしい事言うから、ミナが余計な心配をするんじゃないか」
「へ? そんなこじれたのアレで? それは悪かったけど……でもそれってあんた、もしかして凄い肝心な所言ってなくない?」
「…………」
 そんな事を言うあっさりとした声にクォークは反論を見つけられなかったらしく、忌々しげな顔でぐっと息を呑んだ。そこにアイラは更に半眼で追い打ちをかける。
「軽蔑されたくないって訳? だっさ」
「……だからそれを反省して、今からちゃんと説明しようとしてるんじゃないか」
「そんな勿体つける程の事じゃないでしょうに。あーあーいいわ、言いにくいなら私が言ったげる」
「ちょっ……待、まて」
 目の前の男を押しのけてずかずかとミナの方に歩み寄って来たアイラに、クォークが急に顔色を変えて上ずった声を上げる。彼女を止めようと掴みかからんとしてきたウォリアーをソーサラーの女は邪魔だとばかりに肘で押し返し、子供の喧嘩のように縺れ合った恰好のままミナの方へと顔を向けて、ルージュを綺麗に引いた唇を開いた。
「コイツとは、そういう関係ではあったけど別に恋人って訳じゃなかったのよ。別に面倒臭い約束してる訳でもない、要するにただのトモダチ?」
「ともだち……?」
 ぼんやりとミナは繰り返して、整った美女の顔からクォークの顔に視線を移した。アイラを締め上げてでも口を閉ざさせようとしていたらしいクォークは、そこに至ってついに観念し、肩を落として居た堪れなくなったように目を逸らす。一人平然としたアイラがクォークを切れ長の瞳でちらりと見て、補足を続けた。
「私と付き合ってたあの頃は、あんた他に女いなかったんだっけ? まあ興味もないし忘れたけど、少なくとも私はいたし。そういう程度のお付き合いなのよ。だから未練とか恨みとか後腐れとか警戒しなくても大丈夫、全っ然ないから」
「え……でもだって、……?」
「ん? ああー、確かにヤな感じのことは言ったよね、ごめんね、あれはただコイツムカつかせたい一心でさ。悪気はなかったんだ」
「その動機が悪気だらけじゃないか」
 低く唸るような声で突っ込みを入れるクォークに、アイラは視線を向けもせずに肩を竦めた。
「あんたには相応にね。カノジョにはないよ。だってアレはマジムカついたし? 憂さ晴らしする権利あるっしょ」
 その言葉に、またもやクォークがぎくりとする。アイラはそれで思い出したように憤然とした顔をして、立てた親指でクォークを指した。
「カノジョだって聞けば私に同情するって。もうマジこいつ最低なのよ」
「ば、馬鹿やめろそれは言う必要ない! それだけは言うなっ! わーっ!!」
「最後に会った夜なんだけどさ。コイツ私抱きながら何て口走ったと思う? 言うに事欠いて『ミナ』だよ、人抱きながら他の女の名前呼びやがったのよこの馬鹿!」
 クォークのこんなに追い詰められた悲鳴なんて初めて聞いた。とあんぐりとしているミナの耳を、その悲鳴に被せてアイラの声が通過して行く。
 …………。
 え。
 ……え?
 遅ればせながら、クォークの絶叫を背景音にしたその台詞の内容にミナは意識を戻して、それを脳内で反芻する。
 が。
 …………え、……え?
 それしか言葉が出て来ない。
 絶句するミナとクォークのはざまで、アイラが滔々と言葉を続けていた。
「酔狂にもエルソードの女に訓練つけてたのは知ってたし、拒む事も追う事も知らないこのズボラ男が珍しく一人の女に執着してんじゃんとは思ってたけど、聞きゃあまだ手ェ出してないとか言うわけよ。とっくに寝てる女と間違うならまだ分かるわよ、でも手もつけてない女を妄想して名前呼ぶとかもーどこの童貞だよと! そんな甘酸っぱいオナニーの道具にされた身にもなってみろっての! こっちが恥ずかしくて悶え死ぬわ!」
「お前……いい加減にしないと蹴るぞ!」
 アイラの台詞の終わりの方でクォークは漸く我を取り戻し始め、わなわなと震えて最後には叫んだが、アイラは一歩も引かない気迫で彼に言い返した。
「うっさい、恥かけばーか!」
「俺の恥以前の問題だ! お前、自分の男が他の女と寝た話とか聞かされたらどう思うか考えろよ、気分悪いだろうが!?」
「っかー! どんだけ気ぃ使ってんのよ。そんなに本命様は大事か!」
「大事に決まってるだろ!」
 鼻先を突き合わせる程の勢いで言い合っていた二人だったが、クォークがそう怒鳴った瞬間、アイラは突如勢いをつけてミナの方へと振り返った。
「っつーわけでー、この通りこいつミナちゃんしか見えてないから。前の女の事は寛大に許してやって?」
「お前が言う事じゃない!」
 ぱーんっ!と上機嫌な仕草でミナの肩を正面から両手で叩くアイラに、クォークが腹立たしげに怒鳴る。……が、そんな彼の剣幕など最早全く意に介する様子もなく、アイラはミナににんまりとした笑顔を向けてひらひらと手を振ると、踵を返し、クォークを「てめーでけえぞ邪魔」と押しのけて裏路地を出て行った。
 まるで暴風雨のような女性が退場しても、暫くの間ミナは口を間抜けな形で開いたまま、声一つ出す事が出来ずにいた。
 アイラを忌々しげに見送ったクォークは、ちっと舌を打つと(こんな柄の悪いクォークを見たのもミナは初めてだ)、ミナに視線を戻した。少しの間、彼は痛切な眼差しで彼女をじっと見つめ、それからがばっと最敬礼の深さで頭を下げた。
「ごめん。最初に、ミナが誤解してるって気づいた時点でちゃんと、ミナが気に病むような関係じゃない事を説明しておくべきだったのは分かってたんだけど……自分の、女性に対するだらしなさを君の目に晒す度胸がなかった。節操のない男だって事を君に知られて軽蔑されたくなかったんだ。我が身可愛さで君を傷つけた。謝って済む問題じゃないけど、……ごめん。本当にごめん」
 呆然としたままミナはクォークの謝罪を聞いていたが、言葉が終わっても頭を上げないクォークの後頭部を見ているうちにはっと我に返って、わたわたと手を振った。
「あ、ううん、別に軽蔑なんてしないよ。大丈夫。遊びで付き合うっていうのは私にはよく分かんないけど、お互い納得ずくなら問題ないと思うわ」
「……随分と達観してるんだな」
 漸く顔を上げてくれたクォークがその顔に、意外そうな表情を浮かべるのを見て、ミナはきょとんと小首を傾げた。
「そう……かな? クォークはまだ全然ましな方だと思うんだけれど。トラさんとかもっとずっと酷い事してたよ? 騙して捨てた女の人に包丁持って追いかけ回されてるの見たの、一回二回じゃ済まないし」
「成程。そういう悪い見本が間近にあったのか」
 嘆息を漏らしつつ、クォークが苦虫を噛み潰すような顔をして呻いた。何らかの感情をやり過ごすように、そのままの渋い顔で彼はじっと沈黙していたが、ミナの目を窺うようにちらと見てやがて申し訳なさそうな顔ながらも小さく微笑んで見せた。ミナも、漸く肩の力が抜けた気がしてほんわりと笑みを返す。微笑みながら、ミナはクォークに、より説明を要求したいと思った件についてを問いかけた。
「それよりも私、その後にアイラさんが言ったことの方が気になったんだけど」
「……う」
 その瞬間のクォークの反応は、先程までのアイラとのやり取りよりはずっと控え目ではあったが、ミナの目には珍しい動揺が現れていて、ミナは少しその反応に新鮮味を覚えながら彼の顔を見上げた。クォークはほんの僅かの間目を泳がせていたが、やがて諦めたようにやや伏せ気味の位置で視線を固定した。
「前に言った通り、半年くらい前の話だ。その頃には明確に君に対しての気持ちを自覚してた訳じゃなくて……それまでと別に変わらないつもりで、その……抱いてたら、君の顔がちらついて……ついうっかり……」
 律儀に説明するうちにだんだんと語尾が小さくなっていき、しまいにはクォークは耳まで真っ赤になった顔を手で覆って俯いてしまった。
 ――ちょっと可愛い。つい、そんな事を思ってしまう。
 半年前と言ったら、ミナがクォークの素性を知り、大部隊の幹部である敵国兵の厳しくも親切な指導の真意に大いに疑問を抱いていた、そんな頃だ。
「……そんなに前そんなことがあったなんて全然気付いてなかった。クォーク、全然そういう素振りなんて見せなかったのに」
 あの頃は彼の親切心を信じたいと思う傍ら、このネツァワル兵の行いには何か不埒な思惑があるのではないかという可能性も含めて色々考えて、ミナなりに警戒はしていたのだ。けれども彼は最初に言った「襲う気はない」という言葉に違わず、訓練中を除けばその振る舞いは常に紳士的で、女性としてのミナに何らかの興味があるような様子すら一切見せる事はなかった。日がな一日訓練場に籠り続ける事はあっても、訓練場の外で会う事すら滅多になかったくらいだ。
 その印象とクォークの身に起きた事件(?)はかけ離れ過ぎているように思えて思わず首を傾げてしまうと、クォークは非常に言い難そうにぼそぼそと呟いた。
「そりゃあね。元々訓練でしか繋がりのない不安定極まる関係だって言うのに、不純な動機がある所を知られて君に拒絶されたら一巻の終わりだろ。それだけは嫌だったから、君の傍にいられる事だけで満足しようとしてた」
 クォークの言葉に、ミナは少しどきりとして、顔を上げた。彼の瞳を真っ直ぐに見る。さっきまで俯いていた彼の眼は今はミナの方を向いていて、その真摯な視線に熱せられてミナの顔が赤くなってくる。熱に浮かされたようにミナは口を開いていた。
「ええと、あの、もう一つ聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「も、もしかしてクォークって、結構前から私の事、す、好きだったのかなあ……?」
 って何を聞いてるの私は! 自分で指摘するには余りにもずうずうしい問いである事に気付いて顔を更に沸騰させるミナを、クォークは少し驚いたように見開いた目で見て、それから僅かに視線を逸らして眉根を寄せた。ああやっぱり困るような事を聞いてしまったんだと思って、今の問いをなかった事にするにはどうしたらいいか真剣に考え始めた所で唐突に、元々暗かった視界が完全に真っ暗になった。
 頭に血が上り過ぎて余り倒れてしまったんだろうかと一瞬思ったがそうではなく、クォークに再び抱き締められていたようだ。
 ようだというのは抱き締められたという表現を使うには相応しくない程、その体勢が余りにも物理的に息苦しいものだったからだ。堅い胸板にウォリアーの腕力を遺憾なく発揮して顔を押し付けられてしまい、本気で命の危険を感じてしまい慌ててたまたますぐ手に届いた彼の上腕をタップすると、条件反射のように彼は力を緩めてくれて、ミナはそのまま顎を上げてほぼ真上にあるクォークの顔を見上げた。クォークもミナの方に顔を向けていてその近さに更にどきどきしてしまう。世界中に二人しか人がいないのではないかと思うくらいに外の世界を遮った距離感の中で、クォークの唇が動かされるのをミナは認識した。
「結構前からじゃない」
 まばたきをして視界の焦点を彼の唇から目に移す。クォークは強く真っ直ぐな目をして念を押すように再度同じ言葉を続けた。
「結構前からじゃない。最初からだ。他国の人に自分から訓練をつけようだなんて、それまで一度も言った事がなかったんだから。出会ったあの時は、この面白い子に変な死に方をさせたくないって思っただけだと、そう思ってた。だから初めは自分でも気付いてなかったけど」
 ふと彼の顔が更に距離を近めてくる。ミナを今度は痛い程にではないが強く抱き締めて、耳朶に吐息がかかる近さで、低く落ちついた声を耳奥に注ぎ込む。
「最初から、君だけが特別だった」
 その瞬間、ミナはかくんと自分の膝が折れるのを感じた。彼の腕にしっかりと支えられている為上体の位置は変わらなかったけれど、自分の力で立てていない事を自覚する。いきなり全身の骨が蕩けてしまったかのように全く足腰が立たない。
 なんて言葉だろう。これが俗に言う殺し文句という奴だろうか。男女の機微について全く疎いミナですら分かる、最大級の破壊力を秘めた言葉によるヘビースマッシュ。
 そんなミナにクォークは気付いて、少しだけ顔を離してさも愛おしいものを見るような眼差しでミナを見つめてから、くすくすと笑った。さっきは自分だって顔を赤らめていた癖に、余裕の態度を見せる彼に何だかミナは無性に腹が立ってきて、彼を睨んでぷうっと頬を膨らましながら縋り付く背中をぺちぺち叩いて抗議すると、クォークはミナの様子を見ながらそっと身体を離す。まだ少し足元が覚束ない感じでついよろめいてしまった所に、笑いを堪えた声で彼が「抱き上げてあげようか?」と囁くので、ミナは生まれたての子鹿くらい頑張って自分の足で立って見せた。その態度はより一層彼を面白がらせてしまったようだったが、ミナを憐れんだかそれ以上はからかって来なかった。
 その代わりのように、彼はいつものように硬い大きな手でミナの手を握り指を絡め合わせてきて、ミナの大好きな声で、大好きな笑顔で囁いた。
 一緒に、家に帰ろう。



【Fin】

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