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 軍管区にある訓練場を出て市民街を抜ける頃になっても、クォークは何も言おうとはしなかった。ミナと自分の荷物を片手に纏めて持ち、反対側でミナの手をいつものように握りながら、けれどもいつもとは違って黙々と帰路を歩き続ける。
 ミナは、彼の手のひらの温もりを感じながら自分の態度を決めかねて迷っていたが、斧の門に近づいた頃になって漸く意を決して彼を見上げ、唇を開いた。
「ねえ、クォーク」
「ん?」
 躊躇う様子もなく応えたクォークの声には、ミナのそれ程感情の揺れは現れていなかった。恐らく、何かしら聞かれるだろうという覚悟は既に決めていたのだろう。答え難いであろう事を尋ねる罪悪感が薄れる半面、聞くまで何も言ってくれないなんてずるいとも少し思ってしまう。ミナは眉を寄せてそのささやかな痛みを堪えながら、問いかけを続ける。
「さっきの……アイラさんだけど。前の彼女って、本当?」
「ミナが気にする事じゃないよ」
 抑揚のない声で、一瞬の間も置かずに返されて、ミナは小さく震えた。真っ向からの拒絶にすっと血の気が引いていくのが自分でも分かる。と、ミナのショックに気付いたクォークが、ばつが悪そうに一瞬ミナの方に視線を向けて、すぐに目を伏せた。
「ごめん、君に隠し事をしたい訳じゃない。……前に付き合ってた事自体は嘘じゃない。けど、あいつと切れたのは、君がネツに来るよりもずっと前の話なんだ。そういう意味で、君には無関係な事だって言いたかった。……俺は君に対して不誠実な事は絶対に、」
「そういうのを気にしてるんじゃないの」
 クォークの言い分を遮ってミナが言うと、彼はぴたりと口を閉ざした。その反応は、彼の実直さを如実に表している。自分の言い訳で相手の主張を退ける事を、彼は自分に許さない。ミナはその信頼出来る人の横顔を目を逸らさずに見つめながら、ゆっくりと訊ねた。
「クォークが、そういう事をする人じゃないのは分かってる。……そうじゃなくて、あの人と別れたのは……私と出会った後なのよね?」
 一瞬、クォークの奥歯が噛み締められ、軋るような声が漏らされた。
「……順序としては、そうなる」
 ずきん、とした痛み。それを胸の奥で堪えて、ミナはもう一言だけ、頑張って声を出した。
「私と会ってたから、よね」
 ミナの確認に、クォークは今度こそ足を止めてきちんと顔を上げ、涙の浮かんだミナの目を真っ直ぐに見た。
「君が気にする事じゃない。俺の問題だ」
 堅く強張った声が切実にそう告げて、ミナは悲嘆と彼への信頼が入り混じった複雑な溜息をついた。クォークはやはりとても誠実な人だ。ここで違うと否定する事は簡単なのに、そうしない。ミナは切ない気持ちでそっと微笑み、クォークと繋いでいた手を離す。
「気を使ってくれて有難う」
「ミナ」
 少し強めに呼ぶ声と同時に、彼はミナに手を伸ばし掛けたが、彼女に触れる直前、ぎりぎりの所で思い止まった。何か強烈な感情を無理に抑えるように指先を震えさせて、その手を下ろす。
「……暗くなる。行こう」
 抑えた声で呟いて歩き出したクォークを、ミナは一歩だけ下がった位置から追いかけた。

 家に着くとミナはすぐに夕飯の支度に取りかかった。昼から夕刻までずっと戦闘訓練を続けていた彼はきっと凄くお腹が空いている筈だ、と意識的にモチベーションを上げて仕事をこなして行く。
 悩んでいる事とは無関係な作業が出来るのはミナには丁度いい事だった。ミナは、目の前の仕事に取りかかっている時は別の事に思考を割り振れない大変低スペックな頭の持ち主だ。
 ……そういう部分が兵士として致命的にだめな所なのだろうけど。
 うっかりと頭をもたげたまた別の暗い思考をふるふると首を振って打ち消して、目の前の鍋に集中する。と言っても時間の節約の為に具材を小さめに切ったポトフはそろそろ仕上がろうとしているし、バゲットもサラダもそれに添えるドレッシングも後は卓上に出すだけの準備が出来ている。オーブンではパン粉と香草をまぶした鶏肉が焼き上がる頃合いで、そうだ、これに添える為のレモンを切らないと。
 と、ミナ自身は気付いていない事ながら、料理に関して言えば、ミナは十分色々な事を考えながら的確に作業の出来る手腕はある。クォークはミナの料理の手際について、「まるで熟練のハイブリッドウォリアーだな」と評している。
 そうこうしているうちに、夕飯の準備は整った。
「出来たよー」
 深皿に盛ったポトフと切り分けた香草焼きチキン、そしてパンとサラダを添えた夕食を食卓に並べると、ソファに掛けて資料らしきものを読んでいたクォークが顔を上げ、ミナに微笑を向けた。
「有難う」
「どう致しまして」
 クォークのいつも通りの反応にほっとする。ミナ自身が動揺したからこそ発した帰り道でのあの問いは、彼の心も動揺させたに違いないのに、それを全く感じさせない気遣いに感謝して、クォークの正面のいつもの席に着く。クリスタルの女神様に一言感謝の祈りを捧げて、二人はフォークを手に取った。
「今日も美味しい。野菜も柔らかく煮えてて、ベーコンの味が染みてる」
「よかった。ちょっと手早く作っちゃったから心配だったけど」
 クォークはいつでも何でも美味しいと言って食べてくれるので、ミナは嬉しい半面少し不安にもなる。何しろ、今迄一度も口に合わないという言葉を聞いた事がないのだ。彼は優しいから、もしかして嫌いな物でも我慢して食べてくれているのではないだろうかと心配してしまう。
 ――その発想が、今のミナは少し心に痛い。
 食事の時くらいは忘れていたい思考から無理矢理自分を引き剥がして、その代わりにクォークに本当に嫌いな食べ物はないのかと尋ねると、彼はざく切りにしたキャベツを口に運びながら即答する。
「ないよ。まあ、あんまり好んで食べない物くらいならあるけど」
「例えば?」
「んー……、それもそんなには多くないけど、ライ麦パンとか」
「え。ごめん! 私焼いた事あったよね!?」
 今日のバゲットは違うが、ライ麦を混ぜたパンなら何度かは既に作ってしまっている。やっぱり好みではない物を黙っていてくれたのかと申し訳なく思うと、クォークは、いやと首を振った。
「ミナの作るのは大丈夫だよ。お世辞とかじゃなくて、物が違うから」
「物?」
 きょとんとして首を傾げると、クォークは手に持ったフォークで宙に曖昧な円を描きつつ、呟く。
「ミナの焼くライ麦パンは、小麦粉にいくらかライ麦を混ぜて焼いてるだけだろ? そうじゃなくて、ライ麦だけで作ったパンって、食べた事ない?」
 ミナは首を横に振る。エルソードにはそういった物はなかった。クォークはその味を思い出したかのような渋い顔をして続ける。
「パンじゃないよ、あれは。安いし日持ちはするんだけど、堅くて苦くて酸味もあってさ。焼いてチーズとか乗せればまあ食えるんだけど、」
 その瞬間。ごく一瞬、殆ど息継ぎと区別出来ないくらいの間、彼は言い淀んでから、続けた。
「子供の頃はそんな贅沢の出来ない貧乏な家だったんでね。今わざわざ食べたいとも思わない」
「そうなんだ」
 表情の変わらないクォークの顔を見ながら、ミナは努めて普通の声で相槌を打った。
 クォークの過去については、ミナは殆ど何も知らない。せいぜいが、子供の頃は旧ベインワットに住んでいたという話を少しだけ聞いた事があるくらいだ。二十一という若い年齢でありながら、もう既にかなり長い間兵士として戦場に出ているようだが、そういった辺りの事情も尋ねた事はない。実際に尋ねようとした事もないので無根拠な勘でしかないのだが、多分クォークは、自分の過去を知られるのを好まないのではないかと思う。
 ――だったら。
 だったらクォークの、少し前の過去――あのアイラという女性の事についても、このまま何も考える事なく飲み込んでしまってもいいのだろうか。ミナに何も教えないでいてくれた彼の気遣いに甘えて、このまま――
 頭の中を唐突に過ぎったそんな思考に、ミナは自分自身、酷く驚いた。背中に突然氷を入れられたような錯覚を覚えて、バゲットを千切ろうとしていた手が止まる。
「ミナ?」
 急に顔色を変えたミナを心配したクォークに、ミナは「なんでもないよ」と咄嗟に返したが、ミナは彼のようなポーカーフェイスの達人ではなかった。ミナの心に影を落とした内容にクォークは簡単に気付いてしまって、彼は優しくほろ苦い笑みを浮かべた。
「……本当にもう何でもないんだよ、彼女は。今となってはただの部下だ。今更、わざわざミナにちょっかい出して来るとは思わなかった。ミナに嫌がらせするなってきつく言っとく」
 宥めるような声で言ってきたクォークをミナは眉を曇らせて見つめ、あの時の状況を思い出しながら呟く。背が高くて綺麗なソーサラーの女性の、からかうようでいて挑みかかるような怜悧な眼差し。
「あの人はそうは思ってないんじゃないかしら。ああいう事を言うのは、クォークに未練があるからだと思うわ」
 ミナ自身は恋愛経験はないけれど、故郷でも他人の修羅場は時折見る事があった。兵士達はどこの国でも品行方正とは遠い性質をしている。
 けれどクォークは、軽く肩を竦めてあっさりと否定した。
「それはないと思うけど。第一、振られたのは俺の方だよ。もう半年くらい前になるかな。ミナの訓練を見始めて、いくらもたたない頃の話だ」
「でも、私の訓練を見始めたから別れる事になったんでしょう? あの人が、私の事を誤解してしまったから。違う?」
 眉間に皺を寄せて正面のクォークの顔を見つめると、ミナの方を直視していない彼の顔から表情が抜け落ちている事に気がついた。温度のない無表情。――戦闘中によく見る表情だが、平時でも時折こういう顔をする事があるのをミナは知っている。彼は、気持ちが大きく揺らぎそうな時か、既に揺らいでしまった時に無表情という壁を作って外部にそれ以上、自分を漏らさないように防御する癖がある。
 やや下向き加減だった彼の視線が上げられ、ミナの瞳をひたりと見据えた。
「……仮にそうだとして、君は、俺にどうして欲しいんだ? 君と別れて、彼女とよりを戻せとでも言ってるの?」
 ミナは細く息を呑んだ。クォークの言葉は、直前のミナの問いへの答えにはなっていなかったが――それこそが、ミナが考える事を放棄しようとした部分に他ならない。
 あのアイラという女性の言葉を聞いた直後から、ぐるぐると頭を駆け巡っていた謎がある。
 あれだけ素敵な恋人がいたのに、どうして今彼は自分と付き合っているんだろう。
 訓練場で、クォークと彼女を含んだ一団が訓練しているさまを見た。ソーサラーであるミナは、自然、同じソーサラーである彼女の姿を目で追う事が多かった。ごく僅かな時間の観察であったが、ミナは彼女に対して抱いたのは、感嘆の二文字以外にはなかった。
 なんて的確に魔法を使う人なんだろう。ミナからすれば自分より上位の使い手はそれこそ星の数ほどいるが、彼女は明らかに、その中でも特別強く輝く星だった。最大効率で敵にダメージを与える方法をまるで本能のように身につけている。クォークに対して抱く崇敬の念と同じ物を彼女に対しても抱いた。
 自分とは全く逆の、彼の傍らにある事がごく当然に感じられる女性。
 自分がいつか到達したいと目指す境地に、彼を支えられる立場に、既に到達している女性。
 その矢先に露呈した、かつて恋人関係にあったという事実。
 ――どう考えたって、自分と付き合っている今の方が彼にとって、間違いのようではないか?
「……ご、ごめん、私もそんなに深く考えて言った訳じゃないの。私、片付け物するね。ごちそうさまでした」
 逃げ出すように、ミナは空の食器を持って立ち上がり、彼に背を向けた。ミナが視線を逸らしても、彼の視線はいつまでもミナの方へ向いているようで居た堪れない気持ちになる。自分の弱さを見抜かれている気がした。
 どうしてその間違いが、今起きているのか。
 考えれば――考えてしまえば結論が出てしまうその問いを頭から締め出す為に、ミナは食後の片付けに専念した。

 ミナが洗い物を終えて布巾で手を拭きながら背後のソファを振り返った時、クォークはそこにはいなかった。が、視界の先にある開けっぱなしの彼の寝室のドアから明かりが漏れていて、彼の居場所を報せている。大体の場合はクォークは居間で過ごしているが、時折自分の部屋に仕事を持ち込んでこなしている時もある。
 そっちに用事があったんだけど……とミナが彼の部屋に顔を覗かせると、奥にあるベッドの上に長座して寛いでいた彼はミナに気付いて顔を上げた。
「お疲れ様。任せっきりで悪いね」
「それは全然問題ないけど……」
 投げ出された脚の上に視線を落とすと、そこには書類ではなく何故か白い塊が乗っていて、鍛えられた彼の腕にしっかりと抱え込まれていた。
「……何で私の枕を抱えてるの?」
「君が隣の部屋で寝る為に枕を取りに来た所だから」
 何の淀みもなくさらりと告げるクォークにミナは身体を強張らせた。……何でこんなに完璧に行動が読まれているんだろう。
 最初、クォークの家に住み始めた頃はミナは空き部屋だった隣室を借りてそこを寝室としていたのだが、この頃はすっかりとクォークの部屋に居着いてしまっている。今や隣室は二人分の物置きだ。
 その物置きを今晩は久々に寝室として使うつもりで、彼のベッドに置きっぱなしだった枕を回収に来たのだけれど。
「うん。使うから返して」
「やだ」
 彼らしくない子供じみた拒否に面食らってミナが二の句を継げずにいると、クォークは膝の上の枕をぽふぽふと叩きながら呟く。
「ここで寝るなら返すよ」
 ミナはクォークから視線を外して俯いた。……別に、クォークの隣で寝るのが嫌な訳じゃない。けれど今晩は、少し考え事をしたかった。片付け物をしながら現実逃避していたけれど、やはりそれではいけないと思う。逃げずにきちんと結論を纏める為に、今は一人になりたいと思ったのだ。彼は元々の体質なのか訓練の成果なのかは分からないがとても眠りが浅い人なので、隣でミナが煩悶していたら絶対に熟睡出来ない。
 が、ミナの困惑を悪い意味で取ってしまったらしいクォークが、ミナの枕に手を置いて神妙な声で言った。
「何もしない。反対側向いて寝るから」
 だから、と懇願の視線が見上げてきて、ミナは何も言えなくなる。何でそんな顔をするんだろう。彼が縋りつくような顔をする必要なんて全くない筈なのに。それ以上彼と視線を合わせている事が出来なくなって、ミナは彼から目を逸らして小さく頷くしかなかった。

 ――何やってるんだろう、私。
 深閑とした夜の空気に包まれる部屋で、身体をベッドに横たえながら、ミナは出来得る限りに密やかに息を吐いた。
 同じベッドで背を向け合って眠る彼にその体勢のまま意識を凝らしてみるが、背後からは寝息の一つも聞こえなかった。その事が、より一層ミナの緊張の度合いを高める。本当に眠っていたのだとしても彼が寝息らしい寝息を立てている所は聞いた事はないのだが、今は絶対に彼は起きているとミナは確信していた。おかげで考え事をしようにも落ちつかず、上手く思考が纏められない。
 ああ、これがクォークの狙いだったのかな、とふと気付く。彼は、ミナが悲観的な思考の持ち主だという事をよく知っている。この間、猫の呪いに掛かってしまった時もそうだった。放っておくとぐずぐずと一人で悪い方悪い方へと考えを巡らせてしまう。けれど、これはしょうがない事だと自分では思う。ミナには物事を楽観的に考えて気楽に構えていられるような力量も自信もない。
 これも悲観的に過ぎるのだろうか。とミナは、前々から少しずつ考えていた計画について思いを巡らせた。ミナにとっては寂しい事であったので中々踏ん切りがつかなかったけれど、今日の事があって漸く現実的に見つめられるようになってきた。
 息を潜めたまま考える。寂しい。寂しいけれど、――多分、これは正しい。やはり彼にとって、これが一番いい事である筈だ。だってもう気付いてしまったのだから。私に対しての今迄の彼の行いは全て――……
 こくり、と唾を飲み込んでから、ミナは意を決して唇を開いた。
「……ねえ、クォーク」
「どうした?」
 ミナの囁きに近い声に、返事はミナが予想した通りに僅かの遅滞もなくあった。
「ちょっと前から思ってた事なんだけど、私、部隊に入ろうと思うの」
「……部隊? 《ベルゼ》に? それ以外に?」
 衣擦れの音がして、クォークの声がはっきりと聞こえるようになった。こちらを向いた気配に応えて、ミナも身体を反転させて彼の方を向く。ベッドに横になったまま向かい合っているのに、全く睡眠の気配を感じないはっきりとした眼差しが夜闇の中で煌めいてミナを射ていた。
「《ベルゼビュート》は私が入っていいような部隊じゃないもの。他で探すわ。いくつか、裏方もやる、私でも役に立てそうな部隊の目星はつけてあるの」
 クォークの顔がごく微かに翳る。部隊に入る事は悪い事ではない。が、ミナが役に立てそうだと評価する部隊であるならそれは《ベルゼビュート》とは決して戦闘に関する領域の被る事のない部隊であろうことは明白だ。つまり今後もう二人で揃って同じ戦線に赴く事はないと言っているに等しい。――というのはミナの感じた寂しさだった筈だが、あたかも同じものを感じてくれているかのように彼は苦悩の表情を浮かべ、結局中途半端な問いに変えて投げかけて来る。
「どうして急にそんな事を言い出すんだ?」
 言外に、今日の出来事の所為か? という意図を含む慎重な声での質問には、ミナは予め答えを準備していた。予定していた通りに緩やかに首を横に振る。
「別に急に思い立った話じゃないの。ずっと、その方が何かと都合がいいとは思ってたし。部隊だって、もういくつかは見学にも行った事はあるのよ」
 その言葉を聞いて、クォークは衝撃を受けたようだった。「気付いてなかった……」と小さく呻く。それが少し傷ついたような声にも聞こえてミナは申し訳なさを感じてしまい、彼の顔から目線を下げて、彼の喉仏辺りを見つめる。
「まだ、漠然と考えてる段階だったから。ちゃんと、出ていく時には相談しようとは思ってたわ」
 ミナの言葉に、目の前の喉仏がひくっと動いた。
「出ていく?」
 クォークの声音が何故か急に険を増し、ミナは驚いて視線を彼の瞳に戻した。ミナを見る彼の眼差しに怒りの火などはなく、ごく冷静そうに見えたが、その無感情に近い冷やかさがミナの背筋を凍らせた。何か怒らせるような事を言ってしまったのだろうか。
「どうして出ていくなんて話になるんだ。ここから通えばいいだろう」
「ここは《ベルゼビュート》名義の寮だもの」
 このアパートメント全体が寮である訳ではなく、部隊名義で部屋をいくつか借り上げて部隊員に貸与している形式になるのだが、それはこの場合関係ない。ここにいる限り、彼と《ベルゼビュート》の世話になっている事に違いはないからだ。そもそもミナがここに住まわせて貰っているのは、金銭事情の逼迫する新参兵の一時的な避難措置扱いである筈なのだから、部隊に属したならそちらの援助を受けるのが正しいやり方である。その為の部隊だ。
 けれどもクォークは声に硬さを残したまま、ミナの計画を却下しようとする。
「そんな事、何ら問題はない。同居人の部隊までうちの部隊は干渉したりはしないよ」
 クォークの静かな剣幕に動揺しながらも、ミナは反駁した。
「それでも道理に適った事じゃないわ。私、これ以上クォークに迷惑掛けたくないの。いつまでもお世話になっている訳にはいかないし、自活の道を見つけないと」
 ミナが声量を落としながら言い訳じみた事を呟くと、クォークは言葉の端にややいらいらとした物を混ぜ始めた。
「迷惑って一体何だよ。何で俺が君と一緒にいる事が迷惑に当たるんだ。寧ろ俺は、ミナには兵士やめてずっと家にいて欲しいくらいなんだけど」
「そんなヒモみたいな立場だめだと思うわ」
「ヒモって言わないだろそれは」
 頭痛でも感じたかのように大きな手で顔を覆って、くぐもった声で言う。ヒモって言わなかったら何て言うんだろうとミナは首を傾げるが、それは今問い質す事ではないだろうと思い直す。クォークの発言を吟味し直して、自分の意思を伝える。
「私なんかが戦場に来たって何の役にも立たないって言いたいのは分かるわ。でも、私は少しでもクォークの役に立ちたいの。私が役に立つ為に一番いい事は、クォークと一緒にいる事じゃなくて、身の丈に合った部隊に入って、ちゃんと適切な仕事をする事だと私は思う」
 ミナの言い分を、指の隙間からじっと睨みつけてきながらクォークは聞いていたが、やがて物凄く疲れたように、はぁと溜息をついた。
「……そんな事俺は言ってないだろ」
 顔を覆っていた手を離して、クォークは再びミナを何も遮るもののない視線で射抜く。
「言いたい事は分かった。でも、それは部隊に入る理由だよな。それ自体は無理には止めない。けど、ここを出ていく理由にはなってない」
 それはミナが答えを準備していなかった反論だった。そんなに細かい挙げ足を取られても困る。「だからそれは……」と、続きの言葉も思い浮かべずにとりあえずもごもご言っているうちに、クォークはミナが言うべき反対意見を先取りして、更にそれを封じて来る。
「自活はしてるよ、君は十分働いてる。兵士として働く傍ら、家事全般、完璧にこなしてくれてるじゃないか。家の事は、君が来る前までは時折人を雇って処理して貰ってたから、これは結構相場の高い仕事だって事は知ってる。君の受け取ってる現物支給は、対価として不足があると言ってもいいくらいだ」
 ミナは反論の糸口を見出す事が出来ず、困り果てて眉尻を下げた。所詮、ミナ如きの口先だけのごまかしが彼に通用する筈もなかったのだ。そもそも、今のミナがこの家を離れたい本当の理由はそういった事ではなく、これは建前にしか過ぎないのだから尚更だ。
 ああ、もうどうすればいいんだろう。
 途方に暮れてクォークを見つめていると、何故か急に視界が歪んできて、ミナを鋭い視線で睨め付けていたクォークの顔がぎょっとした形に変化した。それで初めてミナは自分が泣き出してしまった事を自覚する。慌てて涙を止めようとするが、足掻けば足掻く程胸の辺りが引き攣れてきて呼吸が辛くなってくる。泣きたい訳ではないのに。泣く事で彼を困らせるなんてそんな事はしたくないのに。けれども不随意の生理現象は止めようとした所で止められる物ではない。
 口を開こうとすればひぐっとみっともないしゃっくりが漏れる。それでも、横向きに流れてこめかみに落ちる涙と格闘しながら、ミナは無理矢理絞り出すようにして声を出した。
「だってっ、私がいたら、クォークを恋人の所に返してあげられないじゃないっ」
「…………はぁっ?」
 クォークの声が珍しいくらいに裏返った。唖然とする彼の表情を、涙でぼやけた視界に映したまま、ミナはつっかえつっかえ言いたくなかった事を訴え始めた。
「クォークは、私が弱いから、ほっといたら私が死んじゃいそうだったから親切心で訓練をしてくれただけなのに、その所為で恋人に誤解されちゃって……っ、その後も私の事を放り出せないような状況を私が作っちゃった所為で、クォークは彼女の誤解を解く事すら出来なくなっちゃって……」
 敵なのにミナの事を心配してくれたクォークが訓練を施してくれた。そこから始まるミナとの関わりが、彼が恋人と別れる大元の原因となった事は彼も否定していない。それはそうだろう。自分の恋人が、貴重な筈の折角の余暇を敵国の兵士などと――何かしら特別に思われていた訳ではなかったにせよ、異性などと過ごしているとなれば、愉快である筈がない。
 クォークに恋人がいるかもしれないなんて、今迄一切考えた事すらなかった。ミナが軽率だったのだ。クォークはあれだけ素敵な人なのだから、少し考えればその可能性くらい思いついてもよさそうな事だ。最初は敵国兵というフィルターに目を曇らされて、その後は自分の恋心にうつつを抜かして、本人に対する配慮が全く足りていなかった。これで彼の事を好いているとは噴飯物の独りよがりだ。
 こんな馬鹿な子供に恋人との関係を壊され、それを修復させる事も出来ないうちに、ミナがネツァワルに移住するなどという後先を考えない行動を起こしてしまった。責任感の強い彼の事だ、自身の事は二の次に置いて、他にどこにも行くあてがなくなってしまったミナの面倒を見ざるを得ないと考えてしまうのは自然の成り行きだったに違いない。
「責任感でここまでしてくれるなんてだめだよ……! 私、もうクォークを縛りつけたくないよ……」
 クォークは口をぽかんと開いた呆け顔で子供のように泣きじゃくるミナを見ていたが、数秒で夢から覚めたように自分を取り戻した。それと同時にベッドの上に起き上がり、居住まいを正すようにその場に座り直す。
「な、なあ、ミナ。一体何を言い出してるんだ? 前にも似たような台詞を言ったことがある気がするけど、ちょっと落ちつけ。俺も落ち着くから。……君が大分おかしい方面で誤解してる事に漸く気付いた。ちゃんと話し合おう?」
 クォークが肩に伸ばして来る手を、ミナはびくっと後ずさって避けた。クォークが傷ついた顔をして、けれどもミナに触れる事を止めて腕を下ろす。ミナもぐずぐずと鼻をすすりながら起き上がり、腕で瞼を擦って、ベッドから下ろした爪先で靴を探した。
「……顔。洗ってくる」



 ――パタン。
 静かな音を立てて寝室の扉が閉められたのを確認して、クォークは両手で顔を覆って俯いた。
 ミナが、自分の所為でアイラと別れる事になったと勘違いしているのは、最初に話を聞いた時にすぐに理解出来た。それは全くの誤解だった。ミナがきっかけであるという一点に於いては確かに間違いではないが、ミナが思っているような意味では決してない。その時点で誤解を正すべく説明するべきだったのだが、クォークはそれを行わなかった。直接の原因はミナには絶対に想像などつく筈のないものだったし、そこに纏わるアイラとの関係性も含めて彼女の耳にはどうしても入れたくなかった。
 けれど、その怠慢を彼は激しく後悔する。
 ミナが、自分の所為でアイラと別れる事になったと勘違いしたその上で、まさか今ミナと付き合っている理由が単なる責任感だと思い込んでいたなんて。
 その発想は全くの想定外だった。いくらなんでもそりゃないだろうと泣きたい気分にすらなった。庇護欲の次は責任感って、俺の愛情はどこまで信頼性がないのか。寧ろ俺の想いは全然届いていないのか。かつてミナに「好きだと言われた事がない」という事実を指摘されてから、クォークはミナへの気持ちを表現する事を惜しまなかった。言葉で態度で、彼女の迷惑すら厭わない程直接的に好意を向けていたと思う。なのに何を今更。
 ――いや、彼女の所為にするのはお門違いだ、とクォークはかぶりを振った。最初の時点でミナの誤解を解かなかった自分がどう考えても悪い。
 けれどこれを説明する事は……
 奥歯を噛み締めるが、この逡巡は一瞬だった。……説明するべきだ。そもそもこれを黙っている事自体、ミナに対して誠実ではなかった。どんな軽蔑の眼差しを向けられてでも誠心誠意を込めて真相を告白し、許しを乞うておくべきだったのだ。
 そう覚悟した時、クォークははたとある事に気がついた。顔を洗ってくると言って出て行ったミナがやけに遅い。閉ざされた寝室のドアの外に意識を向けてみて、その先にある空間の気配のなさにぞくりとする。
「ミナ!?」
 跳ねるようにベッドを下りて、裸足のまま無人の居間を駆け抜けて洗面所に急ぐがそこに彼女の姿はなかった。すぐさま踵を返し彼女の部屋の扉を開いて中を覗くがそこにも誰もいない。何者かが侵入して彼女を攫って行ったのか? そんな発想が瞬間的に頭を過ぎるが室内には一切争った形跡はない。その代わりに、かごに入れてある洗い物の中から今日着ていたミナの私服が一式なくなっている事に気付く。
 彼女は出て行ったのだ……自分の意思で。
「あ……」
 喉からひび割れた声が漏れる。居間の中央に立ち戻り、クォークは全身から力が抜けて行く錯覚を覚えてよろめいた。ソファの背に手を置いてどうにか転倒を免れる。貧血を起こした乙女のように蒼然とした顔で俯くが、一呼吸の間に意識を整え直す。何をやっているんだ自分はという後でも出来る自省は一瞬で済ませ、頭の中にミナが向かいそうな場所を列記する。昼間ならば捜索範囲はとても一人では手が回らない程に広いが夜間となると確認しなければならない先はごく限られている。まずはそこからだ。
 寝室に戻って上着を羽織って靴を履き直し、通信石だけを手に取ってクォークは部屋を飛び出した。

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