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帰郷


「なあ、お前もう少し考え直さねえか? 兵士辞めて普通に暮らすって選択もあるんだぜ」
「そのくらい分かってるわよ」
 収穫の時を今か今かと待つばかりの麦穂の群が風に揺れ、黄金色の海に潮騒に似た歌を奏でている。見渡す限りに広がる小麦畑に一筋の線を引くように、真っ直ぐに伸びる田舎道を、今、二つの人影がゆっくりと進んでいた。上背も横幅もがっしりとした大柄な男のものと、対照的にちんまりとした子供――否、小柄な女性のものである。のどかな田園の中を、街から離れ行く方角に向けて歩みつつ、軽い旅装に身を包んだ二人は言い争いを続けていた。
「本当に分かってんのか? 出奔なんてしちまったら、もう二度とリベルバーグの土は踏めねえ。お袋さんとももう二度と会えないかも知れねえんだぞ。自分のお袋さんと男、どっちが大切か、よくよく考えての結論なのかそれは?」
 言い争いと言っても、男の口調は決して険悪なものではなく、近しい相手に対する心配から来る声音なのだが、その分声は鋭い。心配される側である娘の方もそれは十分理解しているようではあったが、何を言われても頑として自分の意思を揺るがす事はなかった。が、この台詞には流石に弱った顔をして立ち止まり、男を見上げた。
「……その聞き方はずるいわ。そんなの、順番を付けられる訳ないじゃない」
 向き合う男女の顔が、互いに苦虫を噛み潰したようになる。その居心地の悪い空気を振り払うように、娘は男から視線を外して自分が進む道の先に顔を向け、足を踏み出す。
「お母さんは大事よ。だから今もこうやって、ちゃんとお別れを言いに行こうとしてるんじゃない」
 祖国との決別を決めた少女は、己の決めた未来に何の躊躇いもないとでも言うかのように、これで歩くのも最後になるであろう故郷への一本道を進む。
 自分の前を通り過ぎていった栗色の髪の少女の、しゃんと背筋の伸びた後姿に、男ははぁと幾度目かとも知れない溜息をついた。


 日が傾き、金色の光が道に伸びる二つの影を長く引き伸ばし始める頃、二人は小麦畑の中に埋もれるようにある小さな村落に辿り着いた。平屋の家々が立ち並ぶ、首都の近郊であるとは思えない程ののどかさは、何年か前に訪れた時とまるで変わらないなと男は思った。外敵から村を護るでもない、ただの集落の境目の目印でしかない低い木柵の、門扉すらない切れ目を抜けると、少女は急かされたように徐々に足早になり、ついには走り出した。首都と違って舗装などされていない、砂利と固い土とが踏み固められた、幼い頃に散々駆け回ったであろう故郷の通りを少女は駆けて行く。田舎の人口密度の低さゆえ、すれ違う村人の姿はなかったが、もし誰かがこの少女の姿を見れば、「大きくなってもミナちゃんは変わらないねえ」などと目を細めた事だろう。男は――タイガは古い付き合いではあっても村人ではないので幼い頃の彼女をそれ程良く知っている訳ではなかったが、彼女は昔から、特に老人たちにはすこぶる人気があった。
 何年経っても何一つ変わらない、時が止まったような村を少女は駆け抜け、枝ぶりのよい広葉樹が一本立つ角を曲がる。その先にある赤い屋根の一軒家が彼女の目的地だった。
 静かな村にたかたかと響く軽やかな足音は、少し前からその家の中にも聞こえていたのだろう。少女が家の敷地に入った所で、玄関の扉が大きく開かれた。
「ただいま、お母さん!」
「おかえり、ミナ」
 玄関の奥から出て来て腕を大きく広げた小柄な女に、ミナは子供のように飛びついた。この娘の母親として相応な、大人の落ち着きのある年代の女だ。タイガはミナよりも寧ろこちらの年代に近いので、中年とは言いたくない。
「ミナはちょっと見ないうちに全然大きくならないわねえ」
「しょうがないじゃない、成長期終わっちゃったんだし! お母さんの子供だし!」
 微妙に文章としてはおかしい気もするからかいに、ミナは楽しそうに答える。そんな事を言う母親も、ミナと殆ど変わらない背格好をしている。
「そうだけど、ミナはお父さんの子供なんだからもっと大きくなっても良さそうなものだったのにねえ。お父さんはトラちゃんくらい大きかったのに」
 ねー? と同意を求める声を不意に投げかけられて、タイガは目をしばたいた。そして、母娘の語らいに無意識に気後れして庭に入るか入らないかの所で足を止めていた自分に気付き、ゆっくりと二人に近づいた。
「お久しぶり、トラちゃん」
「マナさんも相変わらずで」
「成長期終わっちゃったんだからしょうがないじゃない」
「いや身長の話じゃねーけど」
 そういう所が相変わらずなんだよ、と目で告げるタイガに女はくすくすと笑い、娘と仲良く手を繋いで家の中へと入って行く。二人並んだ姿を見て、タイガは思わず息を呑んだ。顔立ちも、ミナがそのまま年を取ればこうなるだろうなと疑いなく思える程度には似ていたが、後ろから見ると、母娘の姿は本当に良く似ていた。飾り気のない普段着に身を包み、背中まで届く長さのミナと同じ栗色の髪を一本に結わえたその姿は生活感に溢れていたが、背筋を伸ばして前を向く小さな背中には僅かにも迷いがない。
 大切な話がある、という前置きでの娘の帰郷には、きっと何らかの覚悟もあったであろうに。


 台所に並んで立ち、仲睦まじげに談笑しながら夕飯の支度をする母娘の姿を、タイガはダイニングテーブルにだらしなく頬杖をつきながらぼんやりと眺めていた。年若い女友達同士のように、きゃらきゃらとかしましく笑い合いつつも、互いが互いの仕事をごく自然に補いてきぱきと料理を仕上げていくさまに、戦場で長年パーティを組んだコンビでも中々ああはいかないとタイガは内心で感心する。手際も良い上殆どの支度は母親が先に済ませていたようで、さほどの時間もかからずに、素朴ながらも彩り豊かな食事がテーブルに並んだ。
 三人で食卓を囲み、食前の祈りを簡単に捧げてスプーンを取る。メインは鶏肉を野菜たっぷりのトマトスープで煮込んだ料理だった。熱々のそれに、ミナはテーブルの中央に置かれた皿から粉チーズをがっぽがっぽと入れた。意外とカロリーの多い物を好んでよく食べるのに何でこの娘はいつまで経ってもちっこいままなんだろう。
 そんな疑問は胸にしまい込み、タイガは別の意図を込めてミナを見やった。スープと一緒に掬った一口大の鶏肉と野菜に、はふはふと息を吹いてぱくりと口にしたミナが、くりっとした目でその視線を受ける。
 ここまでの母娘の会話は他愛のない物で、今日の話の核心にはまだ一切触れられていなかった。
 ミナはもぐもぐと口の中の物を飲み下してから、スープ皿の縁にスプーンを置いて、対面に座る母親に真っ直ぐ顔を向け、本題を切り出した。
「お母さん。私、エルソードを出ようと思うの」
 母親も、同じようにして一旦スプーンを置く。その仕草は落ち着いていて、動揺は見られない。
「この国を出て、ネツァワルに行きたいの。……好きな人が、出来たから」
 食卓の上に手を重ねて置いたまま、母親は娘の目をじっと見た。普段は柔和な微笑みを絶やす事のあまりない顔に、今は笑顔はない。かといって、怒りも驚きも全くない。少しの間、娘の言葉を吟味するような間を置いてから、諭す風でもなくただ当り前の物事を確認するように、淡々と告げる。
「慣れない土地で暮らすのは大変な事よ。いざという時に帰れる場所がないのは辛いわよ」
「分かってる」
「困ったことが起きても、その好きな人にも頼る事は出来ないかも知れない。最初は出来ても、いずれ出来なくなるかも知れない。……恋愛にはそういう覚悟もしなきゃいけない。ましてや、あなたは兵士。いつ、何が起こるかは全く分からない」
 その言葉に、ミナが微かにではあったが、ぴくりと肩を震えさせた事にタイガは気付いた。思わず眉根を寄せてタイガは母親を見る。それは今まさに、未来を夢見て羽ばたこうとしている娘に掛けるにしては、余りにも辛辣に過ぎるものではないか。――例えそれが、彼女ら母娘にとっては現実に起きた事その物であったとしても。
「……マナさん」
 正直な所、タイガはミナの移住には反対だ。だが、普段は一人娘に甘い母親の、思いがけず厳しい一言を耳にして、つい反射的に友人の肩を持とうと口を開きかけた所で、彼は自分に向けられた視線を感じた。母親の方から娘へと目を移し――真っ向から見つめ返してきたその瞳を見て、思わず彼は唇をそのまま閉じた。少女の愛らしい瞳に宿る凛然たる意思は、歴戦の兵士たるタイガの口すら噤ませる物だった。
 ミナはタイガから再び母親に視線を戻し、静かな声で答えた。
「……分かってる。お母さんが女手一つで私を育ててくれるのに、どれだけ苦労をしてきたかって事は私が一番よく知ってるもの。……でも、大丈夫。例えどんな事があっても頑張れるよ。だって私は、それでもお母さんが、お父さんと出会えてよかったって思ってる事を知ってるから。お父さんを愛する事が出来てどんなに幸せだったかって事を、知ってるから」
 少女の口から紡がれる声は、凛と透き通っていながらも、花が綻ぶような柔らかさも帯びていた。一言一言、大切な宝物を両手で包み込むように、ミナは続ける。
「いつ、何が起こるかは分からない。例え恋が終わる事がなくても、それ以外の終わり方をする時もあるんだっていう事は、物心ついた時からちゃんと知ってる。けど、だからこそ、前に進む方法があるのならそれに挑んでみたい。何も出来ずに泣く事はもうこれ以上したくない。何もしないで泣くよりは、何かした結果に泣いた方がずっといい」
 そんな娘の言葉を、母親は、黙ったまま最後まで聞き――
 やがて、ふっと柔らかな微笑を零した。ミナが何と答えるかなんて、最初から分かっていたような笑顔だった。
「そう。ミナがちゃんと考えて出した結論なら、お母さんは文句はないわ。……冷めないうちにご飯を食べちゃいましょう」

 食事の後、入浴好きのミナが裏庭にたらいを持ち出して湯を浴びている間、マナとタイガはダイニングテーブルで茶を啜りながら、二人だけで会話を交わした。テーブルの上に置かれた二つのマグカップから、白い湯気がほんわりと立ち昇っては、心安らぐハーブの芳香のみを残して部屋の空気に溶けて行く。
「言う程心配した訳じゃないのよ。ミナは楽天的な子だけど現実を見れない子じゃないから。ただ、ミナはある意味人を見る目が壊滅してるから、お相手の人については何気にちょっと不安だったけど。でも、トラちゃんがそういう意味で心配してないなら大丈夫なんでしょ」
「……ああ。人間的には信頼しても大丈夫だと思う。《ベルゼ》自体もまあなんつーか、てめえらなりの筋は通すっつーか……噂ほどド汚ねぇ事をやる部隊じゃないしな」
 無論今後、きちんと調べるつもりではいるが、タイガの直感は、あの男は大丈夫だと告げていた。
 その辺の確信がなければ、どれだけミナが奴の元に行きたいと喚いても、母親に伝える以前にタイガが断固として止めているし、ラムダだって手段がある事を教えなかったに違いない。
「相手に関しては心配してねえが、ただ……、俺は兵士だから、ヴィネル経由で時折様子を見ることは出来るかも知れねえが、あんたは……」
 これが今生の別れとなる筈だ。皆までは流石に言えず、タイガは言葉を濁してマグカップの中の茶を啜る。
 そもそも戦時中とあって、一般人の出航許可自体が非常に取り難い。渡航費用も、一般的な庶民の収入から考えるとかなりの高額になる。諸手続きや費用に関しては自分が援助してやる事は出来るが、この女はきっとそんな同情から来る金など受け取らないだろう。……少女の頑固さは十分に血筋のなせる業なのだ。
 しかし、タイガの言葉に女は、全く考えてもいなかった事を指摘されたような、きょとんとした顔をして、すぐにけらけらと笑い出した。
「やあね、トラちゃん。私はあの人の、ウォリアーの女房なのよ? 身内との別れくらい、いつだって覚悟してるわ。……会えなくたって、あの子の無事を祈る事は出来る。それについては、エルソードにいようとネツァワルにいようと同じ事だわ」
 何もかも理解した穏やかさで、けれどもやはり、隠しきれない仄かな寂しさを口辺に浮かべて女は言う。しかし彼女は、その本心から漏れ出した寂しさを、更にそれを超える母親の愛情で包み込んでみせた。
「私はね、ミナが幸せになるならなんだっていいの。ミナのお母さんだもん」
 太陽を見つめて大輪の花を咲かせる向日葵のように、真っ直ぐな笑顔で笑う女の姿を、タイガは息すら止めて凝視して、……やがて椅子の背に凭れかかって天井を仰ぎ、息を吐いた。
「……ったく。俺ぁあんたがあいつを止めてくれる事を期待して、家に連れ帰って来たのによ」
「あら、そうだったの? 何でまた」
「何でってあんたな。……あんたも言った通りだろ、慣れねえ異国で苦労しねえ訳がねえ。何より、あいつはあんたが大好きなんだ。今は良くても、辛い事を重ねりゃ大好きな母親を捨てて男を取った事を後悔する日がきっと来る。それを可哀相だと思わねえ程薄情じゃねえよ」
 タイガが苦々しく呟くと、マナは、ミナも時折そうするように、顎先に指をちょんと当てて何事かを考える仕草を見せた。
「後悔する……かしらね。どうだろ。ミナは強い子だからなあ」
「強い?」
 あの泣き虫を指して強いと言うか? 親の欲目にも程があるだろう。そんな目で女を見ると、彼女は細めた瞳に悪戯っぽい光を乗せてタイガを見つめ返した。
「トラちゃん、もしかしてあなた、ミナの事を弱い子だとでも思ってた? 大の男ですら、余りの凄惨さに心を病んで退役する事もある戦場に、自ら何度も足を運ぶあの子が?」
 思わず、返答に窮して口籠る。――それはタイガ自身も、長年傍で見守り続けて疑問に思った事がないとは言えない内容だった。
 ミナは一見するとぼんやりとした子供だが、決して生活能力は低くはない。得意不得意がかなりはっきりと分かれていて、不得意な事はひたすら不得意な不器用さがあるが、得意な事は意外な程にそつなくこなす。そしてその肝心の得意分野が裁縫や炊事などの生活に必須な仕事に発揮されているので、兵士などせずとも自立して生きていくに困る事はない筈だ。寧ろどちらかというと戦闘の方がミナにとって不得意分野に入る。性根の優しさ以前の問題で、根本的にあの娘は運動神経というものが欠落している。
 生計の道はいくらでもあるのだ。それなのに何故、あの少女は兵士などという道を選択したのだろう。
 たまたま子供の頃に魔法に興味を持ち、勉強する為に軍学校に入りソーサラーとしての技能を身につけ、それと同時に国のプロパガンダを刷り込まれて兵士として戦場に送り出された――という通り一遍の経緯はタイガにも理解出来る。ミナという少女は馬鹿素直というか素直な馬鹿というか、ともあれ、疑うという能力に酷く欠けている人間だ。軍学校の教師どもが口を揃えて教え込んだ下らない『正義』に疑いを持つ事など、あの能天気な少女に出来る芸当ではなかっただろう。だから、軍関係者の意のままに成長し、流されるままに戦場に放り込まれた所まではごく自然だったとすら言える。
(だが……)
 タイガは内心で呟く。だが、あいつはもう知った筈だ。このメルファリアが、正義と悪とでかっきりと二分された綺麗な世界などではないという事を。各国がそれぞれ大して代わり映えのしない『正義』を振り翳し、自国の理、或いは利を通す為、敵国の『正義』を踏みにじる為に相争う。それがこの世界に於ける戦争の真実の姿だ。それを理解したからこそ、悪であった筈のネツァワルに渡ろうなどという、これまでのミナならば絶対に考えもしなかったであろう結論を出せたのだから。
 それなのに、何故。あのか弱い子猫のような娘は戦場に赴くのか。
 ――何故、苦難を知りつつも、隣国に旅立とうとするのか。
「大丈夫よ。ミナは幸せになれる」
 何の疑いもなく、確信を持った口調で、マナは言う。
 その声は自信に満ちていながらも、どこか夢見るようで、祈るようで、――自分もかつてした恋に、思いを馳せているようで……娘の母親と言うよりは、女性としてのそれで。
 自分に口を挟む余地などない事を知ったタイガは、目の前の女から視線を逸らして窓の外を見る。
 首都のように夜通し消えない明かりが道に灯っている訳ではない農村の夜は、何も見通す事の出来ない漆黒の中にあったが、その暗闇は暖かな毛布に包まって眠る寝床の温もりに似ていて、タイガはその闇に浸るようにゆっくりと瞼を閉ざした。


 明くる朝、ミナとタイガは首都への帰途についた。移住に当たり、やらねばならない事は多くあり、余りのんびりとはしていられなかった。
 ミナは母親と、今生の別れにしてはごく軽い、あたかもまた来週にでも顔を出すのではと思うような気楽な挨拶を交わし、見送る母親に背を向けて村の通りを歩き出した。
 母親の視界から外れたら、ミナはあの男との別離の時と同じように泣き出してしまうのではないだろうかとタイガは内心冷や冷やしていたのだが、予想に反して少女の表情は、晴れやかなまま変わる事はなかった。
 ミナは強い子だから。マナが言ったその一言が耳に蘇る。
「お前、ネツに行ったらどうするんだ?」
 小麦畑が両側に広がる道を、昨日と逆の方向に歩きながら問うと、数歩先を歩くミナは、腰の後ろに手を回してくるりと振り返った。蒼い空から降り来る朝の明るい日差しを浴びて、ミナの健康的な艶のある髪がきらきらと輝いた。
「また兵士になるよ」
「まじで」
 だからなんで兵士に拘るんだ。って言うか、対エル戦とか満足に戦えんのか。とりあえず先に後者の方だけを聞くと、流石にちょっと顔をしかめて、「んー……今はまだ自信ない」と答えた。
「何で兵士を続けようとするんだ。住み込みの女中なり針子なりなんでも出来るだろお前なら」
 頼るべきよすがのない都会で女が独りで生きるのは確かに難しい……普通の女ならばそれこそ夜の商売に従事するか兵士になるくらいしか道はないかもしれないが、この少女の技能があればどうにでもなる筈だ。
 その問いにも、ミナは首を傾げて律儀に深く考えて、ややして顔を上げるとタイガをひたりと見つめた。
「クォークが、戦ってるから」
 意味が瞬時には掴めず、言葉を発する事が出来ずにいるタイガに、ミナは考えながら続けた。
「私ね、ずっと惰性で兵士を続けてたの。最初はエルソードの為に、悪い国をやっつける為に戦ってるつもりだったけど、クォークと出会って、特別悪い国なんて、メルファリアには実はないんじゃないのかなって事に薄々気がついたの。……その時点で、自分が何の為に戦ってるのかよく分からなくなっちゃってたんだけど……でも、そのもやもやを、クォークがはっきりと晴らしてくれたの。私たちは、国を護る為に戦ってるんじゃない。大切な人を護る為に戦ってるんだって、気付かせてくれたの」
 タイガの方を向いて、子供の遊びのように後ろ向きに歩を進めていた少女が、くるりと道の先に向き直る。少女の真っ直ぐに伸びた小さな背中から、朗々と声が響く。
「私は、クォークと肩を並べて戦いたい。まだ実力は全然だから、同じ国に行った所で背中を追いかける事しか出来ないけど、少しずつでも傍に近づきたい。彼の傍で生きたい。私は、彼を護りたいの」
 その時、何かがすこんと収まるべき所に収まったような心持ちをタイガは覚えた。
 ああ、こいつは、あの母親だけでなく、あの父親の血も継いでいるんだったな。
 まだ若造だった自分に、様々な事を教えてくれた男を思い出す。野太い笑みを浮かべて、駆け出しとはいえ兵士であった自分とよちよち歩きの幼児の頭を分け隔てなく撫でていた男。記憶する限り、誰よりも強く誰よりも大きかった、尊敬すべき男。
 何だ、そうか。じゃあ、心配することもないのか。特に具体的に安心できる材料が見つかった訳じゃない。きっと苦労はするだろう。母親を、友人を、故郷の匂いを、この風景を、懐かしく思う事も少なからずあるだろう。それでも、ミナの前途にかかっているように思われた分厚い靄が、ただの不安の産物でしかなかったことに気がついた。
 ……差し当たり心配があるとすれば、いきなり押しかけ女房が現れる事になるあのキラーマシーンの対応だ。勿論、奴がミナを拒絶するなんて心配はしていない。困惑するどころかこれ幸いとばかりに喜んで迎え入れるんじゃないだろうか。エルソードにすらその名を轟かす凄腕のウォリアーという割には、意外な程に血の気の薄い大人しそうな男だったが、あれは多分ムッツリスケベってタイプだ。
 あのムッツリスケベがこの何も知らないネンネちゃんに一体何をやらかすか……
 …………。
 ……うわぁ、何かすげえ駄目じゃん!という言葉しか出て来ねえ。ミナ危険じゃん!
「なあ、お前もう少し考え直さねえか?」
「もう十分考えたー」
 娘を嫁にやる父親のように、微妙に頬を引き攣らせながらしつこく言うタイガに、そんな男の不安など露知らずと言った様子でミナは答える。
 収穫の時を今か今かと待つばかりの麦穂の群が風に揺れ、黄金色の海に潮騒に似た歌を奏でている。見渡す限りに広がる小麦畑に、二人の男女が言い争う声が今朝もまた響き渡った。
 


 ちなみにその後、タイガの予想を裏切る事件が二件程あった。
 移住から一ヶ月程が経った頃、初めて二人をヴィネルで見かけ、即座に接近して強引に酒場に連れ込み近況を聞き出したその時に知ったのだが――
 件のムッツリスケベは実はタイガの想像を超えるへたれだったようで、二人はあの後めでたく一緒に暮らし始めたものの、何と同じ屋根の下で一月も暮らしながらいまだ一線を超えずに清い関係を保っていたらしかった。まじか。まじで二十代前半の成人男子かこいつ。タイガから見たら、件の男のミナを見る目つきは完全にヤりたい盛りのガキの目だった。それなのに何で。いや、ミナがアレ過ぎて手を出しあぐねてるんだろうが。それにしてもチキンにも程があるだろお前。うっかりと保護者属性よりも男としての同情心が上回り、当初の危惧と真逆の応援が喉元まで出かけた。
 そしてもう一件。
「ミナ、久しぶりー!」
「え!? あれ、お母さん!? うわあ、何でヴィネルにいるの!?」
 ……その更に暫く後、断られるのを前提で、もしヴィネルに旅行に行きたいなら金出してやるよ、とマナに持ちかけた所、彼女は想定外にも「ええうっそーラッキートラちゃん愛してるー!」とちゃっかりとした二つ返事で乗って来たのだった。
 男ながらに、案ずるより産むが易しという格言の意味を心から理解したタイガであった。

【 Fin 】

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