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ぼうっとしたまま大通りを歩いていると、突然どんっと背中を強く突き飛ばされ、私は路面に倒れ込んだ。
「ぼやぼやしてんじゃねえ!」
呆然とへたり込む私に謝罪どころか乱暴な罵声が叩きつけられる。私に体当たりをぶちかましてきたのは、鎧を身に付けた兵士であるようだった。こんな街中で武装している方が迷惑じゃない、と私は反射的に思うが、ぼんやりとしていた私も悪い。
がちゃがちゃとやかましい金属音を立てながら遠ざかっていく鎧の男の背中をどこか乾いた気持ちで眺めつつ、私はさっきの先輩たちの会話を思い出していた。
――カモにされてるのが分かってないのよね。
――散々貢がされてるだけなのにねぇ。
――あの子も上手くやってるよ……
昨日の時点でも十分に打ちのめされていたと思ってたけど、やっぱりどこか半信半疑だったのだろう。急速に現実味を帯びてきたクォークさんの彼女の幻影は、暗がりからひたひたと迫り来る不気味な気配のように、酷く私を苛んだ。
どうして……どうして。
そんな益体もない言葉を寄せては返す波のように繰り返す。その言葉に続く思いは数限りなくあり過ぎて、思考は取り留めもなく広がるばかりだった。
どうして、私は恋人のいる男性を好きになってしまったの?
どうして、あれだけ頭の切れる彼が、恋人の本性に気付かないの?
……どうして、愛している人がいるのに、私にだけ優しくしてくれたの……?
彼女の事、本気なんじゃなかったの?
ただの……後輩に対する優しさだったの?
分からない……分からないよ、クォークさん…………
首都の大通りの一つであるここは人通りは決して少なくない。通行人から訝しげな、邪魔臭そうな視線を投げかけられている事には気付いていたが、私はその場から立ち上がる事が出来なかった。
多分、時間的にはほんの数秒という程度ではあったのだろう。道端に座り込んだまま俯き続ける私に、穏やかな女性の声が、暖かなケープを着せかけるように優しく掛けられた。
「大丈夫ですか?」
その声に顔を少し横向けると、目の前に華奢な白い手が現れた。水仕事をよくするのだろうか、少しだけ荒れているが、小さく可愛らしい手だ。
目の前に差し伸べられている優しげな手に、私は引き込まれるように縋ってしまってから、はたと気づいた。地面についた砂まみれの手で人様の手に縋ってしまうなんて、失礼にも程がある。
「ご、ごめんなさ……」
顔を上げ、相手の顔を見た途端、私は驚愕の余りに謝罪の言葉すらそこで途絶えさせて、目を見開いた。
そこにいたのは、先日のソーサラーの少女……ミナさんだった。
余りにも想定外な出来事に私は思わず硬直してしまったが、彼女は気にも留めずに私を助け起こし立ち上がらせてくれて、その上、いまだ呆然としている私のスカートをぱたぱたと手で払ってくれた。それはまるでお母さんが子供にそうするかのような愛情のある仕草だった。
そうしてから、彼女は地面に置いた自分のものであるらしき紙袋の荷物を持ち上げて、にこりと柔らかな微笑みを浮かべた。
――彼女は、クォークさんの恋人なんかじゃない。
この瞬間、私は確信を持ってそう思った。自分の荷物を置いて、倒れた他人に手を差し伸べるなんて真似が出来るような人が、皆が口々に噂するような悪女である筈がない。友達に恵まれている所為か、私は人を見る目には結構自信があるんだ。
そのミナさんが、肩に届くか届かないかという長さの栗色の髪を揺らして首を傾げ、遠慮がちに尋ねてくる。
「……あの、間違っていたら申し訳ないですけど、確か《ベルゼビュート》の新入部隊員の方ですよね?」
私はまたもや驚いて、目を見開いてしまった。彼女もまた、一度だけ対面した私の事を覚えていてくれたようだった。
「差し出がましい事を言うようだけど……もしかして、何か悩み事でもあるんですか? 《ベルゼ》の人たちは噂よりもずっと優しいから、困った事があったら何でも相談してみるといいと思いますよ」
「えっ……?」
「その、ごめんなさい。……浮かない顔をしてたようだから、少し気になっちゃって。余計な事だったら本当にごめんなさい」
荷物を抱えたまま、ミナさんはぺこりと頭を下げ、再び顔を上げて私の顔を見たその目が大きく瞠られる。
「えっ、あのっ……ど、どうしたんですか!? わ、私、何か悪い事言っちゃったかしらっ」
おろおろと慌てるミナさんの姿が、水面に映った影のように揺れ始めた事で、私は自分が泣き出してしまっていた事に気がついた。
ぐすぐすと泣きじゃくる私を、事情を何も知らない筈のミナさんは、何も聞かずに近くのベンチまで手を引いて連れて行き、隣に座って落ち着くまでずっと優しく背中を撫でていてくれた。最初の内こそ感情が昂り過ぎてそのまま身を委ねていた私だったが、次第に落ち着きを取り戻すに従い、余りにも子供じみた自分を自覚して心底情けなくなった。殆ど初対面に近い人の前で、何という無様な姿を晒しているのだろう。いや、私が無様な事自体はいいけれど、ミナさんは困惑したに違いない。それでも一切迷惑そうなそぶりを見せることなく、何の義理もない筈の私に優しく接してくれる彼女は本当に天使みたいな人だ。こんな人を、クォークさんの最低な彼女などと少しでも疑った自分を殴ってやりたい。
ミナさんは私よりも遥かに小柄で華奢な可愛らしい女性だったけれど、その眼差しは人を優しく包み込んで癒す、圧倒的な母性を湛えていた。どんな事でも彼女は真心を持って聞き、我が事のように一緒に考えて、心からの慰めを与えてくれるだろう。私は、彼女に自分の悩みを聞いて貰いたい欲求に抗う事が出来ず、部隊の方には秘密にしていて欲しいのですが、と前置きして告白した。
「実は、部隊に好きな人がいるんです。……でも、その人には彼女がいるらしくて……」
「まあ……」
ミナさんは私の心中を推し量って眉を寄せた。痛ましげにじっと私を見つめる視線に促され、私は言葉を続ける。
「……彼女さんがいる事自体はいいんです。彼が幸せであるのなら私……遠くから見守っているだけでも十分だから。でも、その彼女さんというのが本当は……真剣に愛してくれている彼の気持ちを利用して弄び、散々に貢がせているだけの女だと聞いて……! 私、どうしたらいいか……! ううん、部外者にしか過ぎない私には、どうしようもない事だとは分かってるんです。けど、でも、私、彼が悲しむ姿を見たくないんです……!」
感極まって嗚咽を始めてしまった私の背を、ミナさんはまた優しく撫でつつ、慎重に考えながらゆっくりと呟いた。
「……それは……困った話ですね。本人が騙されていると気付いていないのなら、言ってあげた方がいいとは思うけど……好きな人に恋人の悪い噂を聞かせるなんて、心苦しいですよね」
私の心情を正確に理解した言葉に、私は素直に頷いた。新参者の私が先輩にそんな出過ぎたことを言うのは気が引けるし、何より、恋敵の悪評を吹聴するなんて最低の人間のする事だ。
「あと……気を悪くしないで欲しいのだけど、それは本当の話なのかしら。誤解とかじゃなくて……?」
ミナさんは遠慮がちにそう確認して来る。確かにこれは慎重にならざるを得ない話題で、彼女が心配するのも頷ける。しかしこれは最早、否定する材料のない話だった。私はこくりと頷いて答える。
「はい。最初は友達からの噂で酷い女性だって聞いて……その時点では、あくまでも噂である可能性も考えていたんですけど……、でも、部隊で、先輩方のお話を聞いてしまって……」
「そうなの……」
気遣わしげにミナさんはそう言い、少し考える様子を見せた。口元に手を当てるような恰好で少しの間黙考し、再び私の瞳を見つめる。
「その人と仲のいい誰かが、その事実をもし知ってるならその人に言ってもらうか……じゃなかったら、私も《ベルゼビュート》には知り合いがいるから、もし誰の事か教えてもらえるのなら、それとなく言ってみる事も出来るかも知れないですけど……」
「! いいえ、そんな事は出来ませんっ」
下級兵士である彼女が苦言を上申するのは、私以上に立場を危うくする事になるだろう。こんないい人にそんな泥は被せられない。
――この瞬間。急速に、視界が開けた気がした。
クォークさんが、私に優しくしてくれた理由は分からない。彼の気持ちがどこにあるかなんて全く分からない。
けれど、そんな事で悩む必要なんてなかったんだ。
私は、彼の事が好き。
それだけが、紛れもない真実。
それで、十分だったんだ。
これは、他人に頼って解決するべき問題ではなく、私が、彼の事が好きなこの私自身が、どうにかしなくてはいけない問題だった事に気付く。私は目の前のミナさんの手を取り、しっかりと握って真摯な気持ちで告げた。
「やっぱり私、自分の口から言います。私の気持ちを告白するのと一緒に。……例え、誤解を解く事が出来なくて彼に嫌われてしまうとしても、彼が騙されている姿を黙って見過ごすわけには行きません……!」
戦場で、私の窮地を救ってくれた愛しい人。
その、彼が。今、窮地に立たされているのだとするならば……それを助けるのは、きっと私の役目なのだ。このご恩を彼に返すのは今しかない。
そうか。そうだったんだ。
私はこの時、気付いた。
あの時、彼と私が出会ったのは偶然ではなくて、彼を救う為の必然だったのだという事に。
絶望に暗くなりかけていた視界に、たった一つの成すべき道筋を得て、再び光が灯る。
クォークさん、あなたは私が、必ず、助けます……!!
決意を固めた私は、これから用事があると言うミナさんと別れ、サイトさんに指示された荷物を受け取ってから本部へと帰還した。
布に包まれた長柄武器の束を抱えて待ち合わせ場所のホールへと急ぐ。ただの昼休憩だったのに随分と時間が掛かってしまった。その代わり、ミナさんと話せて自分のするべき事を確認する事が出来たから、私にとってはとても有意義な時間だったのだけれど。
約束の時間に遅れないように、荷物を抱えて走る寸前の速度で足早に廊下を歩いていると、廊下の向こうから男性の二人連れがお喋りをしながら歩いて来る事に気がついた。
――クォークさんだ!
「お前、今週末もコレかぁ? 貢がされてるだけだって分かんねえの?」
連れの男性が何かジェスチャーをしたが、遠目かつ素早い動作だったのでそれが何を意味するかは私の目には分からなかった。しかし、それにクォークさんが苦笑で答えるのは見える。
「貢がされてるなんて心外だな。必要経費だよ」
「まったく。金のある奴は余裕で羨ましいもんだ」
じゃあな、と廊下の曲がり角で二人は別れ、クォークさんだけが私とすれ違う通路に入ってくる。
……私は、腕の中の武器の束を、勇気を振り絞るようにぎゅっと強く抱き締めて、不敬にもクォークさんの行く手を遮るように、廊下の真ん中に立ちはだかった。
「ん、どうした?」
クォークさんは私に気付いて足を止め、少し不思議そうに問いかけてきた。優しいクォークさんは、新入りのこんなにも無礼な態度にすら気を悪くした様子を見せない。
タイミングは今しかない、と思った。先輩の中にも、クォークさんの付き合いに不安を感じている人がいるのは幸いだった。その意見に便乗するのは卑怯である気はしたけれど、クォークさんを説得出来る可能性がそれで増えるのならば、どれだけ卑怯であったって構わない。
私はごくりと唾を飲み込んでから、決然とクォークさんを見据え、わななく唇を開いた。
「……新入りの私などには出過ぎた発言であるとは分かっています。でも、失礼を承知で言わせて頂きます。……クォークさん、お願いですから、今話されていたその件について、もう一度よく考えてみて下さい。その方に貢ぐのは、本当に間違っていないと言えますか? その方が、クォークさんにどれだけのものを返してくださっていますか? ……私……私っ、情熱を向ける先を間違えて、クォークさんが後悔する所は見たくないんですっ」
幸せになるのは、私とじゃなくていい。
彼が幸せになってくれるなら、何だって構わない。
例えば彼が、アイラさんや、あのミナさんのような素晴らしい女性と付き合っているのだとしたら、私は……多分、少しは泣いてしまうと思うけど、笑顔で祝福する事が出来ると思う。けれど、クォークさんに何も与える事のない、クォークさんを食い物にするような女性だけはどうしても嫌だ。
涙の浮かんだ瞳で真っ直ぐに彼を見つめて、訴える。睨みつけるような私の視線から、クォークさんは目を逸らさなかった。
そのまま、数秒の間、緊迫した空気が続き……やがて、ふっと糸が切れるようにクォークさんの気配が緩んだ。
「……そうだな……。本当の事を言えば俺も、全く気付いていなかった訳じゃないんだ。この頃は、惰性にすら近かった。……でも、やっぱり、今更嫌いにはなれなくて。終わりにする決心が今までつかなかった」
独白のような言葉が紡がれるのを、私は、自分で説得していたにも関わらず、信じられない思いで聞いていた。
クォークさんは小さく溜息をつくと、再度私にしっかりと視線を向け、何か吹っ切れたような微笑みを浮かべて見せた。
「……有難う。先輩を諌めるなんてきっと怖かっただろうに、勇気を出してくれて。君のお陰で俺、前に進めそうな気がする」
「クォークさん……」
クォークさんを見上げる私の目から、ぽろりと滴が一粒零れた。それをきっかけにして、私の涙腺は決壊してしまった。安堵の余りに堪え切れなくなってしまった涙が、後から後から流れ出て来る。
「わ、私、私は、クォークさんには本当に幸せになって貰いたいんですっ! 怖くなんてなかった、怒られたって、嫌われたってよかったんです。わ、私は、クォークさんの事が……っ」
私の声は一番大切な所で嗚咽に飲み込まれてしまい、言葉にならなかった。
けれど、そんな私の気持ちを全て包み込むかのような暖かい手のひらが、私の頭にそっと置かれた。
「有難う」
噛み締めるような再度の感謝の言葉。その声が、決意を帯びて私に注がれる。
「……ジャンヌ。一緒に来て欲しい。今から決着をつける事にする。君にも、聞いていて欲しいんだ」
えっ……?
私は即座にクォークさんの顔を見上げた。
それって、どういう意味?
彼女との別れの場面で、彼は私に何を伝えようというの?
とくん。とくん。とくん。とくん。
私の心臓が早鐘を打ち始める。私の頬が急速に熱を帯びてくる。
ずっと分からなかったクォークさんの本当の気持ちを、聞かせてくれるの……?
クォークさん……クォークさん……っ!
言葉にならない想いをその名前に込めて胸中で繰り返しつつ、私を促して歩き出した彼の広い背中を追い掛けた。
クォークさんが向かったのは、何故か部隊本部の調理室だった。
目的地に向かう途中(この時には、私は彼がどこに向かおうとしているか分からなかった)、クォークさんに連れられる私を見つけて驚くサイトさんに、クォークさんは「ちょっと彼女借りるぞ」と言い置いて、私から武器の束を受け取りそれを丸ごと押し付けた。……サ、サイトさんに頼まれていた物ではあるけれど。
すみません、とサイトさんには目礼をして、しかし私はクォークさんの後へと続く。そうして一階の一番外れにある調理室にやって来た。
ここの部隊本部には食堂があって、朝昼晩と希望する部隊員に食事を提供している。昼休みの時間帯は終わってしまったので、食堂自体はもう人もまばらだったけど、厨房では今は昼の片づけが行われているようで、三角巾を頭に付けた女性たちが忙しそうに働いていた。
雑然としていて視界を遮る物も多い厨房の中を、クォークさんは入口からざっと見回し、水場の所に目的の相手を見つけたらしく首の動きを止めた。
そして軽く息を吸い、広い厨房全体に響き渡る大声で、その名を呼ばわった。
「ミナ!!」
「は、はい!?」
洗い場でごしごしと寸胴鍋を擦っていた小柄な女性が、唐突に呼ばれて反射的といった具合に背筋を伸ばした。そして、何で私呼ばれてるの?という顔をしてこちらを振り向く。すっぽりと三角巾を被っていたので分からなかったが――それは先程別れたばかりのミナさんだった。
ミナさんがどうしてここに!? 下級兵は雑用を任せられる物だが、彼女は《ベルゼビュート》の部隊員ではないし、砦ではともかくここの厨房は、専門の調理スタッフを雇っていた筈だった。事実厨房にいる女性たちは、ミナさんを除けばどう見ても兵士とは見えない中年女性が殆どだ。
いや、労働そのもの事情はともかく……このタイミングで呼びかけるという事は。まさか……まさか、あのミナさんが、クォークさんの彼女だったの……!?
私は混乱しきってしまい、ただただ状況を見守る事しか出来ない。
私が立ちつくしている間に、クォークさんは躊躇なく厨房に足を踏み入れ、真っ直ぐに洗い場の少女の所へと向かった。入口の私の後ろには、何事かと集まって来た部隊員達が人垣を作り始めている。
クォークさんが近寄る間に布巾で手を拭ったミナさんは、傍まで来た彼と真正面から向き合った。
「ど、どうしたの? 部隊長さんに急かされたの? 私もさっき来たばかりで、まだ何もしてないの。ティータイムのおやつはお片付けを手伝ってから作り始めるから、もう暫く待ってって部隊長さんには伝えて……」
しかしクォークさんはその言葉を遮って、ミナさんの手をさっと取る。水仕事で冷たくなっているのであろうその手を大きな手で温めるように包み込み、クォークさんは膝を折ってミナさんと視線の高さを合わせた。
「ミナ! 俺は決めたよ、俺はもう、カジノ通いを止める!」
「へっ? 何、急に?」
一体何を言っているのかさっぱり分からないと言うように目をぱちくりとするミナさんに、クォークさんは真摯な口調で続けた。
「今迄別に必要な訳でもないのに惰性でルーレットを続けていたけれど、これは時間と金の浪費でしかなかった。俺、ジャンヌに言われて改めて気がついたんだ。俺が情熱を向ける先は、ミナ、君だけだって事に。これからは無駄遣いなんてせずに、将来の為の貯蓄に回すよ」
ミナさんは話の展開に付いていけない様子でしばし唖然としていたが、やがて、自分の手を握るクォークさんの手を、今度は自分の手が上になるようにして握り直すと、柔らかな仕草で首を傾げて彼の目をじっと見つめた。
「……そ、そんな……。別に大丈夫よ、今だって物凄くつぎ込んでる訳じゃないんだし。ルーレットはクォークの唯一の自発的な趣味じゃない。娯楽は労働の活力を得る為に重要よ? それを取り上げてまで早くお家が欲しいだなんて私言わないよ」
しかしその言葉にクォークさんは決然と首を横に振る。
「君と二人きりで静かに暮らせる日を近づける為なら、自分の趣味なんていくらでも我慢出来るさ」
「クォーク……」
クォークさんの発言に感動したように、ミナさんは瞳を煌めかせたが、しかし少し俯くと、彼女もまた首を振った。
「ううん……。クォークが、遊技場街から毎月月末に告知されるカジノのお知らせだけはちゃんと欠かさず取り寄せてるの、知ってるもの。楽しみにしてるんでしょう? 本当に無理しなくていいから、ね。毎月三千つぎ込んでいた所を千にしてくれただけでも十分な努力だって私分かってるから」
毎月三千……。私の後ろの人垣の中から、ぼそりと誰かが呟いた。最高の魔法強化が施された高級な鎧が数セットは新調出来る額だ。当たらないなら当たるまで回せばいいじゃないを素でいく男は伊達じゃねえ。
そんな外野の声など一切届いていないらしいクォークさんは、ミナさんの心遣いに心を打たれたような顔をして、優しく告げた。
「分かった。完全にやめてしまったら、君を旅行に連れて行く口実もなくなっちゃうしな。今後は月五百までにして、少しだけ旅行を贅沢にして、残りを貯蓄する事にしよう。……有難う、ミナ。こんな俺の我が侭を許してくれて」
ミナさんも微笑んで、答える。
「……こちらこそ有難う、クォーク。そんなに真剣に将来の事を考えてくれて……。私も貯金、頑張るね」
「ミナこそ無理するなよ」
言って、クォークさんは食堂のおばさまたちや部隊員の面々の目を一切憚ることなく、ミナさんをぎゅっと力強く抱き締めた。真っ赤になったミナさんは、最初こそ「エプロン濡れてるからっ」などと言って逃れようとしていたが、がっちりとミナさんをホールドして揺るがない腕に諦めたように、クォークさんの逞しい背中になよやかな腕を回した。
そこまで確認した辺りで、集まっていた部隊員たちは「やれやれ」「お熱いこって」「リア充爆発しろ」などと言いながら三々五々に散り始めた。その誰もが呆れているようで、その実二人を微笑ましく見守っている様子に私は悟った。ああ、噂は丸っきりの嘘なんだ。彼女は部隊員たちをも誑かす悪女なんかじゃなくて、クォークさんを騙す最低な女なんかじゃなくて、二人は皆に祝福された、何の恥ずべき所のない恋人同士なんだって……
私の目に熱い物が込み上がり、大粒の滴となってぽろぽろと零れて行く。これは悲しみの涙なんかじゃない。私の大好きな人が、不幸な目に遭ってなんていなかった事に対する喜びの涙である筈だ。そうに決まってる。
さようなら。大好きな、誰よりも大好きな人。
大丈夫。ちょっとだけ泣いたら、すぐに笑えるようになる。
あなたの幸せが、私にとって何より嬉しい事だから。
……私、あなたに恋することが出来て、凄く幸せです。
* * *
ここ数日にあったという出来事の顛末を、ミナは自宅のソファで、何故かクォークの膝の上に子供のように抱き上げられた恰好で聞き、愕然としていた。
あの時ミナは、調理室に突然やって来たクォークに驚くばかりで、最初ジャンヌがその場にいる事にすら実は気付いていなかったのだが、その後、真っ赤な目をしながらも笑顔で二人を祝福した彼女の姿を見て、非常にまずい事に気付いてしまったのだった。
彼女が打ち明けてくれた好きな人とはクォークの事で、クォークを騙す悪い恋人とはミナの噂だったのだ。故郷にいた頃はミナは全く目立たない存在だったので、噂の的として人々の口に上るという経験をした事などなかったのだが、この国にやって来てクォークや《ベルゼビュート》の錚々たるメンバーと実力不相応に仲良くなった事を不愉快に思う人もいるようで、悪意ある噂をされる事が度々起きるようになっていた。そんな噂の一部をジャンヌが聞いていたとしても何ら不思議はない。
「……私、結果的に物凄く酷い事しか言ってない気がする……」
彼女を悩ませていた張本人でありながら、浮かない顔をしていて心配しただなんて、余りにも酷い言い草だ。勿論悪気はなかったとはいえ、好きな人の為ならと嫌われる事も厭わずに行動を起こしたあの健気な少女に何という仕打ちをしてしまったのだろう。
しかしクォークは、平然とした口調で切り捨てる。
「そんなのミナが悪い訳じゃないんだし、気にする必要はないだろ。それで彼女がミナを恨んだらただの逆恨みだ」
あんなにも善良な彼女がこの事でミナを恨むとはミナ自身思っていないが、問題はそこではない。とはいえ、ジャンヌにどう言い繕った所で傷口に塩を塗り込む行為でしかないように思える。やはり失礼極まりない事だけれど、知らん振りを決め込むのが最善なのだろうか。どうしたらいいものか、ミナには皆目見当がつかない。
はぁ、と溜息を吐いて頭を抱えるミナの太腿の辺りをぽんぽんと叩きながら、クォークはやはり大して気にも留めていないような声で言った。
「ミナだけでなく、誰が悪いって事でもない。不可抗力だ。そう悩むなよ」
「それは分かってるけど」
自分の対応はまずかったとは思うものの流石にこれを全て自分の責だと思う程卑屈ではないし、クォークが彼女に優しい態度を取った事が誤解された原因とも言えるが、だからと言って新人に無闇に冷たくするべきだとも思わない。クォークは丁寧な態度で接して来る相手にはちゃんと丁寧に応対する人だ。最初に誤解したのはジャンヌだが、会話を交わした印象では、彼女は噂話を鵜呑みにせず冷静な判断の出来る女性であるようだった。その彼女が信じてしまったのなら、余程誤解してもやむを得ないような聞き方をしてしまったのだろう。これは彼の言う通り不可抗力――単に不運が重なっただけの一件に過ぎなかったのだ。
「強いて言えば、少し優しくしたからって脈があると勘違いして舞い上がる方が悪いんじゃないか? 部下に対するごく常識的な態度で接していたつもりだったんだけど、俺」
そう結論付けた矢先に、ぽろっと辛辣な言葉を追加して来たクォークに、ミナはちらりとだけ背後の彼に視線を振って、眉を寄せた。
「……クォーク、それはちょっと酷い……。彼女がクォークの事を好きだって事はずっと知ってたんでしょう?」
「前に告白はされたけど、今も好きかどうかの確証は最初はなかったよ。興味もなかったしね。まあその後、アイラやサイトにちくちく言われて気付きはしたけど、だからってわざわざ冷たくあしらうってのもおかしな話だし」
「……それまでの態度は仕方がなかったにしても、最後の……調理室の件はちょっとないと思うな……。自分の事を好きな子をわざわざ連れて来て、その目の前で私を抱き締めるとか……。その点に関しては、クォークにしては珍しく、配慮に欠け過ぎてたと思うん……だ……けど……」
そこまで呟いた所で。ミナはふと疑問を覚えた。
ジャンヌが、クォークがルーレットに金銭を費やしている事を、悪い女に騙されて貢がされているのだと誤解して進言したらしいという事は、状況を総合して今はミナも理解している。
だがそんな、事のあらましが分かっていさえすればミナでさえどうにか気付く真実に、今のミナよりは情報量が少なかったとはいえ、彼が気付かないなんて事があるだろうか?
…………恐ろしい可能性に思い至る。
「クォーク……ま、まさか……」
ジャンヌの涙ながらの進言を聞いて、彼女の想いも、彼女が何をどう誤解しているのかをも把握した上で、勘違いした振りをしてあの場に連れてきた……? 何もかも分かっていて、彼女にわざと見せ付けた……?
愕然として後ろを振り返るミナの視界に映ったのは、無駄に爽やかに微笑むクォークの姿だった。
「同じ人を二回も振るのは忍びないし、極力事を荒立てないで済ませるには、自力で察してくれるのが一番じゃないかなと」
「ひ、酷い……! クォーク最低! 残虐非道! まさに外道! 人間はどこまで残酷になれるか選手権で優勝出来るよそれ!」
「えー? 『ごめん君には全然興味ないんで』とかざっくり斬るよりもよっぽど優しいと思うんだけど」
「そ、その言い方はいくらなんでもないけど!」
戦慄すら覚えてクォークの顔を凝視するが、彼は全く悪びれるそぶりすら見せない。全ての問題がうまいこと片づいた、とばかりにすっきりとした笑顔を浮かべている。
……何かもう、絶対に間違っている。他に何か適切な解決策が思いつく訳ではないが、そのやり方は人としてあり得ないと思う。この件はこんな風に、クォークの膝の上に乗っけられた格好ではなく、正面から向き合って、膝と膝を突き合わせて真剣に話し合うべき内容であるとは思うものの、飄々とした彼の顔を見ているうちに怒る気力も失せてしまい、ミナは今一度、はあぁーと盛大に溜息をつく。
クォークの膝の上に正面向きに座り直し、力の抜け切った肩を落として軽く項垂れていると、何の前触れもなく回されてきたクォークの腕が、ミナの身体を包み込み、痛いくらいの力で抱き締めた。
「クォーク?」
「……嫌いになった?」
「へっ?」
耳元にぽつりと落とされる、感情の色の見えない、抑揚のない声。再び後ろを向こうとしたミナの視野は、細い肩に縋り付くように寄せられる黒髪で満たされた。癖のない漆黒の髪を間近に眺めながら、ぱちぱちと目をしばたく。石像になってしまったかのように微動だにしない頭を、ミナは暫くぽかんと見つめていたが、やがて苦笑の形でその眼差しを和ませて、子供をあやすようにぽふぽふと撫でた。
「なってない。クォークが、目標物以外については結構ドライに切り捨てる人だって事くらい、前から知ってるわ」
「……よかった」
やはりその声は感情を読みとり難い平坦な物だったが、その声の裏側には蕩けるような安堵がある事にミナは気付く。そんな彼と、そんな彼を愛おしいと思ってしまう自分にミナは一層苦笑して、彼の逞しい胸に体重を預けた。
【 Fin 】