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結婚(仮)


「ねークォークあんた、結婚する気ないの? ミナちゃんと」
 部隊本部の事務室で、待機中の暇を持て余し、デスクの上に手を伸ばしてネイルを塗っていたアイラは、端の席で真面目に書類に目を通している男に何とはなしに声を投げた。
「は?」
「は? じゃねーだろ、は? じゃ。結婚だよ、結婚。ちゃんと籍入れる気はないの? って聞いてんの」
 要領を得ない返事をする男に、爪の先にふーと息を吹きかけながら重ねて問う。
 クォークとミナは交際期間こそまだ一年足らず……いやまだ半年と少し程度だっただろうか。所詮他人の事なので具体的には思い出せないもののともあれあまり長くはないが、二人の間に流れる空気には、既に長年連れ添った熟年夫婦の如き風格があった。互いに対する信頼は、血縁や戦場での絆に勝る程強く、如何なる事態を以ってすればこれを揺らがせる事が出来るだろうという想像に答えを見出すことが出来ない。過日の一件も、彼らの間に微かな不協和音も奏でる事はなかったようだ。
 それでいながらこの二人……特にミナの方は、ついこの間付き合い始めた恋人同士みたいな初々しさも忘れてないんだから最強よねーと、アイラは艶やかに塗られた爪を見つめる目を眇めた。……あ、はみ出してる。綿棒の先でこしこしと爪の脇を拭いつつ、件の過日の一件、その翌々日に当たる日の出来事を思い出す。綺麗に洗濯した装備を返しにミナが尋ねて来たので、「で、あの後二人で倉庫でナニしたのー」とちょっとカマを掛けてみた所、彼女は熟れたアップルのように真っ赤になってあわあわと全力で慌てふためき大層アイラをにんまりさせた。話をするだけで済ませる気なんぞねー癖に、とは思っていたが案の定である。爆発してしまえ。しかる後にお幸せになってしまえ。
 ……なのでこの、結婚しないのか? という問いは、早いと言えばかなり早く、今更と言えばある意味今更で、適切であると言えば実に適切という奇妙な話題ではあるのだった。
 しかしそんな機微は、この男には分からないらしい。
「籍……役所への届出の事か?」
 ずるっ。思わず綿棒を滑らせて乾いていないマニキュアを突っついてしまう。
「届出……そんな夢も希望も身も蓋もない言い方を……」エナメルのはげてしまった自分の爪から目を離し、鼻に呆れた皺を寄せて朴念仁を横目で睨む。「まあ間違ってはいないけどさ。どうせあんた、ミナちゃんを手放す気は一生ないんでしょう?」
「当たり前だ」
「だったら籍入れない意味なんて別にないじゃない」
 但し、そういう意味では入れる意味も然程ないのだが。信仰心の薄いこの国では結婚を神聖視する風潮もそれ程ないし、兵士の間では尚更で、事実婚や婚外子も別段珍しい存在ではなく、社会的に差別される事もない。そもそも、国の身分登録制度自体がかなり大雑把だ。首都では国の役所が出生や婚姻の履歴などを記載する住民簿を管理しているが、農村部では村の教会が大雑把にその役目を負うのみだ。多分密入国者であるミナも、兵士登録はしていても、住民簿までは用意していないだろう。
 ただ、この朴念仁は全く分かっていないようだが、大事なのは書類的な手続きの方ではない。結婚という儀式の方である。結婚という儀式の方なのである。大事な事なので二回言いました。ミナは、現状の関係にも特に不満も不安もないようではあるが、そういう一般の女の子が憧れそうなベタなイベントには素直に憧れを持っていそうだ。結婚しようと改まって言われれば、きっと涙を流して喜ぶだろうに。
 そこまでは言わなかったもののアイラがクォークを少し非難がましい目で見ると、彼は顎に手を当てて、真剣な顔で何事かを考え始めた。
「……届出……、届出……ッ!」
 数秒後、突如何か重大な事実に気づいたようにくわっと目を見開いた。ぎょっとするアイラを他所に、彼は椅子を乱暴に蹴って席を立ち、一言も発さずに部屋を飛び出していく。
「……な、なに、どしたのあいつ」
 一人残された事務室で、唖然としながらアイラは椅子に寄りかかり、開け放たれたままの扉を眺めて独りごちた。


 ここここん!と、誰だ部隊本部でキツツキを飼っているのはと言いたくなるような速さで執務室の扉がノックされ、部隊長は隻眼を怪訝にひそめてそちらへと向けた。
「何だ」
「俺だ、入るぞ」
 一声掛けると許可も待たず、クォークが足早に入室して来た。別に咎める程の無礼でもないので、部隊長は何も言わずに部下の顔を見る。無表情に近いが、人間観察眼に長ける部隊長はこれがこの男の酷く切羽詰った時の形相であることに気がついた。何事かと思って見ていると、その口から出てきたのは未だかつて全く想像に上らせた事もない質問だった。
「俺の年金の受取先ってどうなってる!?」
「はぁ?」
 流石の彼女も咄嗟にはそれしか返しようがなかった。が、クォークはつかつかつかと詰め寄ってくると執務机にばんと手を突いた。
「はぁ? じゃないだろ、はぁ? じゃ。年金だよ、年金。俺がもし戦場で死んだり、後遺症の残る傷を負った時に家族に支払われる年金」
 更にはばんばんばんと天板を叩きながら急き立てるように訴える。いやその単語自体は分かるが……
「傷痍年金は無論本人だ。遺族年金は身内がいる者はそちらへ支払われるよう手続きしているが……お前のように天涯孤独で特に申告もなかった者は、恩給を除いた積み立て分のみ部隊で受け取るように仮に設定してある筈だ。……サイト?」
 いつものように傍らで黙々と仕事をこなしていた部下に視線を向けると、無駄に手際のよいスカウトは既に資料を棚から出していて、ぱらぱらと捲り始めていた。
「クォークさんは部隊のままですね」
 回答を受けて、視線を目の前の前傾姿勢で詰め寄る男に戻す。この男に、これを変更したいという希望があるのだとしたら、その先は一つしか思い浮かばない。
「ミナに変更しておくか? 事実婚の妻であれば年金の支給対象になる。希望するならば遺産相続分もそのように法的処理する事が出来るが」
 そう告げてやると、クォークはあからさまに安堵した表情を浮かべて頷いた。
「それで頼む。確かそこそこの額になる筈だよな」
「まあ人の一人や二人は余裕で一生食っていける金額にはなるだろうな」
「なら問題ない」
 どうやら悩みは解決したようだ。クォークは満足げに再度頷いた。
「……急にどうしたのだ一体」
「いや、アイラが雑談の中で指摘してくれて。ミナを一生手放すつもりがないのなら、俺に万一の事があった時についてきちんと手続きしていなかったのは確かに思慮不足だった。たまには役に立つ事も言うな、あいつ」
 うんうんと頷きながらそんな事を呟いて、クォークは用は済んだとばかりに踵を返し、歩いていく。

 ぱたん、と入室時とは対照的にごく静かに閉ざされた扉を見ながら、部隊長はサイトに問いかけた。
「……一体何の話をしていたのだ、奴らは?」
「……さあ?」

【 Fin 】

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