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いじめに対する後始末




 砦の裏へと続く細い通路をクォークが右折した瞬間、再度、先と同じ衝撃音が響いた。今のはかなり近い。今度はアイラの耳にも、衝撃音の直前にフリージングウェイブ特有の、冷気が迸る鮮烈な音が届いた。
 クォークの走る速度が更に上がるのを見て、アイラは思わずうえっと呻いた。「ちょっ、待っ……」ぐいぐいと離れ行く背中に何とか食らいつきつつ息も絶え絶えに声を上げるが、クォークにアイラを気遣うつもりなど皆無であるようだった。アイラもソーサラーとしては並以上に鍛えているという自負はあるが、この男とは基礎体力が違う。
 しかし、幸いにも次の角を曲がった所が終着点であったようだった。クォークに続いて角を曲がったアイラは、そのすぐ先で停止していた男の背中に衝突しそうにそうになり慌てて急ブレーキを掛けた。はぁはぁと軽く息を荒げつつ周囲を見回す。そこは奇しくも昨日、ミナが吊し上げを食らっていた、人目のつき難い倉庫前の空き地だった。
 クォークの背中越しに正面に視線を向けると、倉庫の扉は開いていて――その扉から零れ出たような恰好で、男が一人、地面に仰向けに転がっていた。
「…………あっ?」
 男は意識はあるようで、よろよろと身を起こしながら、いつの間にか近くに立っていた兵士――クォークに視線を向けた。怪訝そうに闖入者を見上げたその顔が、急に何か酷く恐ろしい物を見たような形になってびくりと強張る。そのまま男は、地面に尻を付けたまま、ずざざっと後ずさった。
 その男が開けた道をクォークはずんずんと突き進み、躊躇なく倉庫の中へと入って行く。
 アイラもまたその後を追い、扉の外から中を覗き込んだ。クォークの背中越しに観察すると、室内には数人の人間が点在していた。入口側に、外に落ちていた男と同じような恰好でへたり込む男が二人。そして雑然と置かれた荷物を背にして、最奥に一人の少女――ミナが、何故か先程は持っていなかった魔法杖を抱えて立っていた。
「あ……クォーク……アイラさん……?」
 半ば呆然とした様子ながらもこちらを認識して、ミナは呟いた。ミナは微妙に埃まみれになっていたが、彼女自身にも着衣にも目立った傷はないようだった。アイラは安堵の吐息を漏らして視線を手前に転がる二人に戻す。それなりにガタイのいい男どもだが、見慣れない顔だった。
「い……って、何だよその魔法……汚ねぇ……話が違うじゃねぇか……」
 頭を振りつつ呻く男を見ながらアイラは首を傾げ、二秒程して、彼らの素性を察するのと同時に納得した。彼らもまた兵士ではなく、ハンターなのだろう。フリージングウェイブは、戦場で兵士が使う魔法としては特に珍しくもない物だが、魔物でこの魔法を使う種は確か存在しなかった筈だ。攻撃魔法を使う魔物というのも中にはいるのだが、そういった魔物も生来の魔法力に任せて破壊力を振るうだけであり、このフリージングウェイブのような自己防衛に特化した特殊な魔法は使わない。普段は魔物退治を生業としているハンターであるなら初見でもおかしくはない筈であった。……ただ、音からして立て続けに二発は食らっているようで、それは同じ戦闘を生業とする者として甘いと言いたいが。
「……何があった」
 地の底から響くような声でクォークが呟き、ミナが奥で杖を抱き締めながら答えた。
「そこの……男の人たちから、荷物の搬入をしたいから、倉庫の場所を教えてくれって言われて。それでここまで案内したら……倉庫の中に入った途端、急に襲い掛かって来て……」
 そこまで少女が呟いた所で、クォークの拳が手の甲に青筋が立つ程きつく握り込まれた事にアイラは気付いた。しかし彼は爆発寸前の激怒をどうにかそこに留め、ミナの言葉の続きを待つ。
「……組み伏せられそうになったんだけど、どうにか抵抗して……棚にぶつかった途端に、運よく上から訓練用の杖が落ちて来て。それで、咄嗟にフリージングウェイブの魔法を使って……」
 ミナが言葉を紡ぎ続けていた、その最中。
 床に崩れ落ちていた男の一人が突如立ち上がり、ミナを注視するクォークの脇をすり抜け、出口に向かって走り出した。戸口に立つアイラ一人なら突き飛ばして逃げられるという目算だろう。
 アイラは突進して来る男から咄嗟に身を躱す。と同時にすれ違いざまに男の腕を捕らえ、手首を掴んでそれを外側に捻った。男の身体が面白いようにふわりと反転し、したたかに背を打ちつけて地面に転がる。
「おお。聞きかじりの護身術も結構役に立つもんだ」
 無論こんな体術など、ソーサラーとしての技術ではない。先に外に転がっていた男は既に逃走してしまっていたようだが、捕虜は一人いれば十分だ。アイラがそのまま相手の腕を背後に回し、ねじり上げると、腱を伸ばされた男はぎゃあと捻り潰された蛙のような悲鳴を上げた。
「砦で兵士に手を出すたぁ、あんたいい度胸じゃないのさ」
 にやにやと口の端に笑みを浮かべながら褒めてやると、男は泡を食って弁明を始めた。
「違っ……そっ、その女から誘って……その女の恰好見りゃ大体分かるだろ!」
 おやおや、よりにもよってそんな自らの首を絞めるような言い逃れを。アイラはより一層笑みを深くする。まあ確かに、今のミナの恰好は大変挑発的ではあるが。クォークが、逃走しようとした男にすら目もくれず、杖を抱き締め俯き加減に震えているミナを凝視し続けているのも、その恰好に一因があるかもしれない。
「嘘おっしゃい。……人は見かけで判断しちゃ駄目よん、いかにもお淑やかそうに見えるこの私だって、こんなに強いんだから。ねー」
 言いつつ男の腕を更に強く捻ると、男は音程を変えて悲鳴を上げた。わー面白ーい。音としては聞き苦しいだけにしか過ぎないだみ声も、苦痛というスパイスのお陰で珍味程度の味わいとなって、彼女の耳には快く聞こえる。
 嗜虐の快楽に打ち震えつつ男をいたぶるアイラを他所に、クォークはミナから視線を外し、倉庫の中にいまだへたり込む最後の男を睥睨した。男の顔が紙のように真っ白になっている。男は自分を射殺さんとする視線からどうにか逃れんとするかのように、怯えきった様子で頭を抱え、涙交じりの声を上げた。
「ゆ、許してくれ、お、俺達はただ、たのっ、頼まれたんだ……ッ! 女が一人になったら、ちょっとばかし脅かしてやってくれって!」
「……誰からだ」
 底冷えするような声音で凄むクォークに、男は何事かを発しようと口元を喘がせるが、凄絶な怒気に当てられてかちかちと歯を鳴らすばかりで、意味ある言葉を紡げない。
 クォークが、返答を求めて男に一歩ずつ近づいていく。武技など使った様子もないのに、その姿は何故か、アタックレインフォースのようなどす黒いオーラを纏っているようにも見えた。徐々に狭められゆくその距離が、死へのカウントダウンそのものである事は、周囲にいる誰の目から見ても明白だった。男は最早震える事すら出来ずに石のように固まっている。
 そんなクォークの恫喝めいた仕草を、アイラは大して興味もない声で抑止した。
「あ、クォーク。それについては私ちょっと心当たりがあるから。もう連絡入れてる。サイト借りてるよ」
 騒動を耳にしてここに向かう道中で、アイラは思い浮かんだ心当たり――昨日ミナを吊るし上げていた女どもを探して、出来れば確保しておくようにとサイトに通信を入れていたのだった。相手の素性も既に昨日の内に調べておいてある。サイトはえーまた俺をこき使うんっすかーとか何とかごねてはいたが、忘年会での女装画像ばら撒くぞと脅したら素直に言う事を聞いてくれた。持つべきものは友である。ちなみにトランス装備は結構似合っていた。
 と――
「やめろよっ、離せっ!」
 まさに狙い澄ましたようなタイミングで、ぎゃあぎゃあと甲高く喚く女の声が、耳に飛び込んできた。
「あーいたいた、アイラさん。この女どもっすよね?」
 視線を向けると、丁度建物の陰からサイトが、何やら非常に疲れたような、辟易したような顔を覗かせた所だった。身体の前で、女を後ろ手に拘束して歩かせている。じたばたと往生際悪く暴れていた女は、アイラの姿を見てびくりと硬直した。
 サイトの他にも部隊の若手が三人ほど、同じように捕虜を連れて続いてきていた。全部で四人……女三人と、男が一人だった。あれ、女三人のグループだと思っていたのに。予定にはなかった、しかしどこか見覚えのあるような気がする男の顔に、アイラは一瞬首を捻ってから、あ、と口を開けた。今さっき、ここから逃げて行った最初の男だ。
「その男どうしたの」
「女たちを探してたら、何かその辺でこそこそ一緒に話してたんで捕らえてみたんすけど。関係なかったっすかね」
「いや、大あり。超GJ、褒めてつかわす」
 他に特に心当たりがなかったというだけにしか過ぎなかったのに、まさか本当にこいつらがつるんでいるという証拠まで持ってきてくれるとは。
「いやぁ運が良かったわねえあんたら。どう拷問して吐かせようかなって思ってたけど、わざわざ手間を掛けられずに済んで」
 ちょっぴり残念だけどー、といった気持ちをほんのりと乗せながらアイラがけらけらと笑いかけると、喚き立てていた残りの女も凍りついたように口を閉ざした。
 いつの間にか、十人以上もの人間が集まる事になってしまった倉庫の内外に、水を打ったような静寂が落ちる。混乱や敵意、恐怖――様々な負の感情がない交ぜになった沈黙を破ったのは、倉庫の中から響いたクォークの声だった。
「サイト。こっちにも一人いる。確保しておけ」
 既に手が塞がっているサイトは少し逡巡してから、隣の同僚に女を預け、倉庫の中に走って行った。
 それと入れ替わりに、クォークが戸口から出て来る。暗く青白い月明かりが、彼の表情のない顔貌に酷く陰惨な影を落としていた。戦場で斧を振るう姿を死神と喩えられる事もある男だが、武器を手にしていない今でさえ、無感情にして剣呑な眼差しは、その二つ名に違わぬ不吉さを醸し出している。捕らえられている者たちが発したものであろう、細く息を呑む音がいくつか聞こえた。
 そんな男女の様子を、クォークは冷淡に一瞥し、やはり色のない声で静かに呟いた。
「この《ベルゼビュート》に歯向かうという事がどういう事なのか、理解していないネツァワル国兵がまだいるとはな。……俺達も舐められたものだ」
 ひっ、と、今度は明確に喘ぐ音が誰かの喉から漏れた。ざり、と足が砂を掻くような音も聞こえたが、部隊員の拘束を外す事に成功した者はいないようだった。
 クォークがゆらりと戸口から離れ、拘束されている男女らに近づいていく。あたかも死神が、その指を死に逝く者に伸ばすように。――しかし死を刻む指が標的の喉にかかろうとしたまさにその時、彼の背を追って小さな影が倉庫から飛び出して来た。
「待って!」
 この場に於いて唯一この男を制御出来る存在であろう少女の声に、彼の足が止まった。
「待って、クォーク。少し落ち着いて」
 ゆっくりと、先程、男に詰め寄っていた時のような恐怖を煽り立てる緩慢さで、クォークが倉庫の前で立ち止まった少女を振り返る。敵に向けていた感情を一瞬で切り替える事は流石に出来ないのか、その眼差しは、愛する少女に向けるものとしては酷く暗澹としていた。しかしミナは敵を見るようなそんな視線にも一歩も引かず、自分の恋人である男を睨み据えた。
「彼らがした事は、まずい事だっていうのは分かってるわ。でも、余り酷い事は、やめて」
 真っ向からの制止を受けても、クォークが表情に苛立ちを乗せる事はなかった。ただ冷酷にその要請を却下し、仮借ない死の宣告を下す。
「駄目だ。犯した罪は自ら贖うのが当然だ。君も知ってるだろう。《ベルゼビュート》は楯突く者に容赦はしない。塗られた泥は、相手の血を以って雪ぐ」
 底冷えのする声が、真空を斬る鎌の音のように、冷厳と響き渡る。
 ……その途端、最初にサイトに捕らえられ、同僚に引き渡されていた女が、狂ったように目を剥いて、唾を飛ばさんばかりに喚き立て始めた。恐怖の余り、何らかの一線を超えてしまったようだ。女は血走った眼でミナを睨み、裏返った声を上げた。
「おっ、おまえがっ、お前が悪いんだっ! 大した実力もない癖にっ、何も出来ないガキの分際でっ、《ベル……」
 女が口走りかけたその瞬間だった。――ミナが突として、手に持っていた杖を振り上げたのは。
 ミナは斜め上方に振り被ったそれを、罪人を鞭打つ獄吏のように音高く一閃させた。ソーサラーの魔力の発露に呼応し、天から鋭い電撃の錐が飛来する。刹那の後、一条の光は女の爪先を灼いて地面に突き刺さり、ぎゃあぁ!とけたたましい悲鳴が上がった。後ろで女を拘束していた部隊員も僅かに余波を受けて眉を顰める、が、それでも手を離さなかったのは称賛に値する事ではあっただろう。
 一撃を放ち終えても尚、ミナは全身に充満する魔力に髪をたなびかせたまま、女に杖を向け続けていた。気弱と高を括っていた少女の容赦のない攻撃と、射抜くような眼差しに、女は、余計な事を言うならば更なる攻撃を加えるという兵士の本気だけは本能的に嗅ぎ取り――生命の危機を実感として理解して、へなへなと腰を抜かした。
 戦意を喪失した女から、しかしミナは油断なく構えを解かず、声のみをクォークの背中へと向ける。彼女は微かに震える声で、けれども冷静に言葉を発した。
「これは《ベルゼ》の問題じゃないわ。私の問題よ。百歩譲っても、私とクォークの問題。そんな話に部隊を巻き込むだなんて野暮だわ」
 努めて冷静であろうとする努力が滲み出る声を聞き、横から見ていたアイラは彼女の意図に気付いて、内心で舌を巻いた。ミナは別に、あの女の無礼に対し怒りを覚えて攻撃した訳ではなかった。驚くべき事に、これはあの捕虜の女を護る為の行為であった。
 女がここで《ベルゼビュート》の名を口に出してしまっては――つまり、《ベルゼビュート》と関わりがあるからこそ、男らに指示してミナに害を成そうとしたのだと証言してしまっては、最早どうミナが足掻いてもフォローは不可能だ。《ベルゼビュート》は部隊の名誉にかけて、敵対者は厳粛に処断せねばならない。だからミナがこの女どもを護り切るには、これが『《ベルゼビュート》への反逆』ではなく単に『クォークとミナという個人間に対する横恋慕』に過ぎないという構図を保たねばならなかったのだ。《ベルゼビュート》の報復を受ける事に比べれば、爪先を少し焦がされるくらい、安いものだと言えるだろう。
 クォークとミナの間に、言い知れぬ異様な緊張が走る。それは普段の二人の間を満たす甘い恋人同士の空気とは対極にある、達人同士の立ち合いの間に流れるような、触れれば切れる程に緊迫した気配であった。
 しかしその緊張に満ちた対峙は、唐突に終わりを告げた。クォークがミナから視線を外し、捕虜たちとそれを捕らえる部下の方に顔を向ける。
「離してやれ。……今回限りだ。次はない、絶対に」
 上司の命令に、部隊員達は特に動揺も見せずにすぐさま従い、拘束していたその手を離す。却って動揺したのは捕らわれていた男女らの方で、解放されてもしばしの間、怯えた子鼠のようにその場に居竦まっていた。
「命拾いしたわね」
 まさか背を向けた瞬間に斬りかかられるとでも思っている訳ではないだろうが、中々動こうとしない彼らに、仕方なしにアイラは顎で行けと示しつつ声を掛けてやる。
「あの子に感謝しろとまでは言わないけど、自分であれに真っ向から牙を剥くことが出来るかどうか、よくよく考えてみることね」
 アイラが告げた言葉に、主に《ベルゼビュート》の恐ろしさを知る兵士である女たちが、直前までの緊張を思い出したように、顔面を蒼白にして震え上がる。やがて男女らは、足腰の立たない一部の仲間をそれぞれ支えて、その場を立ち去った。

「……あんたは?」
 ばたばたと足音が闇の向こうに消えていくのを見送ってから、アイラはクォークに目を向けた。
「先に戻っていろ。俺は少しミナと話をしてから戻る」
 問いかけた時にはもう既に、クォークはミナの方へと歩き始めていて、アイラはへいへいと肩を竦めて二人に背を向けた。

***

 砦へと戻っていく人々の姿を見送っていたミナは、その後ろ姿が見えなくなった途端、力尽きたように倉庫の戸口に背を預け、そのままへなへなと崩れ落ちた。
 茹で過ぎたパスタのようにくたりとその場にへたり込み、呆然としていると、部隊員たちとは逆にミナの方へと近づいてきていたクォークが、ミナから三歩程離れた位置で立ち止まった。ミナは顔を上げて彼の顔を見る。無表情のようにも見える顔だが、瞳の奥には怒りではなく、呆れが宿っているのが分かる。
「何であんな奴らの為に、そんなに崩れ落ちるまで気を張る事が出来るかな」
 溜息のような声で呟く彼に、ミナは少し拗ねるように眉を寄せ、唇を尖らせて答えた。
「だ、だって……。嫌だもの、私の所為で誰かが酷い目に遭うなんて」
「どうして君の所為になるんだ。どんな目に遭ったとしたって、それは奴らの自業自得だろう。それが嫌ならこんな馬鹿げた事をしなければいいんだ」
「それはそうかも知れないけど……でも、元はと言えば、私がしっかりしてないから彼女たちは文句を言ってきたんでしょう? 私が誰の目から見てもクォークに相応しい、アイラさんみたいに非の打ち所のない女性だったら、こんな事は起きなかった筈だわ」
 そう言うと、クォークは片眉を上げ、あからさまに不服を示した。
「そりゃアイラに直接文句を言える度胸のある奴はそうそういないだろうが、それは非の打ち所がないとかそういう理由じゃないと思うぞ。大体あいつと相応しいとか俺が嫌なんだけど」
 本当に、心の底から嫌そうな口調と顔で言う彼を見て、ミナはつい、まだ少し残っていた緊張感を解き、くすりと笑みを零してしまう。クォークはアイラの事に言及する時は大抵こんな顔をするが、その様子はミナには二人の確かな信頼関係を示しているように見えて好ましく思えるのだ。どうして俺が別の女と仲良くして(?)いる事を喜べるのかとクォークはよく嘆くが、部隊内での信頼が篤い事は素晴らしい事だと思う。
 今もまた、クォークはいかにも不満げにむうっと目を細めて、けれども数秒で何らかの諦めがついたように首を横に振り、離れていた数歩分の距離を詰めて来る。
 そして未だ倉庫の前に座り込んでいたミナに彼は手を差し伸べようとしたが、何故か途中でその手は止まり、ミナに触れるのを躊躇うように、軽く拳の形に握られた。不思議に思って彼の目を見つめたミナから、彼は少し気まずそうに視線を外し、小さな声で尋ねて来る。
「……触れても、平気?」
「え、うん? ……何でそんな事聞くの?」
 彼が、ミナに触れてはいけないなんて事がある筈がないのに。彼が躊躇した理由が分からず、ミナがきょとんと首を傾げると、クォークは目を伏せたまま囁いた。
「俺の事が怖かったんじゃないかと思って」
 その返答に、ミナは目をしばたく。そうしてから、彼の発言の意味する所に思い当たった。――先程、睨み合ってしまった事を気にしていたのか。そう気付いて、ミナは目をふわりと細め、柔らかな苦笑を漏らした。
 相変わらず、豪胆な所もある割には、繊細な人だと思う。ミナががさつなだけなのかもしれないけれど。
「怖かったのは、あの人たちの運命についてだわ。別にクォーク自身が怖いだなんて思わないわよ」
 中途半端に差し出された彼の手に、ミナは自ら腕を伸ばす。両方の手のひらで、ミナは彼の手をぎゅっと包み込んだ。彼の手はこんなに暖かいのに、どうして彼を恐れる理由があるのだろう。いつだって、出来る事なら永遠に、この手と繋がっていたいのに。
 そう、想いを込めて彼の手を握っていると、クォークも漸く少し安心したように、口元を少し緩ませた。しかしまだどこか憂いを帯びているその顔に、今度はミナが申し訳なさを思い出して、握り締めたクォークの手にこつんと額を付けた。
「……ごめんなさい、これで《ベルゼビュート》の立場が悪くなったりしたら……」
 彼の立場上、本当は、きちんと罰しなければならなかったのは分かっている。乱暴ではあるが、そのやり方で《ベルゼビュート》は長年秩序を保ってきたのだ。ミナが自分の感情だけで引っ掻き回していいものでは本来はなかっただろう。秩序の中に、場合によっては抜け道があるかも知れないと認識されるのは、どう考えても《ベルゼビュート》にとっては不利益に働く筈だ。
 しかしクォークはミナを気遣うように、彼女の髪を優しく撫でた。
「それは気にしなくていい。この件については却ってこれがベストだったかも知れないし」
「え?」
 それは一体どういう事なのかとミナが首を傾げると、クォークは少し人の悪い笑みを浮かべた。
「彼女らも、これで存分に君の凄まじさを思い知っただろ。それを言いふらしてくれるなら尚いい。この件に関しては、《ベルゼ》の後ろ盾があるって思い知らせるより、君自身が楯突いてはいけない人だって知れ渡った方が効果的だ」
「え? ええ?」
「さっきの君は中々の貫禄だったよ。そんなどこかの悪役ソーサラーみたいな際どい恰好をして、容赦なく魔法をぶち当てて。おまけに《ベルゼ》の幹部相手に一歩も引かず、真正面から反論する。君は俺の事を怖いと思わなかったと言ったけど、彼らは俺の殺気に死ぬ程怯えてた。それと対峙するなんて並大抵の人間に出来る事じゃないよ」
 そんな事を言われて、しかしすぐには彼の言っている事が理解出来ず、彼の瞳を見つめたままぼんやりと反芻してしまう。
「悪役……? 際どいかっこ……? ……って、あああああ!」
 ここでようやっと気がついた。というか思い出した。自分が一体どういう出で立ちをしているかという事に。
 咄嗟に心もとない胸部と丸見えなおへそと曝け出された太腿を彼の目から隠そうと、あわあわと自分の身体を抱き締めようとしたが、それよりも早く、クォークに両手首をがっと掴まれ、難なく左右に開かれてしまう。クォークは、どこか剣呑さを感じる薄笑いを浮かべて、ミナを頭の天辺から爪先まで舐めるように眺めた。
「俺がいない間にそんな挑発的な恰好をして。どういうつもり? 誰に見せる気だったの?」
「だっ誰にも何もこれはただアイラさんに借りただけでっ、べっべつに変な意図があるわけじゃ!」
「君にあろうとなかろうと、それを見た他の男がどう思うかって少しでも想像した?」
「っ、そ、そうよね、私がこんな恰好をしたって、お見苦しいだけよね……」
 自分の見窄らしい体格ではとても似合う恰好ではない。現実に気付かされ、しょぼんとして俯くと、ミナの耳元に、クォークが唇を寄せて囁いた。
「まさか。綺麗だよ。普段の君は可愛いらしいばかりだけど、今日は綺麗だという形容詞が最も相応しい。いつもよりもずっと妖艶で、扇情的だ。……欲望を掻き立ててやまない……どれだけ罪深い事だと分かっていても、手を触れずにはいられなくなる程に……」
「えっ、あ、あのっ……クォーク?」
 耳元に掛かる吐息が妙に熱い。その声も、まるで熱病に冒されてうわごとを言っているかのようにいやに虚ろだ。ミナは何となく危険なような、何と言えばいいのか分からない予感を覚え、彼の腕から逃れようとするが、クォークは決してミナを離そうとはしてくれなかった。それでもどうにか顔だけは少し離して、彼の瞳を間近から見上げる。普段は物静かな筈のその瞳もまた、高熱に浮かされたような熱気を帯びていた。
 何だろう。おかしいな。恐怖なんて彼に感じるべき感情ではない筈なのに……背中を変な汗が流れる。
「あの、そのっ、ちょ、ちょっと、なんか怖い……んですけど……?」
「俺の事、怖くないんだろう?」
「それはさっきの話…………っ!?」
 掴まれていた両の手首のうち、片一方だけが不意に離される。が、それは安堵には繋がらなかった。ミナの片手を掴んだまま、クォークは彼女を引っ張って、何故か倉庫の中に入って行こうとする。
「ななななんで倉庫の中に行くのかしら!? 倉庫に何のご用事があるのかしら!?」
「ん? その装備に非常に興味があるのでちょっとじっくり点検させて貰いたいと思ってね。二人っきりになれる場所で」
 ここまでの懸念はいつの間にやら払拭されたのか、振り返ったクォークの顔は、降り続いていた雨が漸く上がったような晴れやかな笑顔になっていたが、そのきらきらとした輝きすら見えそうな好青年っぽい笑顔がどういう訳か非常に怖い。さっきの顔など比較にならない程怖い。
 怯えるミナにクォークは、そんな爽やかな笑顔のまま猫なで声で言った。
「そんなに怖がらないでよ。せいぜいちゅってしてぎゅってして、ついでにちょっとぺらってするくらいだから」
「ちゅってしてぎゅっ!? しかもぺらっ!? それどう考えても装備じゃなくて中身を点検してるわよね!?」
「装備(を着たミナ)の点検だよ」
「何か今変な小声入った!」
 心が鳴らす警鐘に従い、ミナは足を踏ん張って抗おうとしたが、残念ながら彼に力で敵う訳がない。やがて彼女はずるずると、アリジゴクに嵌った蟻のようになすすべもなく暗がりへと引きずり込まれていった。

【 Fin 】

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