指先より愛を込めて
いつもの彼の帰宅時刻よりは少し早い昼下がり。部隊本部から戻ったクォークが、普段の荷物に加えて大きな手提げの紙袋を持って帰って来たのを見て、ミナはちょこんと首を傾げた。
「お帰りなさい。……それどうしたの?」
「ん、貰った」
クォークはそう言い、それをテーブルの上に無造作に置いた。興味を引かれて覗いてみると、その中にはいくつかの食材らしきものが入っていた。砂糖と、牛印の瓶に入ったミルクと……それと、何らかの木の実。あまり見慣れないものだが、確かこれはチョコレートやココアの原料であるカカオ豆だ。
摘み上げて見ていると、脱いだコートをハンガーに掛けていたクォークが、肩越しに振り向いて補足した。
「何でもこれをヴィネルに来たショコラティエの所に持って行くと、チョコレートを作ってくれるって話だったんだけど、そのショコラティエがもうヴィネルを発ってしまったらしくて。後で頼みにいくつもりで余らせた奴らが、お菓子の素材だったらミナが一番有効活用出来るだろうってくれたんだ」
「まあ。じゃあお礼をしないとね」
折角材料を貰ったのなら、その材料で作った菓子をおすそ分けすれば喜ばれるだろう。――とは思うものの……
「うーんでも、ここからチョコを作るのは私には難しいかなあ……」
テーブルの上の材料をしげしげと眺めながらミナは顎に手を当てた。砂糖とミルクはいいとして、問題はカカオ豆だ。チョコレートの主成分はカカオには違いないが、カカオ豆をチョコレートに使えるようにするには特殊な加工を要するのだ。具体的には、コーヒーのように焙煎して挽いて使うそうなのだが、ミナにはそのノウハウはなかった。漠然となら作業工程の予想はつくものの、コーヒーも焙煎の仕方ひとつで風味が全く変わってしまうというから、やはり熟練の技を要する作業なのだろう。ミナの行きつけの製菓材料店はかなり品揃えの良い店だが、そこでもカカオを精製した後の状態であるカカオマスしか売っていなかった筈だ。
「残念だけど、このカカオ豆はお店で引き取ってもらうとして、明日、お買い物ついでにカカオマスとカカオバターを買って来るわ。それで作りましょう」
「まだ早い時間だし、俺が今買ってくるよ。カカオマスとカカオバター? それっていつもの材料店にある物?」
妙に積極的に申し出られ、ミナは目をぱちくりとする。
「うん、あるけど……。クォーク、甘いものってそんなに好きじゃなかったわよね?」
ミナが作るお菓子は食べてくれるから、嫌いという程ではないのは知っているが、どちらかと言えば苦手なのだとばかり思っていた。時折ミナは、クォークではなくサイトを誘って街の新作スイーツ探索に繰り出すのだが、それは以前クォークと一緒に話題のパフェを食べに行った折、彼が微妙に苦しそうな顔をして食べ残したのを見て、誘うのは彼には逆に迷惑になると思ったからだ。
なのにどうして、と疑問符を浮かべた瞳で彼を見ると、クォークはカカオ分の多いチョコレートのような苦い顔をした。
「別に苦手な訳じゃないよ、常人基準では。君やサイトが得意過ぎるだけ。……なにあの時のバケツパフェ……」
「バケツ……? せいぜい金魚鉢ってくらいじゃなかったかしら」
ミナの中では素晴らしい思い出として燦然と輝いているスペシャルビッグパフェを思い出しながら、両手で記憶にあるサイズの円形を形作っていると、クォークは何故かうぷっなどと言いながら口元を押さえた。
「大丈夫?」
「……大丈夫。ともあれ甘いものは、過剰な量でさえなければ寧ろ好きなくらいだよ。エネルギーの摂取効率がいいし。……他に必要なものがあれば一緒に買って来るけど?」
「大丈夫。じゃあ、お願いするね」
「ああ。行って来る」
買出しに出たクォークは、三十分程で戻ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさいー。お買い物、有難う」
火に掛けた鍋から視線を離し、振り返りながら労うと、部屋のどことなく甘い空気に鼻をひくつかせているクォークが目に入った。
「先にミルクを煮詰めてたの。本当は生クリームを使うんだけど、折角だし使えるものは使おうと思って」
「へぇ。チョコレートには生クリームを入れるんだ?」
近づいて来て、興味深げに覗き込んでくるクォークに、ミナは少しだけ得意げに微笑む。
「硬いチョコレートを作る時は粉乳を使うんだけどね。今作ろうとしているのはガナッシュっていう、柔らかいチョコレートなの。トリュフを作ろうと思ってるのよ」
言いながら、ミルクを一旦火から下ろして、代わりに別の大きな鍋に水を注いでコンロに掛けた。続いて戸棚から金属製のボウルを取り出し、クォークが買ってきてくれたカカオマスとカカオバターを細かく刻んで、それぞれ量を量って入れる。作業が終わる頃には鍋からは湯気が上がっていて、ミナは火を止めた。
その湯を張った鍋の中にボウルごと素材を入れて、木べらで丁寧にかき混ぜ始める。暫くそうしていると、次第にボウルの外側から伝わる湯の温度に、ごろごろとしていた内容物が溶け始め、もったりとした液状になってくる。完全に二つの素材が混ざり合い、滑らかになった頃合いを見計らって、ミナは砂糖も加え更に混ぜ、それも溶け切った所で鍋からボウルを取り出した。
「これに、さっきのミルクも加えるの。クォーク、そこのお鍋を取ってくれる?」
傍でじっと作業を見つめていたクォークにミナが頼むと、彼はお手伝いをする子供のような嬉々とした反応で、ミルクの入った鍋を取ってくれた。
「ここに注ぐの?」
「入れてくれる? うん、少しずつお願いね」
クォークが傾けた鍋から、暖められたミルクが、慎重過ぎるくらい少しずつ注がれる。茶色いチョコレート液に細い筋となって落ちていく白いミルクが、ミナの木べらにゆっくりと混ぜ合わされて、綺麗なマーブル模様を描きながら滑らかに溶け込んで行く。その美しい模様を名残惜しく思いながらもミナは丁寧に混ぜ、色合いが均一になった所で手を止めて、それを四角いバットに流し入れた。
「これでよしっと。後はこれを冷やして、固まったら一口大に手で丸めて、ココナッツフレークやココアパウダーをまぶしたら出来上がりよ」
ミナはそう言い、一旦調理台の上を片付け始める。まだ作業は終わりではないが、ガナッシュが固まるまではすることがない。ミナが片付けを始めると、クォークは流し台で道具を洗い始めた。
「助かるわ。有難う」
「こっちこそ作ってくれて有難う。そのボウルも?」
「あ、これはちょっと待って」
それも洗うよと手を出したクォークに、反射的に断ってしまってから、ミナは少し悩んだ。……これはつい、一人でお菓子作りをしている時にはやってしまう事だけれど、今はクォークの目があるし……でも勿体無いしなあ。
しかし乙女の羞恥心からくる逡巡も、鼻を心地よく擽る甘やかな芳香の前にあえなく崩れ去る。
ミナは流し台のクォークを、おねだりするように小首を傾げて見上げながら尋ねた。
「ちょっとお行儀の悪いことしていい?」
「うん?」
作業の手を止めずミナの方に顔を向けるクォークは、ミナが何をしようとしているのかは分からなかったようだが、「どうぞ?」と言われた言葉に甘え、ミナは遠慮なくそれを実行する事にした。
ボウルを抱え、人差し指を一本ぴんと伸ばして、その指の腹で、ボウルの内部を勢いよく一閃。茶色いボウルの底に銀色の一本道が出来、その代わりにミナの指にたっぷりと、とろりと滑らかなチョコレートが纏わり付いた。
「いただきまぁす」
その指を、躊躇いなく口の中にぱくりと突っ込み、ぺろりと舐める。その途端、濃厚な甘みが春風のように口の中に広がって、豊潤なカカオの香りがふわりと鼻孔を抜けた。
「ふわぁ……」
口内に訪れた至福に思わず表情を蕩かせて、法悦の微笑を浮かべる。地上の楽園とはまさにこの事だろう。この幸福感たるや、まるで口の中であどけない天使たちが輪になって踊っているかのようだ。甘くまろやかなチョコレートの風味にふるふると打ち震えているミナを、クォークは少し驚いたように目を瞠って眺めていたが、やがてその目を細めて笑みを含んだ声で言った。
「ずるいな、一人でそんな美味しそうな事をして。俺も欲しい」
「うん、勿論」
独り占めなんてがめつい真似をする気はない。すぐさま彼にもこの幸せを分けてあげようと、直前と同じようにボウルに人差し指を伸ばした所で、ミナははたと気がついた。
指。
指で、チョコを掬い取って、彼の口へ?
その光景を想像し、ぽんっ!と爆発したように顔を赤らめたミナは、慌てて指を引っ込めてわたわたと言い訳した。
「ス、スプーン持って来るね。ちょっと待ってて」
「いいよ、同じように指で頂戴」
「え、えーと、でも」
「ミナの指がいい」
きっぱりと要求されて、ミナの顔の紅潮が耳元にまで広がった。彼の表情をちらりと伺い見る。微かな微笑みを浮かべた涼しげな目元は、これを照れくさいことだと思っていないようにも見える。
だとしたら、自分一人で恥じらっているのは却ってきまりが悪い事のようにも思える。
「あ、あうー……で、では……」
盛大にどきどきとしながらも、それが仕草に出ないように努力して指を伸ばして、ボウルの底を先程のようにこそぐ。指に、とろりとチョコレートが絡みつき、ミナはそれを、垂らさないように気をつけながら、身体を屈めて待ち受けていたクォークの口へと運んだ。
恐る恐る彼の口内に指を入れると、唇が閉じ、ミナの第一関節の辺りを柔らかな感触が包んだ。続いて、暖かなチョコレートの絡む指の腹を、同じくらい暖かくて柔らかな物がねろりと舐める。
舌だ、と、つい当り前の事を考えてしまいながら、ミナは自分の指先が吸い込まれている彼の口元をじっと見つめ続けていた。全身の神経が指先に集まってしまったかのように、その柔らかさに意識が集中してしまう。
指先が、優しく暖かく愛撫される。指の腹から脇までをくまなく舐めつくされ、爪の先を舌先で擽られるように撫ぜられ。舌と上顎で包み込んだまま、唇を窄めてこそぐように吸い上げられ――
ちゅ、と、まるでキスをするような音が聞こえた瞬間。弾かれたように我に返ったミナは、慌てて指を引き抜いて、自分の胸の前に抱き込んだ。
顔と、耳と、指先が酷く熱い。
なんだか……なんだか、物凄く、いけない事をしていたような、気がする。
どきどきと激しく鼓動する心臓をどうにかして鎮めようと、胸に自分の手を押し付けるミナを、クォークは悠然と見下ろして、余裕の表情で笑った。
「あれ、もう終わり?」
「も、もう終わりっ! もうチョコは舐め切ったでしょう!?」
「ふぅん、残念。凄く美味しかったのに、ミナの指」
甘い、甘いチョコレートのような声。ふわり、と耳元に近づいてきた唇から、濃厚な糖分を含んだ、愛を囁くかのような声音で告げられて、ミナの顔がまたもやぽふん!と爆発する。
「ゆゆゆゆび美味しかったって……! お、美味しいのは指でなくてチョコであって……!!」
狼狽しきってしどろもどろに言い返すミナを、クォークは微笑ましげに見届けてから、何事もなかったように洗い物の作業に戻る。
その飄々とした横顔に、からかわれたのだと気付いたミナが、彼の広い背中をぽかぽか殴り始めたのは、それから十秒後の事だった。
【 Fin 】