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19


 ぽつ……ん。

 水の滴るような音を聞き、彼女は閉じていた瞼をぴくりと震えさせた。
 寝起きの仕草のように、ニ、三度、上下の瞼を擦り合わせ、緩慢に開く。
 気がつくと、暗い水面の上に、ミナは立っていた。

「あれ」
 間延びした声で、呟く。きょときょとと周囲を見回しても、全くの暗闇に塗りつぶされていて、周囲の状況を把握する事は出来ない。
 ただ、暗闇の中に浮かぶ自分の身体と、足元の水面に広がる同心円状の波紋だけが、淡い光を放つように闇の中に浮かび上がって見える。
「ええと……」
 何だっけ。どうしたんだっけ。何で、こんな所にいるんだっけ。ここに至った経緯を思い出してみようとするものの、夢の中にいるかのように思考が纏まらず、記憶の糸口すらも掴む事が出来ない。
 よく分からないながらも、とりあえずミナは、真っ先に思いついた一番大事な人の名前を呼んだ。
「クォーク、どこにいるの?」
 周囲に広がる広大な闇は、そのミナの声を吸収し、
 そして、爆発するように、不意に光を撒いた。

 唐突な眩さに咄嗟に目を覆ったミナがその腕を下すと、足元には直前までとは全く違った光景が広がっていた。
 灰色で、無機質な、そこは閉ざされた世界だった。

 二人の人間が灰色の世界の中央で対峙している。
 一人は青年というにはまだ年若い年代の少年。
 もう一人は長柄の両手斧を携える、金髪を結い上げた上品そうな女。
 その様子をミナは、透明な天井に立って見下ろすような視点で眺めている。

 女が、ふと、赤い紅を引いた唇を開く。
「ごめんなさいね、クー」
 そうして女は、優しく微笑み、
「愛しているわ。さようなら」
 使い古した愛用の道具を捨てる哀惜を込め、斧を高々と掲げ、
 殺意を纏った鋼鉄の塊が、少年の頭上に、何の躊躇もなく振り下ろされる。

「だめっ!!」
 ミナは夢中で叫び声を上げた。
「――避けてっ、クォーク!!」

 眼下の灰色の世界は、言わば舞台の上、観客には手出し出来ない隔たれた世界であった。誰に説明された訳でもなかったが、ミナは何故かそう自然と理解していた。
 けれど、たとえそうであったとしても、声を上げずにはいられなかった。たとえ無駄であっても。たとえ不可能であっても。
 諦める訳にはいかなかった。

 ミナが叫んだ瞬間。驚くべきことが起きた。
 舞台上の少年は、まるでミナの声が聞こえたかのように、今の今まで硝子玉のように色のなかった目をはっと見開いた。同時に強く床を蹴り、斧の一撃を躱す。
 女の斧が、無機質な床を強かに打つ。
 女は、長大な斧を振り下ろした体勢で、柔和な笑顔に僅かばかりの困惑を混ぜ、少年に告げた。
「これは戦闘訓練ではないのだから、命令も無いのに動いちゃ駄目でしょう、クー」
 その言葉に、少年は――ほんの微かに、声にならない声で、囁いた。

「だって、今、――声が、聞こえた」

 届く! 届くのなら、遠慮なんてしてやらない。仮に大切な舞台を、決められた台本をぶち壊しにする真似になるのだとしても、絶対に助けてやるんだから。
 下の世界に、別の人物が闖入し、何らかの異常事態が発生している事を女に伝える。その隙に、少年はその場から逃走した。
「こっちだよ、クォーク、こっち!」
 今は先程のようにミナの声が聞こえている様子はないが、少年は誘われるままにミナが指し示す方向へと走っていく。
 やがて、灰色の世界を抜け出た彼が森の中を走っていくのを、ミナはもう大丈夫と気付いて見送った。
 ああ、よかった。



 足元の情景がいつの間にか変わっている。
 暗く、壊滅的に崩壊した廃坑。高い位置にある大きな窓から、白い月明かりが煌々と差している。
 淡い光に照らされて、二人の兵士が鋭い刃を閃かせ、銀光を散らし合い、熾烈な剣戟を繰り広げている。
 その戦いは沈黙の中、長く続いていたが、次第に両手斧の戦士の方の動きに遅れが生じるようになってくる。
 いけない。
 まだ決定的には体勢を崩してはいないが、多分この均衡が保たれるのはあと僅か。
 そういう時点で、壁にしがみ付きながら二人の戦いを傍観していた少女は先の展開に気づき、壁から手を離して飛び降りていた。それなりの高さがあり、下の足場も良くはなかったが、どうにか着地して、走り出す。
 彼が体勢を崩したのは、その時だった。
 それでも流石の反射速度で立て直し、姿勢の不利を逆に踏み込みの勢いに変えた強烈な一撃を、敵の胸元へと突き付ける。
 けれどもそれを、敵は躱し切り、反撃の刃を振るう。そして、
 割って入った少女の身体に血の花が咲いた。

 倒れゆく少女を、彼は愕然とした眼差しで見つめていた。
 今の彼の目に、彼女の姿以外には何も映ってはいない。
 このままでは、彼は多分目の前にいる敵なんか無視して、少女を抱き寄せてしまう。
 そんな事をしていては敵の攻撃を無防備に受けてしまう事も。
 そこまでして手を差し伸べたところでもう遅いのだという事も。
 きっと、全部理解した上で。
 笑いたくなってしまうような、泣きたくなってしまうような気持ちで、ミナは思う。
 信じていた通りだった。あなたはどこまでも優しかった。少将が言っていた事なんてやっぱり嘘だった。最後の最後まで、あなたの愛情に一片の迷いも生じることはなかった。
 嬉しい。とても嬉しい。嬉しい、けど。
 ――でも、違う。
 私は、たった一秒あなたの時間を伸ばすだけの為にそんな事をした訳じゃない。

 倒れゆく『私』に声を紡ぐ力はなかったので、代わりにミナが、伝える。

「――だめだよ。
 違うよ。あなたが手を伸ばす方向は、そっちじゃない」

 けれども彼は、『私』に手を差し伸べることをやめない。

「だめだよ」
 再度囁きながら、心から願う。
「振り返って。武器を握って。
 敵を斬るの。私の為に。
 ――私が作った時間を、無駄にしないで、クォーク――!」

 あなたは生きて。私の為に。



 何処までも遠く、荒れた山々が広がっている。
 遥か眼下には、巨大な岩山――否、山城が見えた。
 その全景が視界に入る程の高所から見下ろすミナの目に、それは映った。山城の片隅。外壁から外を望む小さなテラスのような場所で、彼が蹲っている。
 そしてその遥か頭上では、城の外壁であった岩盤の一部が崩れ、山肌を転がり落ちるように落下を始めた所だった。
 城の巨大さゆえに、その崩落は非常に緩慢なようにも見えたが、実際には十分に驚異的な速度で岩塊は落下している。
 だがそれでも、普段の彼であれば、避けることは可能だった筈だ。
 けれど、彼はぴくりとも動く様子を見せない。
 彼の膝の上で眠っている『私』の姿が見える。彼は『私』を抱えたまま、何もかもを受け入れるつもりでいるのだろう。

 そんなことは、させない。
 城を見下ろす高さに立っていたミナは、一切迷わずに、そこから飛び降りた。
 真っ逆さまに、彼に向かって飛んでいく。

 いつだって、何よりも、私の為だけを一心に思って、自分の傷なんてまるで厭わずに、護り続けてくれたあなたを。
 今度は私が助けるよ。何度だって。何度だって。あなたがそうしてくれたように。
 私が、あなたを護る。

 空が。すぐ近くの城壁が。凄まじい速度で視界の後方に流れてゆく。
 迫り来る景色の中央にクォークと『私』の姿を見据え、真下へと直滑降するミナの身体は、落下する岩盤を途中で追い抜き、そしてそのまま――





 頬に涼やかな風を感じて、クォークは薄く目を開いた。
 ……ここは……何処だ? 俺は……
 余程深く眠っていたのだろうか。いつになく状況把握に時間がかかる。
 風。穴倉の中とは違う空気の匂い。暗い星空に、淡い月明かり。屋外なのは、分かる。
 横たわったままの頬に触れるゴツゴツとした感触は、岩肌か――いや、何か違うものである気もする。もっと、何か、無機質ではない……硬質化した皮膚とか、鱗、のような――?
 どうにも要領を得ない自分の想像に違和感を感じながら、身体をゆっくりと起こす。全身が、所々痛む。先の戦闘でまた全身に傷を負っていたのだと思い出すが、動くのに支障が生じる程ではない。
 先の戦闘。
 漸く――まず真っ先に思い出さなければらなかった事に気がついて、クォークは周囲を見回した。
 黒い地面と、空、それ以外に視界に入るものはなかった。ネツァワルの山々すらも。風だけが強く吹く何もない空間で、自分はただ一人、倒れていたようだった。だがそんなことはどうでもいい。ミナ。ミナは。ミナは何処だ。ミナは。
 彼女の姿を求めて視線を忙しく彷徨わせる。そうしているうちに、何故か自分の意識が地面の方に向き、そこで固定されてしまう。黒く、硬い、硬質化した皮膚のような、鱗のような、地面。
 そのまま顔を前へと向ける。何もない、と思っていたが、正面には空に浮かぶ丸い月がゆるりと横から動いて見え始め、その光に、大木の幹のような、巨塔のような、大きく存在感のある何かのシルエットが浮かび上がった。
 ばさっ――――……
 力強い羽音が耳を打つ。向かい来る強い風が、大分伸びてしまっている前髪をかき上げる。
 この時初めてクォークは、自分が巨大な何かに乗って、天高くを飛んでいることに気が付いた。
 ……正面に、意識を戻す。
 正面にある大きな物は、それは木でも塔でもなく、巨大な首だった。人を背に乗せて飛べるほどの、大きな、大きな爬虫類の、首。
 漠然とクォークは理解する。これは、古くからの言い伝えにある、あの生物。
 言い伝えどころか、ほんの幾度かに過ぎないが、実際に戦場で目撃したことすらある。強い思いを残して斃れた兵士の魂を宿し、ごく稀に戦場に顕現するという、最強最大の召喚獣。
 ――ドラゴン。
「……ミナ?」
 自然と、殆ど意識すら介さずに、口から名前が零れ出る。
 巨大な首がゆっくりと捻られ、鋭利な輪郭をした竜の顔がこちらを向く。

 ――凄いね、クォーク。どうして分かるの?

 肉声ではないが変わらずに愛らしい彼女の声が、耳の奥に甘く響いた。



 ばさ、と、時折巨大な翼を羽ばたかせながら、ミナは夜空を気持ちよさそうに滑空している。
 王城の真上ではなく、そこを中心としたかなり広い範囲を、のんびりと周回しているようだ。聞こえるのは羽音と風を切る音のみで、それ以外は、崩落の音も、人々の気配も、何も聞こえない。
 クォークは、ミナの背中から首元の方に移動して、太いうなじに寄り掛かった。首の根元辺りの黒い鱗――もしかしたら暗い月明りの下でそう見えているだけで、実際には深紅とかそういった色かも知れない――を撫でるとミナは少し擽ったそうに身体を揺らした。
「……まさか、ドラゴン召喚にまで成功するとは。これぞ裏方千人長の真骨頂か」
 ――褒めても何にも出ないわよ。
 ミナは、先程と全く同じ言葉で賞賛を受け止めた。
 今のミナの声は、通信石の音声に似た、頭の奥に直接聞こえてくるかのような音声だった。通信石のそれは、魔力を使って音を思念に変換して遠隔地の相手に伝える技術だ、とか何とか聞いたことがあるような気がする。ドラゴンの、余りにも人のそれとは構造と違い過ぎる口から人間と同じように発声するのは難しいだろうから、そういう魔法的な意思疎通方法を採っているのかも知れない。……分からないけれども。
 ミナの首に寄り掛かったまま、クォークは静かな気持ちで夜空を見上げ、一応、状況確認をする。
「その召喚状態って、解除出来るの?」
 ミナは、うーん、と考えるようなそぶりを見せてから呟く。
 ――出来るかもしれないけど、解除した途端、死んだ直後の私に戻ったりしたらと思うと……
 召喚獣を解除した直後の召喚者のコンディションは、通常、召喚直前の状態となる。となるとどうしてもその危険は考慮から外せない。
「ああ……それは困るな。流石の俺もネクロフィリアではないから」
 ――ネク……、何?
「死体愛好趣味」
 ――それは、ちょっと、嫌。
 ちょっとどころか心底嫌そうな、控え目に言ってドン引きと表現して差し支えないミナの声音に、クォークは軽い笑い声を上げた。
「死体は俺も困るけど、生きているならドラゴンでも何でも別に構わないよ。君とだったら、猫だろうとドラゴンだろうと恋愛出来る。……ちょっと予定が早まったけど、兵士辞めて一緒に静かに暮らそう。誰の目にも触れない所で。二人だけで」
 ――こんなに身体が大きかったらどこにも住めないよ。
「どこかの山に大きな家を建てて住めばいい。本当は、俺もドラゴンになれるまで何百回でも何千回でも戦死してやるよって恰好良く言いたい所だけど」
 ――戦死は大抵人生で一回しか出来ませんー。
「そう。それが問題なんだよな」
 ――ドラゴンって、なったらずっとそのままなのかな。
「どうなんだろう。普通の召喚は、戦場の魔法装置の作用で召喚状態が維持されるけど……ドラゴン召喚は、系統的には前の猫の時と一緒で、装置の制御下にはないような気はするね」
 もし以前の、猫に変化してしまい元に戻れなくなってしまったケースと似たような現象であるのならば、そもそも解除自体、特殊な方法を用いなければ出来ない可能性は考えられる。あの時は、たまたまその頃首都に滞在していた高名な魔女に助言を貰い、どうにか元に戻ることが出来たのだが、ドラゴンと化した者全員が全員、そのような幸運を得ることは出来ないだろう。
 ……そもそも最初に考えたように、召喚解除後の状態に不安が残るのだから、寧ろ召喚状態が自然に解除されたりしない方がある意味好都合ではあるのだが、その場合、一体どうなるのか。クォークがかつて見たドラゴンも、全く面識のない、多分敵であった兵士で、戦闘が終了したその後、一体どうなったのかは知らない。
 ――ドラゴンになった人は、一体どこに行くんだろう。
 全く同じ想像をしていたらしきミナのその問いには、クォークもすぐには返答する事が出来なかった。
 もし戦死した兵士が度々ドラゴンになっているのだとしたら、今頃このメルファリアに生息するドラゴンの総数は大変なことになっている筈だ。ドラゴンになる――生まれ変わる頻度はごく稀であっても、このメルファリアでは数え切れない程の召喚の機会があるのだから。しかしいまだかつて、ドラゴンが戦場以外で観測されたという記録はない。どこか人目のつかない場所に隠れ住んでいるとしても、元が兵士であるならつい過去を懐かしんで、人里に現れた所で不思議ではないだろうに。
 やはり、近々自然と召喚状態が解除されてしまうのか。或いはそうでなくとも、強靭そうに見えて実は寿命がとても短い生物なのか。人としての意識がやがて薄らいで、野生に還ってしまうのか。そうであるとしたら、彼らはどこへ消えるのか。メルファリアを囲む絶海の外、誰の手も届かない未知の世界にでも旅立ってしまうのか……
 疑問は尽きなかったが、しかしそのどれもが、クォークにとっては然程重要ではない問題だった。
「君と一緒に行けるなら、どこにだって行くよ」
 もし寿命が短いならその時こそ共に消えよう。外界に旅立つのならどこまでも一緒に行こう。もし人としての意識をなくしてもずっと抱き締めていよう。
 ――ほんとうに?
 問いかける声に迷わず頷く。
「うん」
 ――――……
 ミナの返答の声はなかったが、明らかな逡巡の気配が伝わって来る。クォークは、視線をミナの顔の方へと向けた。ドラゴンの未発達な表情筋から窺い知れない筈の困惑が、クォークには手に取るように分かる。
 ミナは牙の並ぶ大きな口吻を開けて、溜息のように静かに囁いた。
 ――だめだよ、ちゃんと、皆の所に帰らなきゃ。
 それは、まるで母親が、冷静に幼子を諭すような声に聞こえて。
 クォークは聞き分けのない幼児のように、ミナの鱗にしがみついて首を振った。
「嫌だ。俺に、ミナのいる所以外に帰る場所なんてない」
 けれどミナは、そんなクォークの勘違いを包み込むように、暖かな声音で、ゆっくりと囁く。
 ――違うのよ、クォーク。そういう意味じゃない。私にも、クォークの隣以外に帰る場所なんてないもの。
 ――私も、帰りたい。
 ――欲張りな話だって分かってる。でも、私も、皆の所に、クォークと一緒に、帰りたい。

 一人では何も出来なかった。
 二人でも多分足りない。
 私たちが、私たちになれたのは、皆がいたから。
 たくさんの人たちと、この世界で出会えたから。
 だから、二人きりじゃ、幸せかもしれないけど、足りない。私は、私たちのいるべき世界へ、皆のいる世界へ帰りたい。
 皆のいるメルファリアで、クォークと一緒に、生きたい。



 その時、世界の果てから光が溢れた。

 荒廃したネツァワルの山々の向こうから、虹色の洪水が溢れ出して来る。弾けんばかりの光の粒子を伴って、萌えいずる草木のように生命力に満ち溢れた新しい太陽が、片端から世界を朝に塗り替えて行く。
「あぁ……」
 ミナの、竜の口から肉声が漏れた。体格と比例して太い音が出るものと思われたが、その音は笛の音のような涼やかに澄んだ音だった。
 墨色一色で塗り固められていた世界が紺碧を経て朱に染まり、緩やかに色を取り戻していく様を、ミナとクォークは上空から声もなく見守った。
 雄大に広がる赤茶色の大地が燃えるように輝く。
 王城を取り巻いて流れる大河の水面が眩いばかりの黄金の煌めきを空へと返す。
 そして山の麓にある沢山の、色とりどりの命。

 ――あ、みんながいる。
 遥か地上を見下ろして、ミナが呟いた。
 地上では、黎明の空に現れたドラゴンに驚いているらしく、顔見知りの兵士たちもそうでない兵士たちも、皆一様にぽかんと口を開けて上空を仰いでいる。しかしドラゴンの姿のミナの方は偶然会った友達に駆け寄るように躊躇なく、緩やかに旋回しながら高度を落としていく。
 近付いて来るドラゴンの巨躯に攻撃を仕掛けようとする者は誰一人、いなかった。

 鳥の羽が舞い降ちるように、竜は地上に優しく降りる。
 そして。
 ふわりと、その小さな足で着地した少女は、後ろに立つ青年の手を笑顔で握り、その手を引いて、仲間達の方へと駆け出した。


 * * *


「戻れたのダな」
 ほっとしたように呟かれた片言の発音に、彼女はちらと、自分の肩の斜め上辺りに視線を向ける。
 そこには今日も普段と変わらずに、彼女の小さな相棒がふわりと浮かび上がっている。
「修正の為とハいえ、彼女も大きく軛かラ外れてしまッタ故、そのまま排除さレルのでハと思っていタのだガ」
「心配していたのですか? 優しいのですね」
 くすりと笑いながら褒めると相棒は、くるりと身体ごとそっぽを向いた。
「お前ガそう作ったダけだロウ」
「まあ。一人前に照れて。可愛らしいこと」
 口元に手を当てて笑うと更に拗ねたように、相棒は押し黙った。
 そんな愛しき相棒に、彼女はダンスを誘うかのように手を差し伸べる。中空を優雅にひと撫ですると、相棒は彼女の思うままに、ふうわりと、彼女の周囲を漂い巡る。
「死の淵から生還する奇跡如き、大したことではありませんわ。そも、この世界に生きている事それ自体が、稀なる奇跡なのですから」
 歌うように、祝福するように。彼女は、いかにも楽しげに言った。
「さあ、もう一人の愛し子もお見送りに行きましょうか」



 濃密な霧が立ち込めているかのように真っ白な空間に、女は一人、背筋を伸ばして立っていた。女が立つその場所に、目印になるようなものは何もなかったが、女はそこが停車場である事を知っていた。しばしの時の後、己を迎えに来る馬車に乗り、自分がここから去らねばならぬ事も知っていた。
 身じろぎひとつする事無く、静かに瞼を閉じて迎えを待ち続けていた女は、不意に、傍らに気配を感じて、その目を開けた。
「あなたも、馬車をお待ちなのかしら?」
 手持ち無沙汰な時間を持て余し、戯れに問いかけると、女の隣に佇む気配は、鈴が転がるような少女の声で無邪気にいらえた。
「いいえ。わたくし、あなたを少々興味深く思ったもので。少し時間があるようでしたから、お見送りついでに少しお話でも出来たらと思って参りましたの」
「そう。……羨ましい事ね。人を超える力を持つ存在というものは」
 抑制された声音の中、僅かに口惜しさを滲ませた女の声に、少女の気配がくすりと笑声を漏らす――そこには女が指摘した通りに、超然とした賢者の雰囲気が漂っていた。
「散々無様な振る舞いをした手前、もうこれ以上見苦しくありたくはないと思っていたけれど。愚痴を言ってもいいかしら」
 告解を聴く司祭のように微笑む少女に、女は口を開く。
「彼女と同じくらいに、あなた方魔女は小憎たらしい存在だわ。強大な力を持ちながら、積極的に歴史に介入するでもなく、時折気まぐれに災いを振りまくのみ。その力、私が持っていたならばもっとずっと有効に活用したのに。……ええ、自分が道理の通らない文句をつけていることくらい理解はしていますけどね。所詮、あなたたちと私たちは違う生き物。異なる生物の営みにいちいち首を突っ込む義理も義務もあなた方にはないのだもの」
 一頻り、吐き出し切った所で、女は疲れたように大きく溜息をついた。
「人を超える力を得ようとした天罰なのかしらね」
「そんなものは罪に当たりませんわ。少なくとも、私たちの価値観に於いては」
 くすくすと笑いながら、女の勘違いを少女は訂正する。
「ただ、あなたは少しやり過ぎました。この世界は自由を愛しますが、やり過ぎは酷く嫌うのです。あれだけ不用意に世界の軛を外す人の子が現れれば、その修正の為、世界は同じ人の子を因果律から抜け出させ、対抗させる事も辞さぬでしょう。コツは、世界の目を上手く盗むことです。次の生ではその辺り、慎重に加減をしつつ秘密裏に事を進め、飽くなき探究に邁進する事をお勧めします」
「それは、あなたたちの失敗に基づく経験則かしら。だとしたら少しは胸がすく思いだわ」
 女は少しだけ笑い、自分の往く道の先を迷いなき瞳で見据えた。
「そうね。私にも次がもし、あるのだとしたら。今度は……」

 真っ白な景色の中、筆で墨を引いたような轍を描いて馬車は走り去って行く。


 * * *


 ――生きようとする力の多寡は問題ではない。確かに彼女のその力は強かっただろう。だが、これまでに死したる者どものそれと比して大きく違っていたとは思えない。
 もし、願う力の強弱が命運を決するのであれば、奴は絶対に死ぬ事は無かった。
 奇跡なんてものはこの世界に存在しない。
 ただ、偶然はあるのだろうよ。

 ネツァワル国首都ベインワット――義勇兵部隊《ベルゼビュート》部隊長執務室。
 このネツァワルでも有数の大部隊の長たる者の執務室であるが、その場所は、いっそ質素と言っていい程の質実剛健ぶりを徹底していた。年季の入った飴色の壁、重厚な黒樫の机、革張りの椅子は立派なものだが、どれも実務的で簡素な意匠である。装飾に類するものと言えば、部隊長の椅子のすぐ傍に飾られている重装鎧と盾くらいであるが、華美な装飾を施された美麗な品ではあるものの、これだって日常の戦場で使い倒している実用品そのものだ。
「……そういえば、あんたあの時、盾を持ってなかったよな」
 何となく、その見慣れた盾に目を止めて、クォークはそんな事を思い出した。
 《ベルゼビュート》を始めとする大連合を率い、旧ネツァワル王城に乗り込んできたあの時。その先頭に立っていたこの部隊長の姿は確か、
「盾というか鎧すら着てなかった。あの軽装だと短? 何で?」
 部隊長は革張りの椅子に深く座し、腕組みをしたまま、いかにも意味ありげに重々しく頷いた。
「国王の勅書を」
「うん?」
「あの巻物を、こう、スマートに懐から取り出してシュッと開き、ババンと両手で開いてあの女狐めに見せつけてやりたかったからな。その時に重装備の上盾まで持っていては邪魔だろう?」
「えぇ……?」
 凄く納得行かない返答を聞かされた気がしてクォークは眉を寄せた。それは、手慣れた武装をわざわざ変えてまで戦場に出るには十分な理由ではないように思うのだが。少なくとも自分なら、ソーサラーに転職していきなりその日に戦場に出ろと言われたって断固拒否をする。
 もしかしたらクォークが見たことがなかっただけで部隊長は短剣スカウトの心得はあったのかも知れないから、少し違う話なのかもしれないが。
「……あの時代わりにその盾を持っていたのはシグルドだったな。あんたは部隊長降りるの?」
「別にウチに、部隊長は盾持ちでなくてはならないという決まりなど無いぞ。あの引退間近の老人を今更頭に据えてこれ以上部隊の高齢化を加速させる気もない。ただでさえ若手筆頭のお前が抜けるなどとつまらん冗談を宣ってきている時に」
「冗談のつもりはさらさらないんだけど」
「より冗談がきつい」
 部隊長はこれ見よがしに、はぁ、と溜息を吐くがクォークは素知らぬ顔を続ける。部隊長の隻眼が、いかにも厄介そうに、執務机の上に置かれた簡素な封書に向けられる。
『脱退届』
 封書にはそう表書きがされていた。
 一年前、この場所で提出したそれと全く同じ表書きである。あの時は中身を見られる事もなく破り捨てられてしまったが、中身も日付以外は全く同一だ。どうせ大した事は書いていない。
「辞めた後はどうするつもりだ?」
 渋々ながらといった体で、部隊長もまた、あの日と一字一句違わぬ問い掛けを発してきた。脱退希望者全員に聞く決まり文句なのかも知れない。
 あの時クォークはこの問いに対し、言う必要を感じないと突っぱねた。エルソードに渡る気満々であった内心を隠し。尤も、その企みは即時に看破されたのだが。
 しかし今回はそう尖る理由もないので、特に隠し立てなく素直に返答する。
「まだ決めてない。田舎の方に引っ越してゆっくり暮らすのもいいし、ヴィネルも候補に上がってる。ル・ヴェルザなんかの港町ならミナも馴染めそうだ。あ、勿論今の寮は近々出て、暫くふらふらしながら考える予定だけど」
「別に退去はいつでも構わん。諸々決まってからでいい。そういう重要な事はじっくり腰を据えて決めてから動け、馬鹿者」
 無鉄砲な子供を叱る声でそう言われ、クォークは、ハイ、と首を竦めて返事した。
 やれやれと、そんな顔で部隊長は鼻から息を吐き出し、机の上の封書を手に取ると、今回はそのまま引き出しの中へしまい入れた。
「これは受理しておく。気が変わったらいつでも戻って来い。兵士は消耗品だからな、再入荷はいつでも大歓迎だ」
「面と向かって消耗品とか言うか普通」
 呆れた声で返すが、消耗品もかくやと思われるくらいの荒い人使いをするこの部隊長が、その実本気で兵士を消耗品などとは思っていない事くらいはもう知っている。
「さっさとガキでも仕込んで連れて来い。……それとももう実は仕込みは完了しているのか? 後はしばし熟成させるだけか? ん?」
「だから何であんたの言い方はそう下品なんだよ……。まだだよ」
 上司のシモネタだかセクハラだかに半眼で返しつつ、しかしすぐにいつもの事だと嘆息でその感情を吹き散らす。
 吐息と共に若干荒んだ感情を吐き出してから、少し冷静になった心持ちで、執務室の壁を見上げる。
 何年もの間幾度となく足を運んだ部屋であるが、感傷を覚える程に良い思い出はない。唯一、このネツァワルでミナと再会した場所であるという一点だけは印象深い記憶として残ってはいるが、それも、よりにもよって何でここ、という思いの方が強い。とにかく、この執務室――というよりも、この《ベルゼビュート》での経験は、ろくでもない事ばかりだったし、どうしようもない程くだらない事ばかりだった。
 それでも、何だかんだで見慣れてはしまった執務室を再度一周ぐるりと見回してから、クォークは部隊長に真っ直ぐ向き直り、姿勢を正した。
 最敬礼の角度で、一礼する。
「お世話になりました」
「うむ。……達者で暮らせ」
 恐らく初めて見せたであろう殊勝なクォークの態度に、部隊長は茶化すこともなく鷹揚に頷いて、彼女にしては意外な程に平凡な言葉で部下を送り出した。



 普段の退勤時と同じような調子で、誰に挨拶するでもなく部隊本部を出る。と、玄関のすぐ横で、壁にのんびりと寄りかかり、ぼんやりと空を見ていたミナが、出てきたクォークに気が付き、振り向いて満面の笑みを浮かべた。
「悪い、待たせたな。中で待っててくれればよかったのに」
「ううん。今日はいいお天気だったから」
 ぽん、と階段を一段元気に飛び降りて、ミナはクォークの元に駆け寄り、嬉しそうに腕を絡めてくる。

 ――ドラゴンの姿で、皆の前に降り立ったあの瞬間。彼女の召喚状態は自然と解除され、現れたのは死体ではなく、全く無傷な元の彼女の姿だった。あれが、ドラゴン召喚の仕様であるのかその場限りの奇跡であったかは、今や知る由もない。今後もそれを知る機会はないだろう。
 今、彼女が自分の隣で笑っていてくれる奇跡以上の奇跡など、別に必要ない。

 手を繋いで、ベインワットの象徴たる斧の門を望みながら、大通りを家に向かって歩いて行く最中、ふと、ミナが思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば、あの時クォーク言ってたよね」
「何だっけ?」
「作戦前や作戦中に言っちゃいけない言葉があるって。あれ、結局なんの事だったの? もう作戦は終わったし、言っていいことなのよね?」
 思いもよらない死角からハイドしたスカウトが飛び出てきたかの如き指摘に、ごふっ。と、つい咽ってしまう。
「……随分と急に思い出したね?」
 曖昧に微笑みながら、ミナの顔を見下ろす。油断していた。決して忘れていた訳ではないが、もう少し落ち着いた頃に改めて言うつもりだった。
「死んじゃいそうだった時思ってたのよ、結局あれ何だったのかなーって。頭の中で三割くらい」
「三割……意図に気付いてたんだとしたら少ないような気もするし、気付いてないんだとしたらただの雑談に対して割り振るには大分大きい、絶妙にコメントしづらいラインを突いてくるね」
「意図?」
 クォークの呟きに、ミナは心から不思議そうに、無垢な小動物のようなつぶらな目をして首を傾げる。
「……うん。君が心理的な駆け引きとか出来ないのは知ってるんで単純に気付いていない方だってのは分かってた」
「駆け引き?」
 重ねて尋ねてくる。やはり、本当に分かっていないようだ。
「それで、結局どういった話だったの? もう言っていいんでしょ?」
 しかし分かっていない割にはぐいぐいと、今日のミナは迫って来る。いや分かっていないからこそか。しかしいつもであれば相手が言い淀む様子を察すれば引く優しさも持っている筈なのだが、今日は何故だか容赦がない。
「いやうん言っていい事ではあるんだけど。え、今? 今言うの? ここで?」
「何で? まずいの? 機密事項か何か?」
「いや違うけど……」
 どうこの場を凌ごうか、と考えていたクォークだったが、しばし瞑目して、決断する。慎重に雰囲気を選ぶ事も大事かも知れないが、巧遅は拙速に如かずとも言う。今、目の前にある機会をみすみす逃すというのは兵士として不適当な挙動であるように思えた。

「ミナ」

 多くの人々が馳せ違う首都の雑踏の中、足を止め、呼びかけると、彼女もまた立ち止まって、きょとんとこちらを振り返る。
 燦々と輝く陽光を浴びて、少女の髪がきらきらと燐光を散らす。大陸中至る所に存在し、人々に様々な恩恵をもたらすクリスタルのように。
 クォークはその眩さに目を細めて少女の姿を瞳に映す。
 初めて会ったその時も、彼女は光の中にいた。

「ミナ。俺と――……」







【FIN】


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