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結婚式


  青く澄み渡る空には真っ白な雲が浮かび、眼下に大きく広がる海もまた、穏やかな空模様を映す鏡のように静かな水平線を引いている。
 大地に、街の石畳に、花々で彩られた広場の一角に、虹色の光彩を帯びた暖かな日差しが降り注ぐ。
 色とりどりの花に囲まれる形に設えられた祭壇の前で、緊張すら通り越して茫漠とした心持ちで立ち尽くしながら、俺の目は、ただ一人の少女の姿を映し続けていた。
 純白の衣装を纏い、付き添いもなく、一人。凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐに敷かれた赤いカーペットの上を、笑顔の人々が散らす花びらの雨を浴びながらゆっくりと近づいてくる。

 ――何もかもが、夢を見ているかのように曖昧で。
 聞こえている筈の音も聞こえず、見えている筈の色彩も感じることなく、彼女の姿だけがやわらかな光の中に浮かび上がっている。

 恐らく現実的には然程の時間でもなく、しかし俺には永遠とも思えた時の果てに、少女は俺の目の前にまで辿り着く。
 女神のような慈愛溢れる眼差しで、優雅に持ち上げられたその手を、俺は無意識のままの仕草で取った。
 彼女の柔らかな指先からぬくもりが伝わってくる。
 その時になって漸く、目が覚めたように、世界の鮮やかさを思い出す。

 頬に触れる風。花の香りと潮の匂い。儀式の荘厳さなんて一顧だにせず浮かれた歓声を上げている仲間たち。
 薄いヴェールの奥で微笑んでいる彼女。

 白く、神々しく、それでいて、優しく、甘く、輝いて。
 彼女以外の何もかもが消えてしまう幸福で孤独な世界から、何度でも、力強く俺を連れ戻す。

「……綺麗だ、ミナ」
 忘我の境に立ちながら、唇から滑り落してしまった心からの囁きを、彼女は拾い上げて、眦を下げる。
「クォークも、凄く素敵」
 気の早い誰かが鳴らした祝福の鐘の音が蒼天に響き渡る。
 ――こんなにも天気のいい日は、今後の生涯でもきっと幾度もないだろう。



 
「ラムダさぁーん!」
 懐かしい旧友の顔を見つけたミナが子供のように大きく腕を振る。それに応え、いつだか見たエルソードのスカウト――と言っても今日の衣装はパーティのゲストらしい華やかなドレスで、スカウトらしさがどこかにあるわけではないのだが――が、駆け寄るミナを、両手を広げて迎えた。
「ミナ! 相変わらずちっちゃい! ちゃんと食べてるの!?」
「食べてるよー!」
「どこぞの甲斐性無しの所為でひもじい思いをしてるんじゃないでしょうね! そんなだったら私今からでも結婚反対するからね!?」
「あはは大丈夫だよ、ラムダさん心配しすぎー」
 にこにこと笑うミナを尻目に、女はこちらにチラチラと視線を向けつつ小姑じみた嫌味を言って来るが、俺は慎みを持って祖国の友人同士の再会に水を差すのを控えた。
 ……そう言えば、まだミナがエルソード国民であった頃、俺も痩せぎすな彼女をを見てどれだけ困窮しているのかと不安になった事もあったと思い出す。一緒に暮らし始めて知ったのだが、彼女は別に食うに困って痩せていたわけではなく、単に非常に燃費が悪い体質なだけのようだった。寧ろ体格の割には食べる方であるくらいなのだが、驚くべき事にどれだけ食べさせても一向に肉付きがよくならない。努力も中々身につかない方だがカロリーもなんだなとなんとなく思ったものの流石に失礼過ぎて口に出したことはない。
「ああでもまさかミナの結婚式に出席出来る日が来るなんてねえ。長生きはするものだわ」
「ラムダさんおばあちゃんみたい〜」
 友人のとぼけに明るい笑い声をあげたミナがふと、俺の方を振り向き、
「ちょっと友達に挨拶して来るね」
 と告げてきたので頷いて送り出した。エルソードの友人達と話すなら俺はいない方がいいだろう。俺はその場所から離れてぶらぶらと歩き出した。

 ネツァワルの面々に加え、ミナのエルソードの友人もが参加可能な披露宴を設定するとなれば、その会場はこのヴィネル以外に選択肢はなかった。ネツ民とエル民を一堂に集結させて酒飲ませたりして大丈夫かなと思わないでもなかったが、まあ、いざこざ厳禁の不文律のあるこの自由都市で馬鹿な真似をする命知らずもいるまい。……多分。
 海の見える街の広場を借り切り、テーブルを並べて酒と料理をたんまりと用意しておけば、そんな心配など杞憂であったと言わんばかりに皆存外平和的に(当部隊比)、飲み食いに興じているようだった。
 一応はこの祝宴の主役なので、歩いているだけで入れ替わり立ち替わりに誰彼と絡んできては祝辞だか揶揄いだかを投げていく。それらを適当に受け流したり打ち返したりしつつ漫然と足を進めていると、端の方で柵にもたれて一人でちびちび飲んでいるアイラを見つけたので、少し迷ったが近づいた。
 女はすぐに気配を察し、「おう」とグラスを掲げた。
「なんでこんなところで黄昏てるんだ」
「エルの子たちとわちゃわちゃしてるミナちゃんをつまみに飲んでたわ。エルでも安定の弄られキャラだったみたいね。性癖に刺さるぅ」
 柵の向こうの一段下がった広場ではアイラの言った通り、ミナとエルソードの女性兵士たちがきゃっきゃと戯れている様子が見て取れた。
「人の妻を穢れた目で見るな変態」
「妻! そうかミナちゃん人妻!」
「更に何かに目覚めるな」
 汚物を見る目で睨むとアイラはそれはもう楽しそうにゲタゲタと笑い声を上げた。酔ってるのかこいつ。
 ひとしきり大笑し、ひいひいと喘ぎながら目の端を拭いつつ、アイラは急に妙な事を言ってきた。
「そういや気付いてる? あんた部隊辞めた後くらいからあの癖出なくなってるって」
「癖?」
「無表情になるやつ」
「……そう? まああれから戦場にも行ってないしそりゃそうだろ」
 それは主に戦場で出る癖だった筈だ。何となく、顎の辺りを手で撫でて表情を確かめてみながら返すと、アイラはにたぁと変な笑みを浮かべ、口を開いた。
「『って事は常時にやけてるって事か? それは宜しくはないな、取り敢えず真顔作っとこ』」
「…………。」
「アレを除くとあんたかなり感情読みやすい方だからね?」
「ほっとけ。別に読まれて困るような事を考えてる訳じゃないしどうでもいい」
「本当に?」
「何でそこで念を押すんだ?」
「『ウェディングドレス姿のミナ可愛いなー、このまま持ち帰れないかな』」
「……カマを掛けようったってそうは行かないぞ」
「でも思ってるだろ」
「うん。何なら持ち帰る手間すら省いてちょっとその辺の物陰に連れ込めないかなって思ってる」
「ケダモノかよ」
 うへぇ、と舌を出すアイラに俺は乾いた笑いを送る。ケダモノ筆頭のお前に言われたくはない。
 そこで双方言葉を切り、暫く黙ったままミナたちのやり取りを見下ろしていると、柵の向こうに顔を向けたまま、アイラがぽつりと言った。
「おめでと。幸せにな」
「……どーも」
 この女らしからぬ素直な祝福の言葉に、咄嗟に上手い返しが思いつかなかった俺は、雑に会話を切り上げて、その場を後にした。

 ミナの方へと戻ると、彼女も歓談にひと段落ついていたようで、ドレスの裾を軽く持ち上げてたたっと俺の方へと走って来た。……可愛い。
 彼女の頭を、ヘアセットが崩れないように気をつけつつほわほわと撫で、連れ立って会場の中央の方へと戻っていこうとした所で、耳慣れない声に呼び掛けられた。
「やあ、久しぶりだね。この度はご結婚おめでとう」
 にこやかな笑顔で話しかけてきた、知り合いにも満たない関係性の男に俺は若干胡乱な視線を向けた。
 ミナに視線を移すと彼女はぷるぷるぷる!と少し慌てたような速さで首を横に振る。彼女とも面識はないようだ。この反応だと顔は知っているようだけど。
 俺も、顔は知っているし直接武器を交えた事も幾度かあるが、言葉を交わした事はない。
「……お祝い有難うございます、《フォアロータス》の部隊長殿。バンクェットの時以来でしたか。あの節はどうも。……因みにどういった関係性でのご参加で?」
「友達の友達枠かなあ? まあいいじゃないか、友達の友達は皆友達だって古来からの格言があっただろう? あ、新婦さんもおめでとう。初めましてだったよね」
「あっはい初めまして」
 さりげなくミナの手を取ろうとするのをさっと遮る。面識らしい面識もなく、どういう性格の男かもよく知らないが、何となく触らせては駄目なような気がした。
 一体何なんだ。何でこの人がいるんだ。いや別に誰が来ようと構いやしないんだが、本当に誰繋がりの客だよ……トラさんか?
 ミナを背に庇いつつ、向こうの方で呑気に酒をかっ食らっている大柄なウォリアーにちらりと目を向けると、目の前の男は屈託のない笑顔で言った。
「タイガ君とかもまぁ、共通の知人ではあるけれども。どっちかって言うとロゼちゃん繋がりかな」
 あ、本当に思考読み易いんだ俺。
「……部隊長?」
 一瞬誰かと思ったがウチの部隊長の名だ。それにしてもロゼちゃんって……どういう仲なんだ?
「どういう仲もこういう仲もない。貴様。敵陣にノコノコと乗り込んで来るとはいい度胸だ。ちょっと面を貸せ」
 眉をひそめた途端に、男の背後からぬっと憤怒のオーラを纏う部隊長が出現する。……俺の思考ダダ漏れかな?
「いいじゃないかお祝いの席じゃない、敵だの何だのと無粋な事を言わなくたって。そんな眉間におっかない皺を寄せないでよ折角の美人が台無しだよぐえ」
 流暢に喋っていた台詞が蛙を馬車で引き潰したような鳴き声を最後に止まる。小柄な部隊長に襟首を掴まれずるずると引き摺られて、エルソード一の部隊を率いる猛者は退場していった。
「……びっくりしたぁ。エルソードにいた頃にも遠目にしか見た事ない有名人だったから、こんな所で会えるなんて思ってもいなかったわ」
「俺も自分の結婚披露宴に敵部隊の隊長が登場するとかびっくりだよ。……でもまあ、よく分からなかった部分が一つ腑に落ちた」
 呟くと、ミナはどういうこと?と首を傾げて見せた。そう言えば、あまり重要なことでもなかったのでミナには言っていなかったと思い出し、俺は説明する。
「あの作戦の時、王城を囲む兵士たちの中にいたんだよ、あの人。空から降りる時一瞬見えた。何でいるんだろって思ってたんだけど、部隊長と繋がりがあったのか」
「あの作戦って、まさか」
「うん、旧首都の。部隊長、国軍嫌いどもが集ってくれたとか何とか言ってたけど、あの男が嫌うとしたら別の国軍じゃないのかな。どういう屁理屈で呼びつけたんだか」
 事情はさっぱり分からないが、まあ、これは俺の借りではなく部隊長が作った借りだ。さっきも別に言及して来なかった以上、この件でどうこう言ってくることもないだろうし、そもそももう会うことすらないだろう。

 この件に関してはざっくりとそう結論づけ、俺はミナの肩をとんとんとつついた。なあに?と愛らしく振り仰いできたミナに視線で意図を示してやると、彼女は立食のテーブル近くにあった姿に気付いて、あっと声を上げた。
「お母さん」
 先程の会話中、トラさんに目をやった時、丁度傍にいたその姿に俺も気付いたのだった。声を上げたと思った時にはミナはもうそちらの方へと駆け出していたので、俺はゆっくりとその後を追った。
 ミナに追いつくまでの道すがら、周辺からコソコソと潜めた会話が聞こえてくる。
(そうかなって思ってたけどやっぱあれミナさんの?)
(ミナさんが二人いる)
(二人いるな)
(一卵性かな……?)
 ……うんそれは俺も思った。ミナとその母親は、背格好といい雰囲気といい、最初に見た時は俺も内心ちょっと驚いたくらいによく似た母娘だった。
 ミナの母親と初めて会ったのはもう大分前のことだ。
 かつて、肉親との永遠の別離を覚悟してエルソードを出奔し、俺の元に来てくれたミナだったが、国を出ていくらも経たない頃、トラさんがミナの母親をヴィネルに旅行に誘ってくれたらしくそこであっさりと再会を果たしていたのだった。以降、自由都市経由で連絡を取り合い、幾度かは誘い合わせて再会を楽しんでいる。
 当然俺もその都度彼女と対面しているのだが……付き合っている女の身内に挨拶するなんて経験をした事などこれまであった筈もない俺は、毎度滅茶苦茶緊張してしまい、今に至るまで碌な会話が出来た試しがない。根暗な人間だと思われていそうだ。
 友達同士のようなテンションで喋り合う二人に近づき、ミナの後ろで立ち止まる。と、ミナの母親が気付いて、俺ににこりと笑顔を向けてきた。
 ……本当に、違う部分は年齢くらいじゃないかと思うくらい、よく似ている。ミナが齢を重ねたらこんな感じになるんだろうなと思うと何だか無性に気恥ずかしくなってしまい、つい目を逸らしてしまいそうになるが、いやいやそんな失礼な振る舞いを彼女の肉親にする訳にはいかないとどうにか堪え、目礼を返す。
 ミナの母親は、俺に真っ直ぐに向き直ると、すっと頭を下げてきた。
「どうぞ娘を宜しくお願いします」
 その、背筋に一本の芯が通った凛とした仕草は、先程の結婚式の時にミナが見せた堂々とした花嫁姿にやはりそっくりで、改めて身の引き締まる思いがした。
「……はい。一生、大切にします」
 口から出てきた言葉はこれまでの対面でのやり取りと同じく、気の利かない凡庸な文句にしかならなかったけれど、偽らざる俺の本心そのものだ。
 一生。
 そうだ。これから、一生。大切にするんだ。
 ミナと出会ってから、ずっと思い続けてきた変わらない決意だというのに、ミナの母親という、誰よりも彼女を愛してきたのであろう人の前で口にしてみて、その言葉の重さを改めて自覚する。
 ――身体の奥底から震えが来るのを感じる。この震えは、緊張と……ああ、惧れかと思ったけれど、これは違う。
 これは、幸福感だ。

「クォークさん、あなたちょっと変わった?」
 ふと、目の前のミナの母親が、小鳥のように小首を傾げて俺を見上げて来る。あ、この仕草、ミナもよくやる奴だ、等と思いながら、けれども言われた言葉の意味がよく分からなかったので、「え?」と返すと、ミナの母親はうーんと少し考えるような仕草をして、再度、俺の目を覗き込んだ。
「いえ、別に悪い意味じゃないのよ。ただ何だろう…………可愛くなった?」
「は!?」
 可愛い!?……思わず素っ頓狂な声を上げてしまった俺の横でミナが、「あー」と納得の声を上げている。え!? そこ「あー」ってなる所なの!? どういう事!?
 解説を求めてミナの方に顔を向けると、彼女は自分の頬を指で突きながら、お気楽な口調で言った。
「最近のクォーク、前なら無表情になってたような場面で別の表情が出るようになってるから。色々パターンがあるみたいだから私も全部把握してる訳じゃないけど、例えば緊張し過ぎた場合なんかだと、照れて赤くなる感じになってるから、そういう所、ちょっと可愛く見えると思う」
 まじで!? さっきアイラが言ってたのと同じ話だけど思ったよりもずっと症状深刻だった!!
 咄嗟に片手で顔を隠すように覆う。言われてみると、火照ったように耳が熱くなっている事実に気付く。
「何でそんな大事なこと、先に教えておいてくれないの……?」
 別にミナの所為でもないというのに勝手に恨みがましく言えば、ミナはあっけらかんと笑う。
「そういえば、無表情になる方も自分では気付いてないって言ってたっけ。だったらこっちも言わなければ気付かないよねえ。ごめんねー」
「笑い事じゃないよ……」
 あー。滅茶苦茶恥ずかしい……
「なあ、これ戦闘中はどうなるんだ? 戦場でも仮面みたいな顔して戦う奴だったろこいつ」
 骨付きチキンなんぞに齧り付きながらそんな口を挟んで来るトラさんに、ミナは首を傾げた。
「えっ、どうなんだろう。最近は訓練もしてないから私も分かんないなあ」
「なあ、丁度いいからそこの闘技場でちょっと試してみようぜ!」
「するか!! 披露宴の余興に殴り合いとか頭おかしいにも程があるだろ!!」
 ぎらぎらと目を輝かせて迫ってくる中年を、肌をぞわりと粟立たせつつ躱しながら俺は叫んだ。
 勘弁してよもう!


* * *


 クォークがトラさんに捕まってしまったので、私は他のゲストに挨拶する為に一人でそこから離れた。もっとお母さんとお喋りしていたかったけど、「ちゃんとお世話になった皆さんにお礼を言わなきゃだめよ」と怒られてしまった。尤もだと思う。
 方々からお祝いに駆けつけてくれた皆にそれぞれ丁寧にお礼を述べながら歩いていると、人の輪から少し離れた位置に、ネツァワルに渡ってから一番と言っていいくらいにお世話になった、先程は一瞬しかまみえなかった人の顔を見つけた。
「部隊長さん!……あれ、《ロータス》の部隊長さんは?」
「海に棄ててきた」
「えっ」
「済まんな、変なものを紛れ込ませて。余計な事は言わなかったか?」
「いえ。ただお祝いの言葉を頂いただけです」
「そうか。ならいい」
「部隊長さん」
 少し、改まった声で言った私に、部隊長さんが少しだけ眉を上げる。私は一旦姿勢を正してから、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
 部隊長さんは何という事もなさそうにふんと鼻を鳴らした。
「いくら権力者相手だろうと身内をむざむざ殺させてやるような腑抜けではないのでな」
「今回の件も勿論だけど、最初から……クォークを《ベルゼビュート》に拾ってくれてから、今に至るまで全部ひっくるめて。クォークを、ずっと大事にしてくれて有難うございました。部隊長さんがいなかったら、今のクォークはありませんでした」
 頭を下げたまま続けて言うと、つむじに少し苦笑の混じった声が降って来る。
「お前は奴の母親か。あまりあの駄目男をその方向性で甘やかすなよ。バブみに溺れてオギャり倒してくるぞ」
「ばぶ……?」
「後で奴に訊け」
 顔を上げて首を傾げると、部隊長さんはすました顔をついと少し逸らしてそう言った。聞き慣れない言葉を忘れずに覚えておく為に、ばぶみ……、と口の中で呟きながら部隊長さんの綺麗な横顔を眺めていると、部隊長さんは手に持っていたワインに少しだけ口をつけてから、こちらを見ないまま、囁く。
「奴を変えたのは、お前だ」
 ――私は、お前に嫉妬していたのだよ。
 何ヶ月か前のお茶会の席。そこで出た、少し珍しい話題の事を、私はふと思い出していた。



 ――話を聞いた事がある訳ではないがな。
 そこに繋がった話の流れがどういったものであったかは忘れてしまったけれど、部隊本部の厨房を借りて焼いた茶菓子を摘んで呟く部隊長さんの横顔はよく覚えている。
 そう、あの顔。今の顔はあの時の横顔によく似ていた。

 ――あいつはかつて、愛情という感情に手酷く裏切られた経験をしている。
 もっと言えば、人間らしい情緒を形成する機会そのものを与えられていない……若しくは形成して間もなく、根底から徹底的に破壊し尽くされている。裏切られ、否定され、人間としての振る舞いを覚えることなく育ち、他人と心を通わす方法を全く学習する事なく年齢だけを重ねて来た。……或いはそれは、何者かの故意によるものであったのかも知れない。奴の性質は余りにも、通常の人間社会で生きるには、不適格であり過ぎる。あれだけ学習能力の高い奴にしては不自然だと感じられる程に。

 全部、知った今だから分かる。
 あれは驚く程に正確な分析だった。彼女がいかに長い時間をかけ、丁寧に、冷静にクォークを見守り続けてきたのかがよく分かる、予知にすら近い精度の、分析。

 ――昔はもっと重症だった。奴を拾ったのは、確か奴が十四だか五だかのほんの子供だった頃だが、あの頃の奴は喋り方すら知らんのではないかと思う程の根暗なガキでな。とある戦場で、味方には目もくれず、最前線で一人突出して斧を振るっているのを見つけ、興味を覚えたのだ。
 その頃から生半な技量ではなく、たった一人で恐ろしい迄に敵陣深く切り込んで行っては自力で生還してくるさまは、我々の度肝を抜くに値した。あれ程の腕前を持つ兵士が野良でまだいたのかと感嘆し、即座に捕獲した。是非とも我が戦力として引き入れたかったし……何より、いくら何でもあれはそのうち死ぬだろうと思ってな。戦場では、実力だけではどうにもならん事もある。犬死にさせるにはどうしても惜しい腕だった。
 我々を結びつけるのは情ではなく、打算。もう少し取り繕って、信頼とでも言っておこうか。各個の技量に基づく戦場に於いての信頼のみで結ばれる絆ではあるが、足を引っ張られずには済む程度の仲間を得て、奴は絆の力を……他人を利用するメリットを知った。我々も、上手く互いを利用する術を教えた。そしてあいつは少しずつ、変わり始めた。会話の仕方を覚える所から始め、自分の意思を円滑に伝える方法を学び……長い時間を掛けて、当たり前の感性を持つ人間のように、冗談を言い合い、笑い合う事が出来るようになった。
 ――正確に言えば、そうする振りを覚えた。

 空いたカップにお茶を注いでいた私は、その言葉が紡がれた時――正確には、その言葉を紡いだ部隊長さんが、言葉の後ろに一瞬の隙間を挟み込んだその時、傾けていた手を戻して彼女の方を見た。と、彼女は薔薇の花びらのような唇に、にい、と不敵な笑みを浮かべた。
「そう。振りだ。機械が、予め定義された処理を実行するような。こういった言動を受けた場合笑えばいい。こういった言動を受けた場合怒ればいい。一度聞けば滅多に忘れない優れた記憶力で、あらゆる事例とその対応方法を逐一記憶し、その通りに振る舞う事を覚えた。我々が施した教育は、奴の行動原理に沿って新たな定義を書き加えただけで、原理そのものを変更する物ではなかった。奴の行動が以前より人間味を帯びたように見えたのは、単にそれが人間社会で最も効率的に生きる事が出来る手段だったからにしか過ぎない。……奴の行動原理は単純だ。これはアイラも気付いているだろう?」
 その問いに、向かいの席に座っていたアイラさんが、唇にカップをつけたままぽつりと呟いた。
「上位の命令に服従」
 部隊長さんは、よく出来た生徒に教師がするように、頷いた。
「上官の命令に。上官の命令がなければ同僚の指示に。同僚の指示がなければ部下の要請に。部下の要請もなければ敵の懇願に。そうやって機械的に順序立て、従うべき命令を選択し、実行する。既に学習した倫理観や正当性に反する命令には警告を出す事もあるが、命令権を持つ者が是と言えば是とする。そこに一切の感情を織り込むこともなく。
 単なる二つ目の仮面。私が奴に与えたのは、それにしか過ぎなかった。そうである事には気付いていたが、これ以上を奴に与えることは不可能だと思っていた。
 ――お前が現れるまではな」
 部隊長さんはたった一つの瞳で私を射抜いた。その、少し前ならば恐ろしいと震え上がった筈の強い眼差しに、この時の私が恐怖を覚える事はなかったが、その言葉には心当たりがなかった。ポットをテーブルに置きながら私は首を横に振った。
「私は……何もしてないわ」
 けれど部隊長さんは、そう返答した私を面白そうに眺め、ゆったりと椅子の背凭れに背中を預けて足を組むと、赤い唇を親指で撫でた。
「したさ。奴に重要な鍵を与え、固く閉ざされていた扉を開いた」
 困惑して、瞼をしばたかせた私に、部隊長さんはさも楽しそうに、くくっと喉を鳴らした。
「実を言えば、私はお前に嫉妬していたのだよ。私が数年掛けても攻略出来ず諦めて降りたゲームをたかだか数回の逢瀬でクリアしてのけた。誰にも心を開く事が出来なかった男が自ら心を開きたいと望み、不器用にも恐る恐る接触を試みる様は滑稽ですらあって、見ていて実に楽しかったぞ」
 朗々と、詩を吟ずるような伸びやかな声で彼女は言ったが、私は内心で首を傾げる以外に何も出来なかった。
 本当に、全く心当たりがなかった。
 今は勿論当然として、この話題が出た当時でも既に、全身全霊を以って彼の事を愛していると胸を張って言えた。けれども、少なくとも初めて会ったあの時は、そこまでの感情は私にはなかった。それは恐らく、クォークにとっても同じ事が言えると思う。クォークは前に、初めて会った時から特別だったと言ってはくれたが、それでもその大元は、どれだけ大きく見積もったとしても、葉の上に落ちた朝露のようなほんの小さな煌き程の想いであった筈だ。

 私にとって、最初の彼は恐ろしい敵兵だった。
 ヴィネルに呼ばれ、訓練で何回か顔を合わせるうちに、その恐ろしい敵兵は、実は普通の人間であるらしい事に気がついて、人外の物に対するような恐怖は薄れたけれど、頭の固さが邪魔をして、私にはそれ以上彼に歩み寄る事が出来なかった。手を差し伸べてくれたのは、いつだって彼の方だった。私の方から彼に影響を与えるような――それも、部隊長さんが言うように、彼の価値観を根底から覆す程のものを与えるような機会があったとはどうしても思えなかった。
「本当に分からないか?」
 唇の端を上げて、部隊長さんが尋ねる。アイラさんと違ってすぐに正答を返せない自分を恥ずかしく思いながらも、私は頷いた。
 部隊長さんは、カップの薄い縁を指先で撫でながら、厳かとも言える口調で囁いた。
「参加者としてゲームを降りて以降、私は観戦者という立場でこれを楽しんできた。どうやってあの乾ききった魂に水を浸透させたのか。長年誰も開くことの出来なかった扉を如何にして開いたのか。お前が一瞬にして見つけ出し、我々がついぞ見つけ出せなかった鍵とは一体何だったのか。……つぶさに観察し、直接目にしていない部分も調べ上げ、考察する事で」
「その答えを、部隊長さんは見つけ出したの?」
 小首を傾げながら問うと、部隊長さんはにいっと口の端を歪め、指で皿から摘み上げた細長い焼き菓子の先を、ぴっと私の方に突きつけて、その結論を口にした。

「信じた。何の打算もなく、無心に」

 その確信に満ちた一言に、私は思わず目を見開いてしまってから、緩く首を振った。
「そんなこと……ないわ。だって私は何回も、クォークに酷いことを言ったもの。親切心も疑ったし……」
「お前の言葉など、酷い内に入るものか。奴の怪しい誘いに馬鹿正直に応じてのこのこヴィネルにまで来ておいて。奴からすれば、自分の振る猫じゃらしに食いついてきた野良の子猫が、おっかなびっくりじゃれついてきているようにしか映らなかっただろうよ」
 部隊長さんは大きく口を開けて笑って見せ、その唇をにやりと皮肉げに曲げた。
「出会ったその時に、他とは違う何らかの直感が働いたにせよ、決定的に扉を開いた瞬間は、お前がカジノに現れたその時、まさにそれだろう。初めはごく僅かな隙間にしか過ぎなかったのであれ。
 ……我々が行ってきたのは、互いの閉ざした扉の外から、扉越しに慰撫し合う事だけだった。我々のやり方が間違っていたとは思わんが、奴にとっての正解は、頑なに閉ざされた扉を開いて直接手を伸ばし、衒いのない真っ直ぐな愛情で直接あのガキの頭を撫でてやる、お前のやり方だったというわけだ」



 その日の私は、その彼女の結論に反駁する言葉を見つけることが出来なかった。
 それが、そこまでの分析程には正しくはない結論である、という部分までには直観的に思い至ってはいたものの、自分ですら要領を得ない考えを、人に伝わるような言葉に纏め上げるのは、頭の回転の悪い私にはとても無理だったのだ。

「部隊長さん」
「ん?」
「前にしてくれた、クォークの扉の話……なんですけど」
「んん?……………………、ああ」
 私が唐突に紡ぎ始めた言葉に、聡明な部隊長さんにしては大分長い間を置いてから、私が言わんとしている件に辿り着いて、頷いてくれた。
 うん……自分でも、やっぱり私の言い方って分かりにくいなって思う。クォークも昔は口下手だったって言うし、私も訓練したらもう少し喋るのが上手になるのかしら……ううん、クォークと私じゃそもそもの頭の出来が大分違うし、同じようにはとても行かない気がする……ってそこじゃなくって。
 発言の途中であるのにうっかりと脱線しかけている自分に気付いて、慌てて続く言葉を探し始める。
 結局今も、言うべき本当の言葉を見つけた訳ではなく、ただ、今ここで、何かを言わなくてはいけない気がして口を開いてしまっただけでしかない。
 一生懸命考える私を、部隊長さんは辛抱強く待ってくれた。そうこうしているうちに、漸くほんの少し纏まってきて、改めて言葉を発する。

「……あれ、やっぱり違うと思います。
 扉を開けたと喩えるなら、それをしたのは私じゃなくてクォーク自身だもの。やっぱりどう考えても、クォークが自ら扉を開けて、私に手を差し伸べてくれたのが、最初だったもの。
 扉の中にいたクォークに、部隊長さんが、《ベルゼビュート》の皆が、長い時間を掛けて、誰かに手を差し伸べるということを、その方法を教えてくれた。
 だからこそクォークは、扉の外にいた私に気づいて、今度は自分の番だって自分で理解して、手を差し伸べてくれたんだもの」

 確信がある。
 私だけでは絶対に足りなかった。

 私がクォークを信じた。それが彼の力になったという分析については、今は正しいのだと思っている。
 歩んできた少年時代の所為で、彼の心に酷く複雑に絡み付いてしまった凍れる茨を解いたのは、多分、私の、雛鳥が無条件に親鳥を信じるような、シンプルで原始的な彼への信頼感だった。それ自体は、間違ってはいないと思う。
 ただ……
 それは、扉が開かれた後の話。
 先にこの扉の前に辿り着いたのが私であったとしたら、きっとそもそも扉は永久に開くことなく、私は彼と巡り逢うことすら出来なかった。
 臆病で自分から行動を起こすことなんて出来なかった私には、冷たく硬く閉ざされるこの扉に手を伸ばすなんて発想自体、多分至る事が出来なかった。仮に思ったとしても、ただただ扉の前で途方に暮れて、無力に泣くことしか出来なかった。
 彼が扉の外の世界を知ったのは。部隊長さんや《ベルゼビュート》の皆が、扉の外から差す光を、外の世界に吹く風を、彼の元まで届けてくれ続けていたから。

 手の差し伸べ方を教えてもらっていたからこそ、彼は、自らの勇気で扉を開けた。

「ありがとうございます」

 いくら感謝してもし足りない。

 クォークに部隊長さんが手を差し伸べてくれたように、
 私にクォークが手を差し伸べてくれたように、
 部隊長さんにもきっと誰かが手を差し伸べていて、
 連綿と繋がれてきたその手が多分、今この瞬間を形作っている。

 その、運命の連環に。



* * *



 ぺこりと頭を下げてミナが立ち去ってからも、私は暫くの間、その場に立ち尽くしたまま動けずにいた。
 ワインがまだ僅かに残るゴブレットを手の内でぼんやりと弄びながら、つと、何とはなしに顔を上げる。
 青くどこまでも続く空。陽光を返して煌めく海面。穏やかに波打つ音が、耳にこだまする。
 私の生きる道には全く相応しくない、まばゆい程に清廉で、能天気なまでに平和な世界がそこには広がっている。
 と、不意に、結い上げた巻き毛が、強めの海風に吹かれてざあと舞った。蒼天に遊ぶように奔放に踊る髪を手で押さえつつ、眼下の水面の輝きが、瞼の奥に虹色の光の残影を映す。

 ああ、そうか。
 私は目を細める。眼帯の奥にある失われた側も共に。
「そうか。私はゲームを途中でリタイアした訳ではなく、自分の勝利条件を満たし、クリアしていたのだな」

 ――無駄ではなかった。
 私の成してきたことは。お前の生は。
 ひとつも、無駄ではなかった。

 逆光の中に在る姿のように曖昧な、やわらかく遠い面影が、目の奥に浮かぶ。それに向けて私は僅かに笑い――

「良かったねロゼちゃん」
「海に帰れエル民」
「エル民海洋生物じゃないよー」
 いつの間にやら隣に舞い戻ってきて、気安い声をかけてきた無粋者には、視線も向けずに冷たい声を投げつけた。



* * *



 眼前のウォリアーが轟然と振り下ろしてきた大剣の唸りを殺し切れずに、俺は体勢を崩す。そこへすかさず掛けられる追撃はからくもいなして、敵から距離を取った。
「おいおいィ? 幸せボケして腕鈍ってるんじゃねーのかぁ、『キラーマシーン』様よォ?」
「……自分だってトラさん呼び嫌がるくせに、人の事はどうしてそう呼ぶのかなこのトラさんは……」
 レンタル衣裳である元は真っ白だったタキシードの埃を払いつつ、俺はぼやく。埃以前にさっき別の刃に軽く引っ掛けられて上着の裾の方がびっとか音鳴ってたし、買い取りだなこれは。本当にもうふざけんなよとしか言いようがない。

 結局、三次会だか四次会だかという混沌しかないような頃合いになって、何やら意気投合してエルネツ連合を組んできた馬鹿ども一味に本当に闘技場に連れ出され、無理矢理武器を持たされて襲い掛かられた結果、戦闘時は変わらず無表情になるという事が判明し、爆笑された。知らんがな。
「俺もうミナの所に帰りたいんだけど!? 結婚初夜に新婦の隣にいない新郎とか最悪の極みなんだけど!?」
「ふはははは。進みたくば俺たちを倒してから征けー!」
「リア充には死を!」
「死を!!」
 無茶苦茶なことを口々に言ってくるいつものメンツプラスアルファの悪友たちをぶちのめす為に、戦斧を握る俺の腕に力が籠るが、その任務を完遂するにはいつにも増して相当な時間がかかりそうなことにも薄々気付いてはいた。理由は今し方トラさんから指摘を受けた通りである。
 ……基礎鍛錬くらいは今後もちゃんとしよう。








おしまい。

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