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18


 崩落が、止んでいる。
 いつの間にか、気を失っていたのだろうか。あれだけ鳴動していた周囲が一転、しんと静まり返っていたことにふと気付き、ミナはぼんやりと目を開けた――つもりだったが、眼前を満たしていたのは松明を消した時と同じ真の暗闇で、自分が今本当に目を開けることが出来たのかどうか、それすらにも確証が持てない。
 何だか酷く身体が重い気がする。あれから、どうなったのだろう。どのくらい時間が経ったのだろう。どこか、怪我はないだろうか。足を瓦礫に挟まれていたりして。――戦場で負傷する事はままあることだが、自分の負傷の程度を確かめるこの瞬間の恐怖は、本当にいつまで経っても慣れない。
 こわごわと、少しだけ身じろぎしてみると、耳に、穏やかな声が響いてきた。
「気がついた? ミナ」
「クォーク……」
 気付けば身体も、意識を失う前と変わらずに、彼の腕にしっかりと包まれているようだった。身体が重いと感じたのも、別に瓦礫に埋もれていた訳でなく、彼の腕の重みだったようだ。
「……生きてるね……」
「生きてるな」
 反響の感じからして、今いる場所はごく狭い空間のようだった。が、分かるのはせいぜいそのくらいだ。
「クォーク、周り見える?」
「いや。流石にこれじゃあな」
「もう一度火の魔法を使ってみようか?」
「いや、空気は通ってるみたいだけど、狭いし、詠唱の方がいい」
「なるほど」
 詠唱によってソーサラーの身体に魔力が充満すると、その魔力の流れが赤く輝く魔法陣として可視化する。本物の炎のように強い明かりを得られるわけではないが、身体のすぐ傍くらいならばどうにか見える。ヴォイドダークネスの技を喰らった時などは、暗闇でも光るこの目印は結構便利なものだ。ソーサラーでもないのによくすぐに思いつくなあと感服しながら、ミナはその体勢のまま、運よく握り締め続けていた杖に念じる。するとすぐさま、闇を切り拓くように魔法陣の赤い光が現れ出でた。
 光で描かれた複雑な古代文字が、二人の周囲を巡り始める。詠唱の魔法陣なんて最も見慣れた魔法である筈なのに、暗闇に浮かび上がってくるくると踊るそれは、何故だかとても懐かしく、暖かなもののように思えた。まるで小さい頃に家族と囲んだバースデーケーキの蝋燭の光のように。
 光を頼りに早速周囲を見回しているクォークの横顔に、ミナは思わず、呼びかけた。
「クォーク」
「うん?」
「大好き」
 何の前置きもなかった唐突な告白に、クォークは驚いて目を見開いたが、すぐにはにかむように笑った。
「うん。俺も、ミナが大好き」
 こつんと額をぶつけて、まるで示し合わせたかのように同じ言葉を囁き合う。
「一緒に、家に帰ろう」



 崩落を起こす危険はあったが若干乱暴に、行く手を塞ぐ岩を一つ砕くと、広い空間に繋がっていた。そして、遠くに仄かな灯りが見える。炎の色とも魔法陣の色とも違って、少し白っぽく見える。
「なんだろう。誰かいるのかな」
「人工の光じゃないようにも見えるけど。取り敢えず行ってみるか」
 手荷物も、今のどさくさで直接身につけていた小物程度以外は殆どを失ってしまい、新たな松明は作れそうにない。魔法陣の光のみを頼りに注意して進むことに決め、二人はゆっくりと歩き出した。
「……ねえクォーク、大丈夫?」
 全くの無傷であったミナと引き換えに、クォークは幾らか傷が増えていた。遅ればせながらそれに気づいて、すぐに残り僅かな回復薬を飲んでもらっていたものの、重傷を完治させるのには時間がかかるし、何より疲労感については回復しないどころか、より一層強く残るのが魔法の薬の仕様だ。
「ん? 平気だよ、このくらい」
 言いながら、恐らく一番怪我の程度が重かったのであろう肩に彼は手を触れた。
 その場所は、少将との戦闘で既に受傷していたようで、白い装備が真っ赤に染まって痛々しかったが、そこに更に傷を受けたようだった。
「骨が逝ってるのにさっき適当に薬飲んじゃってあんまり良くないかなって思ってた所だったから、もう一回すっぱり折れてくれて逆に有難い」
 などと冗談っぽく言っていて、そんな訳あるかとミナが顔を青ざめさせている間に自分で処置して魔法薬を飲んでいたから多分傷自体は大丈夫なのだとは思うけれど。
「……疲れてるよね」
「それはしょうがない。……本当に大丈夫だからな? 前線でなら通常営業って程度だからな、このくらい」
 言って、わざわざ怪我をした方の手でミナを撫でる。もうっと膨れるミナに、クォークは明るい笑い声を上げ、それからふっと目を細めた。
「……うちの部隊規則でね、どうしても言いたくなっても、任務直前や作戦中には決して言っちゃいけない言葉があるんだ」
「なにそれ?」
「作戦行動中なので言えません」
 そりゃそうか、とミナは納得する。でもそれは一体どういう言葉なんだろう。弱音を口にして、やる気を殺ぐ様な真似をしちゃいけないとか、そんな感じの事だろうか?
「それは、任務が終わったら言ってもいい言葉なの?」
「うん。平和な時なら死亡フラグを立たせずに済むからね」
 死亡フラグ? 尚のこと、さっぱり訳が分からない。
「まあ要するにジンクスとかげん担ぎとかそういう手の話って事。……って、『この戦争が終わったら言うんだ』的な事を長々引っ張るのも部隊規則に違反するから、この話はまた後でな」
「…………? 了解」
 実は全然よく分かってないけれど。
「ともあれ、今は帰還に専念しよう。過去の因縁と決別したはいいものの帰る途中で岩の下敷きになりましたじゃ部隊の奴らに恰好つかないしね」
「恰好って重要なの?」
「重要。そんな間抜けな死に方したら、向こう五年は酒の肴にされる」
「ふふ、じゃあ、ちゃんと無事に帰らなくっちゃね」
 笑って、ミナがクォークの手を握ると、彼も力強く握り返してくれた。

「月明かりだったみたいね」
 それが何であったかはっきりと目視出来るまで近づいた所で足を止め、高い位置にある大きな窓を見上げて、ミナは呟いた。
 首都の外壁……なのだろう。人の出入りすらも余裕で出来そうな大きな窓からは、潜入開始後初めて外が――暗い夜空が見え、月そのものは見えないものの、明るい銀光が燦々と降り注ぎ、瓦礫で凸凹としている周辺の地面を白く照らしている。
「あれは、外周のテラスだな。普通に通路から出入りできる場所だったんだけど……床が抜けたのか」
 窓までの、身長の数倍の高さがある絶壁を見上げてクォークが頬を掻く。
「ミナ、これ登れる?」
「んんっ……」
 ミナは即答することが出来ずに言葉に詰まる。垂直に近い断崖絶壁だったが、岩肌はごつごつとしていて、どうにか這い登って行けそうな取っ掛かりはなくはなさそうだ、が……
 言い淀むミナの心境を察したクォークが、責めるでもなく頷いて、促した。
「まあ崖登りはそういえば教えた事なかったし、苦手なら俺の落ち度だ。ゆっくりでいいから行ってみて。下から見てるから」
「が、頑張る」
 頷いて、杖をベルトの後ろに刺し、覚悟を決めて岩壁に手を掛ける。下の方の岩の出っ張りに足を掛け、ぐっと身体を持ち上げてみる。思ったよりは簡単に身体が持ち上がった。次の取っ掛かりを目で探し、そこを掴んで、同じ要領で、上へ。
 その様子を見守っていたクォークが、ふとミナから視線を外し、月の光が届かない暗がりの奥にその目を向けた。
 僅かに硬化したクォークの気配にミナは気付き、クォークを見下ろしてからすぐに同じ方に視線を向ける。最初は、彼に見えているものが何であるか、ミナの目には全く分からなかったが――
「何でこんな所でうろちょろしてるんだ」
 ぽつりとクォークが漏らした一秒後、月明りの下にその人物の頭がぬっと入って来た。その次の一秒後には、俯いた姿勢で歩む、半身が。そこで漸くミナにもそれが誰であるか理解することが出来た。
「クォーク、あの人……!」
「ああ」
 それは、被験体の一人だった。先刻は俊敏な動きを見せていたが、今は命令系統が崩壊した所為か、手に大剣をぶら下げたまま、まるで生ける屍のように虚ろな足取りで歩いている。
「王の間に集合させたんじゃなかったのかよ。確実に処分するつもりだったんなら責任持って処分しろよな」
 恨めしそうに呟くクォークにミナは口早に囁いた。
「逃げるように言わないと」
「無理だろあれは。下手に声を掛けたらその瞬間に襲って来かねない。大丈夫、仕掛けてきたとしても俺が抑える。先に行ってて」
「……う、うん……」
 兵士はこちらに気づいた様子もなくのろのろと歩みを進めている。クォークは、下手なちょっかいをかけて敵の戦意を掻き立てるべきではないと思ったのか、斧は下したまま、不動の姿勢でじっと兵士を見ている。どう転がるか予想の付かない状況に不安を覚えつつも、ミナは意を決して登攀を再開した。
 少しずつ、腕を伸ばして岩を掴み、足を別の場所に掛けて、身体を上へと引き上げる。芋虫が這うような速度でまた一歩前進した時、唐突に鋭く床を蹴る音が聞こえて、ミナは反射的に視線を下へ向けた。
 何か切っ掛けがあったのかどうかは定かではないが、敵の兵士が、先程までの緩慢な動きが嘘であったかのような俊敏さで、クォークへと向けて突進を始めていた。
「クォークっ!」
「構うな! そのまま行け!」
 下ろしていた大斧を瞬時に構え、クォークが鋭く叫ぶ。
 でも、とミナは逡巡したが、奥歯を噛みしめて、クォークの指示に従う事に決める。先程の少将との戦いと同じで、ミナが横から手を出して役に立てるようなレベルの戦闘ではないことは想像に難くない。それどころかクォークのみを標的としていた少将と違い、この敵は誰を狙うか分からない。ミナが狙われ、逆に足を引っ張ってしまう可能性も高い。
 眼下では、熾烈な攻防が始まった。
 召喚中のような、いつもの目線より高い位置から俯瞰する事で、戦闘の様子が普段よりも正確に把握出来た。
 双方、卓越したウォリアー同士の戦いだった。戦斧と大剣が、ミナの目には捉えきれないような速度で交錯する。辛うじてミナの目に映るのは二振りの刃が織りなす銀の残像のみで、それらが双月の如き美しい弧を描き、時には正面から激しく噛み合って火花を散らすのを、ただ観客のように見つめ続ける事しか出来なかった。
 無意識に、腰の後ろの杖に手を触れようとした自分に気がついて、ぐっとその手を握って堪える。ミナが使える魔法の中で、ライトニングの魔法ならここから唯一届くだろうとは思うが、――仮に撃ち放ったとしても邪魔立てになりこそすれ、牽制の役目すら多分、果たせない。
 口惜しく思いながら見ているうちに――
 僅かずつ。普段のミナであれば気付くことが出来ないかもしれないくらいにほんの少しずつ。クォークが後手に回りつつあることに、ミナは気付いた。
 そういえば、少将は言っていた。この被験体たちの戦闘能力はクォークを上回る、と。
 その上今のクォークは、長時間に及ぶ少将との戦闘に加え、回復薬を飲んだとはいえ重傷を負った矢先で、これ以上ない程に疲弊している。
 先程はミナを不安にさせない為にか、通常営業だなどと言って見せたが、そんな筈はない。いくら長年過酷な戦場に立ち続けた彼であるとしても、これ程までの激戦が当たり前である筈はないのだ。
 立ち位置を激しく変えながら敵との斬り合いを続けるクォークの顔は、いつもの戦闘中の例に漏れず、淡々とした無表情だった。焦りを感じているような様子は微塵も見せていない――が、ミナにすら分かるような事実に彼が気づいていない筈はない。
 さりとて、起死回生の逆転策を隠し持っている筈もない。クォークは、どれ程優れた兵士であると言えども、少将のように人の枠から抜け出てしまった存在ではなく……ただの人間なのだから。
 クォークが恐るべき速度で撃ち込んだ斧を、敵ウォリアーが強烈な力で弾く。ごく僅か、その勢いに圧されてクォークの身体が傾ぐが、彼は即座に地を強く踏み締め体勢を立て直し、渾身の力を込めて、掬い上げるような鋭い斬撃を放った。
 並の相手であれば、否、少将程の規格外な相手であったとしても、それは相対した敵に確実な死を与える、ネツァワルでも随一の技量を誇る彼が全身全霊の気魄を込めた一閃であった、筈だった。
 しかしながら、少将の秘蔵であったこの敵兵は、更にその上を行く怪物であったようだった。
 クォークの全力を賭した一撃を、敵兵はすんでの所ながらも、躱し切り、
 長大な大剣を鞭のように撓わせ、
 クォークの身体を一太刀の元に、斬

 ――らせなんて、しない……っ!

 ウォリアーの大剣は、真横から飛び込んできたミナを、肩口から脇腹まで一直線に、易々と斬り裂いた。





 ゆっくりと。
 まるで時間の流れに逆らうかのようにゆっくりと、栗色の髪が流れていく。
 きらきらと、絹糸のような髪を靡かせながら、自分の目の前で、少女の小さな背中が仰反るように傾いで行く様子が、単なる情報のように、無慈悲に、クォークの目に映る。

 倒れゆく少女の胸に、深い、深い太刀傷が刻まれているのが見て取れる。
 長年死線を彷徨って来た経験は、一目で状態を見極めさせる。これは致命傷。最早、如何なる魔法を以ってしても繋ぎ留める事の叶わない、不可逆的な損傷。

 誰の
 誰の身体に
 何故
 どうして

 茫漠とした意識のまま、けれども反射的に、彼女が床に崩れ落ちるのを止めようと、持っていた斧すら離して、彼女の方に手を伸ばす。時間の流れの遅延は彼自身の身体をも支配しているようで、一つ一つの動作がもどかしい程に遅い。
 彼女の身体を受け止めるにはまだ全く届かない。
 歯を噛み締めて時間の呪縛を呪い、もっと手を伸ばそうとした時、声が、聞こえた。

 ――だめだよ。
 違うよ。あなたが手を伸ばす方向は、そっちじゃない。

 彼女の。
 聞き間違えることなど決してない、何よりも確かな、彼女の声。
 目の前の少女の唇が動いた様子はなかったが、それは紛れもなく彼女の声だった。

 しかし、普段であれば一も二もなく従いたくなるその声に、クォークは逆らった。
 剣を振り下ろした敵は、必殺の一撃が標的を捉え損なった事に既に気付き、次の挙動に移ろうとしている。
 瞬き一つの後には今度こそ確実に自分にとどめを刺すべくその剣を唸らせるだろう。
 そんな事は、見るまでもなく分かる。
 だから何だというのか。
 倒れ行く彼女に手を差し伸べること以外に優先すべき事柄などあろう筈もない。
 例え自分のすぐ傍で、致死の間合いで、振り上げられる大剣に無防備な身を晒す事になろうとも。そんな事などどうだっていい。

 ――だめだよ。

 再度、窘める、彼女の声。
 弱くて、儚くて、優しくて、いつでも守っていてあげたい大切な人で、
 それでも、自分などよりもずっと強くて、いつだって真っ直ぐな、間違った道へと進みそうな時は、凛とそれを正してくれる、
 ミナの、声。

 振り返って。武器を握って。
 敵を斬るの。私の為に。
 ――私が作った時間を、無駄にしないで、クォーク――!

 手からひとたび手放していた筈の戦斧は、まだ、指先の触れる位置に浮いていた。
 それに、指を掛けて、握り直す。
 渾身の一撃を振り下ろし、ミナを斬った直後の敵ウォリアーは、僅かな硬直を生じている。
 瞬き一つ後の敵の追撃、より先に。
 クォークは、敵の胴体に、最後の一撃を叩き入れた。



 とさ、と、軽い音を立て、少女の身体が地面に倒れる。
 クォークはすぐさま振り向いて、ポケットから回復薬を取り出しながら彼女の元に駆け寄り、傍に屈み込んだ。
「ミナ、薬を」
 しかし、そこで反射的に言葉が止まる。どう見ても手の施しようのない傷を見て。泉の水源の如く、止めどなく血が溢れ出ている。複数の臓器が深く損傷しているのは、間違いない。
 通常ならば飲ませない。飲ませても、苦痛を長引かせることにしかならない。そうであるのなら、寧ろ飲ませないのが優しさだ。
 不意に、ひゅっ、と甲高い笛の音のような呼吸音が聞こえ、クォークは頬を打たれたように目を見張った。
 ミナは、薄らと目を開けて、紫色になった唇を震わせ、細く呟いた。
「のま、せて……、苦し……ても……いい、わたし、まだ、クォ……クと、いっしょ……に、いたい……から……」
 頷いて、すぐに口元に橙色の液体を注ぎ込む。ほんの少しずつ、慎重に、どうにか彼女が飲み下せるようにと願いながら。
 こふ、と少女が苦痛の表情すら作れないまま、軽く咳き込む。口から真紅の液体が吐き戻された。
「すぐに医師の所に連れて行く。少しだけ頑張れ」
「ごめん……ね……、犠牲になるの……だめって、偉そ……なこと、言った、くせに、……私、馬鹿で……」
「そんな事ない。助かった。もう、喋らなくていいから少し休んでろ」
 助かった、という言葉に、ミナは嬉しそうに、少しだけ唇の端を上げて見せた。それは、彼女にとって最も価値のある褒め言葉だったようだ。
 安易に動かしていいような容体ではない、が、クォークは最初の目的の通り、彼女と一緒に外に出る事にした。コートを背負い紐代わりに彼女の体重を支える形にして持ち上げ、片手で彼女の腕を握って、目の前の崖を登り始める。
 クォークの耳元で、ミナが途切れ途切れに囁く。
「クォーク……残して……しぬの、やだ……いっしょに、生きて……たいの……」
「当たり前だろ。これからもずっと一緒に暮らすんだ。少し予定より早いけど、ここから帰ったら、兵士辞めて部屋を引き払って、田舎に引っ越そう。一軒家と土地を借りて畑を耕して暮らそう。それとも商売を始めてみようか。ミナは料理が上手いから、食堂でも開いたらきっと評判になる」
「……素敵ね、ふふ……楽しそう……」
 楽しそうに。心底楽しそうに、夢を見るように、ミナは笑う。
「クォーク……、大好き……。いつまでも、……」
 背中から囁かれる声にクォークは幾度も幾度も頷いた。頷きながら、岩壁を登る手足を動かす。ミナを背負いながら片腕で岩壁をよじ登っていくのはクォークの体力を以ってしても容易な事とは言えなかったが、着実に溜まって行っている疲労には彼自身は全く気付く事すらなく、最後の頂に手を掛ける。
 風が――
 久々に感じた新鮮な外気が、汗の滲んだ額を撫ぜた。
 月明かりに沈む、荒涼とした岩山の、ただ悠然とそこにある荒野の、クォークにとっては懐かしい光景が目の前に広がっている。
「ほら、外だ、ミナ。家に帰ろう。ミナ……」
 背負った少女を、クォークは振り返る。
 背負われた彼女は、最後の力を、言葉ではなく、
 微笑みに費やした。

 花が綻ぶような。甘く優しい、一切の苦痛を感じさせない、

 ただ、ただ、幸せだと言わんばかりの。





 低く重い音が、断続的に響いている事に気がついた。
 崩壊は止まったと思っていたのだが、また崩れるのだろうか。王城の壁に背をつけて、暗い空を見上げながら、緩く胡坐をかいた膝の上に寝かせたミナに触れ、ぼんやりと思う。王城が決定的な崩壊を迎えれば、野外とはいえこのテラスも無傷では済まないかも知れない。
 ミナのまだ暖かな頬を、仄かな笑みを浮かべた唇を、柔らかな猫っ毛を、いつまでもいつまでも撫で続ける。
 今ここで死ねるなら、彼女と共に逝けるなら、それは何と幸せな事だろう。
 きっと彼女は、どうして来ちゃったの、と泣くに違いない。生きて欲しかったのに、とぽかぽかと殴りかかってくるに違いない。そんな彼女の攻撃を封じて、この腕に抱き締める。きっと彼女は泣きながら、俺の背中を抱き締め返してくれるに違いない。
「ミナ……、ミナ……。大好きだ。愛してる。もう二度と、離さない」
 クォークの遥か頭上で、城の外壁であった巨大な岩石が、震えた。城全体を揺らす震動に伴って、それはぐらりと外側に傾ぐ。重い物が動く気配が頭上で起きた事にクォークは気付いたが、彼はミナの頬に手を触れたままその場から動こうとはしなかった。
 やがて時間を引き延ばすように緩慢に、巨岩は落下を始めた。

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