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13


「ところで、ここってどういう所なの? クォークが子供の頃にいた施設とは違う場所なんでしょう?」
 待機室を出た直後から迷うことなく歩を進めるクォークに続きながら、ミナが少し不思議そうに問いかけてくる。クォークもまたその質問自体を少し不思議に思って振り返り、すぐに「ああ」と得心して頷いた。
「そっか、ミナはここがどこだか分からないのも無理はないな。部隊長は何か言ってなかった?」
「うーん……? ああそういえば、この本拠地の所在地が判明した時に、『まさかこんな場所に巣を張るとはな、かいこちゅーが』とか言ってたっけ。かいこちゅーってなに?」
「かいこちゅー?……ああ、懐古厨か。そうだな……昔を懐かしむあまりに過去に囚われ過ぎて前へ進めない人、ってところかな」
「へぇー」
 スラングをよく知らないミナに告げた説明は、咄嗟の思いつきの割にはこれ以上なく適切な表現のように思え、クォークは密やかに笑みを漏らした。
 ミナがついて来れる速度で走りながら、クォークは改めて殺風景な――否、この国の気質である質実剛健さを表していると言うべきだろう、簡素な造りの廊下を見回す。厳密に言えばクォークが知っているのはこの施設が所在する街そのものであって、今いるここ自体に馴染みがある訳ではない。この付近の構造は本来の施設の性質故かクォークが良く知る地区のそれよりも洗練されており、通路の壁面も見知った粗削りな岩盤ではなく平滑に切り出された石壁だったが、それでも同一の古い都市が持つ独特の空気感に、郷愁に似た感傷が湧き起こる事は否めない。そもそもこの都市は特殊なのだ。一つの巨大な構造物が、一つの都市を形作る、世界で唯一無二であった街。 
 何だ、自分も懐古主義じゃないかと苦笑する。……こんな所で立ち止まるつもりはないけれども。
「ここは旧ベインワット。今の場所に移される前の古い首都。ネツァワル民の故郷たる穴倉だよ」
 ミナはその言葉に軽く目を見開き、クォークに倣うように周囲を見回した。
「ここが、前にクォークが言ってた、あの? クォークの生まれ故郷?」
「うん。尤もこの辺りは王城区画で、一般人の立ち入りは禁止されてた区域だけどね。でも旧王城の構造については、前に部隊の資料室でたまたま一度間取り図を見た事があるんで大体分かる」
 改築はされていないようで良かったとクォークは付け加える。今回ここに連れて来られて以降は、施設内を歩き回る自由など当然与えられず、個室と、研究室か診察室のような部屋、それと戦闘を行う試験室を行き来する程度の行動しか許されなかった為、もし構造がかつてと大幅に変えられていたなら迷子になるのは必至だった。
「一度間取り図を見た事があるくらいで大体分かるとか……。そういう並外れた頭をしてればそりゃあ少将さんも惜しくなるわよね……」
 何やら感心し過ぎて呆れているようにも聞こえるコメントについては、クォークはそのまま受け流し、「ただ」と続けた。
「ただ道順は分かっても、王城区画は流石にあっちのテリトリーだから、楽観は出来ない。下層の旧市街まで出られればこっちの庭なんだけどな。情報部が用意してくれた目くらましはそんなに万全の物って訳じゃないんだろう?」
 脱出用にと戦闘装備を渡して来た事からクォークはそう判断し尋ねると、ミナは厳しい表情になって頷いた。
「ジンさんによると、どうしてもせきゅりてぃ?を突破出来ない所があるって……最初は良くてもほどなく逃げた事は必ずバレるから、あくまでも時間稼ぎだと思うようにって言われたわ」
「ふむ……」
 顎を軽く手で擦ってクォークは唸る。そうも消極的な説明をしている以上は、猶予時間は相当短く見積もっておいた方がいいのだろう。敵に発見されても各個撃破して強行突破出来ればよいのだが、少将の配下は決して甘い相手ではない。
 状況は、悪いとしか言えない。
 ――だが、もう諦めない。
「ミナ、先に言っとく。多分この鬼ごっこはこっちが負ける。どう上手く動いても、最終的に大きな戦闘を回避する事は出来ないだろう。その時には……」
「一人で逃げたりなんてしないよ」
 慌てたように、少し早口に台詞を遮ってくるミナを見て、クォークは口の端に微かに笑みを浮かべ、彼女に向けて言うのは初めてになる言葉を告げた。
「……背中は任せる。フォローしてくれ」
 少女が、弾かれたように頭を上げる。彼女はその顔に浮かんだ驚愕を、緊張と喜悦がない交ぜになった表情に変え、力の籠った声で返事をした。
「はいっ!」



 廊下の向こうから密やかに伝わってきた足音を感知し、クォークは柱の陰にミナを押し込めるようにして壁に身を伏せた。息を殺してその場に潜んでいると、少し先にある十字路を、二人の進行方向と直交する方角に数人の兵士たちが駆けて行き――また再び静寂が戻る。
「やっぱりもうバレてるな」
 敵影を見送って、クォークは小声で呟いた。個室を脱出してから十数分。正確なこちらの所在地は掴めていないと見えてしらみつぶしに捜索しているという様子だが、個室がもぬけの殻になっている事自体は既に露見しているようだ。
 恐らくもう既に出口という出口は押さえられているに違いなく、戦闘を回避して脱出を図る事は難しい。現状で検討すべきは、その中でも少しでも警戒の薄い脱出経路の推測と、いかにして極限までこちらの足取りを悟らせずに動き、相手の戦力を分散させるかだ。
 そんなことをつらつらと考えていると、ミナが少し息切れした声で囁いた。
「東の大広間って分かる? 下層部に近い場所に、あるらしいんだけど……単独で逃げ切れない場合は、そっちに向かってくれって部隊長さんに言われてる」
「確か、王城の最下部、市街地の外れに接する場所にそんな場所があったな。ここからだと少し距離があるし、脱出口としては目立つ場所だ。別の出口の方がまだ……」
 己の見解を呟きかけるが、あの部隊長の事だ、何か考えがあっての事だろうと思い直す。
「まあ、下手を打って想定外の場所に追い込まれるよりはましか。そっちへ向かおう」
 クォークはミナの言葉に頷き、爪先の向きを変えた。

 慎重に周囲の様子を探りながら更に歩を進めることしばし。やがて、二人の目の前に両開きの扉が現れ、二人は足を止めた。行く手を遮る番人のように立ち塞がる無骨な扉を見つめ、ミナがごくりと唾を呑む。
「この先が大広間だ。先読みされていない事を祈ろう」
 気負いのない口調でミナに告げつつ、クォークは扉に手を掛ける。一呼吸だけ間を置いて、彼は扉を僅かに引き開けた。
 きぃ、と小さく軋んだ音が、空間に音の波紋を広げる。クォークが微かに覚えた緊張と同じものをミナも敏感に感じ取ったらしく、背後で彼女の身体が僅かに強張るのが分かった。ミナに必要以上の不安を感じさせないよう、クォークは細波を立てかけた自身の感情を意識して平静に戻し、ゆっくりと扉を開ける。
 目の前に広がった、闘技場ほどもある広大な空間はしんと薄暗く静まり返っている。壁の燭台には廊下と同様に火が灯されていたが、ざっと見た所は人の気配がある様子はなかった。
 今、二人が開けたのは通用口に当たる扉で、広間の側面から出入りする為のものだった。出口は、他の通用口を除くと大きく二つ。一つは暗がりの中に上り階段が見える、城内へと戻る道。もう一つは、今開けた扉の数倍大きい、城外からの正式な入場口に当たる大扉だ。それらが二人から見て左右に、向かい合って設えられている。
 当然、二人が向かうべきは城外へと続く扉だ。クォークはまず自らが一歩室内に踏み込み、何も反応がない事を確認してからミナを招き入れた。
「前を走れ。全力で」
 出口の扉を視線で指して告げた端的な指示にミナは硬い表情で頷き、ほんの僅かの間、覚悟を決める時間を置いてから、示された通りに走り出した。クォークも、続けて後ろを走り出す。
 静謐な広間に、二人の足音が響く。流石に、全力疾走の足音は消せない。遠くに見えていた扉が遅々とした速度で近づいて来るのを、ただただ無心に見つめ続ける。
 あと、十歩ほど――
 目測し、そう考えたその瞬間。『それ』は二人の真後ろから来た。
 鋭く空気を切る音と、鋭く研ぎ澄まされた殺戮の気配。
 ミナは、気付かない。クォークの命令を実直に守って一心不乱に扉を目指し、走り続けている。
 クォークは、予期していた通りのそれを、自らのコートを掴み、大きく翻すことによって遮った。
 ばさり、と大きくはためいたコートの音で、漸くミナは異変に気付いて背後を振り返った。
 ミナを覆い隠すように広がる白いコートが、防御魔法が掛けられた強靭な布地の中に何かを絡め取るのを瞳に映して、少女がその目を瞠る。
 ミナが思わずといった様子で足を止めるのとほぼ同時に、クォークが素早くコートを振り払うと、その中から一本の矢が叩きつけられるように床に落ちた。
「残念。ルーレットは外れたみたいだな」
 淡々と呟きながら、クォークもまた背後を振り返る。ミナの姿を、その矢が放たれた、部屋の反対側にある内部へと続く階段の延長線上から覆い隠すように立ち、暗がりの奥へと視線を投げる。
 途端、どういった仕掛けなのか、壁に等間隔に並ぶ燭台の蝋燭が一斉にゆらりと揺れ、その光量を上げた。まるで、何かの始まりを告げるかのように。そんなことを思った次の瞬間、未だ暗闇の帳が落ちる奥の階段から、いくつもの気配が現れ始めた。武装した兵士たちが素早く、しかし恐ろしく静かに駆け下りて来て、出口の左右に展開する。その数、ざっと一個小隊規模。
 全ての兵士を排出し終えた階段から、最後にゆったりとした気配が、出迎えの言葉と共に舞い降りて来た。
「まさかここまで追い掛けて来るとは思わなかったわ。健気な子ね。……《ベルゼビュート》の諜報能力なら或いはこの場所を探し当てる事も可能かとは思っていたけれど」
 階段から姿を現し、両翼に展開する兵士たちの中央に立った少将の、優しげですらあるその声に、ミナは反射的にか身を固くする。しかし意外な事に、直後彼女はずいと一歩身を乗り出して反論をしてのけた。
「あなたが思っているよりもずっと、《ベルゼ》の皆は友情に篤い人たちばかりだって事よ」
 怯えた様子ながらも強く床を踏みしめ、怒れる小動物の様相で言い返すミナに、クォークはいささか驚いて思わず瞬時ながらも視線を向けた。大人しい彼女がまさか言い返しにかかるとは思わなかった。余程腹に据え兼ねていたという事だろうか。
 少将は勿論、ミナの可愛らしい威嚇などには動じない。微笑ましく思っているような、若しくは憐れんでいるような、薄く細めた眼でミナを眺め、やがて口元に手を当て上品に笑った。
「ほんの少し私の元を離れていた間に、クーにそんなお友達が出来るなんてね。考えもしなかったわ」
 くすくす、と柔らかく笑いながら――笑みの形に細められていた眼が、その細さのまま、鋭利な光を灯す。
「愛……友情……美しい言葉ね。でもそれが、戦場でどれ程の意味を成すというの。信頼なんて打算の産物だわ。利害が対立すれば、一瞬で反故になる」

「――――信頼など打算だ、という言葉は一概に否定しきれぬ私がいるわけだが」

 ――その、独白じみた台詞に答えたのはクォークでもミナでもなかった。女のそれにしてはハスキーな声が、何の前触れもなく朗々と響き渡る。
 少将とその両翼にいる兵士たちの注意が、素早く一点――クォークとミナの背後にある大扉に移動した。と、それに呼応するような絶妙なタイミングで扉が開かれる。扉の奥は、反対側の階段通路と似た暗がりとなっていて、その闇の奥から滲み出るように現れ近づいて来る一団が見えた。重苦しい鋼の音を響かせて戦場を往く重武装の集団。整然とは言い難い隊列を組む兵士たちの一団は、しかし闇の中で一塊となって、一頭の巨大な獣の如きシルエットを形作っている。
 そして、その巨大な獣の頭部――集団の先頭に立つ女が、室内からの明かりに鬣のような巻き毛を輝かせ、広間の一同を睥睨した。
「アイだのユージョーだのという聞くだけで耳が痒くなるような概念も、時には絶大な力を生むことはある。……頭数という、戦場に於いて最も強力な力をな」
「部隊長さん!」
 敵に完全に背を向ける形で振り返ったミナが、感極まった声を上げた。その声に、部隊長は鷹揚に応える。
「遅くなった。少々野暮用に手間取ってな」
「野暮用?」
 背後から来た気配に一瞥だけを向け、その正体を確認した後は目前の敵に対する牽制に戻ったクォークが、声だけを上司に投げる。部隊長はそちらの問いに対しては言葉で答える代わりにクォークとミナの前まで一人進み出て、やおら手に持っていた巻物の紐をするりと解き、それを両手で大きく開いて対岸へと示した。
「ネツァワル国王ヒュンケル陛下からの勅命である! 国軍少将レイチェル・クォ・ヴァディス、貴殿には、国家反逆の嫌疑が掛かっている。速やかに武装を解除し、投降せよ!」
 クォークは、軽く瞠目して部隊長の背中を眺め、その目を先にいる少将へと移した。少将は、突然の通告にも全く動揺した様子なく、静かにこちらを見据えている。逃走の気配すら示さない少将から一旦部隊長に視線を戻して、クォークは呆れをそのまま口にした。
「国王って……話を大きくするのにも限度ってものがあるだろ……」
 正規部隊をぶつけるどころの騒ぎではなかった。
 部隊長は巻物を少将へと向けたポーズのまま、軽口を返して来る。
「しかも直に目通りして直々に賜った勅書だ。這い蹲って有り難がれ」
「這い蹲らないけど。しかしよくこんなに速く国王陛下と面会なんて出来たな」
 国王本人は、必要があれば王としての体面など一切気に掛けない剛の者と聞くが、側近にはまだまだ体裁を重んじる風潮がある。他国の使者でさえ、一月は前に面会を願い出なければ許可されないと聞くから、一義勇兵部隊長の面会申し込みが、恐らく数日以内であろう速さで許可されるというのは相当の異例である筈だ。
「ヴィネルにいる私の知己に口添えを頼むのが最速かと思っていたのだが、高名な魔女殿がわざわざ訪ってくれてな。お前らと面識があると聞いたが?」
 クォークとミナは思わず同時に顔を見合わせた。魔女。その名で呼ばれる知り合いは一人しかいない。……しかし知り合いと言っても、以前に一度こちらが助言を乞い、一方的に世話になっただけの相手だ。あちらが自分たちの事を覚えていてくれた事自体驚きだったし、窮地をどういう手段でか知った上、わざわざ駆けつけて手を貸してくれたとなれば尚の事である。
 クォークは、その魔女と対面した時の印象からつい無意識に何かたくらみがあるのではと猜疑心を抱いてしまったが、善良なミナは魔女の善意を全く疑うことなく、驚きを収めると感激したように破顔した。
「帰ったら、お礼に行かないとね」
「……だな」
 わざわざ純粋なミナを疑念に染める事もなかろうと、頷いておく。真意はさておき、世話になった事には違いない。
「しかし、国家反逆の容疑っていうのは……」
 話を本筋に戻して問いかける。この少将は、国軍の手足として動いていた訳ではなかったのだろうか。国軍も一枚岩ではない事くらいはクォークとて理解しているが、この少将が反逆罪を適用されるような計略に加担しているとは俄かには信じ難かった。神をも恐れぬ研究を長年続けてきたのは王国に対する忠義心からだとばかり思っていた。
 部隊長は広げていた書面をくるくると巻き戻しながら答えた。
「先日のクローディア水源での戦闘。あの時、あの地にいたエルソード兵らは覚えているな。あれらは実は、非公式ながらも国王の命によって招き入れられた、言わば客人であったのだ。厳密にはその客人の護衛だがな。あの日、クローディア水源の砦に於いて、エルソード国と我が国との間で秘密裏に交渉が行なわれようとしていたのだ。……五カ国間和平条約締結に関する事前協議がな」
 部隊長の発言に、いささかならず驚いてクォークは息を呑む。
「五カ国間和平条約……!?」
「条約の大筋は五大国が無条件かつ無期限の休戦協定を結び、メルファリア全土に於いて完全に戦争状態を停止させるという内容だ。今回は二国間のみの調整だったが、犬猿の仲さ加減に定評のあるネツァワルとエルソード間の協議となれば、条約締結の為の大きな一歩となる会合であるのは言うまでもなかった。……そこの者は、国王の意思に背き、関係各所が苦心して漕ぎ着けたそれを、何も知らぬ我々に偽りの情報を吹き込む事によってぶち壊しにしたのだ」
 隣でミナもまた声も出せずに目を見張っている。――それも仕方のない事かもしれない。生まれる前から続いていた、生活の一部となり過ぎて、終わるという想像をする事すら難しかった戦争が、今まさに、終結に向けて前進していたのだと聞けば。これはまさしく、実現すれば後世の歴史書に記される歴史の転換点となる。
 戦争のない世界。この疲弊しきったメルファリアで、誰もが望んでいたであろう未来の筈だ。
 それを、何故。
 クォークは顔を少将へと向け、低い声で問いかけた。
「一体何を企んでいる」
「この戦争を終わらせては不都合があるという事よ」
 柔らかく目元を細め、淀みなく、女は返答する。その涼やかな声を受け、クォークは視線に侮蔑を乗せた。
「一部の者の利益の為に、国そのものを危機に陥れようというのか。あんたも落ちたもんだな」
 クォークの軽蔑の眼差しに、しかし少将は憐れむような苦笑を浮かべて首を横に振った。
「別に何らかの利権絡みという話ではないわ。私の目的は、今も昔も一切変わらない。この世界に恒久なる平和を齎す事。その為に、この戦争状態はどうしても必要なの」
 少将に視線を向け続けるクォークの横で、ミナが首を傾げてあけすけな不理解の表情を見せた。平和を望みながら戦争の継続を求めるとは一体どういう事だろう。その眼差しが湛える疑問に答え、歌を歌うかの如く軽やかに、少将が告げる。
「戦のない完全なる平和なんてこと自体が絵空事なのよ。拮抗した力を持つ五カ国が互いに牙を向け合っているからこそ、決定的な破局を免れているという事が何故分からないの。国際法によって管理を受け、犠牲を最小限に抑えたこの戦争状態こそが真の安定した平和なのだって何故気付かないの。人間は所詮いがみ合うことしか知らない生き物よ。敵がいなくなれば、悪意は消えてなくなると思う? 違うわ、別の方向を向くだけ。新しい敵を探すだけ。操られない悪意は弱者に向くわ。拮抗した力を持つ各国の兵士たちが血を流して戦う代わりに、無辜の一般市民――弱き者が、理不尽に虐げられる時代が必ずやってくる」
「人はそこまで馬鹿じゃないわ」
 少しむっとした声で反論するミナに、少将は優しげな苦笑を贈った。
「あなたは幸運の星の元に生まれたようね。……でもクー、あなたなら知っているでしょう。護られない弱者がどれだけの理不尽を強いられるかを。暴力に愉悦を感じる歪んだ人間が世の中にはどれだけいるのかを」
 クォークは答えない。自覚はないが恐らく表情にも一切返答に当たるものは現れていないだろう。しかし少将は構わずに、更に続ける。
「今は敵国という共通の敵がいるからまだましだけれども、平穏という甘い毒に慣れてしまえば最後、今度は同じ国の中で、同じ国の国民同士が些細な考え方の違い程度で簡単にいがみ合うようになる。嬲られ甚振られ打ち捨てられて殺される弱者が今よりもずっと、ずっと増える。このネツァワルをそんな地獄にするくらいだったら、最低限の管理が行き届く場所で、覚悟を決めた兵士だけが命を掛けて、永遠に戦い続けた方が平和と言えるのではなくて?」
 その台詞に、クォークには感づく所があった。雷に打たれたように直感したその事実は余りにも衝撃的過ぎて、ほんの一瞬、口に出す事を躊躇ったが、しかし呻くように言葉を漏らす。
「だからあの計画なのか」
 『プロジェクト・キリングウェポン』――特殊強化兵育成計画。
 単純な強兵策ではなく、敢えて兵士を『モノ』と化した。壊すことを恐れない、壊されても自身も含め誰も悲しまない、ただの『人形』を戦争の生贄とする事で、不幸の連鎖を断ち切る事を目論んだ。
 少将の返答はやはり苦笑――しかしその苦笑は、今度は彼女自身に向けたもののようだった。
「苦痛はないに越したことはないもの。……あなた自身だって、私の元にいた間の方が心穏やかに過ごせていた筈だわ。悲しみさえ覚えなければ別離や喪失に心を痛める事もなかったし、愛さえ思い出さなければ憎悪や嫉妬なんていう大罪を知る事もなかった」
 少将の笑顔を目に映す。常に変わらない、仮面のような笑顔。感情の垣間見えない筈のその笑顔は、どこか泣き顔にも似ているのだと、この時初めて気がついた。

 ――あんたは、苦しみや憎しみ、悲しみという負の感情を、誰よりも嫌悪しているんだな。
『悲しみのない世界になりますように』
 それは。その願いだけは。ミナのそれときっと同じなのだ。背中合わせで同じ祈りを捧げているだけで。

 クォークは一つ深く息を吐き、改めて少将を真っ直ぐに見つめた。
「あんたの言う事はある意味正論なのかもしれない。受け入れるに誰もが躊躇する、苛烈極まる劇薬だが、一定の効果は望めるのかもしれない」
 ――けれど、
 実際には目は向けず、意識の中だけですぐ傍にいる少女の姿を――今の自分の大半を形作ってくれた彼女の姿を思い描き、告げる。
「けれど、今俺が信じている正しさとは、違う」
 クォークは少将に対して半身に構え、両手で握る斧の柄を持ち上げた。鋭利な穂先に戦意という意思を込め、鈍色の刃越しに標的の姿を見据える。
 感情なき戦闘を彼に教え込んだ少将は、強い感情の織り込まれた刃をしばし無言で見つめ、泣き顔に似た微笑みのまま、力強く宣言した。
「変えさせない。終わらせない。偽りの安寧ではなく、永久に続く血塗られた平和を」
 不意に、少将の右手が水平に持ち上げられる。そこには複雑な形状をした杖が握られていた。
 その杖の先端を女は《ベルゼビュート》の面々に向けて構える。杖の先端に、黒々とした深い穴が開いているのが見え、はたと気づく。それは杖ではなかった。筒状の構造を持つそれは、彼ら古参の兵士たちにはあまり馴染みの深くない、このメルファリアでは比較的新しい兵装。
 銃。
 咄嗟に最前列のウォリアーたちが仲間を庇うように盾を掲げた、次の瞬間。
 ぼふん!
 それは予想外に間の抜けた破裂音を立て、一帯を白煙で埋め尽くした。

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