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ネツァワル国領クローディア水源――
「こりゃ……すげぇ霧だな」
山を下るにつれて徐々に濃くなってきた霧に、半ば呆れたような声で部隊員がぼやく。
周囲に鬱蒼と茂る木立は勿論、伸ばした腕の先すらもが霞む、まるでミルクのような濃霧。この霧を隠れ蓑にして、今回の標的である敵軍はこのクローディア水源に至る渓谷を進軍して来るという。
「部隊長よう、これって同士討ちして死ねって暗に言われてねぇか俺ら」
隠密行動にはうってつけの状況だが、はっきり言ってこの視界不良の中で戦うのは自殺行為に他ならない。
「気の所為だろう。多分な」
しかし、部隊長の返答はにべもなかった。
「今回の作戦を説明します」
国軍の将官と言うよりは、日曜学校の女教師を髣髴とさせる柔らかな物腰の少将は、早朝、下船前に行われた最終ミーティングにて初めて作戦の詳細をつまびらかにした。
昨日、少将が部隊にやって来てから明らかに顔色の悪かったクォークの様子を、何人かの幹部たちがちらちらと窺うように見るが、今日の彼は隅の椅子に深く座り腕組みをしたまま微動だにしない。表情も完全なる無表情と言ってよく、口元を真一文字に結んだまま動かさない為、その胸の内を知る術はないように思われたが、関心の欠片もないかのように沈黙を貫く部隊長に倣い、彼らもまた余計な言動は慎んだ。
「今回の任務は、先にも言った通り、敵軍潜入部隊の殲滅です。エルソード軍の先遣部隊は、エルギルからクローディアに至るルートを通り、我がネツァワル軍ジェハク砦に進軍する計画であるようです。幸いにして、国軍情報部によりその情報を早期に掴む事が出来ました。これより我々はアシロマ山麓からエスセティア上陸後東進し、クローディア水源にて敵軍を待ち伏せ、これを撃滅します」
アシロマの軍港に到着後、部隊はすぐにクローディア水源への移動を開始した。既にこの地域は自軍の支配下に置かれており、進軍を阻むものは何もない。特に問題なく目的地へと到達する事が出来たのだが……
現地に着き、一行を困惑させたのはこの濃霧である。
「まあ、この時期のクローディアの濃霧は有名ではあるからな」
計算内とでも言わんばかりに部隊長は嘯くが、この視界不良の中戦うのは、歴戦の兵たる彼らにとっても容易ではない。一歩間違えば、甚大な被害を被る結果にもなり得るだろう。
「ただの部隊監査じゃなかったのかよ」
そのような訳で、ある者はぼやき、
「部隊長よう、これって同士討ちして死ねって暗に言われてねぇか俺ら」
ある者は冒頭の文句を垂れ流すのであった。
とはいえ無論、国内外にその名を馳せる《ベルゼビュート》は、戦場にただ愚痴をひり出すだけの部隊ではない。如何なる悪条件下であっても、戦場に投入されれば一定の戦果を出す事を期待され、そして実際にそうした結果を残す事を自らの誇りとする猛者の集団である。部隊は更なる少将の指示に従って、粛々と霧の中の森を進んでいく。そんな猛禽の群の中に何故か紛れ込んだひよこよろしく、ミナは隊列の中程をちょこちょこと皆に付き従って歩んでいた。
白濁に霞む周囲の木々の影は色彩を失って黒く沈み、ぼんやりと佇む亡霊の群のようにも見えた。ミナの後ろから部隊員の一人がそんなからかいを言って脅し、少女を大いに震え上がらせた。クォークが傍にいれば即座に引っ叩きに来る悪ふざけだが彼は隊列の先頭で警戒しつつ先を進んでいる。
「なぁに下らない事でからかってんのよ」
その代わりという訳ではないのだろうが、すぐ傍で歩いていたアイラが呆れた声で呟いて、からかう男からミナを引き剥がした。
「いつ接敵してもおかしくない所まで来てるんだから、あんまりふざけてんじゃないわよ」
その言葉に誘われるように、ミナはマップを取り出した。……が、通常であれば地図上に魔法の力により描き出される筈の敵味方の位置を示す光点は、今はひとつたりとも見えない。
「あれ。壊れてるのかしら」
「霧の所為よ」
首を傾げるミナにアイラが即座に教える。
「探査系の魔法ってのは、光学的な情報をそのマップ自体に組み込まれたクリスタルなりオベリスクなりで察知するものなの。だから、レイスのダークミストや銃技のホワイトブロウとかの煙幕の他にも、こういった自然の濃霧でも拾い難くなるのよ。少し霧が晴れればちらっと見えたりもするんだけど」
「なるほど……」
この地域には自軍のオベリスクは建造されていないので、仮にマップが正常に機能しても、自分の周辺のみの情報が反映されるだけである筈だが、それすらも拾えないとなると戦闘は更に困難を極める。ミナは改めてこの任務の過酷さを痛感し、ごくりと唾を呑んだ。
更に暫く部隊員ともども足を進めていると、唐突に通信石から押し殺したクォークの声が響いた。
『伏せろ』
単刀直入な命令にミナが反射的に従い、茂みの中に音を立てずにしゃがみ込む。周囲の皆も同様の仕草を取っていた。部隊全体への同時通信であったようだ。
『人数は』
こんな場所でこういった指示が飛ぶ以上、敵を発見したという事に他ならない。やはり通信石越しに伝達されてきた主語のない部隊長の問いに、クォークが簡潔に応える。
『見えたのは三人。十時方向を南東に直進中。こちらは多分まだ発見されていない。スカウトの斥候ではなくウォリアーだから、後続がいる』
『よし。では左右に散開。迎え撃つ。スカウト隊は前へ。ソーサラー隊、詠唱準備』
その指示に、部隊長の傍にいた少将は口を挟まなかった。現場での命令権は部隊長にあるようだ。今回はアイラ率いるソーサラー隊に属しているミナは、彼女のハンドサインに従って霧の海の底を密やかに移動する。
ミナの鈍感な神経では、同じく霧の向こうに潜む敵の気配を捕捉する事は全く出来なかったが、クォークたち《ベルゼビュート》の精鋭たちは正確に敵の様子を把握しているようだった。アイラや周囲の部隊員から細やかに指示を与えられ、時を待つ。
『スカウト隊、配置完了』
『ウォリアー隊、攻撃範囲内に入る』
『状況開始三秒前。二、一』
淡々とした報告の声が通信石越しに交錯し、最後の一声のみは肉声で、部隊長の命令が朗々と濃霧に響き渡る。
「かかれっ!」
「おおッ!!」
本隊が発した鬨の声と同時に、敵の至近にまで接近していたスカウトたちが撒いた、白い霧とは対照的な黒い靄が、そこかしこから上がった。
白と黒に塗り込められた視野の中に、亡霊の影のように揺らぐ濃淡を見定め、《ベルゼビュート》の兵士達はそれぞれの武器を構えて群狼の如く飛びかかった。
発する気魄に打ち破られるようにして割かれた霧の向こうから現れたのは、彼らと同じような武装を纏うウォリアーの一団であった。胸や腕には、青い稲妻の紋章を掲げている。情報に違わずエルソード兵だ。
敵兵たちは、《ベルゼビュート》が行動を開始する瞬間まで、こちらの気配を察する事は出来ていなかったようで、刹那、動揺の気配を見せたが、反応は機敏だった。合図と同時に撒かれたヴォイドダークネスの武技を食らった者を護る形で進み出た敵前衛が、《ベルゼビュート》の突撃部隊と真正面から組み合う。大剣と両手斧、盾と短剣がぶつかり合い、鋼の匂いが森の中に撒かれる。
「行っけえぇ!!」
赤と青の紋章を掲げる集団がぶつかり合う戦場の真横から、突如、力を含んだ声が朗々と響き渡った。同時に、白霧よりも尚冷たい氷縛の嵐が、木々の間を縫うようにして敵集団に襲い掛かる。ブリザードカレス。敵の横腹を突いて死角から放たれた一撃に多くの敵兵が巻き込まれ、《ベルゼビュート》の手練たちの前に致命的な隙を作る。
刹那の間も置かず降り注いだ剣により、ざん、と涼やかとすら聞こえる斬撃の音を残して、青い紋章が断ち切られた。
ソーサラーであるミナも、勿論攻撃に参加していた。
攻撃力の高い炎魔法の使い手の戦場での動き方はどちらかと言うと、援護を担当する氷ソーサラーより前衛を担い近接攻撃を担当するウォリアーの方に近い。スカウト隊が妨害の武技を撒き、氷ソーサラーが足止めして攻撃力を減衰させた敵に肉薄し、一撃必殺の地獄の業火でとどめの一撃を与えるのだ。
仲間の一団から決して一定以上離れないように細心の注意を払いつつ、ミナは走る。今のミナは、霧の中に霞むような白地に山吹色のラインの入った淡い色のローブを纏っている。先日送ってもらったこのローブは、高度な防御魔法が織り込まれた上等なソーサラー装備だが、この視界不良の中にあっては霧に紛れて敵の目から逃れ易い反面、同士討ちを誘発しかねない。そして何よりもミナは、敵よりも味方から目を離すなとクォークに言い含められていた。誰かの手が届く範囲にいれば、必ず誰かがフォローしてくれるから、と。戦闘に関する視野の狭いミナが何よりも堅固に身を護るには、自分の目よりも他の熟練者の目を頼った方が遥かに効果的なのだ。
その代わり、敵に大魔法を浴びせかけるチャンスを逃す事は許さない。ヘルファイアを放ったらその炎で必ず敵を焼き尽くせ。命中以外は認めない。うっかり外したらお仕置きな? とも厳しく言われている。クォークは温厚な人柄だが、戦闘に関しては容赦がないのでミナは戦々恐々としている。ついでにサイト辺りも「そのお仕置きってなんか変な意味が含まれてないっすか!?」などと別の意味で戦々恐々としていたのだがそれはミナの知り得ぬ余談である。
ともあれ、後方から飛び来る氷魔法の支援と最前列を支える片手ウォリアーの援護を受けて、ミナも他の部隊員に負けじと必死に杖を振るい続けた。群れなす狼、或いは一頭の獣のように完璧な統制の元で動く《ベルゼビュート》の足手纏いにならないように。可能であればその獣の小さな牙の一つになるように持てる力を最大限に振るう。
平地よりはずっと低い気温であるにも拘らず、汗が滴り落ちて来る。顎先に伝う雫をミナは手の甲で素早く拭い去り、視線を上げて睨むように最前線を見る。
霧の向こうに霞む、その姿を。長大な戦斧を雄々しくも、舞を舞うかのように華麗に振るう背中を。
クォークが斧を振るう度、刃から迸る光芒が彗星の如き尾を曳いて白霧を裂く。武器のクリスタルと共鳴して放たれる精神エネルギーの残滓だ。その光の中に溶け消えるように、また一人敵兵が胴を断ち割られ、血飛沫を散らして倒れ伏す。ミナの祖国、エルソードの紋章を付けた兵士たち――このネツァワルに渡ってから暫くの間は直視する事が出来なかった、かつて仲間であった筈の兵士たちの最期だった。敵よりも味方を見ろ、という指示は、もしかしたらその頃のミナの悪癖を矯める為の指示であったのかも知れない。
ネツァワルに移り住み、この国で兵士になってから、早一年。ミナも今は紋章の色に躊躇う事もなくなった。やらねばやられる。元々兵士であったミナがその最も根源的な戦場のルールを思い出すのには、すぐにとはいかなかったが、それ程の時間が必要だった訳ではない。
――何の為に、戦っているのか。
今でもふと、そんな考えが頭を過ぎる事もある。かつての同胞を裏切って、自分は一体何を思って魔法杖を持ち、このメルファリアの大地に立っているのかと。護るべきは、国ではなく人なのだと、クォークに教えて貰ったからこそこの国にやって来れたのだけれど、彼に出会うまでの間信じていた正義もまた、その全てが誤りだったとは思っていない。
藪を割って、敵兵が――母国、エルソードの兵が躍り出て来る。反応速度の遅いミナを庇うように、味方のウォリアーがその前に立ち塞がり、敵の行く手を遮った。
かん、きぃん! と光を放つ刃が交錯する。等しい重みの殺意同士がぶつかり合う。
――何が正しくて、何が間違っているのか。
『考えるな』
戦場の喧噪を鮮やかに裂く、清冽な声にはっとしてミナは顔を上げた。頭の中に直接響く声は、通信石の魔法によるものだ。声の主――クォークの姿を探して視線を向けると、鏃状になった戦列の先端に当たる部分で、変わらないペースで斧を振るい続けている。
ミナに背を向け、殺戮を続けながら、落ち着いた声だけがミナに届く。
『考えるな。戦場では。ただ、目の前にいる敵を討て』
普段は優しく穏やかな彼が放つ冷徹な一言が、ミナの心中に渦巻いていた黒い渦を強制的に斬り払った。
――そうだ。敵が今こうして自軍の支配領域深くに侵入して来ている以上、それを撃退する以外に選択肢はない。例えかつての同胞であろうと。生きる為に。護る為に。立ち止まっている暇はない。
ミナは気持ちを切り替え、味方ウォリアーと斬り結ぶ敵ウォリアーの姿を見た。手練の《ベルゼビュート》部隊員に一歩も譲らず渡り合う様は流石の一言だ。
称賛と殺意を眼差しに込め、身体の前に構えた杖を全身を捻って後ろに振りかぶり、一気に振り抜いた。
「ヘルファイア!!」
白濁する視界が刹那、紅蓮に染まる。味方すら巻き込まん勢いの地獄の業火が、眼前の広い空間を焼き尽くした。
ぱちぱちと爆ぜる生木を飛び越えて、味方の集団に続きミナは森の柔らかな地面を蹴る。敵も少数でこんなネツァワル領の奥深くまで斬り込んできただけあってその実力は並ならぬものがあるようだった。戦闘開始時の奇襲に気付かなかった不手際が嘘であったかのように、《ベルゼビュート》の精鋭たちに一進一退の攻防を強いている。
(けれど、そんな腕利きの人たちが一体何の目的でこんな所まで入り込んで来たんだろう)
これも考えても詮無い事という意味では先の思索と同じなのだが、ミナは不思議に思って内心で首を傾げていた。戦場での作戦会議で説明を受けた通り、確かにここクローディア水源は、ネツァワル軍のジェハク砦を落とす為には重要な足掛かりになる要所ではあるが、今のエルソードが砦攻略などという大掛かりな作戦に打って出るだろうか。去年開催された武闘大会『バンクェット』以降、エルソード国最大の義勇兵部隊である《フォアロータス》も、大規模なネツァワル方面侵攻には慎重な姿勢を見せていて、専ら反対側のホルデイン方面での勢力拡大に力を注ぐ方針を取っていると聞いている。――祖国にいた頃、ただの野良であったミナは重要な情報に触れる機会は一切なかったのだが、ネツァワルに来てからは《ベルゼビュート》からかなり積極的に情報を流して貰っている。ミナ自身はこれを情報管理に割と大らかな《ベルゼビュート》の特性に加え、幹部であるクォークに近しい人間として信頼されているからだという程度に捉えていたが、実はこれはミナを部隊の参謀として引き込もうという部隊長の計略に他ならない。
それはさておき――
(ホルデイン方面に注力しているというのは大掛かりなフェイクだった? 《ベルゼビュート》がまだ掴んでいなかったエルソードの真意がどこかに隠されている?)
もし仮に、だ。情報の隠蔽が万全で、この潜入が決してどこにも漏れていないとエルソード側が固く信じていたのならば、最初の不手際の理由も一応は説明がつく。極秘作戦の情報が漏れていたと知れば、どんな手練であっても一瞬くらいは動揺するだろう。《ベルゼビュート》の情報網ですら掴み切れていなかったとなれば、それは相当な深度の情報と考えられる。それを入手した情報部は、流石はネツァワル国軍の情報機関であると言える……
国軍。
そのキーワードを足掛かりに、妄想の域を出ないただの直感のまま、ミナは思考を重ねる。
……ネツァワルの国軍でなく、エルソード国軍が。エルソードの国軍が、義勇兵部隊にホルデイン方面への進攻を進めるように指示し、それをフェイクとして利用して、全く別の作戦を水面下で進行していた、という筋書きであったのだとしたら……?
「――上方注意!」
唐突に誰かが発した注意喚起の声が、ミナの取り止めのない思考を中断させた。声に従い咄嗟に上を振り仰ぐと、分厚い霧の天蓋の向こうに何かきらりと光るものが見えた。
――魔法!
そう思うのとほぼ同時に、誰かに突き飛ばされるようにして草むらに押し込まれる。部隊員全員が蜘蛛の子を散らすように退避した地表に、僅か半秒遅れて、無数の雷撃が雨霰となって降って来た。
湿った空気の中に響く剣戟の音、そして通信石を通じて上げられて来る報告を、戦列から少し下がった位置で聞きながら、レイチェル・クォ・ヴァディス少将は静かに眼を閉じていた。その顔には、あたかも心地よい音楽に身を委ねるかのような安らいだ表情が浮かんでいる。すぐ目と鼻の先で戦闘が行われているにも関わらず、全く警戒の色がない――ように、他者の目からは見える。ここまで常に彼女の傍に控えていた部隊長もまた、警護は不要であると断った彼女の傍を少し離れて戦闘の指揮を取っていて、彼女の表情までには意識を配っていない。
が、
その部隊長が、不意に何らかの気配に気付いた様子で、素早く背後を振り返った。しかしその視線の先には、やはりと言うべきか、濃霧の森に佇む少将ただ一人の姿しかない。
それを確認しても尚、不可解な表情を浮かべ、警戒の視線を周囲に投げ続ける部隊長に、瞼を開いた少将は小さく微笑んで告げた。
「良い感覚をしているわね」
部隊長の視線が周辺から上官へと戻される。
「心配ないわ。極秘裏に連れてきた私の私兵です。警護が不要であると言うのはそういう事だから、本当にこちらの事は何も心配しなくて大丈夫。指揮に専念して頂戴」
「……は」
――私兵だと。いつの間に。
そのような内心の呟きが、感情の色を隠す事に長けた隻眼から辛うじて察する事が出来る程度に漏れ出たのに気付き、少将はくすりと笑う。これはミスではない。感じた不快感を言外に伝える為に敢えてその感情を表出させたのだ。部隊長は悠然と笑う上官を怜悧な瞳でしばし見つめ、豪奢な巻き髪を靡かせて背を向けた。
――何を、企んでいる?
声なき問いに、少将は瞳を微笑ませながら、やはり音もなく、答える。
企みなんてなくってよ。
私はただ、私の迷子を迎えに来ただけだもの。