6
暗闇に沈んだままの船室の中。クォークはミナと二人、狭いベッドに横たわり、抱き合っていた。相手を縛め、閉じ込めるのではなく、互いを感じ合い、慈しむ為に。ただ、ただ、愛おしい。こんこんと清水が湧き続ける泉のように溢れ出る気持ちの赴くままに、少女の小さな背中を手のひらで撫で下ろす。
この、小さな背中に。彼女は、荷を共に背負ってくれようと言うのか。
そのいじらしさがクォークの胸を衝く。縋りついてまた泣いてしまいたくなる程の情動をどうにか堪え、ミナの陽だまりの匂いのする髪に指を絡めて、それに唇をそっと触れさせる。
ミナの強さに勇気を貰って、長く開けていなかった錆ついた箱の蓋を、少しずつ、少しずつ、ずらして行く。
「七歳から十五歳までの間、俺は国軍のとある部隊に所属していた」
「七……歳」
クォークの胸に顔を伏せたまま、少し躊躇いの見える、くぐもった声でミナは呟く。戸惑いもするだろう。兵士としては規格外に若い。いや、幼い。これがどれだけ異常な事なのかは、同じ兵士であるミナならばよく分かる筈だ。十五歳以下の少年兵の徴用は、国際法で禁止されている。
「ネツァワル国軍特殊戦術開発局ロックシャンク第六三特務師団。そこで行われたある計画に従事していた。……従事していたというのは適切ではないな。俺たちはその計画の、被験者……実験体だった」
ひとつ、息を吸う。
「『プロジェクト・キリングウェポン』。特殊強化兵育成計画」
目を閉じて思い浮かぶのは、灰色の壁がどこまでも続いている風景だった。
窓もない。出入り口もない。……窓はともかく出入り口は、実際にはないという事もなかったのだろうが、少なくとも記憶に触れる場所には見当たらなかった。探そうとも思わなかった。
冷たく閉じた、無機質な灰色。記憶にある世界の大部分はその要素で構成されていて、度々そこに違う要素が加わった。剣と死体の冷たい生ぬるさ。拭い得ぬ血臭――無表情の『笑顔』。
泥のようにやわらかく、血のようにあたたかな、声。
「幼時からの戦闘教育。外科手術や魔法薬による肉体強化に人格操作。恐怖を覚えず倫理的タブーにも囚われない、強靭にして従順な理想の兵士を作るっていう、実に純然たる目的の人体実験だ。トルクマイヤ帝政時代に厳しく糾弾されて封印された筈の大陸史最大の汚点が、対象をエルフから人間の子供に変えて裏では連綿と受け継がれていたってだけの単純な話だ。……あの人、レイチェル・クォ・ヴァディス……当時は大佐だった彼女は、その計画の責任者の一人だった」
――初めまして、クォーク。私は、クォ・ヴァディス。レイチェル・クォ・ヴァディス。
ふふ、ほんのちょっとだけ、名前が似ているかしらね。仲良くしましょうね、クォーク。
そうだわ、ねえ、あなたのこと、クーって呼んでいい――?
全ての被験体は認識番号で呼ぶ事を義務付けられる中、彼女にだけは愛称を用いる特権を与えられていた。
愛情などでは無い。それが一部の被験体に対する有効な拘束となり得るから。ただそれだけが理由だった。
思惑なんて手に取るように分かる。
――それなのに。
「国軍兵とは名ばかりで、個別には認識番号で、総称しては被験体と呼ばれていた。ただの実験材料。単なる『モノ』として扱われ、俺たちも何ら疑問を持つことは無かった。薬物を投与され、高熱と激痛の中に何日も留め置かれても。機能試験と称して被験体の子供同士が殺し合う日々にも。毎日、たくさんの被験体が死んでいった。顧みられる事もなく。人としての尊厳もなく。俺も、殺した。自分と同じ年代の子供を、言われるがままに、何の躊躇もなく、何人も、何人も」
殺しなさい。
殺しなさい。
目を閉じて、何も迷わず、何も考えず、ただ私の声だけに耳を傾けて。
そうすればもう二度と絶望を覚える事はない。もう二度と、過ちを犯す事もない。
私があなたに居場所をあげる。
私だけがあなたを愛してあげる。
だってあなたは大切な、私の人形なのだから――……
淡々と語るクォークの声に、腕の中の小さな身体が強張りを強めていく。クォークのシャツの胸元をきつく掴んで、ミナが少し顔を上げ、震える声で囁いた。
「信じられない……国軍が、子供を……? ……そんな事……どうやって」
「孤児や事情のある子供なんか探せばいくらでも拾って来れるさ。寧ろ、エルフよりも余程容易に素材を集められただろう」
長く続く戦乱の所為で、当時も今も街には孤児が溢れ返っている。本来なら施設に送られるそのうちの一部を軍部が秘密裏に掠め取っていた所で、誰も気付きはしない。
「俺はまだ幸運な方だった。俺は極力温存しておきたい、条件のいい被験体だったらしくて、後先考えてない実験には用いられなかったから。悲惨な奴らはもっとずっと悲惨だった。強力な薬を打たれて訓練中に突然全身の血管を破裂させて死んだり、頭を開けられて中を弄られて自分の認識番号も分からなくなっちゃったり」
「あたま……って……」
「言葉通りだよ。実際の手術の現場を見た事がある訳じゃないから、メスで切られるんだか錐で穴を開けられるんだかまでは知らないけど」
ひっ……
顔面を蒼白にして細く息を飲んだミナを見て、クォークは無表情になっていた瞳の中に痛ましさを戻し、目を逸らした。
「……ごめん」
ミナは、顔をクォークの胸に伏せ直して、小さくかぶりを振った。
この、心優しい少女が、酷く心を痛めているのが肌から直接染み込んで来るかのように分かる。やはり、彼女に伝えるべき事ではなかったかもしれないという後悔の念がクォークの胸中に湧き上がって来るが、彼はそれをぐっと飲み込んだ。
これが、彼女の望みだから。
彼女が、共に傷つく事を、選んでくれたから。
ミナは随分と長い事、クォークの腕の中で震えていたが、やがて、蚊の鳴くような囁きを発した。
「……このメルファリアが、綺麗な世界じゃないって事くらい、争いの絶えない、悲しみに満ちた世界である事くらい、分かってた、けど」
多分、彼女の頭を今過ぎっているのは、荒涼とした戦場の光景だ。彼女も既に見慣れてしまった――数多の兵士たちが、傷つき、倒れ、血の海を作り、剣や斧が墓標のように突き立てられている、無残な戦場。
その戦場の情景が。虚ろな目を見開いて乾いた空を見上げる骸たちの姿が、幼い子供の姿に置き換わる。
「でも、それでも、そうであるのだとしても、あんまりにも酷過ぎる。年端のいかない子供までもがそんな理不尽な暴力に晒されていい訳がない……っ」
必死に最後まで言葉を絞り出して、その言葉尻が堪え切れなかったらしい嗚咽にかき消える。クォークは小さく微笑みながら、彼女を宥めるように、或いは自分自身を宥めるように、ミナの絹糸のような手触りの髪を幾度も梳いた。
心の奥底に、淀み凝り固まっていた澱が、緩み、溶けていく。彼女が、膿んだ傷口を、清浄な涙で洗い流して行く。
ミナが、嗚咽の合間に、途切れ途切れの声を挟み込んだ。
「……辛かった、よね」
それは、とても難しい質問だった。答えを探して、クォークを睫毛を微かに伏せた。
「……さあ、どうだったんだろう。記憶自体はちゃんとあるんだけど、その時自分が何を感じていたのかだけは、他人の記憶を覗いているみたいにおぼろげなんだ。悲しかったのかもしれない。怖かったような気もする。いや……やっぱり何も感じていなかったかな……」
ミナの手にまた力が籠る。それを受け止めるように、少女の肩を強く抱いて――自分が当時、感情に上らせる事に思い至らなかった怒りを、憤りを、悲しみを、代わりに感じてくれている彼女に心から感謝しながら、クォークは彼女の耳元に、今度は心からの確信を持って囁いた。
「平気だよ。もう、平気。さっきみたいに取り乱したりはしない」
その声に含まれる意味を、ミナも察したのだろう。少女の肩から少しだけ、力が抜けた。一つ二つ、深く呼吸をして、ミナは努めて冷静さを取り戻そうとしている声で言った。
「……ごめんなさい、話を中断させて。……続けて」
「うん。……ともあれ、かつての国軍ではそういう非人道的な実験が秘密裏に続けられていたんだけど、その計画は突として潰える事となった。さっきは、何ら疑問を持つことは無かったって言ったけど、本当に全く疑問を持っていなかった、俺のような壊れた子供は、実は少数派だったみたいでね。……ある日、反乱が起きた」
「……反乱」
ミナの復唱にクォークは頷いてから、少し言い直す必要があるかもしれないと首を傾げて考える。
「反乱と言うよりも、実質はせいぜい脱走計画っていう所だったみたいだけどな。何にせよ、国軍の奴らが思っていた程実験は成功していなかったって訳さ。そういう意味では、本格的に実戦運用される前に計画が潰されたことは国軍にとっても幸運だったと言える。最前線でこんな騒ぎになったとしたら洒落じゃ済まないからな。……そもそも、その反乱が起きる少し前から、色々な政治的事情でこの計画自体頓挫しつつあったようだ。全ての被験体を処分し、研究自体、全て破棄されようとしていた矢先の事で、その事情の錯綜が反乱を、辛うじて成功させたと言っていい」
小石をひとつひとつ拾い上げるように、ゆっくりと呟きながら、クォークは、当時の出来事の中で自分でも最も曖昧で不可解だった部分を紐解いて行く。
「俺は……当時、『モノ』たちの中でも特に自我が薄くて。自力では……命令なくては一切の物事を判断する事が出来ない状態だった。だから、被験体たちの間で内密に計画されていた反乱そのものの情報も、一切回って来なかったんだけど……事が起きたその時、混乱に乗じて脱出した。本当ならば計画の崩壊と同時に、ただ何もせずに死んでいるのが当然だった筈なのに……どうして当時の俺にそんな事が出来たのか、今考えても本当に分からないんだけど……」
それだけは、どれだけ記憶を手繰っても理解の糸口の見つからない、本当に不思議な体験だった。
あの、日。
最後の日の、あの、出来事。
目の前に、長柄の両手斧を携える、金髪を結い上げた女。
「ごめんなさいね、クー」
そうして女は、常と変わらない優しさで微笑み、
「愛しているわ。さようなら」
使い古した愛用の道具を捨てる哀惜を込め、斧を高々と掲げ、
殺意を纏った鋼鉄の塊が、少年の頭上に、何の躊躇もなく振り下ろされる。
その、命中必死の一撃を、
命令なくしては動けない筈の少年は、
――――!
唐突に、何かに呼びかけられたようにはっと目を見開き、同時に強く床を蹴り、躱した。
強烈な刃唸りを立てて振り下ろされた戦斧が、頬に鋭い風を感じさせ、灰色の床を音高く打つ。
自分の手元から響き渡った音が、肉を割き骨を叩き潰す音ではなく、無機質な衝突音であった事は、女にとってもいささか予想外な出来事であったようだった。
長大な斧を振り下ろした体勢のまま、女は顔だけを、ゆるりと少年へと向ける。その顔にあったのはいつも通りの柔和な笑顔ではあったが、その中に僅かばかりの困惑も見て取れる。
「これは戦闘訓練ではないのだから、命令も無いのに動いちゃ駄目でしょう、クー」
幼い子供を嗜めるような声。
その言葉に、少年は――クォークは、何かを呟き掛けて唇をほんの微かに震わせる。
――だって、今、
――声が、聞こえた。
だが、その唇から実際に声が漏れる事はなかった。或いは漏れていたのかもしれない。しかしどちらにせよ、その一言が女の耳に届く事はなかった。
その仕草、若しくは言葉をかき消すかのように、その瞬間、けたたましいサイレンの音が室内に鳴り響き始めたからだった。
さしもの女も、その第一級の危機を知らせる不穏な警告音には顔に緊張を走らせ、何かを確認するように部屋にたった一つある、両開きのドアの方に視線を向けた。そのドアが、まさしく計ったようなタイミングで、激しく叩き開かれた。
「大佐っ、大変です、被験体たちが暴動を……っ」
国軍の軍服を着た下士官が叫びながら飛び込んで来る。
――刹那、少年を突き動かしたのは、彼自身理解し得ぬ反射だった。
クォークは、灰色の床を蹴って身を翻すと、開放された扉に向かって走った。扉を塞ぐように立っていた下士官の腰に、身を低くし重心を落とし、肩でタックルをかける。決して大柄ではない子供の、しかし不意を突く、弾丸のような勢いでの体当たりに、それなりに鍛え上げられた体格の軍人が軽々と撥ね飛ばされる。独楽のように回転し転倒する男の身体を躱し、
「クー!?」
背後から響いた女の絶叫にも振り返る事なく、クォークは灰色の廊下を駆け抜けた。
当時は、全く状況は分からなかった。ただ、常に不変で静謐だった灰色の世界が、激震に見舞われているらしき事だけは把握出来た。幾度か、国軍兵――被験体ではない大人の正規兵たちと擦れ違い、刃を向けられるがその悉くを、叩き込まれた戦闘技術で撃退し、走り続けた。
どこに向かえばいいのかも、自分が何をしようとしているのかすら分からないままに、彼は何かに導かれるように閉じられた世界の中を走り――
気付けばいつの間にか、噎せ返るような濃密な緑の匂いと、湿った黒土の匂いに満ちた真っ暗な世界の只中で、彼は荒い吐息を吐いていた。
「……俺は、混乱に乗じて逃げただけだから、誰が首謀したどういう計画だったのかは結局今でも分からない。ただ、被験体たちのほぼ全てが脱出に失敗し、処分されたらしい事は、後になって知った。俺を含むごく一握りがどうにか逃げ延びる事が出来たようだが、脱出に成功した奴らも、その後どうなったかは知らない。連絡を取っていた訳でもないからね」
クォークの腕の中で、昔語りを聞いていたミナは、暫くの間、沈黙したまま考えて、やがて恐る恐る顔を上げ、彼の瞳を見つめた。
「……という事は、あの少将さんがここにやって来たのは、クォークを追って……今度こそ、殺す、つもりで……?」
その問いに、クォークは、まばたき一回分程度の思考の時間を置いてから、否と首を振る。
「いや……多分、それはない。追跡は、かなり初期の段階で打ち切られていたと思うから。国軍が本気で俺たちを始末しようとしていたなら、とっくの昔に俺は死んでいた筈だ。……そもそも師団を抜けた後だって、俺は別に潜伏してた訳じゃなく、何の隠蔽もせずごく普通に義勇兵として戦場に出ていたんだ。連中は俺の消息なんか最初から把握していて、その上で敢えて放置していたに違いない。恐らく、俺たちを無理に処分するよりも、計画自体を闇に葬る方が良策だと判断されたんだ。具体的な証拠さえなくなれば、後に残るのは多少戦闘能力に優れた数人の子供だけだから」
「……そうすると、あの人は一体何が目的で来たのかしら」
「さてね。偶然だと思う程楽観的にはなれないけど」
囁きながらクォークは、ミナの身体を改めて抱き締め直した。告げるべき事を告げ終えて、安堵に似た心境で深く息を吐く。汚らわしくおぞましい自分の過去を彼女に話してしまったら、もっと後悔に苛まれるかとも思っていたのに、今感じているのは、肩の荷が下りたような身軽さだった。
「計画が潰えた後、あの人を含め計画の責任者たちが、それぞれ様々な無関係な地域に、散り散りに飛ばさたらしい事は確認していた。それが、一種の政争に負けた結果なのか、彼らが自身の身を護る為の手段だったのかは分からないけど。……本当に今更、何なんだろうな……こんな事になるなら兵士なんてさっさと引退して、ヴィネルにでも引っ越してれば良かったな」
ぼやくようなその言葉に、ミナは少しだけ声に、からかうような笑みの気配を戻して囁く。
「二人で?」
「勿論、二人で。……一緒に、来てくれる?」
断られるとは思っていなかったが、それでも少なからずの緊張を覚えつつ、躊躇いがちにそう問うと、ミナは、蕩けるような笑顔を浮かべて、ぎゅっと強く抱きついてきた。
「……はい」
進路を転じる合図である短い汽笛が、早朝の空気に溶け消える。既に水平線からは陽が離れ、上空は明るく青く澄み渡っている。遥か遠くにうっすらとした雲がぽつりぽつりと浮かぶのみの快晴だ。
窓から入り込むまだ低い日差しを片目に受け、部隊長はその隻眼を眇めた。前を歩く人物に付き従い歩を進めながら、数秒、遠目に陸地が見え始めた海洋の風景を眺め、すぐに視線を前にへと戻す。そこには、凛と伸びた背中がある。レイチェル・クォ・ヴァディス。柔らかな雰囲気を纏いつつも、鋼鉄の芯でも入っているかのように背筋を伸ばして歩く女を視界の中央に入れていると、その視野の隅に、先の廊下の角から人影が入り込んで来るのが見えた。
微かに、眼帯に覆われている側の眉を動かす。壁の向こうから現れたのはクォークだった。隣には、小柄な少女が睦まじげに寄り添っている。朝っぱらから人目を憚らずに見つめ合い、窓から差す朝日にきらきらと笑顔を輝かせ、さも親密そうに談笑して歩く二人もまた対向者に気付き、横列を縦列に組み換えた。
「おはよう、クー。いい朝ね。ミナさんも、おはよう」
「おはようございます、閣下」
「おはようございます」
少将の気さくな挨拶に、道を譲って廊下の端に寄ったクォークが、直前までミナに対して浮かべていた緩みきった笑みをあからさまに消し、ぶっきらぼうに頭を下げる。その横でミナも、こちらは丁寧に、深々と腰を折ってお辞儀した。男は完全な無表情で、部隊長の眼力を以ってしても、その感情の深層を窺い知る事は難しい――が、まあ、直前までの顔を見れば、深層を掘り起こしてみた所で甘ったるい蜂蜜しか湧いて来ないであろう事は明白なので、そんな腹立たしい作業をするつもりもない。
全く。少し心配してやれば、一晩であっさりと立ち直りおって。
それを成した少女を軽く一瞥し、男に対しては、後ほど蹴っ飛ばそう、とだけ心に決めて、後は我関せずとばかりに傍観する。
「昨日は具合が悪くて先に休んだと聞いたわ。心配していたの。調子はどう?」
「お陰さまで回復しました。本日の任務に支障はありません」
「それは良かったわ」
心から嬉しそうに、どこか少女じみた仕草で手を組み合わせて少将は笑い、その笑顔をミナにも振り撒いて、「じゃあまた朝食後のミーティングでね」と歩き出す。上官が通り過ぎるのを待ってから、淑女をエスコートする紳士の如くミナの背に自然な仕草で腕を回して歩み出そうとしたクォークが、ふと思い出したように部隊長に顔を振り向けた。
「そうだ。部隊長。落し物は、サイトに返しておいたから」
「む? ああ、あれか。分かった」
まさかこの場面で自分に声を掛けられるとは思っておらず、一瞬虚を突かれたが、すぐに心当たりに思い至って頷くと、クォークは今度こそ用は済んだとばかりに歩き出した。
「思ったよりも、ずっと元気そうだったわね」
そのまま歩を進め、二人の影もとうに見えなくなった頃、少将は部隊長に背を向けたまま、声を発した。
それはまさしく部下を思い遣る、度量の広い上官の鑑らしき者の声に聞こえた。慈愛溢れる、母親の包容力を持った、声。こちらを向かないその顔は、今どのような表情が現れているのだろうと部隊長は考える。恐らくは、目を細めて、優美な微笑を浮かべているに違いないだろうが。
「良かったわね、部隊長さん」
「は」
口の端に笑みも強張りも浮かべる事なく、最大限に短い返答でもって、部隊長は同意した。
少将と部隊長が短いやり取りを交わしている頃、ミナも廊下を歩きながら、クォークに先程の会話について説明を求めていた。
「落し物?」
「うん。通信石。朝探したら、周囲の音声を無差別に拾うように改造された奴がベッドの下に落ちてた」
「へ?」
「盗聴器とも言うけど。諜報の分野では結構頻繁に使われるものでね、まあ要するに、昨晩の会話は全部部隊長に聞かれてたって事」
「え。えええ?」
盗聴器などと言う不穏な物品に関する発言に、眉を寄せて困惑の声を発するミナを、クォークは人の悪い笑みを浮かべながら振り向く。
「あの人の事だから、俺と君に同じ部屋を当てがったのにも、単に俺に同情するだけじゃなく何かしら目論見があったんだろうなと思って。探してみたら案の定、分かり易く仕掛けてあったよ」
「よ、良かったの?」
というのは、長年、当の部隊長にすら秘密にして来た過去を暴露させる形になった事を気にしての発言だろう。しかしそれはクォークにとって何ら問題のある事ではなかったので、気楽に肩を竦めて見せた。
「まあ、あまり積極的に言いふらしたい話じゃないけど、どうせあの人の情報網なら、ロックシャンクって地名が出た時点で辿りつく事も出来ただろうし。何より、この際秘密を知る範囲をもう少し広げておいた方が、ミナの安全の担保にもなるだろうとも思ったしね」
そう告げると、ミナははっとしたように目を見開いてから、しゅんと眉尻を下げた。
「……ごめんね」
「何でミナが謝るの。俺が勝手に君に教えた事じゃないか」
少し俯いてしまったミナの柔らかな猫っ毛を微笑みながら撫でて、クォークはその頭をそっと引き寄せた。悄然とした様子で擦り寄って来る少女の頭上から、クォークは意を決して囁いた。
「ミナ」
「なぁに?」
「俺の、昔の事で、本当はあと一つだけ、していない話があるんだ。今回の件とは直接は関係ないんで、話しそびれたんだけど」
抑揚のない声で語るクォークの告白を、ミナは黙って聞いていてくれた。彼女に対してこれ以上不誠実でありたくないという思いだけをよすがに、渇いた喉に唾液を無理矢理流し込み、怯懦な自分に鞭打って、続ける。
「……多分、その話も……いや、その話が一番、君を失望させる内容になると思う。……けど、いつか必ず、言うから」
クォークの言葉を聞き終えて、透き通った瞳で彼を見つめた少女は、一旦、聞いた言葉を反芻するように長い睫毛の並ぶ瞼を軽く伏せ、その瞳に確信を乗せて、真っ直ぐにクォークを見上げた。
「大丈夫。失望なんてしないよ。絶対に」
にこり、と笑って彼女は告げる。
「光も闇も、全部引っくるめて、私の好きなあなたなんだもの」
天上の世界を満たす光の如き、一切の揺らぎも迷いもない声で告げる少女に、クォークは祈りを捧げるようにこうべを垂れて、額をそっと押し付けた。