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 無意識に、ごくりと唾を嚥下する。その音に、どうにか僅かながらも自制心を取り戻し、クォークはそれ以上感情が表に出る事がないように、口元に微笑みを形作った。
「驚いた。どうしたんだ、ミナ。こんな所で」
「サイトさんに聞いたら、今日の私の部屋はここだって。部屋数が足りないから、クォークと同じ部屋に泊まってくれって」
 答えるミナの声は淡々としていて、戸惑いの様子はない。
 ――次は。次は、どういう表情を作ればいい。微笑みの仮面の奥でただひたすらにそれだけを考える。凪いだ海のように静かな眼差しでじっとこちらを見ているミナを見つめ返しながら、思考が弾き出した答えに従い、クォークは軽く吹き出した。
「全く、悪い冗談だな。からかわれてるんだよ、それ。君もそんなおふざけに真面目に付き合う事ないのに。……少し待ってて。別の部屋が取れるように部隊長に掛け合って来るから」
 踵を返し、今しがた閉めたばかりの部屋の扉に手を掛けながら言うと、ミナが少し不思議そうな声を出した。
「別の部屋って」
「俺と同じ船室なんかに泊まったら、デリカシーのないウチの部隊員どもに何を言われるか分かったもんじゃないよ」
 クォークの返答に、ミナはなんだ、と息を吐いた。
「私とあなたが一緒に住んでる事なんて皆知ってるんだから、同じ部屋を使う事くらいで今更誰も不思議に思ったりしないわ。それに、直接指示をくれたのはサイトさんだけど、これは部隊長さんの命令よ」
 命令。その単語に、反射的に手を止めてしまう。
 そんな条件反射を呪わしく思っているうちに、背後で、さらり、と衣擦れの音が聞こえた。床板がきしりと鳴る。小さな足音と共に、一歩ずつ、一歩ずつ近づいて来る暖かな気配は、凍りついたように動きを止めていたクォークの一歩後ろで止まった。
「……迷惑?」
 遠慮がちに問うてきた声に、クォークは強くかぶりを振った。
「そうじゃない。そういう訳じゃないんだ。……ただ、今日は……ごめん、一人にしてくれないかな」
 ぎりぎりまで押さえた叫びが喉を突く。喉笛を掻き毟りたい程の灼熱感を無理矢理ねじ伏せる。なのに、彼女は無慈悲なまでに追い打ちを掛けて来る。
「私は、一緒にいたい」
「ちょっと、気が昂ってて。酷い八つ当たりをしてしまいそうなんだ」
 ――取り繕えない。だから、今の内に、どうか俺の手の届かない場所へと行ってくれ。
 君をこれ以上傷つけたくはない。大切だから。本当に、大切だから。これ以上俺の手で、穢したくなんてないから。俺が、決定的な過ちを犯してしまう前に。
 そんな、クォークの声なき悲鳴を再び拒絶して、彼女の気配は緩やかに首を振った。
「だったら、尚更。八つ当たりして構わない。詰ったって、殴ったって、あなたのする事なら全然大したことじゃない。クォークがそこまで辛い思いをしている時に、一緒にいられない事の方が、私には辛いことだよ」
 ――取り繕えない。
 ふつり、と頭の中で糸が切れる。理性の手綱を失った身体が、通常ならば考えられない挙に及ぶ。
 振り返り、後ろに立っていたミナの華奢な腕を乱暴に掴み上げ、無理矢理部屋の奥へと引きずり込んだ。そしてそのまま力ずくで、小さな身体を部屋の片隅へと放り投げる。倒れ込んだミナの背中を受け止めたのは船室の硬いベッドで、彼女は強い衝撃に一瞬呼吸が止まったらしく、苦しげに眉間に皺を寄せるが、自分の真上に影が差したのにすぐに気づいて瞼を開き、顔を上げる。
 クォークはミナの上に乗りかかり、少女を見下ろした。あどけない瞳が大きく見開かれて、クォークを見上げている。そこに映っているのは、驚愕か、恐怖か、嫌悪か。彼女の感情の機微を察するだけの理性は最早なく、ただ、組み敷いた獲物を見下ろすけだもののような殺伐とした心持ちで、少女の宝石のような瞳を見つめる。
 ミナの両手首を片手で掴み上げ、頭の上で固く拘束した。ミナから抵抗の気配はなかったが、もしあったとしても、彼女を離すつもりはなかった。どれだけ、彼女が拒絶したとしても、知らない。泣いても叫んでも、離さない。ミナなんて、鎖で繋がれ檻の中に閉じ込められて永遠に俺だけの欲望で貫かれ。俺と同じように狂ってしまえばいい。

 ――そうだ。俺は。
 ――ずっと、こうしたかったんだ。

 どす黒い歓喜が心を支配する。禁忌と感じていたこれこそが、自分の本当の望みだったのだ。彼女のいる光ある世界に行きたかったんじゃない。神聖な光の中にいる彼女を、憧憬の眼差しを向ける事すら畏れ多い、決して手を触れてはならなかったこの清らかな少女を、自分と同じ暗闇の中に堕としたかったんだ――
 白くなめらかな首を手のひらで撫でる。少し力を込めれば簡単にへし折れてしまいそうな、ほっそりとした首。吸い付くようなしっとりとした肌触りを味わいながら、喉元にそっと手を掛ける。ミナの顎が少し上がり、クォークは蜜に誘われる蜂のように彼女の唇に自分のそれを重ねた。僅かに開いた歯列の隙間を舌でこじ開けて、少女の口内に侵入し、息をつく間も与えない程念入りに、じっくりと犯してゆく。「ん……」と、少し苦しげな鼻声をミナは漏らしたが、それすらも吸い尽くすように唇を貪る。
 船が波を切る音が微かに聞こえるのみの静かな部屋の中に、しばしの間、波音とは違う淫靡な水音が鳴り響く。こくり、とミナの喉が唾液を飲み込む為に動いて、そこでクォークはふと思い出した。ミナの手首を縫い留めているのと逆の手は、まだミナの喉元に置かれたままだった。
 闇色をした靄のような愉悦が、胸の内に渦巻く。
 ――ほんの少し、もう少しだけこの手に力を込めれば、彼女は、永遠に、自分だけのものとなる。
 それはいっそ、甘美と言えるまでの誘惑だった。

 愛しい愛しい、私の****。
 愛しい愛しい、私の人形。

 あなたは人を**すことしか出来ないのだから。
 あなたは人を殺すことしか出来ないのだから。

 金色の幻影が紡ぐ声に、クォークは口の端を歪める。
 そうだ。それでいいじゃないか。そうすれば、もう何にも怯える必要はない。逃れる事の出来ない茨からも、逃げ切れる。幸せに暮らそう。未来永劫、何もない世界で二人きり。深く交わり合ったまま、二度と離れる事もなく……
「クォーク」
 不意に、柔らかな囁きが耳朶に触れる。クォークは紗のかかった瞳でミナを見た。ささやかな波音。揺り籠のように揺れる船室。暗闇の中で、じっと見つめ返して来る少女。
 少女の、朝露に濡れ光る薔薇の花弁のような唇が、切なげにわなないた。
「……ごめんね。私が間違ってた」
 甘い、彼女の香りが、ふわりと鼻孔を擽る。
「クォークはずっと隠しておきたそうだった……ううん、何もかも、なかったことにしておきたそうだった。だから、何も聞かない方がいいのかなって思ってたんだけど……間違ってたって分かった」
 彼女は長い睫の並ぶ瞼を一旦閉じ、再び開いてクォークを見た。自分でも気付かないうちに、早鐘のような鼓動を打ち続けていた心臓が、彼女の凪いだ湖面のような声に導かれ、少しずつ、その速度を減じていく。
「前にも言ったけど、私にはあなたの苦しみを、本当の意味で理解する事は出来ないかもしれない。……でも、それでも、あなたを理解する事を諦めたくはない。私はあなたと一緒にいたいから」
 ミナが、腕を動かす気配を見せる。ごく自然にその動きに促され、クォークは彼女の腕を解放する。煌めく涙の粒を眦に浮かべたまま、ミナは、野薔薇の蕾が綻ぶように優しく微笑み、自由になったその両腕を、迷うことなくクォークへと差し伸べた。
「あなたの苦痛を。衝動を。想いを。全部、私にも、ください。……ほんとうは、あなたと一緒に、おじいさんおばあさんになるまで、この世界で生きていきたいけど……、クォークが望むなら、そこがあなたの隣であるのなら、どんな所だっていい。どこまででも、私を連れて行って」

 少女の細くしなやかな腕が、クォークを包む。
 小さな手のひらから伝わって来る、確かな熱。
 惜しみなく与えられたその熱量が、クォークの冷え切った身体の中で、逆流するように、爆ぜた。

 熱い何かが顔の表面を伝って流れ落ちていく。体感した覚えのない皮膚感覚が一体何であるか最初、クォークには全く分からなかった。知識にある中で一番近かったのは、傷口から血液が滴る時の感覚で、こちらも怪我をしていただろうかと訝しく思いつつ、手のひらで頬を拭う。何とはなしにその手のひらを見下ろしたが、予想していたような血の染みがないことに更に訳が分からなくなった。
 動揺しているうちにミナの指が目尻に伸び、指先でそっとそこに溜まった水滴を拭った。
 そこに至り、漸く気付く。自分が、涙を流していた事に。
「嘘だろ、あれ、何で」
 慌ててミナの上に覆い被さっていた上体を起こし、水滴が零れ落ちる感触が止まらない頬を更に拭う。それでも、今迄流した記憶のない涙の止め方は分からなくて、クォークは結局手で顔ごと覆う事でそれを隠した。
「…………あー、くそ。恥ずかしい……」
 手のひらの下の顔が酷く熱い。寒風吹きすさぶ屋外から、急に暖かい部屋に帰って来た時のように、耳の先がじんじんと痺れる。その耳に、くすくすという笑い声が届く。
「ちっとも恥ずかしくないよ」
 ベッドの上に髪を翼のようにふんわりと広げて笑っている少女を、少しの間、困った視線で見下ろしてから、クォークは、拗ねたように彼女の上ではなくその脇に身体を横たえた。船室の狭いベッドは二人で寝そべるにはやや窮屈で、少し端に寄ってスペースを開けようとしてくれたミナの身体を、逆に自分の方へと引き寄せると、ミナは喉を鳴らす子猫のように目を細め、クォークの胸に鼻先を擦り寄せるようにして密着して来た。
 直接伝わる、互いの鼓動。
 今、この刻に、このメルファリアに生きている、証。
 暫くの間、二人は言葉を交わすこともなく抱き合っていたが、不意にミナが何かに気付いたように鼻をひくつかせた。嗅ぎ慣れない匂いを嗅ぎ付けた、これもまた子猫のような仕草を、何事かと思いつつ眺めていると、やがて彼女は匂いの発生源に辿り着いた。少女の背中に回していたクォークの手を引っ張り寄せ、その甲を――そこに刻まれた大きな切創を見下ろす。ミナの眉が悲しげに顰められ、クォークは決まり悪げに「あー」と呻いた。多分その時点で、その傷の出来た経緯が少々ばつの悪いものである事には気付いたのだろう。ミナは子供を叱るような眼差しでクォークを見つめ、ベッドから身体を起こした。
「手当しないと」
「唾つけとけば治るよ」
 軽く言い放つクォークをミナは口を山型にして睨み、そのまま立ち上がった。急を要するという程ではないが、処置出来るならすぐにした方がいい。そんな傷だ。
 ミナは自分の手荷物の中から魔法薬の小瓶と脱脂綿を取り出して、ベッドに戻って来る。彼女は熟練の衛生兵のようにてきぱきと、座って手を出すようにクォークに命じると、脱脂綿に薬を半量吸わせ、残りは瓶ごとクォークに手渡した。内服しろという事だ。その意図は把握したものの、しかしそれを無視する形でミナが脱脂綿で傷口とその周囲の血糊を拭っている間も動かずにいると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「口移しで飲ませて」
「……へっ!?」
 ミナがぎょっと目を見開き、少し仰け反った。続いてかあぁ、と顔を紅潮させ、あたふたと言い募る。
「そそそそれって泣くのの三千倍くらい恥ずかしくないかなあ!?」
「恥ずかしくない。飲ませて」
 異論は認めないとばかりに真顔できっぱりと言い切り、小瓶をミナの手に押し返すと、ミナは思わずといった様子でそれを受け取った。彼女は手の中に戻って来た小瓶とクォークの顔との間でしきりに視線を往復させてから、やがて諦めたように一つ息を吐き、覚悟を決めた顔でくいっと一気に薬品を呷った。
 ミナが膝立ちでクォークの方に一歩踏み出して、きし、とベッドが小さく軋む。少女はクォークの足を跨いで接近し、彼の肩に手を掛けて、顔を少し傾けた形で唇を重ねた。
 隙間なく重ね合わされた唇から甘露のような液体が流れ込んで来る。本来は強い薬草臭のする筈の魔法薬は、とろりと甘く、喉を癒しながら身体の中に取り込まれ、じんわりと隅々にまで行き渡って行く。
 ミナは照れているのか、ぎゅっと目を瞑ったままだったが、その愛らしい顔を暫くの間間近で眺めていたクォークは、身体の中に浸透してきた魔法薬が、彼女に抱き締められているかのような熱を帯び始めたのを感じて、瞼を閉じた。
 こくり、と最後の一滴まで大切に飲み下し、離れた少女の唇に残っていた雫も舌で拭い取って、微笑む。居た堪れないとでも言わんばかりに顔を真っ赤にして俯くミナの額から、髪に指を梳き入れ、そっと撫でた時、身体の中に散り散りになっていた感情が肚の真ん中にすとんと落ち着いた事に気がついた。
「……うん。もう、大丈夫だ」
 ――大丈夫だ。強く揺さぶられれば、また揺らぐかもしれないけど、もう決して踏み外さない。
 ミナは、まだ大いに赤みの残った顔でクォークを見つめる。そんな少女の細い肩に腕を回して抱き竦め、その体温に強く縋りつきながら、クォークは、鮮紅色に色付く耳に語り掛ける。
「……とてもつまらなくて、汚くて、醜くて、優しい君にとっては聞いても苦痛にしかならないであろう、そんな話だ。それでも聞いてくれる?」
 ミナの柔らかな髪が、僅かにも迷わずに、ふわりと頷きを返した。

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