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「あ、クォーク!」
 出港の時間が近づき、乗船した甲板の上で漸くクォークの姿を見つけ、ミナは弾んだ声を上げた。部下の部隊員達に指示を与えていたクォークは、その呼び声に振り返ると、喜び勇んで駆け寄るミナに柔らかい微笑みを向けた。
「やあ。来たんだな」
「うん。……随分急に予定が変わったのね? 詳しい作戦は後で聞く事になってるけど」
「ああ、ちょっと事情でね」
「国軍から、少将さんがやって来たのも変わった予定の一部なのかしら。部隊監査では新米の少尉さんが来る事になってるって聞いてたけど、あんなに偉い人が来ててびっくりしたわ」
 何気なく口にしたその言葉に、クォークの気配が微かに、けれども確かに凍りついた事にミナは気付く。少しだけ強張った声で、彼は尋ねた。
「……会ったの?」
「? うん、さっき、船に乗る前にご挨拶したわ」
「……そう」
 感情の乗らない平坦な声で呟いて、クォークは視線を甲板へと向ける。そちらの方では若手の部隊員達が忙しく働いていた。
 少しの間、クォークはその様子を眺めてから、ミナに再び顔を向けた。やはりその顔には、変わらない穏やかな笑みが湛えられている。
「今は少し立て込んでいるから、後の指示はサイトにでも聞いて。じゃあ、また後でな」
「あ、うん、頑張って」
 ミナに軽く手を振って、クォークは彼女に背を向け船べりに沿って歩いて行く。その背中に振り返していた手をぎゅっと胸元で握り、ミナはその場に立ち尽くしたまま、見えなくなるまで彼の姿を見つめ続けた。


「全く面倒臭い男だな、貴様は」
 甲板から船室へと続く階段を下りていた所で、不意に足元の方から声を掛けられて、クォークはそちらへと視線を向けた。丁度、階段の降り口を塞ぐような位置で、腕を組み、狭い廊下の壁に背を預けて立っている一人の女――部隊長の姿がそこにはあった。
「何そんな所で一人でサボってるんだ」
 部隊監査が始まってから終始行動を共にしていた筈の少将の姿は、今はないようだった。クォークの問いに、部隊長はいかにも大儀そうに溜息をつく。
「少将殿なら暫くシグルドに押しつけて来た。全く以ってやれやれだ。ひよっこの相手はうんざりだと確かに言ったが、だからと言ってあんな肩の凝る相手が来ようとは。運命の女神の仕事のやっつけっぷりを垣間見た気分だ」
 辟易とした口調で様々な方面に不敬な事をのたまって、部隊長は肩を竦めた。階段の中程で一旦足を止めていたクォークが歩みを再開し、階段の終端にまで差し掛かったその時、部隊長は正面の壁に、だんっ!と乱暴に足を突き立てた。木製の船内の壁が軋んだ音を立てる。クォークは再び足を止めざるを得なかった。
「邪魔なんだけど」
「その頭は飾り物か? 意図的に邪魔をしていると分からんか?」
 部隊長は背が低いので、その気になれば跨いで通過出来そうだが、そんな事をすればこの女は男の股間を蹴り上げる事に躊躇はしないだろう。小さく吐息し、女を睨む。
「何。用があるなら簡潔に言ってくれ」
 不機嫌に言い捨てるクォークに、部隊長は腕を組んだまま、眼帯に隠されていない方の目だけをぎろりと向けた。
「今更無関係を装った所で遅いぞ。貴様の近辺など、とっくに隅々まで調べ上げた後だろう。アイラに言われなかったか、もう少し冷静になれと。冷静に考えた結果出した結論がそれであるなら、お前の阿呆さ加減にはほとほと呆れるがな」
 部隊長の返答は、クォークが要求した通りに、簡潔と言えば実に簡潔な、主語すらもが省略された言葉だった。その略された主語のうちの一つを想い、心の中で温めるように、クォークはほんの一瞬だけ目を伏せる。その刹那の間に、自分でも把握し切れない程の様々な事を思い重ねて、瞼を開き、部隊長を睨み返す。
「だったらどうしろと言うんだ」
 そんな事は言われずとも分かっている。他国民ですら、彼女が自分のウィークポイントであると認識しているくらいだ。その程度の情報を手に入れる事など、国軍の要職にあるあの女にとっては、息をするより容易い事だろう。しかしそれでも、ほんの少しでもミナから魔手が遠ざかるように。そう願わずにはいられないのだ。
 生まれて初めて、自分から欲しいと思った――思ってしまった大切な女性。光の中に生きていた彼女を、自分の棲む闇の中に引きずり込んでしまったその罪を償う為に、一体他にどうすれば良いのか。どこかに正しい答えがあるのなら是非とも教えて欲しい。
 昏い眼差しで睨め付けるクォークに、部隊長は眉間に皺を寄せて目を細め、しかし忍耐強く囁く。
「今、表面的にどうした所で何も変わらん。……貴様らの事情を把握している訳ではないが、大方、奴の狙いは彼女ではあるまい? 奴は、いつぞやのエルソード兵とは違い、切り札の使い方を誤るような間抜けには見えんがな」
「…………」
 沈黙を以って答えるクォークに、部隊長は疲れたように、若しくは呆れたように息を吐く。
「お前は、本当に同じ場所を行ったり来たりしてばかりだな。少し前までの己の姿を見ているようで、実に腹立たしい」
 言いながら彼女は、クォークの行く手を遮っていた足を下ろし、脚衣のポケットをまさぐった。そしてそこから取り出した物を、無遠慮にクォークの顔面めがけて投げつける。攻撃の意図すら感じる程の速度で投げられたそれを、クォークはぱしっと手首を翻して受け止めた。見下ろすと、キーチェーンのついた鍵だった。
「特例だ、個室をくれてやる。中央大陸に到着するまで一晩、もう少し頭を冷やしておけ」


 ――分かっている。
 最初から、自分が愚かだったのだという事くらい。
 狭い廊下を歩みながら、暗澹とした気持ちで認める。
 追われているという気配は、初めからなかった。監視下に置かれているという訳でもなかった。だからと言って、気を抜いていいという理由にはならなかった筈なのに、迂闊にも油断しきっていた。
 ……否、そもそもが、注意を払うという概念すらなかった。最早『奴ら』にもその選択肢があったとは思ってはいなかったが、万が一捕らえられ、『あの場所』に連れ戻されたとしても――或いは殺されたとしても。結局の所はただそれだけの事にしか過ぎなかったから。自分のいる場所に執着を感じた事などそれまでなかったから、気付いていなかった。その頃の自分とはとうに状況が違うのに、今の自分は、今いるこの場所が愛おしくて、狂おしいまでに手放したくなくて仕方がないのに、その大切さを余りにも自然に受け止めてしまって、忘れていた。
 あらゆる危機感を想定の埒外に置いたまま、自堕落なまでに、受ける資格のない幸福を享受して彼女の傍に立ち続けていた。

 廊下の硝子窓に、ふと自分の影が映り込む。空と海面の区別もつかない漆黒の闇を背景としたその窓に、死神のような顔色をした黒髪の男の影が映り――
 その背後――若しくは深い闇の奥に、金色の女の幻影が映る。

 気配なき女の微笑みに、全身の毛が逆立つ。

 思わず後ずさった瞬間に足元で鳴った床板が、奇怪に歪んだ悲鳴に化けて鼓膜を掻く。くすくすと、甘く優しくせせら笑う声が頭の奥から聞こえる。
 ――また、間違ったのね、クー。
 重たい粘性の沼から滲み出る、泥のようにやわらかく、血のようにあたたかな、声。
 やさしく、やさしく、絡みついて来る、凍れる茨。
 ――だから言ったのに。
 目を閉じて、何も迷わず、何も考えず、ただ私の声だけに耳を傾けて。
 そうすればもう二度と絶望を覚える事はなかったのに。もう二度と、過ちを犯す事もなかったのに。

 ……黙れ……

 ――だから言ったのに。
 私の可愛い、可哀想なクー。愛しい愛しい、私の****。
 あなたに人を愛することなど出来ないのだから。
 あなたは人を**すことしか出来ないのだから。

「……黙、れ……ッ!!」

 頭痛がする程に強く奥歯を噛み締めながら、クォークは貫き手で闇の中に浮かぶ女の喉笛を突く。
 ぱりん、と馬鹿にしたように軽い音を立て、幻影に、放射状にひびが入る。
 一瞬遅れて、砕けた硝子の破片がクォークの手の甲を深く割き、深紅の飛沫を闇の中に散らせた。


 殆ど意識がない状態で与えられた船室に辿りつけたのは、キーチェーンに付けられた部屋番号と、先に確認していた船内見取り図の記憶があったからだった。鮮血の滴る手を中毒患者さながらに震えさせながら鍵を開け、安っぽい木製のドアを引き開ける。
 明かりのない暗い部屋にまろぶように足を踏み入れて、即座に戸を閉める。廊下から差し込んでいた薄暗い光の筋が途切れ、外界からの隔絶を身体で感じた事で、漸くクォークは呼吸の仕方を思い出し、荒い吐息を闇の中に溶かした。
 重く痺れる頭の奥で耳障りな鼓動が、手の甲の傷と同じ脈動を刻んで鳴り響いている。顔を手で覆って幾度か激しい呼吸を繰り返す。その呼吸はまるで、闇の中に潜むけだものの唸りのようだった。酷く獰猛で、血生臭い。自分の物である筈なのに酷い違和感と嫌悪感しか感じないその気配に、ただならない苛立ちを覚える。
 心中を掻き乱すそれに、気をとられ過ぎていたが故だろうか――
 室内に、既に人の気配があった事に気付くのが、彼にしては有り得ない程、遅れた。
 即座に、気配を察知した方向に視線を向ける。その先の窓際に、陽炎のように仄かに浮かぶ人影を認めた。
 身に染みついた攻撃本能が身体を突き動かし掛けるが、その衝動は、血生臭さと入れ替わるように届いてきた、嗅ぎ慣れた甘い空気にすぐさま消えた。気の所為と紙一重の、彼女だけが持つ、菓子のような甘い体臭。
 目を見開いて、震える。

 ――ああ。どうして。どうして君はここにいるんだ。
 ――今だけは……あの女以上に、会いたくなかったのに。

 簡素な部屋の奥。粗末なベッドの上にぺたりと座って窓の外を見ていた小さな頭が、ゆっくりとこちらを向く。
 さらりと揺れる、肩までの長さの柔らかな髪。
「クォーク」
 暗がりの中で自分を見つめる愛しい少女が、銀鈴の如き声で、囁いた。

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