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部隊監査の当日朝になって、急遽差し替えられた命令書を受け取り、部隊長は会議室の上座で柳眉を寄せた。
「……少将が監督官だと?」
監査にやって来る士官を迎え入れる為、会議室に集まっていた《ベルゼビュート》幹部たちはその一言ににわかにどよめいた。彼ら兵卒にとって軍の高級幕僚である少将とは雲の上の存在である。合同演習などで、演台に立ち訓示を垂れる姿を豆粒にしか見えないような距離から見るような相手であって、直接顔を合わせて指示を仰げるような相手ではない。右も左も分からないひよっこ少尉を相手にするのとは訳が違った。
「ど、どうするよ部隊長」
「どうするもこうするもなかろう。国軍の決定に背く事など出来ん」
「何かの間違いじゃねえのかい」
「そうであれば有難いのだがな」
ふんと鼻息と共に呟いて、部隊長は書簡を机上に放る。
その紙を、――そこに書いてある名前を、クォークは無感情な瞳で見つめていた。
その約一時間後。義勇兵部隊《ベルゼビュート》本部前には、国軍の公用車である黒塗りの馬車が停められていた。
「初めまして、皆さん。ネツァワル国軍少将、レイチェル・クォ・ヴァディスです」
会議室に居並ぶ強面の《ベルゼビュート》幹部面々を前にしても全く臆した様子なく、その女は張りのある声で名乗り、次いで穏やかな微笑みを浮かべた。
国軍からやって来た少将を見た幹部たちの感想は、端的に言えば、美しい女だ、という一言に集約された。ここがただの道端であったのならば、口笛の一つ吹く者もありそうであったが、初対面の将官に対しそのような真似をする者は流石の《ベルゼビュート》にもいなかった。白地に金と暗紅色の縁取りが成された国軍の軍服をきっちりと着込み、艶のある金色の髪を繊細な編み込みにして纏め上げ、一切の綻びなく結い上げている。柔らかそうな唇に浮かぶ微笑みと相俟って、一見柔和な印象を与える顔つきをしているが、背筋は鋼鉄の芯でも入っているかのように凛と伸びている。年の頃は、少し見当がつき難い。瑞々しい覇気があり、けれども大人の落ち着きも同時に見られるその容貌と物腰は、二十代であると言われても、四十代であると言われても納得出来そうである。――尤も、少将という階級にあって二十代という事はまず有り得ないだろうが。
少将は、一番近い場所にいる部隊長からその場にいる幹部たち全員の顔を、それぞれ逐一記憶に書き留めるかのようにゆっくりと見回し、反対端にいたクォークで一旦首の動きを止めてにこりと微笑みを向けると、改めて全員に向き直った。
「部隊監査の慣例と違い、突然私のような階級の者がやって来て、皆さん戸惑われた事と思います。けれど、任務内容は例年と変わらず、皆さんの普段通りの活動を見せて頂くだけですから心配しないで下さいね」
自己紹介の次に彼女の口から発せられたのは、意外にも面々の動揺を察し、それを気遣う言葉であった。却ってその事に、彼らは戸惑ってしまう。国軍の将官というものは、兵卒など人ではなく、自分の好き勝手に動かせる盤上の駒としか認識していないものだと思っていた。
勿論、この程度の事で初対面の相手に気を許す程、海千山千の《ベルゼビュート》部隊員たちはお人好しではなかったが、ほんの少しだけ空気が和らいだのは否めない。少将はにこにこと人好きのする笑顔を浮かべながら全員に着席を促し、自分も席についた。
「さて、今回の部隊監査の件についてですが。この一週間の行動予定を教えて下さるかしら」
「は」
上官の問いに、着席したばかりの部隊長が颯爽と立ち上がり、説明を開始する。
「閣下のご滞在中は、部隊の練度を十全にご確認頂く為、全日程に於きまして戦闘訓練の様子をご覧頂く予定となっております。具体的には一日目は……」
「あら、訓練をするの?」
部隊長の発言を遮る形で女が口を開くと、部隊長は分を弁えた態度を取り、即座に口を閉ざした。
「《ベルゼビュート》の、我が国の義勇兵部隊でも有数の戦闘能力については、私も話に聞いています。訓練ではなく是非実戦で、その力量を拝見させて貰いたいと思っていたのだけれど」
その唐突な要請にも、部隊長は眉一つ動かさなかった。ただ、隣席に控える事務方の部下と何かを確認するように会話する。短い会話を終えて、部隊長は少将に向き直った。
「ご要望の件ですが、誠に申し訳ございませんが当方の不手際により、国軍司令部より出撃許可を頂いておりません。今から作戦を立案し申請するとなりますと、どれだけ早くとも三日程度の時間が掛かります」
「そうね。直前まで新任少尉が来ると思っていたのだから、下手な作戦は立てられないわよね。勿論、この予定変更はこちらの都合ですから、あなたが責任を感じる必要はなくてよ?」
少将は部隊長の謝罪に頷いて理解を見せ、そしてにこやかに、続く言葉を口にした。
「でも大丈夫。きっとそんな事情だと思いましてね、実は私、皆さんに実戦の舞台を用意して来たのです」
「……は?」
頭脳明晰な部隊長が、しかしこの時ばかりは隻眼を丸くし、呆けたような声を漏らした。その反応がお気に召したらしく、少将はくすくすと悪戯めいた笑みを漏らし、テーブルの上に置いた手を組み合わせた。
「ジョークはこの辺りにしておきましょうか。……実はですね、私が急遽こちらへ監査に来る事になったのもこの為なのです」
朗らかに発言を続ける上官を立ったまま見つめていた部隊長に、少将は手で着席を促した。部隊長が席に着いてから、少しトーンを抑えた声で、少将は語り始める。
「先日、我が軍情報部が、エルソード国が我が軍のジェハク砦の陥落を目的として進軍を開始したとの情報を掴みました。とはいえまだ本隊は動いておらず、偵察部隊が潜入しつつあるといった状況です。皆さんには、その偵察部隊殲滅の任に当たって欲しいのです。偵察部隊とは言え、敵は少数精鋭にて我が国の支配領域深くにまで斬り込んで来ています。この対処には、あなた方《ベルゼビュート》の優秀な戦力が必要不可欠であると、これまで司令部に上げられてきた戦果から私は判断しました。……部隊監査というある意味休暇のような期間に、こんな話を持ち込んでごめんなさいね。でも、あなた方ならきっとやってくれますよね?」
いかにも申し訳なさそうに眉を寄せながら、しかし笑顔は崩さず少将は依頼する。上官の依頼とは兵士にとって命令と同義である。拒否権などあろう筈もなかった。
「結局の所、お偉いさんってのはどの道兵卒を駒としてしか見てねーって事か」
本格的な作戦会議に突入する前に設けられた休憩時間。灰皿の前で、ぷはぁ、と白く濁った煙を吐きながら、幹部の一人がぼやくように言った。
「ま、そういうもんだろ。同じならゴメンナサイってつくだけまだマシってもんだ」
「ゴメンで済んだら憲兵いらねぇけどな」
「違いねぇ」
げらげらと笑い声を上げる。結局の所、兵士である彼らにとって唐突な出撃命令など日常の一部、笑って済ませられる程度の事ではあるのだった。
「しかし……」
煙草を口に咥えながら、どこか遠くを見るような眼差しで一人が呟く。しかしその言葉は、明確な形になる前に煙と共に空気に解け消えた。
「……や、何でもねえ」
男が取り消した言葉を追求することなく、もう一人も軽く肩を竦めるのみで受け流す。男が言わんとしている事は彼にも予測はついていた。会議室を出る直前に耳に入ったとあるやり取りを思い出す。最初の一言二言の会話しか聞いていないので、詳しい事は分からなかったが、あの同僚と少将は古い知り合いであるらしい事が窺えた。――脛に傷持つ者も多いこの《ベルゼビュート》では、無用な過去の詮索はルール違反だが、そうと分かっていても、気に掛けずにはいられなかった。
彼らはそれぞれ黙り込んだまま、脂で黄ばんだ天井に向けて吐き出される紫煙をぼんやりと眺めつつ、数分前の些細な一件を思い起こしていた。
――休憩を告げられ部隊員たちがばらばらと喫煙所に向かう中、席を立たずにいたクォークに、軽やかな足音が近づいて来ていた。その足音がすぐ傍で止まった事にクォークは気付いたが、彼は何もない卓上に視線を落としたまま視線を上げる事はなかった。
それは、二人の階級差を考慮すれば許されまじき態度であったが、近づいた女は気にした素振りも見せずに彼に話しかけた。
「数日ぶり、クー。また会えて嬉しいわ」
まだ室内にまばらに残っていた人の目が、窺うように二人へと向けられる。しかし女にそんな視線を気にするつもりはないらしく――否、恐らくは故意に見せつけながらも無視して、親密な微笑みを彼に向け続けている。呼び掛けから三秒程して漸く、クォークは顔を上げ、椅子の横に立つ、柔和な微笑を浮かべたままの女に視線を向けた。そこから僅かに目を動かして、少し離れた席に座る部隊長の様子を確認するが、そちらは少なくとも表面上は、何も聞こえなかったかのように無反応を貫いている。
「クォーク上等兵です。閣下」
女に視線を戻しながら言うと、彼女は口元に手を当てて上品に笑って見せた。
「そうね。ごめんなさいね、この歳になると、どうしても昔が懐かしく思えてしまって」
おばさんになった証拠ね、などと言う女を、クォークは愛想の欠片もない眼差しで見やる。
「何か今回の監査に際し懸案事項がおありでしたら、部隊長がお話を伺います」
「いやね。休憩時間にまで仕事の話を持ち出す程、本当は私、無粋ではないのよ。あの頃はとても忙しかったから、中々そうも言ってはいられなかったけれど」
あの頃。言葉に誘われ、不意に瞼の裏に浮かび上がりそうになった情景を、クォークはまばたき一回で打ち消した。そんなクォークの様子を楽しそうに女は眺め、懐かしい思い出を振り返るような、しみじみとした口調で続ける。
「私の元にいた頃からクーは大人しい子だったけど、今もそうなのね。思った程変わってないようで安心したわ。でも、お喋り自体は少し上手になったかしら。お友達がたくさん出来たからかしらね? ロックシャンクでは来る日も来る日も戦闘訓練ばかりで……」
「閣下」
吐き出した自分の声が怒鳴る直前の強さであった事に、声を発してからクォークは気付いて、反射的に奥歯を噛み締めた。既に部隊長とその側近数人しか残っていない室内に、その声は酷く悲痛に響いたような気がした。耳の奥に残る残響を封じ込めるように、クォークは低く抑えた声で囁いた。
「その発言内容は軍機に抵触するものと思われます」
「相変わらず真面目な子ねえ」
くすり、と笑みを漏らし、女は満足したように話を打ち切った。にこにことした笑顔でクォークを眺め下ろし、彼がそれ以上の反応を見せるつもりはない事を察すると、少しだけ笑顔に苦笑を混ぜ込んで、彼に背を向ける。
立ち去る間際に、女は「そうだわ」と手を打ち合わせて、クォークを再度、振り返った。
「ねえ、あの子。クーの彼女も今回の作戦に呼んで頂戴な。ソーサラーなんですってね、彼女の実力も見てみたいわ?」
背筋に、氷塊が落とされる。
――どこまで――どこまで、この女は……
クォークはテーブルの下で硬く拳を握り締め、そこに意識を集中する事でどうにか声が震える事を抑えた。
「彼女は当部隊の隊員ではありません。よって当方では召喚権限を持ちません」
「大丈夫、あなたたちには無くても私にはあるから。それなら問題ないでしょう? ね、部隊長さん。すぐに手続きをしてくれるかしら?」
広いテーブルの離れた場所で、素知らぬ顔で会議資料に目を通していた部隊長は、急に話を振られたにも関わらず、動揺することなく視線を上げ、即答した。
「かしこまりました」
「部隊長!」
クォークの叫びに鬱陶しそうに目元を歪め、部隊長はすぐに部下二人に指示を出す。
「サイト。すぐに連絡と手続きを。アイラ。そこの小煩いのと茶でも飲んでこい」
「了解」
「あいさー」
通信石を持ってサイトが部屋を出、つかつかとクォークに近づいてきて襟首を掴んだアイラがそれに続く。少将は、行ってらっしゃいとでも言うようにひらひらと手を振って一団を送り出した。
クォークを引きずり会議室を出たアイラは、とんとんとんと二段飛ばしで階段を駆け昇り、一つ上のフロアに上がった。階段を昇り切った先の廊下に誰もいないことを確認すると、まず真っ先に彼女が行ったのは、クォークに対する中段回し蹴りだった。
「いっ……! 何だよ!」
「部隊長命令だボケ」
不覚にも防御が間に合わず、したたかに蹴りつけられた尻を押さえつつ抗議すると、アイラは低くドスの利いた声で唸り、クォークの襟首を掴んで乱暴に顔を引き寄せた。
「大体の意訳だけど伝言。『ったく肝心な所で冷静になり切れんガキだな貴様は、そんなだから安心して部隊長を任せられんのだ』」
「……継ぐ気はないって言ってるのに」
「軍のお偉いさんとどんな因縁があるのかなんざ知ったこっちゃねーが、もっと冷静になりな。部隊長は立場上国軍には逆らえねーけど、極力悪いようにはならないように動いてくれる。もう少しあの人を信頼しろ」
言って、クォークの襟首を離してどんと肩を突き飛ばす。たたらを踏んで後退したクォークにそれ以上は目を向けず、アイラは肩に掛かった髪を無造作に手で払い、すたすたと休憩所の方へと歩いて行く。
一人残されたクォークは、よろめくように廊下の壁に凭れると、乱された襟元を掴んで低く呟いた。
「いくら……信頼しようと、無駄だ……。たかだか一部隊が対抗出来る相手じゃないんだ……」
水のように重く、ねっとりと絡みつく、先の見えない闇が意識を埋め尽くしていく。
圧倒的な災害からは、逃げる以外に手立てはない。ただただ、その脅威の目がこちらに向かない事を祈りつつ、子猫のように震えている事しか出来ない――
――絡め取られる。
「ミナ……、ミナ……」
俺を取り巻く闇を斬り払い、果てなき暗路を暖かな光で照らしてくれたひと。
君は。君だけは、巻き込んではいけなかったのに。
分不相応な甘い幸せに浸り切って、忘れていた。
これは、罰だ。
決して忘れてはならない事に目を背け続けていた、罰だ。
やはり俺には彼女に触れる資格など、なかったのだ……
「はい、本日一七〇〇、船着き場集合ですね。問題ありません。了解しました」
《ベルゼビュート》からの突然の出撃要請を受け、ミナは通信石に向かって簡潔に答えた。急な話ではあるが、兵士として生活していればこんな事も稀ではない。クォークは、この一週間は首都で訓練をすると言っていたが、事情が変わったのだろうか。それだったら彼にとっても予定外の事に違いない。クォークは支度に戻って来るのだろうかと考えて、念の為確認しておこうと今しがた切ったばかりの通信石を起動したが、忙しいのか彼からの応答はなかった。
その後もう一度連絡を入れてみたものの、やはり繋がらなかったので、ミナは念の為に彼の分の最低限の荷物も持って、集合場所になっている大河の船着き場へとやって来た。
「こんにちは、アイラさん」
川岸にたむろしていた集団の中に友人の姿を見つけて挨拶をすると、アイラは気楽な調子で片手を挙げて応えてきた。てくてくと歩いて顔見知りの輪に近づきながら、ミナは、視線を巡らせて付近にクォークの姿を探す。しかし目に入る範囲のどこにも彼の姿は見当たらなかった。
「クォークは? 彼も出撃するんですよね?」
いくらアイラとクォークが仲が良いとはいえ、始終つるんでいる訳ではないから近くにいないのは不思議という程ではないのだが、ミナが一応というつもりでそう尋ねると、アイラはふんと鼻息を吐き出した。
「その筈だけど。……あの馬鹿、今度は逃げてんのか?」
「……逃げてる?」
聞き慣れない言葉を聞いたような気分になって、ミナは目をしばたく。勿論、戦術的に撤退する事はクォークだってあるが、逃げる、という臆病な行動が似合う人ではない。そもそも逃げると言っても、一体何から逃げると言うのだろう。
やれやれとばかりに深い溜息をつくアイラを首を傾げながら眺めていたその時、不意に横合いから呼びかけられた。
「ミナ」
「あ、部隊長さん。こんにちは」
探していたクォークの声よりは高い、けれども女性のそれとしては低めの声に振り返ると、向こうから、男装の麗人という表現を彷彿とさせる凛々しい容貌の部隊長が、人々が自然に両脇に退いて開ける道を堂々と歩いて来る姿が見えた。その後ろには、見知らぬ女性が続いていた。背の高い金髪の女性で、貴族の礼装を思わせる煌びやかな国軍の軍服を着ている。
部隊長はミナの正面で立ち止まると、後ろを振り返り、軍服の女性に対してミナを手で示した。
「閣下、こちらがソーサラーのミナ上等兵です。ミナ、こちらは国軍少将レイチェル・クォ・ヴァディス閣下だ」
少将、という紹介に驚いて、ミナは反射的に背筋をぴしっと伸ばした。一介の義勇兵に過ぎないミナは、これまでそんなに高い位の軍人と直接相対して話をした事など一回もなかった。
「は、初めてお目に掛かります。火ソーサラーのミナと申します」
そんな相手に対して何と挨拶すればいいのかさっぱり分からず、とりあえず出来るだけ丁寧な言い回しを選んで名乗ると、少将は目を細めて優しげに微笑んだ。ぱっと見、少将という階級にそぐわないうら若い女性のように見えたが、目尻に僅かに寄った皺が、相応の年齢である事を教える。
「あなたがミナさんね。可愛らしいお嬢さんだこと。お会い出来て嬉しいわ」
少将の言葉はいかにも相手の心を和ませる優しげなものであったが、そこにミナは僅かに違和感を覚えて、え、と唇を開く。何故かその言葉は、ミナの事を既に知っているような口ぶりに聞こえた。
――いや、それ以前に、よく考えてみれば。そもそも何故部隊長は、こんな偉い人にミナなどを紹介しているのだろう……?
疑問の視線を脇に控える部隊長に向けるが、真っ直ぐ前を向いた部隊長の隻眼からはその真意を察する事が出来なかった。
正面では軍服の少将が、口元に微笑を浮かべたままじっとミナを見つめていた。