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兵士、と言っても常に最前線にその身を置いている訳ではない。長期化し、慢性化したこのメルファリアでの戦争は、兵士にとっては概ね平凡な日常として生活に組み込まれている。
フットワークの軽さを身上として前線の砦に常駐し、大陸中を戦を求めて駆け巡る部隊もあるが、首都に拠点を置きそこから必要に応じて出撃する部隊も少なくはない。《ベルゼビュート》は完全に後者で、ごく近間で起きる小競り合いに暇つぶしがてらに参戦するか、大規模な作戦――例えば大陸縦断作戦や他国本土襲撃作戦などを独自で立案してはそれに集中的に従事するというスタイルを取っている。
《ベルゼビュート》が常時首都に駐留している理由については、部隊長曰く、
「いつ何時他国の部隊が本土を強襲して来るかとも知れんのだ。首都の護りを疎かにする訳にも行くまい」
との事だが、それは完全に建前で、単に居心地の問題である。戦地の拠点も十分長期逗留に耐え得る用意は整えられているが、共用の軍事施設の居住性など推して知るべしである。折角首都に立派な本部や自宅を構えているのにそこを使わない道理はない、というただそれだけが理由である。大体、本土攻めなどというただの嫌がらせに近い愚策を好き好んで行う部隊など、メルファリア中を探してもこの《ベルゼビュート》くらいのものだ。
ともあれそういう部隊方針ゆえに、《ベルゼビュート》では数週間、長ければ月単位に及ぶ期間、首都で待機し続ける事もある。その間は訓練は欠かさないものの、概ね一般市民と変わらぬ日常生活を送っている。戦闘という行為そのものに魅せられた一部の部隊員は、待機が長期に及びそうな場合、許可を得て大陸に常駐する部隊の助っ人として前線に赴く者もいる。一年前まではクォーク自身もそうだった。自ら率先して戦場に出ようとする事はなかったが、一緒に行こうと誘われれば大抵否とは言わずに付き合った。
しかし今は自分の家に、愛する少女と二人きりでいる事が幸せで仕方がなく、すっかりと出不精になってしまっている。
ミナと暮らし始めてから、クォークの生活に目に見えて変わった部分は然程多くない。
衣食住のうち、衣と住に関しては全くと言っていい程変化はない。クォークの服装のセンスは特に彼女の美観を損ねるものではないようで文句を言われた事はないし、自宅の調度も、倹しいミナはクォークが一人身の時代から使っている簡素なもののままで何ら不満はないようだ。
彼女があらゆる家事を完璧にこなしてくれるお陰で家の中は常に整然としているが、これは元からと言えば元からだ。そもそも戦場に赴いている事が多く、家にいる時間はそれ程多いとは言えなかったし、ミナが来る前は、食事は基本的には外で済ませ、洗濯も掃除も業者を雇っていたので散らかる余地も無かった。
ただよく見れば、家の中でもキッチン周りだけは大分物が増えている事が分かる。キッチンの食器棚は元々備え付けられていたものだったが、少し前まではがらんどうだった引き出しを今開けると、大きさ、形状がそれぞれ異なる包丁が五本も並び、クォークには全く用途の分からない様々な道具が様々な場所に整然としまい込まれている様を見ることが出来る。しかし別に無駄な買い物をしているわけではないらしく、ミナはそれらの道具を巧みに使いこなしててきぱきと調理を行うのだ。それはまるで、練達したハイブリッドウォリアーを思わせる手腕であった。
そう。唯一劇的に変わったのが食環境だ。
自宅で食事をするようになったのも大きな違いだが、何より変わったのは、食事が単なる必要なカロリーを摂取する作業から明確な娯楽になった事かもしれない。
味覚が人より鈍い訳ではないと自分では思っているが、クォークはこれまで何を食べてもあまり物を旨いと感じた事がなかった。しかし、ミナの作る食事は掛け値なしに旨いと思う。別に高級な食材ではない。取り立てて特殊な調理法でもないと思う。それなのに、彼女の作る素朴な料理はこの上なく美味なのだ。
……という話を以前部隊員にうっかりしてしまった所、「惚れた欲目」「のろけんな馬鹿」と散々な反論を食らい自分の迂闊な口を呪いたくなったものだが、彼女の名誉に関わる事だったのでつい反駁を重ねてしまった結果「そこまで言うなら食わせろ」と詰め寄られる羽目になって自分は本格的に馬鹿なのではないかと後悔した。引っ込みがつかず渋々ミナに事情を説明して部隊員どもに馳走してやってくれと頼み込むと彼女は快諾してくれたが、十人分近くの夕飯を作らせる手間を掛けさせてしまったのは己の明らかな失態である。但しその結果、他人に対する気遣いなど欠片も知らない部隊員どもに珍しく一言の異議を唱えさせることもなく満場一致の大絶賛の中で食事会は終了したので彼女の尊厳と自分の発言の正確性は保たれた。
余談だがその席に何故かちゃっかりいた部隊長に、「菓子作りは得意か」「職人さんみたいな細工は出来ないですけど、普通のものなら普通に作れますよ」「よし合格」と、阻止する間も無く直属のパティシエとして強制認定されたのはこの時である。以降、彼女は《ベルゼビュート》部隊員でもないのに度々本部に呼び出され、菓子作りに従事させられている。「させられているだなんて人聞きが悪いわ、一緒にお茶会しに行ってるだけよ」と、ミナ自身は何らその立場に不満は無い事を表明しているが。
そういえば、と、ふとクォークは思う。
そういえば、彼女は《ベルゼビュート》には未だに入隊していない。祖国のエルソードを捨て、このネツァワルに来ることになった経緯から当初ミナは《ベルゼビュート》の部隊員を苦手としていたが、その恐怖も月日が経つにつれて次第に薄まり、今となっては前述のような友好的な関係を築くに至っていて、かつての件に関するわだかまりはもうないと本人もけろりと言っている。《ベルゼビュート》は所謂僻地部隊、少数精鋭で敵陣深くに切り込む戦法を好んで取る部隊で、裏方を重視するミナとは活動方針が全く違うのがネックではあるが、ここまで既に馴染んでいるのならばやはり部隊に入った方が何かと便利ではあるので今度きちんと入隊を打診してみようと思う。
……最初に考えていた内容から脱線しつつあることに気付き、クォークは一旦全ての思考を停止した。単に一人歩きの暇つぶしに回想に耽っていただけなので、別に筋道立てて物事を考えなければならない理由もないのだが、特に理由もなく思考を現実に戻す。
雑踏のざわめきが耳に戻って来るのを感じつつ、彼は手の中にある折り畳まれたメモを開いて中を見た。その紙には、『ベーコン(ブロック)200グラム、チーズ1/4個、パン6つ、香草1束』と書いてある。ミナにお使いを頼まれているのであった。今回のお使いは、全て商業区のマーケットで用が済む簡単なミッションだが、彼女の願いとあれば、例え火の中水の中、中央大陸の激戦地帯の中、どこへでも赴く所存である。もし彼女が望むのならば、大型魔物のグリフォンだって仕留めてみせよう。……いや本当にそんなものを狩って来たら、こんな大きい鶏捌けないよう、と途方に暮れられそうだが。
人間の体積を超える小山の如き鶏肉をぽかんと見上げるミナの姿を想像し、つい腹の底から笑いがこみ上がって来る。往来で一人で吹き出すなどという醜態を披露することはないよう努力してそれを堪えて歩みを進め――
「クー?」
――唐突に。
かつて、何よりも耳に馴染んでいた、もうずっと忘れていた声が。耳に触れた。
真綿のように、
ぬるま湯のように、
母親の抱擁のように、
喉元に絡みついて、締め付ける、
茨。
キッチンに小気味良い音を響かせて包丁を使っていたミナは、ふと思い出したように顔を上げ、独りごちた。
「あ、やだ、お砂糖頼むの忘れてた。切らしてたんだっけ」
まだ出たばかりだから、もしかしたらすぐ近くにいるのではないだろうかと思いついたミナは、通りに面した寝室に入って、窓から顔を出した。クォークの住まいは四階建てのアパートメントの最上階にあり、荷物を抱えての出入りは大変だが眺めはとても良い。
商業区の中心へと続く通りを目で辿っていくと、声を掛けるには少し遠い場所に見慣れた背格好の後姿を見つけて、ミナは少し迷った。クォークは耳がいいから叫べば聞こえると思うが、お砂糖買ってきてーと叫ぶのは流石に少々恥ずかしいし、かと言ってわざわざ戻ってきて貰うのも申し訳ない。とはいえ買い物を済ませてから言い出せば、きっと彼はもう一度買い足しに行ってくれようとするだろうからやっぱり今のうちに下まで戻ってきて貰う方がよいようにも思う。等と少し考えてから呼び戻す事に決め、声を張り上げようとしたその時。
漸く、彼が今、歩いているのではなく、その場所に立ち止まっているのだという事にミナは気づいた。
「あれ?」
目を凝らして眺めると、クォークは真正面に立つ誰かと話をしているようだった。遠目には少し分かり難いが、体格から察するにそれは女性のようだった。顔はおろか服装も確認しづらい距離だが、顔の周囲を彩る明るい金髪が、陽の光に映えている。
「……知り合いかしら?」
部隊員の誰かだろうか。何にせよ、誰かと話をしているのならば呼び立てる訳にもいかない。ミナは頭を引っ込めて、蜂蜜か何か代わりに使えるものはあったかしらと考えながらキッチンに戻った。
「本当に久しぶりね、クー。何年振りかしら。暫く見ない内に随分と大きくなって。見違えたわ」
心から嬉しそうな笑顔を浮かべる女は、頭半分程背の高い――背の高くなったクォークを見上げて、久々に再会した親戚の子供に掛けるような言葉を澱みなく紡いでいる。クォークはただ、浅い呼吸を繰り返しながら正面にあるその端正な顔をじっと見つめ続ける事しか出来なかった。
几帳面に纏められ、結い上げられた、一筋の乱れもない金糸の髪。
穏やかでいて隙のない、完璧な微笑み。
――何で。
――何で、この女がベインワットにいるんだ。
先の見えない闇に向けて、真っ直ぐに伸びる一本の昏い道――そんな、暗喩じみた幻影が、柔和な女の笑顔に重なって、浮かぶ。
既に袂を分かった筈の、もう二度と踏む事のなかった筈の、前に進む事しか許されない、虚ろへと続く血と汚泥でぬかるんだ道――……
不意に女の視線が動き、その些細な挙動がクォークの意識を現実へと引き戻す。女は、クォークが手に下げる空の買い物籠に視線を向け、たった今気付いたような軽やかな声を発した。
「あら、これからお買い物なのかしら? あなたみたいな男の子が持ち歩くには、ふふ、随分と可愛らしい買い物籠だこと。今、住んでいる場所はこの辺りなのかしら?」
鈴を転がすような耳触りのよい声に対し、クォークは意識を経ぬまま返答しようと唇を開き掛け、言葉を発する直前でそんな自分に気付いて歯を食い締めた。答える義務など、今の自分にはない。ないのだと、それだけを強く己に言い聞かせる。息を吸う。吐く。――どうにか無意識下の反射から行動の制御を取り戻すことに成功し、クォークは、乾いた口の中を湿らせるように唾液を飲み込んだ。
「……あなたこそ、首都に戻っているとは思いませんでした。都落ちしたと聞き及んでいましたが」
その、返答とは言えない返答に、女は細めていた目を少しだけ見開いた。が、その意外そうな表情は、すぐに元の笑みの中へと溶け消える。――或いは、この驚愕すらも、その笑みを形作る一要素として取り込まれたのかもしれない。
女は、彼が求められた問いに正しい返答をを行わなかった事について不愉快を表明することもなく、頷いた。
「ええ、そうなんだけどね。縁あって、呼び戻して貰えたの」
不愉快どころか、上機嫌ですらあるらしき様子の女を、クォークは無感情な瞳で見つめた。……尤もこの女が上機嫌でなかった姿など、かつても殆ど見た事はなかったが。強いて言えば、あの時、くらいだろうか。あの時だけはこの女も、ほんの僅かながら、憂いを帯びた表情をして見せた……
吐き気を催す程の酷い居心地の悪さを感じて、目の前にある女の笑顔から視線を外す。そんなクォークを見て、女はくすりと吐息に似た笑みを漏らすと、目を逸らしたクォークの顔を覗き込むように小首を傾げた。
「ねえ、久しぶりだから、もう少しクーとお話したいわ。立ち話もなんだし、その辺りでお茶でも飲みましょう?」
クォークの身体が小さく震えた事に、恐らく女は気付いた筈だった。相対した相手の一挙手一投足を仔細漏らさず観察し、相手の心理の隙間を突き……絡め取り……操る手腕にかけて、この女の右に出る者は、『あの場所』にも他にいなかった。
あの、場所。
どこまでも続く、灰色の壁。ただ同じ事だけが繰り返される、閉じられた世界。
人の形をした『モノ』たちが、際限なく壊れていく。棄てられていく。
そのモノトーンの世界の中で唯一色を持っていた、女。
****なさい。
****なさい。
目を閉じて、何も迷わず、何も考えず、ただ私の声だけに耳を傾けて。
そうすればもう二度と絶望を覚える事はない。もう二度と、過ちを犯す事もない。
私があなたに居場所をあげる。
私だけがあなたを愛してあげる。
耳の奥にこだまする、幼子を眠りに誘う子守唄じみた声。
穏やかな。穏やかな。
何も不安に思う事なくただ身を任せるべきであると信じさせる、それ以外の思考など不要であると思わせる、
泥のようにやわらかく、血のようにあたたかな、声。
だってあなたは大切な、
私の****なのだから――……
――俺、は。
「申し訳ありませんが、急いでいるので」
視界が今目の前には無い光景に閉ざされつつあった中、クォークが断りの言葉を発する事が出来たのは奇跡だった。しかしそのたった一言の奇跡を紡ぐ対価であるかのように、厳しい撤退戦を強いられた直後のような激甚な疲労に苛まれる。我知らず、僅かに開いた唇から喘ぐような呼気を漏らすクォークに、女は尽きる事の無い微笑みを湛えたまま、眉のみで苦笑を示して見せた。
「あらそう。残念だけれど、それなら仕方ないわね」
言いながら――女は顎を少し上げ、クォークの後方にあるただ一点を、真っ直ぐに見つめる。
「じゃあまた次の機会にでも、おうちに遊びに行かせて貰おうかしら」
視線の角度と方向を察してクォークは目を見開く。それは、疑いようもなく、彼の背後にある、通りに面する彼の自宅の窓を指していた。
即座に後ろを振り向く。
「ああ、やっぱりあの子が見てたのは、あなただったのね」
自宅の窓は開け放たれていたが、そこには誰の姿も、特に見るべき特徴もなく、ごく自然に周囲の風景に溶け込んでいる。が、女はころころと笑いながら意識を向けた理由を告げた。
「さっきまで、栗色の髪の女の子があそこの四階の窓からこっちの方を見てたから、もしかしたらクーの彼女か奥さんなのかしらって思ったの」
ゆっくりと、顔を女の方へと戻す。
「ふふ、おうちにお邪魔するというのは冗談よ。好い人がいるんなら、いくら私みたいなおばさんでも女が遊びに行ったら体裁が悪いわよね?」
おばさん、と自称する割には衰えの見えない張りのある容貌で女は微笑んでいた。クォークはこの女の年齢を正確には知らなかったが、最低でも四十に差しかかろうという歳である筈だった。けれどもその姿は溌剌としていて、とてもその年代には見えない。髪を僅かな乱れもなく整え、丁寧に化粧を施した顔はあの頃から一切変化がないようにすら見える。
時が止まったかのように。
何も変わっていない事を、見せ付ける。
――絡め取られる。
「顔色が悪いわ、クー」
冷たく、細く美しい指が、クォークの頬に触れた。
「兵士は身体が資本なのだから、体調管理は万全にね。そう、ちゃんと教えたでしょう?」
女の声が、優しくやさしく、触れた。
「お帰りなさい、クォーク」
買い物から戻って来た彼の気配を玄関に感じ、ミナはいつもと同じようにキッチンから声を掛けた。しかしそれに対して、いつも通りのただいまという返答が、暫く待っても帰って来ない事を不思議に思い、ミナはコンロから目を離して後ろを振り向いた。
「クォーク?……どうしたの?」
玄関から居間へと入って来ていたクォークは、荷物をテーブルの上に置いた所でぼんやりと立ち尽くしていた。ミナの声掛けにも反応を見せず、どこか焦点の定まらない瞳でテーブルを眺めている。ミナが布巾で手を拭いながらぺたぺたと彼の傍へと歩み寄って行くと、ミナの接近に気付いたクォークがのろのろと顔を向けて来た。
漆黒の、硝子玉のような瞳の中にミナの姿が映り込む。
そう、何となく思った次の瞬間。唐突に、その直前までのぼんやりとした様子からは想像のつかない素早さで、彼の腕がミナの肩に伸び、痛いくらいに力強く抱き竦められた。
「きゃっ? クォーク?」
彼の胸へと引っ張り込まれるような体勢になって、驚いたミナが声を上げるが、彼は黙ったまま、その腕に力を込め、少女の身体をより一層きつく抱え込む。――その腕が、ほんの微かに、寒さに凍えるように震えているのを、ミナは肌で感じた。
少しの間、ミナは目を丸くしていたが、やがてその瞼を閉じる。
きつくミナを抱き締めている彼の腕の中で、ミナはもそもそと身じろぎし、一緒に抱え込まれている腕だけをどうにか拘束から外して、彼の背に回す。彼がミナにそうしているように、ミナもまた何も言わず、クォークの身体を強く抱き寄せた。