灰色の世界に子猫の祝福を
1
「愛しているわ。クー」
穏やかな。包み込むような。慈しむような。
それはまさにそう形容されるべき、慈愛に満ちた声だった。真綿のように、ぬるま湯のように、母親の抱擁のように、一切の不快な刺激を与えることなく自然に肌に馴染む声。
永遠にこのぬくもりに包まれていたいと願わずにはいられない、
――それがまやかしであると知りつつも――
その声に、いつものように、
――そう意図して仕込まれた通りに――
少年は、無防備に身を委ねる。
と。
その声が、晴天に不意に垂れ込めた暗雲の如く、忽然と翳りを見せた。
「……でもね、クー。あなたはもう、****にとっていらないものになってしまったのですって。あなたの存在は****にとって、あっては都合の悪いものになってしまったのですって」
優しく、柔らかく、唐突な、終焉の宣告。
いつも明るく朗らかで、無邪気ですらあった女の声が、これまで耳にした事のない憂いを帯びて告げる。しかしその終末の喇叭を聞いても、彼が表情を変える事はなかった。眉一つ動かさず、身じろぎ一つせずに傾注の姿勢を保ったまま、硝子玉の色をした無感情な瞳を女に向けて、少年は宣告を聞き続ける。
少年と、少し離れた位置に向かい合わせに立ちながら、女は、悲嘆もあらわに首を振った。その時の彼にそんなものを見た経験があった訳ではなかったが、それは舞台で悲劇を演じる女優さながらの、大仰でありながらも優美な仕草であった。編み込みにして丁寧に纏め上げられた金糸の髪は毛筋一本たりとも乱れずに、女の端正な容貌を彩る。
「ここまで手間暇もお金もつぎ込んで、完全に限りなく近づいた******を廃棄しろだなんて正気の沙汰とは思えない。本当に、上の考えは理解出来ないわ」
嘆かわしいとばかりに息を吐き、しかしすぐに、女は面を上げた。その作り物のように整った顔からは、一瞬前まで彼女が浸っていた悲嘆の気配は既に消えていた。口元に仄かな笑みを浮かべ、あどけない少女のような無垢さで首を傾げる。
「けれど、いくら上の不手際を嘆いても、既にそういう状況になってしまったのなら仕方がないわよね?」
女の口ぶりには、少年の同意を疑う様子は全く無かった。彼女にとって、少年は紛れもなく彼女と同一の個体であった。手足が脳の命令に逆らうことがないように、彼が彼女の命令に逆らう事など、端から考慮の埒外だった。
しかしそれは、少年にとっても同じ事ではあった。
全ては、他者が定める決定事項。
始まりも、これまで生かされてきた過程も、当然、終わりも。上位者から与えられる運命以外の道筋など、想像に上らせた事すらない。
――そもそも、想像という精神活動をした事すらあっただろうか。
感情の色の一切ない顔のまま、微動だにせず直立し続ける少年との距離を、女はゆっくりと狭めて行く。華奢な手に、巨大な戦斧を携えて。
「ごめんなさいね、クー」
そうして女は、常と変わらない優しさで微笑み、
「愛しているわ。さようなら」
使い古した愛用の道具を捨てる哀惜を込め、斧を高々と掲げ、
そして。
***
閉じていた目を、急ぐでもなくただ開き、彼は現実に立ち戻った。
クォークにとって、睡眠と覚醒の境目は常に明瞭だった。まどろみという安寧の時間を体験出来ることは滅多になく、ささやかな空気の流れの変化、微かな物音一つで瞬時に清明な意識を回復する。或いはそれは逆に、曖昧であると言えるのかもしれない。夢も現も全てが等しい高さに存在し、二つの世界を行き来する瞬間に急激な落差を覚える事もない。
――悪夢から逃げ延びる為に飛び起きる事も出来ない。
(悪夢……)
あれは悪夢だったのか。……まあ、脳天に斧を振り下ろされるような夢は悪夢か。
淡々と認識しつつ、まだ十分に深い闇の中に沈む自室の天井を凝視していると、ふと首筋の辺りに重たい湿り気が纏わりついていることに気がついた。怪訝に思って寝巻の襟足に手をやると、そこが絞れる程に濡れている事に気付いて少し驚く。思いの他、先程の夢は自分に緊張を強いていたようだ。
不快な寝汗の感触に着替えるべきかと少し迷うが、何となく億劫に感じて、そのまま瞼を閉じる。しかしどれだけ闇の中で息を殺していても、一旦吹き飛んでしまった睡眠欲求は一向に戻ってくる気配を見せなかった。
一旦自分の動揺に気付いてしまうと、それは中々厄介な代物だった。休息を取ろうとしているのに取れない。休息は兵士にとって権利というよりは寧ろ義務というべきものであり、成すべき義務を遂行出来ないという状況はクォークを酷く不安にさせた。命令された事を、命令された順序で、命令された通りにこなす。それが唯一彼に許されていた行動手順で、長い事彼はその方法しか知らなかった。
あの日、柔らかな光を見るまでは。
不意に、春風が頬を撫でたような錯覚を覚えて薄く目を開く。そしてその視線を横へと向ける。
そこには小さな背中があった。
こちらに背を向ける格好で、子猫のように丸くなって眠る少女の姿。その姿が、就寝前と変わらずにそこにあった事に例えようもなく安堵して、身体をそちらへと横向ける。
その華奢な少女を背中からそっと抱きかかえると、ん……、と溜息のような声が彼女の喉から漏れた。続いて、寝返りを打ってこちらを向くのを見て、一旦腕を緩めて顔を覗き込むが、その瞼は安らかに閉じられたままだった。寝ぼける幼い子供のようにもぐもぐと口を動かしてから、すぐ傍の温もりを手探りで見つけて縋りついて来る。ぎゅっとクォークの服の胸の辺りを掴んで頬を寄せ、背中を丸め足を縮めた彼女にとって一番寝心地がいいらしい体勢を確保して、再びすやすやと微かな寝息を立て始める。
彼女が一連の動作を終えるのを息すら止めて見守って、その息を吐いたのと同時に、全身に巣食っていた悪寒がいつの間にか消え去っていたのを自覚した。代わりに感じているのは、芯までかじかんだ手を焚火に当てた時のような、痒みを覚える程の熱感。
暖かい。
知らぬ間に強張っていた肩から力が抜けていく。
誰よりも愛おしい少女の身体に腕を回す。漸く眠れる気がして、クォークは目を閉じた。
部隊長がその連絡事項を思い出し、何気ない口調で告げたのは、幹部会議が終わり談話室で休憩を取っている最中であった。
「そうだ、言い忘れていた。来週から『部隊監査』だ。月曜〇九三〇にミーティングルームに集合。時間厳守だからな」
「ああ、もうそんな時期か。……ってここで業務連絡を言うなよ。皆が集まっている時に言え」
「今いない奴には伝えておけ。む、そのエッグタルトは私が頂く!」
部隊長にとってはその毎年の恒例行事よりも最後の一つのエッグタルトの所有権獲得の方が重要案件であるようで、簡潔に話題を終了させると、獲物に飛び掛かる獅子の勢いで、卓上の菓子に手を伸ばした。
「『部隊監査』って?」
誰もが関心を示さない話題に唯一興味を向けたのは、そのエッグタルトを作って持ってきたミナだった。エルソードからの移住民で部隊にも所属していない彼女は、その行事を知らないらしい。
「国軍の士官殿がわざわざ義勇兵部隊にご足労下さってご視察なさりやがるのだ」
慇懃無礼の限界すら突破する滅茶苦茶な敬語で、皮肉たっぷりに部隊長は説明した。
「春に士官学校を卒業した新米どもが毎年この時期に一週間程度、各義勇兵部隊の部隊活動に同行し、その働きを確認するという至上稀に見る無意味極まりない行事だ。ケツに殻のついたひよっ子どもに何が分かると毎年廃止案を上申しているのだが一向に受け入れられる気配がない」
「実戦経験豊富な熟練兵を付けて、安全に指揮官としての初任務を経験させてやろうって親心だろ。初心者育成だと思って付き合ってやれよ、心狭いなあ」
「新米少尉のはじめてのおつかいに一週間も無駄足を踏まされるこちらの立場も考えてみろというのだ。これは明白な営業妨害だ。あまつさえそんなガキどもに頭を下げ続けねばならんとは何の拷問だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある」
義勇兵部隊の部隊長の地位は、国軍の規定で言うと特務曹長という階級になる。士官学校を卒業すると自動的にその一つ上の少尉に序せられる為、いかに実戦経験が比較にならないくらい違おうとも上官は上官、頭を下げねばならないのだと、きょとんとしていたミナにクォークが説明すると、彼女は成程と頷いた。
「それは大変そうね。……戦場にも一緒に行くの?」
「出撃計画を立てればそうなるけど、そうすると期日が一週間じゃ済まなくなるから、どこの部隊も普通はこの時期は首都で訓練でもしながら大人しくしてるんだ」
クォークの解説に部隊長がふんと鼻を鳴らす。
「仮に期日の問題がなくとも、頭でっかちなお荷物どもを戦場に連れて行くなど真っ平ごめんだ。三等兵の初陣よりも尚たちが悪い。黙って裏方していろと言ってもお偉い少尉殿は下士官の助言を聞く耳などこれっぽっちもお持ちではないからな」
余程腹に据えかねる行事であるらしい、という事はミナにも重々理解出来たようだった。クォークとしては未熟な士官の荒唐無稽な命令など、はいはいと適当に聞いていればいいだけだと思うのだが(監査期間中の命令権限の最上位者はその士官になる訳だが、状況により部隊長の判断で権限を移行する事が出来るという特殊な規則が適用されるので、仮に戦場に出たとしても新米士官の指揮の所為で本格的な危機に陥る事はまずない)、唯我独尊を素で行きつつも根は微妙に真面目な部隊長にとっては苦痛極まりない一週間となるようだ。
「じゃあしばらくは、クォークも本部に詰めっぱなしになるのかしら」
「そうなるね。何回かは少尉殿を接待しなきゃいけなくなるから、夕飯がいらない日もあると思う。予定が立ったら教えるよ」
「うん、分かった」
「……所帯じみた会話だなお前ら」
部隊長はエッグタルトを口の中に放り込み、名残惜しそうに咀嚼しながら二人を冷やかした。
「そういえば、もうすぐ一年になるんだな。ミナがネツに来てから」
本部から自宅への帰路を二人並んで手を繋ぎ、ゆっくりと歩きながら、クォークは呟いた。
「あ、そういえばそうね。去年の今頃だった」
ミナもまた、懐かしそうに目を細めて答える。
「去年の部隊監査の憂さ晴らしにエルの本土攻めした時をきっかけにミナが来たからよく覚えてる」
しみじみとした口調でクォークが言うと、ミナが驚いたようにぱっと顔を上げ、彼をまじまじと見た。
「えっ?……あの一戦って確か、戦術目標を潰された報復って聞いてた憶えがあるんだけど……?」
「建前ではそんな事も言ってたかもな」
あはは、と何という事もなさそうに笑うクォークを見てミナは軽く身震いをした。
「去年の部隊監査はこれがまた、鼻持ちならない貴族の坊やが送り込まれて来てね。部隊長が一週間、延々切れっぱなしで本当に大変だった」
「今年は少しでも使える少尉さんが来てくれるといいね」
「期待せずにそう願っておくよ」
苦笑気味に眉を寄せて、クォークは笑った。
「……あ、そうだ。私ちょっと集配所に用事があるの。寄って行ってもいい?」
「うん。集配所? 何か送るの?」
「ううん。受け取る方。頼んでた荷物がそろそろ届いてる筈だから」
「頼んでた荷物?」
というクォークの問いには、ミナは「ふふふ」と含み笑いを漏らすばかりで答えなかった。雑踏の中をミナは上機嫌そうに歩いていく。やがて王城前広場に辿り着くと、広場に面した兵士用の荷物集配所に真っ直ぐに足を向け、受取のカウンターに、待ちきれないと言わんばかりに小走りになって近づいた。余程楽しみな何かが届いているようだ。
クォークが歩調を変えずにのんびり近づいていく間に、ミナは簡単な手続きを済ませて、係員は指定の荷物を探しに奥へと入って行った。ミナはカウンターに肘をついてわくわくとそれを待っていた。
暫くすると、係員が一抱えほどの荷物を持って戻って来た。
「お待たせしました」
「どうも有難うございます」
荷物を受け取って礼を言い、少女は踵を返す。
「何それ?」
「ふふふ」
またもや謎の含み笑いをするが、今度は秘密にするつもりはないようだった。カウンターから離れ、人の邪魔にならない隅の方へ寄ると、ミナはその包みをいそいそと開け始める。
「じゃーん!」
という声と共に取り出されたのは、一着の衣服だった。白地に山吹色のラインが入った、上級のソーサラー用のローブである。戦闘装備としては有り触れたものではあるが――それを目にしたクォークは、彼女の言わんとしている事を察し、破顔した。
「初めて会った時の装備か。懐かしいな」
クォークの言葉に、ミナもまた、我が意を得たりとばかりににこっと笑った。
「ずっとエルソードのラムダさんに預けてたんだけどね、ネツァワルでの階級も上がって、ようやっとこれが着れるようになったから、ヴィネル経由で送って貰ったの」
えへへーと頬を緩ませて、ミナはそのローブを強く胸に抱く。そこには一言では言い表せない思いが込められているようだった。エルソードの兵士として戦っていた頃の記憶か。再びそれを着られるまでに成長出来た事への喜びか。
……出会ったあの頃の思い出も、含まれていてくれれば嬉しい。
二人で訓練した、二人で戦場に出た、――二人で対峙し、武器を突きつけ、傷つけ合った。楽しい事ばかりだったとは言えないかもしれない思い出だけれど、クォークにとっては何もかも含めて、どんな宝物よりも美しく貴重な記憶だった。
目を細めて少女を見つめるクォークに、ミナはふと顔を上げ、小首を傾げるような仕草をして、柔らかく微笑んだ。ローブを手に持ったまま、クォークの腕に手を伸ばして、ぎゅっとそこにしがみついて来る。
彼女は、クォークの腕に顔を伏せるようにして、小さな、けれどもしっかりとした声で囁いた。
「あなたに出会えて、本当によかった」
――ああ。
魂が震える。
「……それは、俺の台詞」
――君に会えてよかった。
君と出会った事で、俺は生きるという事の本当の意味を知った。
身も心も乾き切っていた俺に、惜しみなく豊潤な水を与え続け、俺が、人間であった事を教えてくれた、大切な、命よりも大切なただ一人の女性。
祈る神も持たない自分ではあるが、今はただ、心から願う。
この愛おしい平穏が、いつまでも続く事を――