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遠き未来であり、遠き遠き過去である話



 我が座に着くのは恐らくはそなたが最後となろう。それ程に、我ら精霊に残された時間は少ない。

 それは、僕が精霊世界に生まれ出でた時より常に言い聞かされてきた言葉だ。
 精霊世界は、僕が誕生した時には既に斜陽の中にあった。誰の所為でもなく、何か原因があった訳でもない。人間世界に夏と冬が来るように……もっと長いスパンで温暖な時期と寒冷な時期が繰り返されるように、ただごく自然な世界の営みの中で、精霊には滅ぶ運命が用意されていたようだった。
 時の精霊世界の統括者は、人間世界ではファビュラと呼称されている四属性精霊。歴代の統括者と比較しても抜きん出て強い力を持つ僕の祖母は、しかし成り行きに任せて世界を滅ぼすのをよしとしなかった。醜く無様に足掻いてでも、ほんの一瞬だけでも長く、精霊世界を延命させること。それのみに心を砕いていた。そしてその任を、最後の統括者である僕に引き継がせようとしていたのだ。
 僕も大概に精霊らしからぬ精霊だという自覚はあるが、祖母とて似たり寄ったりだと僕は思う。他の精霊は自然の摂理に自らの身を任せ、運命を世界に委ねる事に何ら異存はなかったのだ。なにゆえ流れに抗われる。そう問えば、口の回る祖母は、
「我をこのように作りたもうたのもまた自然の理」
 とか何とか仰っていたが。だったら僕があの方を愛した事もまた、自然の理と思って放って置いて欲しかったものだ。
 ふふ、と、微笑む口もない今の僕は、しかし意図して微笑んだ。久々に感じた感情の綾……懐かしさの波に、しばし浸る。
 しかし、これも仕方なかろう。
 この最良の日に於いては。

 この仕組みが概ね完成したのは、もう三百年もの昔だ。……数百年は精霊にとっても中々に長い時間であるが、僕にとっては本当に、気が遠くなる程に長かった。あの方亡き後の時間の流れは僕にとっては余りにも味気なく、酷く間延びして感じるものだった。有体に言えばもういい加減飽いていた。なのでつい先程、自分を除いた最後の精霊の消滅を察知した僕は、不謹慎ながらも歓喜を覚えたのだった。人間世界風に表現するならば、よしっと呟きぐっと拳を握り締めた。

 三百年前。僕はあの方と死に別れてしまった。
 そう……僕はあの方と共に逝く事が出来なかったのだ。
 あの方は御歳九十六の大往生であった。前の晩まで矍鑠とお元気で、機嫌よく笑っていらした。孫子にひ孫、玄孫にまで囲まれた食卓でいつも通りに食事を終え、一眠りすると言い置いて僕のみを伴い寝室へと戻られたその時、笑いながら、仰った。
「ああ、マキシ、何かお迎えが来たようだ」、と。
「何を仰っているのです。そんな事、仰らないで下さい。あと四年で百歳ですよ」
「ん、三桁生きたらいよいよもって本当に、精霊の仲間入りが出来るんじゃないかと楽しみにしていたんだがな。切りのいい所までいけないのは残念だが、まあこれでも十分頑張った方だろう」
「何故です、どこか痛むのですか。痛むなら医師を……」
「いやいや、そういうんじゃないよ。まあなんとなくね。婆ぁの直感って言うものかね」
 ふあぁ、と暢気にひとつ欠伸を漏らしつつ、あの方は仰った。そもそも、これはとても自然なことなんだよ――。
 ゆっくりとした身動きでベッドに横になり、あの方は傍らに跪いて見守る僕を見上げ、仰った。
「なあマキシ、あんた、私が死んだら死んじまうって話だったね」
「はい」
「相手がこんな婆ぁでもそういうものなのかい? こんな皺くちゃ婆との心中なんて、笑い話になりこそすれ美談でも何にもなりゃしないと思うんだが」
「関係ありません。貴女様のお美しさも貴女様へと捧げる恋情も、あの頃よりいささかも減じておりません、我が最愛の主」
「精霊世界の法則は乱れ、新たな精霊は生まれず、既に多くの精霊が滅んだ」
 冗談混じりの口調から一転、神官が聖堂で唱えるような厳粛な声音で、あの方は呟かれた。
「現状でも、あれの稼動は一応の所、可能だ。だが……あと数百年、精霊世界は辛うじて残る。出来ることなら全ての精霊を、システムに組み込んでやりたいんだ。それには、お前が最後にならなければならない」
「貴女様のご意思は存じております。貴女のご希望に添えるよう、死力を尽くす所存です」
「……済まないね。酷い事を言っているのは分かってるんだ」
「いいえ。貴女は最期まで貴女なのですね。却って安心します。ミカエラ様」
 柔らかく微笑んで僕がそう告げると、いつでも、腰が曲がっても常に真っ直ぐに前を見つめ続けていた主が、あの方らしくなく、皺の多くなった顔に悔悟に似た表情を浮かべ、目を伏せた。
「代われるものなら代わってやりたい。これは私の我が侭なのに。死よりもつらい苦痛はお前でなく私が味わうべきなのに。でも、でも、私はお前に生きて欲しい。死なないで欲しい。消えないで欲しい。お前だけは、ずっとお前のまま、残って欲しい」
 項垂れつつも、心痛に苛まれつつも、その言葉は、やはり強い。
 この方こそ、我が崇敬すべき主。
 ああ、この方なら、この方が精霊であったなら、愛する片割れとの別離という、全身を粉砕されるが如き苦痛をもきっと耐え抜く。耐え抜いてしまう。
 彼女が人間でよかった。
 精霊であるのが、苦痛を受けるのが僕でよかった。

 あの方との契約によって人間世界に形を保っていた僕は、あの方が亡くなった事により、その瞬間に人間世界からは消滅した。勿論、子孫たちにはそのように予め伝えてあったので――そもそも大半が自ら望んで魔術の道へと進んだので、言わずとも理解していただろうが――それについて動揺はなかったと思われる。その日以降、僕は人間世界の様子は一切覗き見ていないので、後の様子は分からない。
 精霊は、最愛の存在が亡くなれば数日のうちに世界に解けて消えてしまうのが通例だが、一週間経っても、一月経っても僕の存在は小揺るぎもしなかった。
 歓喜した。深い深い悲しみの中で、僕はただただ狂喜した。あの方の願いを身を以って叶えた自分をこの時ばかりは褒め称えた。
 僕は生きる。生き続ける。
 あの方が僕に灯した熱がある限り。
 そして今も――
 あの方が駆け抜けた百年の時を幾度も超えて、こうして生きている。

 しかしこの日々も、漸く終わるのだ。
 僕は漸くかの地平線の彼方に、ミカエラ様の御許に向かう事が出来る。
 僕は、僕と共にこの善き日を待ち続けてきた魔法術式の一部に、愛着を持ってそっと触れた。今の僕に手という物はないが、感覚によってそれをそっと撫でる。
 人間の五感に照らし合わせて表現するならばこれは、僕を重層的に包み込み、僕を含めた周囲の空間に精細緻密な文様を絶えず描き続ける、七色の閃光とでも言うべきか。今や僕を構成する魔力の数十倍の規模にもなる魔法術式は、僕を内包してその時を粛々と待っている。
 この『システム』の開発における実作業は、あの方と僕の共同作業ではあったが、あの方の示唆なくしては我々精霊はこのような仕組みを考案する事など出来ず、結果、無為な消滅の選択を余儀なくされていた筈だ。

 かつて、去り行く間際の祖母と交わした会話をふと思い出す。
 お前は幸せであったか。
 確かに祖母はそう問うた。精霊世界の未来のみに心を砕いていたあの祖母が、この時になって初めてそんな事を言った。どちらにせよ、全く、精霊らしからぬ方だ。僕は笑って答えた。
 ええ、幸せです。今も、とても。あの方を愛する事が出来て、僕は幸せです。
 精霊の存在亡き後、世界法則を担う運命を背負ったのは人間だった。別にその観点であの方を選んだわけではないが、僕の愛した人がその世代交代を見届ける者としてこれ以上なく相応しい方であったのは、祖母にとっても幸運だったと言えよう。
 あの方が用意したこの『システム』は祖母すら驚嘆せしめたものだった。

「これは滅びではなく……」
 既にいずことも知れぬ空へと消えた全能神ファビュラ。今日から貴女に代わって別の女神が、この大陸の魔法を統括します。我が愛しの女神が遺された、次なる魔法のシステムを以って。
 システムそのものはもう既に完成している。僕が最期の刻を費やして行っているのは、機能の調整ではなく、このシステムが誰の功績によるものなのかという事を後世に知らしめる為に、その証を刻む込むという作業だ。
 あの方が今ここにいれば「また精霊らしからぬ顕示欲を……」と大いに呆れることだろう。そのお顔を記憶の中に鮮明に浮かべながら、僕は人間世界に存在するあらゆる文献を改竄していく。暫くの間は人の記憶との矛盾も残るだろうが、数百年もすれば僕の書き換えた記録の方が正しいものとなる。
 この世界は、新たなる大陸の『女神』――ミカエラ様が考案し、僕たちが構築したこのシステムが支配する。
 僕は目の前に展開される制御術式を操作しながら微笑んだ。
 滅びを迎え、意識体としての構造を保てなくなった精霊を、魔力体として分解、情報体として再構築――然る後に、この術式内に記録。人間の魔術士による構造的な呼び出しに応じ、その力を限定的に顕現するよう設定する。個々の自我は失われるものの、精霊としての構造を最大限に残す方法だ。精霊世界の殻が壊れる代わりにこれからは、人間世界の空に地に風に海に、自然界の遍く所に精霊が満ち満ちる。そしてその精霊の魔力を借りて、人間が新たなる魔法の担い手となる。それはそれで、面白い世界法則ではないか。あの方が望んだ世界が、人間が自分の手で魔法を使う世界が、今始まるのだ。
 愛しき我が女神よ、その栄光よ、永遠に。
 僕は、精霊としての意思の最後のひとかけら、僕の残る意識を燃やし尽くす燦然たる輝きに手を添えて、全てを終わらせ全てを創める最後の一句を、喜びを込めて囁いた。
「我が女神、System Mi.Narva《ミナーヴァ》――起動」

【FIN】

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