召喚術士の失敗
「うふふぅ……うふふふふ……」
窓ひとつ無い密室の薄暗がりの中、知識のない者には奇怪な文様の連なりとしか見えない魔法陣と煌々と焚かれる四つの篝火を前にして、頭から足の先まで真っ黒いフードとローブに身を包んだ女が色々と含みまくった笑い声を上げている。
……うん、傍から見たらすっげえ怖い光景かもしんない。
そんな自覚はあるものの、その女――まあ何を隠そうこの私自身な訳だが――にとって、そんな人様の目などというものは果てしなくどうでもいいものではあった。そもそもこの場には私以外の人間などいない、というかいては困るし、今まさに成就せんとしているのは私の長年の悲願であり人生最大の希望。それがようやく叶う段を迎えつつあるとなれば、人間、含み笑いの一つも漏らしたくなるというものだ。
私は私の未来を私の望むままにするべく、長い時間をかけて綿密に準備してきた。と言ってもその期間はおおよそ一年半、大型魔術の準備期間としてはそうそう長い方でもなく長年と表現するのはいささかオーバーかもしれないが、私の十六年の人生分の一年半と言えば割合にしておおよそ一割弱、人生の十パーセント程度をかけたとなればそれはそれで一大事業と言えるだろう。……あ。嘘。ちょっと嘘つきました。その期間もこの魔術とは別に正規の研究も進めてたりしたわけで別に一年半どっぷりこれにかかりきりになってたわけではありませんでした。つまり片手間にコツコツ一年半? あれおかしいいきなりちょっと大掛かりな日曜大工レベルになった気が。今のなし。色々犠牲にして超頑張ったのは間違いないんだからこの期に及んで盛り上がりに水差してはなんか凹む。ほらほらそうそう、これに時間をかけたいが為に研究室でしれっと尻を触ってきやがったセクハラ先輩研究員を社会的に抹殺する手間を惜しんで、私的な手段で生物学的に半抹殺する程度で許してやったりもしたし。うわあ譲ってはならない一線を譲ってまで自分の野望の為に心血を注いできた私ってすごくない?
というわけで今この時こそがすごい私のすごい魔術がすごい局面を迎えようとしているすごい瞬間であるのだ。よしオッケー。
何か無理矢理モチベーションを維持しようという涙ぐましい努力を自らに感じないでもないがそれは置いといて、何はともあれ私が今行わんとしているこの魔術は、教授どもにバレれば絶対に間違いなく両腕をわしっと羽交い絞めにされて無理矢理中止させられるほどの厄介な代物であることには違いなかった。――この、精霊召喚術は。
精霊とは世界の構成要素である、地水火風の四元素を統べる超次元の存在である。精霊は元素であり、力であり、世界そのものであり……まあ精霊学の講釈をぶつ気は無いが、ともあれそういう生き物でありながらエネルギーであるみたいな存在である。で、道を究めた魔術士は、人間とは異なる体系の魔力を持つ彼らを召喚し、使役するのが常だった。魔術研究の協力者としたり、身の回りの細々とした用事を言いつけたりするのに実に都合のいい存在であるからだ。人間の助手を雇うとしたら給料を払わなければならないが、精霊の場合給料は要らない。召喚状態を持続する、即ち精霊が人間界に留まる為の魔力を提供しているだけでいい。というとなんだか奴隷扱いチックだが、基本精霊との契約は精霊の意思次第なので一概にそうでもない。
一旦結んだ精霊との契約を解消することは出来ないわけではないのだが、それは契約を結ぶ方以上に色々面倒らしいので――教授の一人はそれはあたかも結婚と離婚のようだと表現していた――、最初の精霊を一生使役するつもりで、魔力も知識も充実する年齢になってから、己が制御できる範囲で最上級の力量を持つ精霊と契約するのが通例であった。強い精霊を喚べばそれだけ維持にかかる負担も増えるが、それ以上に高位精霊の力は強力なので差し引きで言うと精霊が強ければ強いほどプラスになる。私はその平均年齢からするとまだ少々若いが、魔力も知識も十二分に一人前なので問題ない。……あっ。これは別に勝手に自惚れている訳ではなく、誰もが認める事実だぞ。何しろ私はこの年齢にしてこの最高峰の魔術研究機関、アカデミーの研究員であるのだから。アカデミーに上がる程の魔術士ならば普通ほぼ全員がとっくに精霊を使役しているが、最年少研究員である私は年齢の若さから一度も精霊を持ったことがなかった。とはいえ周囲もそろそろ精霊を得てもいい頃合だと思ったようで、去年あたりから教授が早く四属性精霊召喚術を行えとうるさくなってきた所である。
精霊の属性についてもざっと説明しておこう。精霊は通常前述の四つの属性のいずれかを持ち、それぞれ火の精霊とか水の精霊とか言ったりするが、精霊の力が強ければ異なる複数の属性を備えることもあり、それを二属性精霊、三属性精霊、四属性精霊と呼ぶ。特に三属性以上になると必然的に対立する属性を併せ持つことになるわけで、それ以下の精霊と比べて段違いの力量を持つことになり、当然そうなると召喚者にも同様に段違いの力量が要求されるので……まあ後は分かるな? 三属性精霊の召喚に成功したその瞬間にその魔術士はいかなる出自であろうとも華々しい出世を約束されたと言っても過言ではなくなるのだ。いわんや数十年に一度現れるかどうかの魔力量が要求される四属性精霊使いとなれば、魔術兵団の総帥だろうと、王家直属の預言者だろうと、国教たる女神教の大神官だろうと、いかなる地位も望むままとなるだろう。教授たちにしてみれば、アカデミーの箔付けの為にも、その稀有な素質の持ち主たる私には是が非でも四属性精霊を喚び出してもらわなければならないのだ。
だがしかし。
その思惑には巨大な障害が立ちはだかっていることを彼らは知らない。
障害とは当のこの私自身。肝心の私が、実は四属性精霊の召喚などさらさらやる気がなかったのである。
こんな事を知られては、拷問或いは泣き落としに近い勢いで説得される事が目に見えているので誰にも言ったことはないが、はっきり言わせてもらえばそんな未来図は冗談ではないの一言に尽きる。政治だの権力だのというくだらない俗事に煩わされるような人生など、私は真っ平ごめんである。
私の願いはただひとつ、生涯この静かなアカデミーに篭って心行くまで研究に没頭することのみであった。心優しい水属性の女性型の中級精霊あたりと契約して、かいがいしく研究の手伝いをしてもらいながら魔術の解析や開発を死ぬまでやりつくす。出来れば教授にもならず生涯一研究員で過ごしたいくらいだがまあそれは流石に世間が許さないだろう。教授の地位を得れば自分の研究室を持って研究員を顎で使えるようになるし、それはそれで便利だからそこまでは許すつもりでいる。
……ああ何という心躍る夢だろうか!
その為にもこの私のささやかな野望が露見し四属性精霊召喚術を強要される前にさっさと私好みの精霊との契約を完了させねばならない――ということで、話は今私が成就させんとしているこの魔術。水属性精霊召喚術の隠密裏の実行と相成るのである。ふはははは、王侯貴族や聖職者どもへの自慢の種にしようと目論んでいた私がしれっと単属性精霊を連れて歩く姿を見た教授どもの唖然愕然とした顔が目に浮かぶ。楽しみだ! 実に楽しみだ!
……と、そんな瞬間的な愉悦を味わいたいという動機もありまくりではあるが、本音は紛れもなく前者である。要職につくことを求められるだけならそれをその都度蹴ってしまえばいいのだが延々うるさく言われ続けるのも面倒だし、何より問題なのは四属性精霊程に魔力負担の大きい精霊を持ってしまえば研究の邪魔になりかねないことである。先程高位精霊を喚んだ方がプラスだとは言ったが、生憎と私の研究テーマは精霊に分け与えるそれそのもの、「人間本来の魔力」についてなので、私の場合に限っては強い精霊を持つことはマイナス以外の何にもならないのだ。
――さて――
私は目の前の魔術に思考を戻した。期待にはち切れんばかりに高鳴る胸を平静に保とうと努める。とはいえ既に完璧に組みあがっている術式の上に流れる力は多少私のテンションがアレでも整然と駆け巡り、魔力圧を徐々に高まらせていく。
時は来た。逸る心を抑えつつ徐に腕を挙げ、魔法陣に対して両の手のひらを翳した。黒ローブが篝火の炎に赤く染まる。
私は万感の思いを込め、厳かに、長い儀式を完成させる最後の呪文を唱えた。
「我が求めに応じて来たれ! 我が精霊よ!」
その途端――正面の篝火から峻烈な水柱が立ち上がった。天を貫かんという勢いの水流は、しかし高い天井すれすれでぎゅんとカーブして魔法陣の中央へ瀑布さながらに落ちてゆく。そして続いて奥の篝火からも地獄の業火と思わんばかりの火柱が、右手、左手から旋風と火山岩のような岩石が上が……って、おおう!?
ごがががががが!!!
轟音と共に、陣の四方からいろんな物が降り注ぐ。
思いの外激しいアクションにびっくりして思わず塞いでしまった瞼を、私はそろそろと開けた。
数秒前とは打って変わって荒れた様子もなくしんと平静を取り戻している(水や岩石は魔力が実体化したもの、つまり幻であるので魔術が終われば消滅する)魔法陣の中央には、複雑な、プリズムのような光がたゆたっていた。
ごくりと唾を飲み込んでじっと凝視すると、徐々に薄れ行く光の中央に、一人の男が立っているのが見えた。
絹糸のような長い髪は、この世に有り得ざるほどの輝きを持った銀。すべらかな真珠の如き肌は、研究室に篭りっぱなしの私にも負けないくらいの白。礼服のような優雅で気品ある衣装に身を包んだ、若くて……なにやらやたらカッコいい顔をした男。いや私は見目に関する条件指定は魔術に入れてないぞ念の為。
しかしそんな際立った容姿よりも特徴的なのが、部屋の空気が水の重さになったかのような圧倒的な重量感……。これは、この精霊が醸し出す存在の気配だ。
精霊は涼やかな仕草で私に恭しく跪いた。
「良くぞ私をお喚び立て下さいました、我が主。私は精霊マキシ、属性は地水火風。貴女様の御名は何と?」
「あ、えと、……ミカエラ」
そういや私は名をミカエラと言う。よろしく。いやどうでもいいですね。
「清冽なる御力に相応しく何とも麗しき名。我が主、偉大なる魔術士ミカエラ様、貴女様に永遠の忠誠を」
場合によっては召喚に成功しても精霊にごねられて契約に至らない場合もあるというが、この精霊は即座に私を認めてくれたようだ。まあ精霊がごねるのは術者の力量が微妙ってことだから、それがないのは想定通りだ……が。
今こいつなんつった?
麗しき名とか照れるではないか……っていや社交辞令はどうでもいい。大切なのはその前、こいつの名乗りの方だ。精霊マキシ、属性は地水火風――四属性。
よ……
「四属性精霊ですと…………!?」
「はい。求めに応じ馳せ参じました四属性精霊に御座います、我が主」
「いやいやいやいや!? 私四属性喚んでないし!?」
「……は?」
私の素っ頓狂な声に精霊は、人の物とは思えない程に整った顔をきょとんとさせた。いや人じゃないんだけど。丸くした瞳をぱちくりと瞬かせてから、精霊の青年は優雅に立ち上がり、周囲の魔法陣をゆっくりと見回した。
同じ魔法陣を描いても召喚する精霊にはある程度のランダム要素は絡んでくる。一口に精霊と言ってもみんな別人であるのだからそれ自体は当然なのだが、人間以上に精霊は種族ごとの特性がはっきりと違う為傾向はかなり厳密に限定されるわけで、水を喚ぼうとして四属性が出てくるとかそういうことが起こる事は普通ありえない。そして将来を嘱望される俊英たる私が魔法陣を組み間違えるなどという事はそれ以上にありえない……はずなのだが……?
想像の及ばない事態に唖然とする私の前で、周囲に広がる気が遠くなるほどに精密でかつ巨大な魔法陣の各部分を仔細に眺めてから銀髪の精霊は、ふむ、と鼻息のような音を漏らした。
「ああ、もしや水を召喚しようとしてたのですか? 水をメインに地、火、風の残り三属性で術式を構成しているのは、万が一水の召喚に失敗した際の術崩壊防止でしょうか。見た所、水の術式も完璧なようですから余程のことがない限り無用となろうというのに、余程慎重な性格とお見受けします。かつ、補助術式にここまで力を割く事が出来る素晴らしい魔力の持ち主。……しかしそれが想定外の結果になる原因でしたね。恐らく、ご自分で考えておられたよりもご自身の魔力が充実していたのでしょう。補助のつもりの術式が、十分単体召喚に耐え得るほどの出力を発してしまった。これでは少し水寄りなだけの四属性精霊召喚術式ですよ」
な、なんてこったい。己の力量を見誤るというのは魔術士にとって恥ずべき話だが、よもやこの私がそんなへまをやらかすだなんて。……そういえば今年の健康診断、研究が忙しくてすっぽかしてたんだっけか。去年の基礎魔力量測定の結果から見積もりを出してたがそれが間違いだったのか……?
愕然とする私の耳を、精霊の声が素通りしていく。
「これ程の魔力をお持ちならば、このあたりなどあと二つは上位の術式に置き換える事が可能なはずなのに……ん? いや、ここからの繋がりからするとわざとランクを落としているのか。これは……ほほう、見事な調整です。精霊を唸らせるような術式を描く人間はそうはおりませんよ、我が主」
ええい我が主我が主連呼するない。
「貴女様が本気で陣を書かれていたら、最高精霊たる僕のお祖母様をも召喚することが可能だったやもしれません。人の身でお祖母様を喚ぶなど七百年振りの快挙ですよ。しかし、僕にとっては何たる僥倖か、それだけの素質を持つ召喚術士に僕が喚び出される運びとなった。大丈夫です、僕は年若いゆえ魔力も発展途上ですが、いずれは大精霊になれる精霊です。いやあお買い得でしたね」
人のことは言えないがこいつも中々謙遜というものを知らない。が、それが過剰な自意識ではないことは私は今身をもって理解していた。精霊が人の世界に顕在化する為には、召喚者の魔力をそのエネルギーとして消費することは既に述べたが……発展途上と自称する今ですら相当こいつ燃費がパネェ。これじゃあ殆ど自分の力を食われる状態になる!
「ちょ、無理。だめ。返却。チェンジ。お帰りはあちらです」
「貴女様の魔力なら僕を維持することは問題なく可能なはずですが? どうやら貴女様の方もまだ魔力が成長する余地があるように見えますし」
「維持は出来るだろうけどこんな負担でかい精霊いらねーです、邪魔!」
「邪魔ですって……?」
少々気分を害したように眉を顰めたのを見て悪い事を言ったとは思ったが邪魔なものは邪魔だ。プンプン怒ってさっさとお帰りください!
――しかし精霊は眉間に皺を寄せたまま、器用に唇だけに笑みを乗せてきた。二つの表情が合わさって、物凄く意地悪そうな笑顔になる。
「冗談じゃありません。ご存じないのですか、我が主。人間にとって高位精霊の召喚がステータスであるのと同様、精霊にとっても強力な魔術士を契約者に持つことはステータスなのですよ? 貴女と僕が対になればこの国最高の魔術士と精霊として王国の頂点に君臨し、あらゆる富も! 権力も! 歴史すらをも! 何もかもを掌握し意のままとするのも夢ではありません!……だというのにそれを拒否しようとは馬鹿ですか貴女!」
なっ……なんじゃそりゃあ!?
肉を持たぬ精霊界の住人の言とはとても思えない俗物的な発言をぐぐっと拳を握って叫ばれて、私は絶句する以外の反応を示すことが出来なかった。せ、精霊って、もっとこう無私無欲な超次元的な存在なんではないの!? 現世の富とか関係あるの!?
「そ、そーゆーの私全然興味ないんで! 私は静かに好きな研究さえ出来ればそれでいいの! ってか精霊の癖になんでそんな野望の塊なんだお前!?」
こちらも負けじと喉の限りに叫ぶが精霊はこっちを真っ直ぐに見つつも知ったこっちゃねー様子で歓喜を全身で表していた。
「くっくっく、離すもんですかこんな逸材を! 僕の栄光ある未来の為に!」
こ、こらー! 精霊が召喚者を差し置いて何言ってるんだー! 私の栄光ある未来を返せええええ!!
窓ひとつ無い密室の薄暗がりの中、知識のない者には奇怪な文様の連なりとしか見えない魔法陣と煌々と焚かれる四つの篝火に囲まれて、精霊のいたく満足そうな含み笑いがいつまでもいつまでも響き渡っていた。