第1章 美少女と野獣
瞬間、場は静寂に支配された。
本来ならば刹那たりとも喧騒が絶えぬはずの宵の酒場に落とされた空白は、一瞬に過ぎないながらも――いや、一瞬に過ぎないからこそ、かもしれない――その場にいた従業員、客を問わない全ての人間の意識の中に鮮烈なまでに刻み込まれた。
それは、人込みの中を放たれた矢が誰にも傷つけることなく通過するような、神懸り的な偶然が生み出した一瞬の空隙に似ていたが、それが決して単なる偶然の産物ではないことは、店内にいる全ての人間の気付くところであった。
奇跡を成したのは、一人の少女の登場だった。
スポットライトを浴びるでもなく、華美な舞台衣装を纏うでもなく、この店に訪れる殆どの者がそうするように入り口の扉を軽く押して、店内を照らすオイルランプの灯の下に入ってくる。そしてその様子を、やはり多くの者がするように、店内の客は何とはなしに振り返って見たのだった。ここのような郊外の、長期旅行者相手の宿兼酒場には、得体の知れない者が訪れることがままある。妙なトラブルに巻き込まれるよりも先に軽い自衛を講じるのは、こういった場所の常連であれば意識するまでもなく身についていることであった。
自衛、という件についてなら、その少女は何の問題もなく客たちの条件をクリアしていた。この時、入り口をくぐってきた彼女を見て、これを危険と感じた者は皆無であったはずである。
年の頃は十代後半と言った所だろうか。十分に成人と認知される年齢だったが、どこか幼さを感じさせる雰囲気は見る者にあどけない少女という印象を植え付けた。
背丈は女性としては決して低い方ではないのだが、触れただけで折れてしまいそうな華奢な身体は見る者の庇護欲をそそる風情である。また、赤いランプの光の下でも潔癖なまでに白さを主張する肌と、丁寧にくしけずられた腰までもある亜麻色の髪は、まさに深窓の令嬢にのみ許されるものであるように見えた。けれども、彼女が纏っていたのは華麗な夜会服などではなく、一般の旅行者が身につける実用一辺倒の衣服で、その取り合わせはこの猥雑な酒場の中においてさえ、アンバランスと感じさせる程だった。
だが、客たちを絶句させた主原因は、そういった意外性が全てではなかった。その原因とは、先の理由に付け加えてその少女が、絶世の、という冠詞を付加しても全く差し支えない程の美少女であった事に他ならなかった。
髪や肌、瞳、唇。彼女を構成する各部位はそのまま個別に取り上げても、吟遊詩人が歌にして称えんばかりの見事さであったのだが、一旦彼女の全身像を目に収めては、それらなど彼女の魅力のほんのひとかけらに過ぎなかったのだと実感せざるをえなかった。計算し尽くされ、意匠を凝らされて作り上げられた細工が、ひとつひとつ、寸分の狂いもなく配置されている。幼さを思わせながら、完成された、神々しいまでに整然とした美しさを有する少女に、誰もが声を失わずにはいられなかったのだ。
空間から消え去ったざわめきを取り戻す為の第一声が、誰がついたものであったのか、ほう、という心からの溜め息の音だったというのも、いかにももっともであったことだろう。
――実際の所、前述した通り、その静寂は時間にしてはほんの一瞬のことであった。少女が押し開けたドアがからんからんとベルを鳴らして完全に閉まりきる頃には、完全にとは行かないにしろ、その酒場には人の声が戻ってきていた。ただ、その誰もが明らかに、或いは盗み見るようにして、彼女の姿を目で追い続けていた。
少女はそんな視線には全く気付いた様子もなく、店の入り口の傍のカウンターにいた従業員に声をかけた。どうやら、食事だけでなく階上の宿に宿泊するつもりであるらしい。
ざわり。
あからさまに、店内にいた客たち――当然のように男が大多数である――は、色めき立った。普段、冒険や傭兵稼業などで身を立てる男臭さと汗にまみれた彼らにとって、若い女性と親しくなれるかもしれない機会は、まさに千載一遇のチャンスなのである。しかもこのような美少女と、となれば男たちの興奮も跳ね上がるというものだ。
幾人かが早速モーションをかけようと椅子から腰を浮かせたその時。
再度、店のドアが開いた。
少女に多分に気を取られていた客たちだったが、しかしここはいつもの癖で、また扉の方に目をやった。今度入ってきたのは、若い男だった。身長は高くもなく低くもなく、体格も特に良くもなく悪くもなく。ダークブラウンの長髪が特徴と言えば特徴かもしれないが、それもそう取りたてて珍しいものではない。総評して、ごくごく標準的な面構えの男が、ごくごく標準的な旅人の服装をして扉をくぐってきた、という所である。
美少女の登場という衝撃的な事件が直前になかったとしても、一秒後にはその顔も忘れてしまう程度の印象でしかなかった。全員が、即座に意識をその男から離した。気を取り直したように彼らは少女に注目し直し、立ち上がりかけていた者は予定の通りに彼女の方への移動を再開し……
ふと、カウンターと会話を交わしていた少女が後ろを振り向いた。
そして彼女は――あろうことか――今し方入ってきた、若い男、以上、という程度の印象の男に、その麗しい顔で親しげな笑みを向けて、こちらとも何やら会話をしたのだった。
「…………」
男連れかよ!!
そんな叫びが、無音で店内にこだましたのは、言うまでもない事だった。
「……なあ、ソフィア」
青年は、テーブルを挟んで向かいに座り、黙々と食事を進める少女に、小声で囁きかけた。
夕飯時には少し遅い時間だったが、当然こういった時間の方が酒場は盛況になる。テーブル席は実はひとつも空いていなかったのが、目の前の少女はすぐさま、彼女お得意の「店員との交渉」で席を二人分作らせてみせた。美少女の極上の微笑みと相場より心持ち多めに握らせたチップにより作られたテーブルは、即席ながらも窓際の悪くない場所だったが、殺気すら立っている店内の男全員に背後を取られているという状況は、どうにも頂けたものではなかった。
「どうしたの? ウィル」
呼ばれた少女――ソフィアが、口の中に放り込んだフライを咀嚼しながら、青年の名を呼び返す。声に出して初めて喋りにくいという事に気付いたのか、彼女はひっきりなしに動かしていたフォークを止めて、口の中のものを噛み砕くのに専念した。
彼女の白い喉が胃に食べ物を落とした頃を見計らい、ウィルと呼ばれた青年は少女の問いに答えた。
「視線。物凄く気になるんだけど」
「……誰の」
「後ろの人たちの」
言って、彼は振り向かず気配だけで後ろを示す。テーブルの上で顔を近づけて話す二人を見る周囲の目は、一層きつくなっている。振り向かずとも察することが出来る程に。
不思議そうな顔をして彼の言葉を聞いていた少女はとたんに、なぁんだ、と表情を崩した。
「別に気にすることないわよ。珍しいんでしょ、あたしみたいな女の子がこんな場所にいるのが。よくあることだわ」
……違うと思うな、俺。
自覚のない台詞を平然と吐く少女に、ウィルは眉を寄せて内心で呟いた。彼女の言っている事も、珍しいという点で一割くらいは間違いではないだろうが、男どもがこちらを見ている理由はそれだけで終わらないということは至極平均的な美的感覚を有するこの青年には理解出来ていた。そしてその視線に敵意が混じるのも頷けないことではない。もっとも、それを納得するのと同じくらい、ソフィア自身に自分の容姿に対する自覚が欠けている事も知らないことではなかったのだが。
そんな事を思っていると、唐突にソフィアは軽く握ったこぶしを口許に添えて、恥ずかしそうに顔をそむけた。
「まぁ、あたしみたいな美少女を思わずじっくり眺めたくなっちゃう気持ちはわかんないでもないんだけど」
一言に纏めれば、概ね的確な状況説明であるが……
まるっきり冗談のつもりである。本人は。
確かに大抵の女性は冗談以外で自分のことをこうは評さないだろう。が、彼女に限ってはそれをやっても冗談が冗談にならないどころか、嫌味にすらなり得ない大正解になってしまうのだ。だが、彼女にとってはありふれたジョーク以上の何物でもないらしく、以前こんな台詞を聞いた時、思わず真っ正直に受け取ってしまったら、「突っ込んでよ!」などと理不尽な反論をされた経験が彼にはあった。
その失敗を踏まえて、ウィルは今回はどう対応しようかと半秒ほど思索してから、
「ふーん」
とりあえず、彼女の望み通り冗談として扱ってみることにした。と、ソフィアは恨めしげな視線で彼を見つめてくる。
「流さないでよ」
「どーしろっつーんだ、一体」
心の底からのうめき声を上げて、ウィルはスプーンを持ったまま右手で頬を掻いた。
「よお」
短いだみ声が、二人の頭上から降ってきたのは、二人がひとしきり腹を満たして、飲み物を手に一息ついた所でだった。レモンスカッシュのグラスに口をつけたソフィアと、エールのジョッキを呷っていたウィルは同時に視線を上に持ち上げた。
テーブルの脇に立っていたのは、三人連れの、いずれも筋肉質な大男だった。既に十分過ぎる程に酒が入った様子であったが、まだなおなみなみと酒の注がれたジョッキを手にしている。最初に呼びかけてきた最も体格のよい男が馴れ馴れしくテーブルに手をついて、ソフィアの方にいかつい顔で作った笑顔を向けた。
「姉ちゃん、どうだい? 俺たちとこっちで一緒に飲まねえか?」
その男の声に、店内のざわめきは再び途絶えた。今度は、それは一瞬では済まなかった。
――ついに来たか。
そんな店内の客全ての思いと同調して、こっそりと、ウィルも嘆息した。
あまり、客の柄のよくない店である。同伴者がいるとしても、誰かしら動くのではないかとは、彼も思っていたのだ。無論、人の連れに無断で声をかけるなど、マナー違反どころか既に喧嘩を売っているに等しい行為である。テーブルに手をつき、いかつい顔に精一杯の愛想のよい笑みを作ってソフィアへ向ける男は、ウィルの方を見向きもしなかったが、やや後ろに控えたその仲間は、にたにたとした視線を彼の方に送って来ていた。彼らの飲んだ酒は、これが喧嘩を売る行為であるか否かを判別する能力を奪うまでには至っておらず、勝てそうな喧嘩ならば売っても構わないかという決断を下す程度の興奮を彼らに与えていたようだった。
「遠慮するわ。今は連れがいるから」
にっこりとした笑顔で、ソフィアは柔らかく酔客に告げた。整った美貌の持ち主だが無機質な冷たさはなく、男女ともに受けの良い人好きのする表情の彼女は、この手の場所で声をかけられることにも慣れているらしい。流石に、彼の目の前でというのはなかったのだが。
「へ……じゃあ、後ならいいわけだよな?」
ねちり、と、どこかいやらしいものを含ませた声音に、一瞬、ソフィアはつぶらな瞳をナイフのように細めた。が、男たちはその鋭い気配に気付かなかったようだった。
「彼がいない時ならね。……一緒に旅をしてる仲間だから、そういう時って多分殆どないと思うけど」
「はん」
鼻を鳴らして、男は初めてウィルの方に目をやった。一瞬ではあるが、品定めをするような、そんな目である。
無論この行動に出る以前に、彼に対する品定めは十分に終えていたのだろう。喧嘩を売っているという自覚を持っての行為であるのだからそれは間違いない。同時に、品定めの結果、男はウィルを自分より格下と見たというのも誤りではないだろう。
「寝るときも一緒って仲かい?」
男の挑戦的な口調は、ソフィアの方を向いて発せられたが、むしろそれはウィルに向けられたものだった。
どういう意味だ。
そんな反論が頭に浮かぶが、彼は口には出さなかった。どうもこうも、美女とお前じゃ釣り合わねえだろうという一言に尽きるのだろうが。しかしそんな安いからかいに応じるほど彼は素直ではないし、まめでもない。
と、その時。この場合はある意味対象外であった彼女自身が勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。
「違うわよ! 失礼な!」
「失礼なっておいこらどういう意味だソフィア!?」
直前に留めたばかりの言葉が、思わず口から噴出する――男にではなく、少女に向かって。
それまで冷静な対応をしていた少女と、無関心を決め込んでいた青年の唐突な叫びに、流石に意表を突かれたか男たちは一瞬呆然としてみせたが、すぐさまそれは大笑に取って代わった。
「じゃあ問題ねえじゃねえか! 決まりだ、ほら、部屋で仲良くしようぜ」
男の肉厚の手がソフィアの細腕を鷲掴みにしようとし、動く。ぴくりと震えたソフィアを見て反射的に突き出されたウィルの手は、男の手が彼女に届く寸前でその手首を掴んで止めていた。
「……兄さんよ、あんたはすっこんでろよ。姉ちゃんは関係ねえって言ってるぜ?」
「言ってないだろ、そこまでは」
ぎろりと睨みつけてくる男に対抗するよう低く唸って、ウィルもまた男を鋭くねめつける。男は腕に力を込めて、掴まれた手を振り払った。……街の劇場でよく演じられている演劇のワンシーンであれば、見た目は優男風でも実は強いヒーローの手の中からは逃れられないのがセオリーだが、残念ながら見た目通りの腕力しか持ち合わせていないウィルには、筋肉隆々の男を片手で押さえ込んでおくことは不可能だった。
「はっ……」
まさかその物語のセオリーを危惧していたわけではないだろうが、しかしどこか安堵したふうに、男は鼻息を吹き出した。その後ろから、仲間の一人が男の肩に手を置いた。
「やめとけ、兄ちゃんよ。こいつは強ぇぜ。普段は用心棒をやって食ってるような奴だ」
「そうそう、別におトモダチにいてぇ目を合わせようって言うんじゃねえんだしよ」
もう一人も続ける。どうやら、立場は厳格ではないにしろ、親分と子分二人、といった構図であるらしい。ウィルは後ろの二人から視線を外し、ソフィアをちらりと見やってから、親分に目を向けた。子分風情に脅されてすごすご引き下がったと思われては、さすがに少々気分が悪い。いつのまにか――いや、最初からだろうが――周囲の客も、この騒動の一挙一動を洩らさず観覧する構えになっている。
……ちなみに当のソフィア自身も、険悪な表情はもう引っ込めて、じっとウィルを見ていた。どうやら、彼女まで観客になりきるつもりらしい。
(……まあ、そのつもりで止めたんだけどね……)
精神的なものに由来する疲労感を覚えながらも、ウィルは、立ち回りに不利な椅子の間から通路へとゆっくりと出た。
――その時になって初めて気がついたのだろう――
親分格の男の太い眉が、怪訝そうにぴくりと動く。
「てめぇ、その腕」
ウィルの左腕を目で指して、男は呟いた。声に戸惑いを残す男に小さく苦笑して、男が見つめる、力なく垂れ下がる自分の腕を、ウィルは右手で肩口から撫でつけた。
「見ての通り。俺は、こっちの腕は動かせない。肩から指先まで、どこもね。……別に君らを引っかける為にやってる訳じゃないから、安心しな」
告げた通り――
その腕は、指先をほんの僅か動かされることなく、ただの付属品のように肩からぶら下がっているのみだった。先程からずっと、彼は右手だけで食事をしていたのだが、ソフィアにばかり注目するあまりか男たちは全く気付いていないらしかった。最初から左腕をテーブルの上に乗せていた所為もあるだろう。下手に下ろしているよりもその方がよほど動かないことを意識されないで済むのだ。……別に、これほど見てすぐ分かるようなものを秘密にしているわけでもないのだが。
「そんな身体でこの俺とやろうってぇのか?」
そんなことを言いながらも、男は、やはり明らかに身体能力の劣るであろう相手と喧嘩をするのは気が引けるのか、既に大部分の気勢を殺がれているようだった。このまま言いくるめようと思えば出来ないことはないだろう。が、ウィルはあえて先程受けた挑発の仕返しをやってのけた。
「ああ。こんな所でごろついてるごろつき程度、片腕で十分だからね」
「何だとォ!?」
「うわ単純」
既に席に座り直し、あまつさえ残してあった塩味のラスクをかじりながらのソフィアが思わず呟いたのも責められまいという程簡単に、男たちの怒りはただの一言で再燃した。親分格の男が後ろの仲間に何やら顎で合図すると、二人の子分は彼の後方に離れていった。
指をぼきぼきと鳴らして一人で戦闘態勢を取る男に、ウィルは片眉を上げた。
「三人がかりじゃないの?」
「一人相手に、三人でかかっちゃあ俺様の沽券に関わるってもんだ」
「俺様が誰様かは知らないけど、それは殊勝な心がけ。ちょっと見直してあげるよ」
口の端に笑みを作るウィルに、男も息を吐き出して笑う。
「上等だ!」
叫んで、男が厚い筋肉に包まれた太い腕を振り上げた。
ざわ……!
店内に、にわかに興奮と恐怖の波が立つ。
用心棒――傭兵として身を立てるというのははったりではないのであろう、鍛えられた男の腕は、ウィルのそれより倍は太く、腕力勝負での勝敗は、身体の不自由を除外しても火を見るより明らかだった――
――ように見えた。
ウィルの顔面を狙って振り下ろされた大きな拳の前に、標的への軌道を遮って横から手のひらが伸びる。無論、それはその攻撃目標当人、ウィルのものだった。ぱしんと軽い音を立て、男の拳の軌道が横に逸れ……
そのついでのように、男の身体そのものも、ふわりと宙に浮く。
その異変に男が気付くいとまも有らばこそ。
だんッ!!
テーブルの上に乗った皿が跳ね上がる程の勢いで、男の身体は床に叩き付けられた。
「あら、ウィルってば喧嘩、出来たんだ」
店内が奇妙な静寂に包まれる中、ソフィアが心底感心した口調でそんな事を呟くのが否応無しに耳に入り、ウィルは半眼で彼女の方を振り返った。
「勝てると思ったから放っておいたんじゃないわけ?」
「ズルすれば勝てるとは思ってたけど」
「ズルって」
言いながら、背骨を痛打し身動きが取れないらしい男に向かってウィルは歩み寄っていた。倒れた男の腹の上に片膝をつき、相手の顔の前に、す、と開いた右の手のひらを突きつける。
その体勢を作り上げてから彼はソフィアににやりとして、告げた。
「当たりだよ、ソフィア。ズルはちゃんとしたんだ。まともに力比べしちゃ、ガードした腕ごとぶっ飛ばされちゃうしね。……さて」
と、今度は男の方に目をやって、
「君も傭兵なら分かるんじゃないかな? これが俺の、本当の攻撃態勢だ……」
静かな口調で言い放つ。ウィルは、さほどきつい顔つきをした青年ではなかったのだが、足蹴にされる男はその青年が放つ気配の、凍えるほどの冷たさを感じ取ったようだった。苦痛に歪めていた顔をこわばらせ、おののきながら目を見開く。目の前に晒された手のひらの意味を、彼は察したのだ。
「なん……っ!? あ、あんたまさか」
「や、野郎! ジフから離れやがれ!」
倒され、踏みつけられたまま男が驚愕の声を上げる――それと同時に、男の仲間がそれとは別の叫びを上げていた。ウィルが振り返ると、二人の子分格は、ナイフを手に構えていた。少し手が震えているのは、持ち慣れぬ刃の所為か、信頼する親分をいとも簡単に打ち破った男を前にしている為か。
小ぶりとは言え十分に人を殺傷する能力のある武器の出現に、流石に観客たちも驚いて、悲鳴と罵声で爆発が起きたような騒ぎになった。が、そんな周囲の混乱をよそに、ウィルはどこまでも冷静に、相手を見返していた。
刃を向けられての恫喝にも全く怯えを見せない青年に、男たちは焦れ、とうとう奇声を上げて走り出す。
ウィルは冷たく苦笑した。
「お、おい馬鹿お前らやめ……!」
やや力の緩んだウィルの足の下から、ジフとか呼ばれた男が慌てて仲間を制止しようとする。――が、遅い。
すっと、ウィルは立ち上がった。これで完全に男は解放されたわけだがそれにすら気付かず、仲間を止めようと悲鳴に近い叫びを上げる。
「よせお前ら、こいつは……!」
突撃の雄叫びと悲鳴の渦の中心で。
ごイん。
文字にするとそんな感じの、妙な、という他に言いようのない音を立て、男二人はすっこけた。
ダンスのフィニッシュのような見事な息の合せようで、二人は同時に、くるんと後ろにひっくり返る。
誰もが――必死な叫びを上げていた親分すらもが、あまりの唐突さに目を点にする。
皆の視線の交錯点には。
いつからいたのか、床でぴくぴくとしている男たちを左右に挟み、両手に金属製のスープ皿を持ったソフィアが立っていた。
ひっぱたいた……のだろう。音から察するに。
――絹糸のような髪が、その美を誇るかのように、さらりと揺れた。
「いぇい!」
何十もの視線に晒されても全く臆する所無く、おもむろに振り返った彼女は皿を持った手の親指を、相棒の青年に向かって、にゅ、と立てる。
「……いぇい。」
そんな彼女に、ウィルはやや付き合いの気配がある仕草で、右手の親指を立てて応えた。
――何なんだ、何者なんだこいつらは……!?
大の男をただの一撃で楽々とどつき倒した類稀なる美少女と、一見どうという事のなさそうな青年の奇妙な二人組を囲む酒場の店内は、今まさに最大級の沈黙に支配されていた。