Crusade Other Story -In Wonderland-(4) |
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「いッ……いやああああああっ!?」 絹を裂くような絶叫が、古城の静寂にこだまする。 悲鳴を上げた少女――ソフィアは、恐怖に追い立てられ無意識にウィルの胸にしがみついてくる。がくがくと震える少女の細い肩を条件反射のように抱いて、ウィルは目の前にあるそれをただ呆然として眺めていた。 それは両生類。それは蛙。それは見事な黄緑色の、青蛙だった。 蛙というのは別にいい。特に問題はない。女の子であるソフィアはともかくとしてさすがにウィルは、たかだか一匹の蛙を目の前にしたからといって悲鳴を上げたりするような事はない。本来ならば。 ただ、たった一つだけ誤算――いや、計算など働く余地も無い、単純な誤りが目の前にはあった。 人間大の蛙。 本来の何百倍、下手をしたら何千倍、何万倍に相当する質量の蛙。 その上びらびらのシルクの服を着て直立し人の言葉を喋っている蛙。 しかも放った言葉は「仔猫ちゃん」。 この所、ひたすら常識の埒外の経験ばかり重ねてきたウィルであったが、今目の前に在る物体はこの以上状況下で培われた耐性すらも全て打ち砕き、彼の顎を外させるに足る代物であった。 ウィルが驚愕のあまり声を出す事はおろか、その異質な存在に対して魔術を撃ち放ってみたりするといったような常識的な対応すらも取れずにいる間、その蛙男――もとい、何とかという領主は、喉をせわしなく膨らませながら、つるりとした緑の頭の上方にある金色の瞳で二人を見つめていた。両生類の表情を読むという真似などウィルは未だかつてやったこともなかったが、どうやら彼?は怒っているようだった。撫で気味の肩をいからせ、ぷるぷるとわななかせていた。仕草そのものは蛙よりも人間に近いらしい。 領主はおもむろに口を開いた。子供くらいなら丸呑みできそうな大きな口に、ウィルはほんの少し怯む。 先の丸まった指先をびしりとウィルに突きつけて、彼は震える声で叫んだ。 「この僕の城に無断で入り込んだだけでなく、あろうことか僕の仔猫ちゃんに何という真似を……不埒な男めっ!」 「何という真似って」 思わずウィルはソフィアを見下ろした。多分客観的に見れば、怯える幼児を宥めているように見えるのではないかと思われる体勢だったし、彼自身の主観でもその通りとしか言いようがなかったが、その飛び出たぎょろりとした目には恋人の熱い抱擁にでも見えたのか――それにしても怒られるいわれなどないものだが――蛙は遺憾なく激昂をあらわにしている。 待っていればまだ何かせりふが続きそうな気配ではあったが、ウィルは領主がぷるぷるしている隙に、ソフィアを自分の背中に逃がして唇を開いた。 「……無断で入り込むも何も、俺だって好きで来た訳じゃないぞ蛙。自分の領民を誘拐犯なんぞに仕立てておいて偉そうな事を抜かすな両生類」 「誰が両生類だ!」 「じ、自覚ないの……?」 くわっとまた口を開き吠えた――というか鳴いた?領主にたじろぎつつも、ウィルは突っ込まずにはいられなかった。領主は一歩、二人の方ににじり寄って来て畳み掛けるように言ってくる。 「あんなえら呼吸から人生始めたような低俗な輩と一緒にするなッ! 僕は生まれた時から肺呼吸だッ! さあ言ってみろ哺乳類、この僕のどこが蛙だ、両生類だッ!?」 「うわぁ……生まれて初めて哺乳類なんて呼ばれた……」 ウィルは手の甲を額に当てて呻いた。少しショックだった。その様子に蛙は我が意を得たりと丸い腹を突き出す――否、胸を反らす。 「ほら見ろ貴様だとて嫌であろう、哺乳類などと呼ばわられるのは! 人を呼ぶ時はきちんと名で呼ぶのが礼儀であろう!」 「おまけに生まれて初めて蛙に説教された……しかも正論」 「だから蛙と呼ぶなッちゅーに! そのべとべとの耳垢のたまった耳穴をかっぽじってようく聞け、我が名はテリムス・デルレル、国王よりこの黄緑地方を預かる領主であるぞ!」 「な、何で分かったんだ、俺の耳垢がべとべとタイプだと!」 今まで秘匿していたはずの事実を突く指摘を受け目を見開いたウィルに、領主は勝ち誇ったように哄笑する。 「くはははは! そんなモノは全てお見通しだ! 何故ならこの僕がべとべとだからだ! すなわち世界の標準はべとべと、かさかさ耳垢こそが邪道であるのだ! しかしながらかさかさ耳垢保持者が愛用する竹で出来た耳掻きというものを一度は使ってみたかったりする揺れ動くお年頃の僕!」 「何!? 竹で出来た耳掻き!? この地方ではそんな危なそうなもので耳を掻くのかッ!? ていうかあんた耳垢出るのか!?」 「だーッ! 一体何の話をしてるのよ、何の!」 一喝と共に―― ウィルを背後から襲った打撃は唐突でありながら、強烈だった。 回し蹴りらしき攻撃が腰の辺りを痛打する。しなる鞭のようなしなやかかつ強靭な脚での蹴撃に、ウィルの身体は指で弾かれた小石の如く吹っ飛んだ。 「のわああぶっ」 本能的な恐怖が絶叫になって口を割る――が、本来ならばもう少し長く続きそうであった悲鳴は、廊下の壁に発生源が激突することで割と短時間で終了した。 蹴り飛ばされ、その上石壁に打ち据えられて絨毯に崩れ落ちたウィルに、ソフィアはずんずんと近寄って険悪な瞳で見下ろした。小柄で愛らしい容姿の少女は、それでも、今にも踏まれかねない足元から見上げれば威圧感は十分にある。 「あのねえっ! いくらなんでも話すり替わり過ぎよ!? 何いつの間にか耳くその話題はじめてるのよ!? そーいう話をしにきたわけじゃないでしょ!?」 「ソフィア……女の子が耳くそはないだろうと思うな俺……」 「それはいいって言ってるの!」 ぴしゃりと言って、ソフィアは鋭い視線を領主へと向けた。何か吹っ切れてしまったのだろうか――あるいはキレてしまったとでも言うべきか、先程までの弱腰が嘘のような、いつも通りの真っ直ぐな瞳に戻って両生類を睥睨する。 「あんたもあんたよ蛙! あんたあたしを捕まえに来たんでしょう!? 下らない話してんじゃないわよ!」 「そ、そうであった」 ソフィアに叱声を叩き付けられ、領主はわたわたと手を動かした。その動きにはあまり意味はないようで、単に慌てているだけのようだった。蛙と呼ばれたことにすら気付いていないのだから慌てぶりは相当なものだろう。今迄散々怯えた顔で逃げ惑っていた少女に開き直られてあまつさえがなり立てられてしまえば混乱もするだろうが。 ひとしきりそんな奇怪なダンスを踊ってようやく気が落ち着いてきたのか、しばし経つと領主はその蛙面をウィルの方へと真っ直ぐに向けてきた。表情のない丸い瞳がどことなくきりりと釣り上がっているようにも見える。 「ということでそこの不届千万な男! その薄汚い手を今すぐ離し、彼女をこちらへ寄越せ!」 手はもうとっくに離しているんだけど――等という大人気ない事を言ってみようかとも思ったが、とりあえずそれは止め、ウィルはのろのろと身体を起こした。転倒したときに後頭部を打った気がしたが、絨毯に大部分の衝撃は緩和されたようで痛みはさほど感じない。頭をさすりながら、腕組みをして仁王立ちになっているソフィアにゆるゆると視線を向けた。 ウィルの視線を受けても、ソフィアは無言だった。奥歯を噛み締めているのだろう、口元は一直線に引き締められ、幼い造作に鋭さを与えている。彼女は黙したまま、ウィルに視線を返してきた。というより睨まれた。 声なき威喝…… 俺の負けだ。――何だかよく分からないがとりあえず紛れもない敗北だけは本能的に悟って、ウィルはソフィアから視線を外した。彼女を後ろ手に庇うように立って、領主と差し向かう。足を肩幅に開き、右腕に力を込めると、その戦闘態勢に反応して領主は「むむ」と呻いた。 「ほっほう、あくまでもこの僕に刃向かおうと申すか。その意気や良し! 受けて立とうではないかっ!」 言って蛙も、腕を両脇に軽く開いた直立の姿勢で構える。余程腕に自信があるのか、実に泰然とした様だが、その風情は威圧してくる敵というよりまるで置物のようだ。元々牛蛙などのようにグロテスクな色合いはしていないだけに丸い体型の立ち姿は愛敬すらある。 (うああ……やっぱり何か……いろんな意味できっつい……) 堪えきれず、視線を僅かに逸らす。その瞬間。 「隙ありィィ!!」 蛙が叫ぶ。すかさず口をがばりとあけ、その中から赤く長い舌を伸ばしてきた。 「っ!?」 一瞬でウィルの元に到達した舌が、咄嗟に身体を庇おうとして上げた右腕に絡み付く。 油断――していたと言わざるをえなかった。鈍重そうな体格と、武器を携帯していない事からよもや有効な攻撃を受ける事などありえないと彼は考えていた。けれどもその認識は全くもって甘かった。失念していた。相手は天然の狩人だ。本人がどれだけ否定したとしても、彼は紛れもなく蛙なのだ。 電撃のような混乱の中、長い舌が、ウィルの腕を捕らえたまま、抗い難い強烈な力で元の位置に巻き戻されていくのを知覚する―― 「きゃああ!? ウィルっ!」 ソフィアの叫ぶ声を後ろに聞きながら、まさに蛙に囚われた蝿のような形でウィルは無抵抗に宙を飛ぶ。ただただ迫り来る蛙の大口を凝視し続けて…… ぱく。 粘着質な感触に上半身をすっぽり包まれて、ウィルの意識は視界もろとも暗転した。 「……うーん、早く来てもらいたいのは山々なんだけど、まだ場面転換には早くないかい?」 心底困ったようにそんなことを言う聞き慣れない声に、ウィルは顔をしかめた……つもりだった。 実際、しかめることが出来たのかどうかはよく分からない。周囲は真っ暗で、感覚はけだるい眠りを貪っている最中のように曖昧だった。 「全くしょうがないなあ。こんな不甲斐ない奴に彼女を護る騎士の役目を譲ったのは間違いだった気がしてきたよ」 呆れたように、嘆息すら滲ませて声は言う。それは確かに聞き慣れないものではあったが、決して聞いたことのないものではなかった。 あの夢の中で聞いた声だ。最初の、初めてこの訳の分からない世界で目を覚ました時に見た夢…… 「まあいいや、待ってるから早くおいで……」 声は告げる。最初の時と同じように。 「早くまた遊ぼうよ、みんなで、さ」 「…………みんな?」 と呟いた自分の声が肉声になっていたことにはっとして、ウィルは即座に瞼を開いた。意識を回復してからの一呼吸目で、蛙に頭から食われたのを最後にまた意識を落としていたことを思い出し、現状況を確認しようと目をしばたきながら身体を起こそうとした―― が、その行為はすぐに、じゃらり、という冷たい金属音に阻まれる。 その音を立てたと思しき手首を、胸に去来した嫌な予感に眉を寄せながら見やると、そこには金属製のリストバンドのようなものがはめられていて、壁から生えた太い鉄鎖がそこに繋がっているのが見えた。 「ってまたかよっ!?」 「ふふはははははあっ!」 叫ぶウィルの声に被さって、哄笑が響き渡る。小気味よいほどに嫌味な笑い声に嫌々ながらも振り向くと、目の前にいたのは予想通り、例の蛙領主であった。 「ふふふ、無様な姿だな。いつの世も悪は正義に凌駕されるものと思い知ったか!」 「誰が悪だっ!」 「往生際が悪いぞ!」 「何のだよ!?」 偉そうな蛙に犬歯をむき出しにして言い返しながらふと動かした視界の中に、ウィルはソフィアらしき後ろ姿を発見してそちらに目を向けた。 「ソフィア!」 これだけ騒ぎつつこちらを気にかけていなかった彼女に少々不安になりつつも呼びかけると、しかし彼女はすんなり振り向いてきた。華やかなパーティードレスの上にエプロンをかけるという珍妙な格好の彼女は、左手に片手鍋、右手に木べらを持っていた。よく見れば彼女の前にあるのはガス式のこんろで、どうやら火を扱っていたため手が離せなかっただけらしい。 今更ながらに部屋を確認すると、そこはダイニングであるらしかった。どこの世界のダイニングに人を拘束するための鎖を設える文化があるのかは知らないが、それさえ除外すれば、貴族や豪商などの道楽者が好む、最新鋭の設備を揃えたキッチン付きのダイニングそのものであった。 彼女はバルブを捻りガスを止めてから、彼らの方に近づいてきた。怒っているのと困っているのが半々くらいの微妙な表情をして、捕らえられているウィルの前に立つ。 「……どーでもいいけど何で料理なんてしてるの?」 状況よりも何よりも、何となくそれの方が気になって問いかけたウィルに、ソフィアではなく蛙が返答する。 「ふっ、愚問! 新婚さんといえば愛情いっぱいの手料理だろう!」 「あんたには聞いてない、ていうか新婚って何! あんまりナメた真似ほざいてると真面目に丸焼きにするぞ!? 蛙は鶏肉に似た味で旨いらしいって知ってるあんた!?」 「ふふ。そのようなつまらぬ脅し文句などは無意味だ。敗北者のお前には」 きっぱりと告げられ、言葉に詰まる。非常に屈辱であるがこれは言い返せない。蛙は満足そうに微笑を浮かべ――多分そういう表情なのだろうとウィルは推測する――、背後のソフィアに向き直った。 「しかしながら、言われてみるとまだプロポーズもしていなかったな。確かにこれでは完全なる新婚さんとは言い難い」 一人、納得したように呟いて、領主はやおら、片手を腰に当て、もう片方の手をソフィアに差し伸べるようなポーズで手を伸ばした。いわゆる決めポーズという奴であろうか。見れば足も、ダンスのステップ中に無理矢理静止したような、いやにバランスの取りにくそうな角度で交差している。そんなポーズをしかし微動だにせずとりながら、蛙は高らかに声を上げた。 「お前が好きだ! お前が欲しい!」 「い……っ」 途端、ソフィアが顔を引き攣らせて息を吸い込む。歪められた唇から漏れた「い」の音は「いや」の「い」に相違なかろう。が、彼女が二音節目を継ぐことは何故かなかった。彼女の表情から察するに、出かかった「や」の音は今にも口から飛び出そうと喉元で随分と頑張っているように見えたが、それを彼女はかなり無理をして飲み込んでいた。 一仕事を終え、疲弊した全身を落ち着かせるかのように、すう、はあ、すう、と幾度か深呼吸を繰り返した後、彼女は蛙ににっこりとした笑顔を向ける。 「さああなた。折角のお料理が冷めちゃうわよ?」 「うむ、そうであったな!」 笑顔にごまかされたのか、それとも深く物事に頓着しない性格なのか、蛙は一言前の台詞の返答がないことには構わず鷹揚に頷いて、踵を返したソフィアと共にダイニングのテーブルに向かった。ソフィアは途中でキッチンから鍋を持ってきて、蛙が着席しているテーブルに置く。 「……あの、どういう状況なんだか本気でさっぱり分からないんだが……」 思わずウィルの漏らした声に、しかし二人は答えようとはしなかった。ソフィアは鍋から黙々と皿にスープをよそっている。煮込まれた野菜の甘い香りが鼻腔をくすぐり、ウィルはこの日初めて空腹を意識した。そういえば、今は何時頃なのだろうか。昨晩の夕食以降は何も口にしていない。 「おお、旨そうだ! 料理の上手い花嫁さんを持つ僕はなんと幸せ者なのだ!」 「うふふ、たんと召し上がってね。ちなみに隠し味はそこのホイホイに入ってたヤツよ」 「ふむ、この香ばしい風味はそれか」 …………食欲減退。 まさか本当にそこまで鬼畜な真似は彼女とてしないであろうと思うが、テーブルの上で頬杖をついてにこにこと蛙の食事風景を眺めている笑顔を見ると、少々薄ら寒いものが感じられる。もっとも、蛙は本気で気に留めていないようだが。蛙なのだから当然……なのだろうか。 「で、何なんだよ一体、この寸劇は」 再度ウィルが問うと、ようやくソフィアは糸のように細くした目を彼の方へと向けた。それは、紛れもなく笑顔ではあったが―― 「ウィルのドジの所為に決まってるでしょこのタコ、ボケナス、スカタン」 「な、何を」 そんな顔で淡々と少女が吐いた罵声に少々どころではなく引きながら、訳が分からず聞き返す。と、ソフィアは大きな瞳のまなじりを精一杯吊り上げて激昂した。 「何を? 何をとか言うの!? 蛙に頭から丸かじりにされて足ぷらんぷらんしてた男を助けてあげたあたしに対して何をとか言うっての!?」 「う、ご、ごめんなさい……」 完全に気圧されたウィルは簡単な謝罪を口にするのが精一杯だった。しかしながら、その謝罪は一応受け入れられたらしく、ソフィアは深く溜息を吐いて声のトーンを落とした。 「取引したのよ。ウィルを解放する代わりに、あたしが捕まるって」 「捕まるだなんて寂しいことを言わないで欲しいな。我が元に嫁ぐという艶めいた話ではないか」 「なっ」 領主の静かな訂正に、しかしウィルはそちらの方により驚きを感じて短く声を上げた。 「な、何だよそれ、そんな、ば、馬鹿げた条件……」 「そんなに動揺しないでよ。分かってるわよ、あたしだってそれを丸々飲む程馬鹿じゃないわよ」 思わず声をどもらせたウィルにやや驚いたらしく、ソフィアはきょとんとした。けれどすぐさま目を呆れたように細めて、嘆息する。 「この蛙さんが、今日中にあたしを本当に落とすんだって。そしたらめでたくウィルは解放。落とせなかったら二人とも解放。そういう条件よ」 「……そ、そりゃまた蛙の分際で随分と大きく出たもんで……」 ある意味賞賛の念すらも覚えながら蛙を見やったが、蛙は特に喜んだ様子は見せなかった。 「蛙と言うなと言っておろうが」 「いや……でもだって……まああんたは知らんだろうけど、ソフィアだぞ? これは蛙云々の話じゃないぞ?」 「……ふむ、まあある程度事情は察する。現在付き合っている恋人とすらも契っておらん様子ではな」 じゃらり。 これはウィルが思わず跳ね起きようとして、鎖に阻まれた音である。 「なんっ……何で」 呟きながらウィルはソフィアに視線を向けたが、ソフィアもまた彼と同じように顔を紅潮させて、唖然とした表情で蛙を見つめ返していた。 「今時の若者にしては信じられないほどうぶな反応だな」 「か、蛙がしみじみ言うなぁッ!」 「ふははは、安心するがいい。貴様の代わりにこの僕が、彼女を少女からオトナの女性に羽化させてやろう」 「卑猥なこと言うなッ! どっちが破廉恥だ!?」 しかし領主にはこれ以上、ウィルをからかって遊ぶつもりはなかったようだった。ナプキンで口許を優雅に拭い、席を立つ。 この時には対面に座っていたはずのソフィアはもう既にそこにはいなかった。緊張状態にある猫を大きな音を立てるなどして更に脅かすと、自分の身の丈を遥かに越えるようなジャンプで飛び退ったりするが、蛙が席を立とうとテーブルに手をついた瞬間、ソフィアはまさにそんな感じで瞬く間に部屋の隅に避難していたのだった。実際に身長より高く跳んでいたというわけではないが、ウィルはそう連想した。 頭上に三角の耳があるとすればそれが地面と平行になっているであろう程に警戒した視線をソフィアは領主へと向ける。しかし当の領主のといえば、苦笑いのような吐息を漏らしたのみだった。 「そう警戒するものでもあるまい。それに何より、警戒した所で意味がない。そこの男を捕らえた僕の手際、すぐそこで見ていてくれたではないか」 「じょ、冗談じゃないわよっ!? 蛙に舌で巻き取られるくらいなら自分で舌噛んでやるっ」 普段は冗談であろうと自傷行為など認めない彼女にそんな台詞を吐かせるとは相当なものである。冗談では済まない彼女の気迫を悟ったか、領主は、ふむ、と小さな鼻の穴から息を吐き出した。 「それほどまでにこの姿を嫌うか。人を外見で判断するというのは悲しいことであるな」 「物事には限度ってものがあるのよ! 何もそんなに多くもないあたしの嫌いなモノにジャストミートすることはないでしょうがぁっ!」 「ふむふむ……ならば仕方がない。本来の姿に戻るとするか……」 「……はいっ?」 何気ない口調で言った蛙の言葉に、ソフィアは目をぱちりとまばたきさせて、問い返した。けれども蛙はそれに言葉を用いて返答することはせず、代わりに彼女の傍へと歩み寄りながら、水かきのついた手で自分の緑色の頬をつるりと撫でた。 「なっ……なぁ……?」 それを見て――ソフィアが驚愕のあまり間の抜けたものになってしまっている声を上げる。ウィルも、ただ唖然としてその様子を見守っていた。領主は彼に背を向ける格好になっていた為、最初彼の手が頬に触れた瞬間の変化はウィルの目には見ることは出来なかったが――それ以降の変化はおおむね、意識の中に収めることが出来た。 蛙は、頬に触れた手をそのまま後頭部の方に滑らして、首筋を撫でて一旦手を下ろした。ただどうという事もなく手で自分の身体を撫でたようにしか見えなかったのだが、その行為は蛙の身体に激変をもたらしていた。手を滑らせた軌跡の下にあった肌が、緑色から人肌の色に変わっている。つるつるとしていた後頭部には整えられた金色の髪が生え揃っていた。手からはいつの間にか水かきは消え、切り揃えられた人の爪が代わりに現れていて、その手が横腹を拭うと丸みを帯びた体型は引き締まり、精悍な男の体つきへと変わってゆく…… (変身した? そんな馬鹿な、幻惑の魔術だったのか? け、けど舌とか……どういうしくみで……どうなってるんだ……!?) 魔術ですらありえない現象に戸惑いを隠せないウィルであったが、真正面からそれを見ていたソフィアは彼以上の衝撃をその光景から受けたようだった。声もなく、呼吸すらも忘れているのではないかと思わせる顔で、目の前の蛙――いや、金髪の男の姿を凝視する。 「ディ……」 息を吸い込みながら発したような声がソフィアの唇から漏れる。 「ディルト様……!?」 じゃらり。 ソフィアの呟いたその名前に、思わずつんのめりそうになったウィルを、戒めの鎖が支える形になった。 |
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