冷たくじめじめした空気を裂いて、身体目掛けて飛び来る鋭い音。
暗闇の中赤く熱しられた鉄の光。それが肉を焼く音。
遠くから聞こえる、閉鎖された空間にこだまする、呪詛のような悲鳴の音。
僅かな視覚。図抜けて鋭敏な聴覚。そして――
感覚はとうに消え失せていた。
「化け物か、このガキは……眉一つ動かしやがらねぇ」
目の前の男どもが吐く音。
そして今度はたいした音もなく、感触のみが伝わってくる。
感覚は、消えたと思っていたのに。薄い刃が、腿の骨のすぐ傍辺りを貫いている。
天井から漏る水滴。同じように身体から漏る赤い滴。
赤い水溜まりが、足元を濡らしたことに男たちのうちの一人が気付いて、舌を打った。
「やばいな、死んだか?」
「やめてくれよ。皇帝陛下は、殺すなとおっしゃったんだ。こいつだけは」
「これに関しちゃ、かなりご執心な様子だ。命に背いたら、お叱りじゃ済まないぜ」
「――を呼んでこい。治療の時間だ」
延々と――
繰り返されるのはただそれだけ。
この隔絶された世界の中で。
一歩も動けないように――逃げ出せないように縛められたまま。
もっとも、今、縛めを解かれたとしても、逃げることなど出来はしないが。
暖かい、小さな手のひらで触れられて。
忘れていた痛みが戻ってくる。
どこを触れても傷口しか見当たらない彼の身体に、ぎこちない手つきで、薬品を塗り、包帯を巻く少女。
これも、繰り返しの一部。
少女の持ってきた赤いランタンの炎に揺らめいて、彼女の頬に光る涙。
――泣かないで。
一番、痛む瞬間。
また、繰り返す。
苦痛ではなかった。身体を焼かれることも。鞭で打たれることも。刃で貫かれることも。皮を剥がされることも。棍棒で殴られることも。
肉が裂けても。臓腑が傷つき血が喉を逆流しても。骨が砕けても。
大した事ではない。痛みなどないのだから。
ただ、いつまでこの永遠は続くんだろうと考えると、それなりに気は滅入ったから――
やっぱり、嫌だったんだろうと今は思う。
「皇帝陛下も、難しいご注文をなさる」
「殺してはいけない。だが、死ぬ一歩手前まで痛めつけよ、か」
「殺されかけて、治療されて、殺されかけて……。死んだ方がマシだぜ」
「悪いな、坊主……大きな声では言えないけどよ。いっそのこと、一思いにやってやれたら、お前も楽なんだろうな」
冗談。
僕は死なない。死にたくない。
……どうして?
どうしてって、そりゃあ……
……こんなに苦しい思いをして、生きなければならない理由って、ある?
死んだら、そこでおしまいじゃないか。
……死んではいないけど、君はもう終わってるんじゃないの?
……こんなに冷たい閉鎖空間の中で。苦しい思いをして。
……感覚がないなんて。そう思い込もうとしているだけだろ?
……本当は、痛くて辛くて悲しくて、仕方ないんだろ?
……ここまでしなければいけない大切な彼女を、本当は恨んでいるんじゃないのか?
「……教える気になったか?」
それは死神の甘美な誘惑。乗ってはいけない甘い罠。
「苦しかろう。楽になりたかろう。ただ一言吐けば、我はお前に安楽を約束しよう」
安楽の死を。
冗談!
「お前は、自分の生に意味があると、確信しているのだな」
ふわりと、優しく頬を撫でる冷たい指先。
「こうまでされても彼女のことを喋らないのは、注意を自分自身に向けさせ、彼女への追跡の手を甘くさせようという意図がある。違うか?」
男が触れる少年の頬――顔だけは、身体とは別物のように、なぜか無傷のままだった。
「お前は、我がお前の顔だけは一度も傷をつけなかった、その理由を知っているか?」
目の前の男の鋭い双眸が、歓喜の色に染まる。
「お前が喋らずとも、エルフィーナはじきに見つかる。そのエルフィーナに、何一つ別れ際と変わらない、お前の真新しい生首を見せ付けたら、彼女は傷つくかな?」
……ほら。だからさっさと諦めていればよかったのに。
……そうすれば、君もこんなに傷つかなくて済んだのに。
……彼女を傷つける道具になんかならずに済むのに。
誘惑。
ふざけるな、つってるんだよ!
……?
僕は生きたいんだ! 死にたくないんじゃない! 生きたいんだ!
生きて、彼女を捜すんだ! 約束したんだ!
彼女にまた会うんだ!
そう。僕を現世に縛り付けているのは彼女。
彼女のいない世界なら、僕もいらない。
そうやって、僕は縛られる。彼女の運命にでなく、彼女自身に。
恨む? 逆だね。
苦しいのは認めるよ。けど、彼女にまた会えるのなら……それが何だっていうんだ?
……いいでしょう……
耳の中に響いてきた声に。
初めて彼は、訝しんだ。
「ここから、逃がしてあげる。ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ」
目の前に立っていた少女は、そう言うなり、彼を縛めていた錠に鍵を差し込んだ。
両腕、両足が、何年ぶり――何十年ぶり?――かは分からないが、解放される。
自分の手足の重みに耐え切れず、彼はよろめいた。
その彼を、少女がぼろ布のようなもので包み込む。
「被って。それと、これを」
突きつけてきたのは、剣だった。鞘に入ったものを、柄の方を。
「きみ……は……?」
思えば、肉声を出したことすらしばらくぶりだったような気もする。
喉に舌が張り付くような感じで、うまく喋れない。
問うては見たが、彼女のことは知っていた。もう今迄何度も、傷の手当てをしてくれた少女だ。
「お喋りをしている時間はないわ。行くわよ」
手を引かれて、二人は光の強い方へ走り出した。
にわかに、周囲のざわめきは強くなってきたように感じていた。
「脱走がばれた……はずはないんだけど……」
呻きながら、少女は近づいてくる兵士の気配を察して、足を止めた。階段下の物陰に、自分ともども少年を引っ張り込む。
正直言って少年は、手を引かれなければ動けない状態にあった。長いこと動きを封じられていた為、かなり身体機能が弱っている。歩けなくなったり、剣も握れなくなったりなどしないよう、たまに手足に力を入れていたからまだ、最低限の動きは出来るが。暗闇になれた目もかなりの問題だった。普通の光量であるのだろうここは明るすぎて、彼の目には刺激が強すぎた。
動けない。尋常ではない彼の様子に、少女もしばしそこに止まることを決めた。
「大丈夫?」
気遣うように、少女が視線を向けてくる。あえぐように空気を貪りながら、少年は小さく頷いた。
少し休んで、多少は落ち着いてきた。
「……どうして、こんな事をする」
呼吸に混ぜて、問いを投げかける。と、少女はきっぱりと呟いた。
「命令だからよ。別に、善意という訳ではないから、気にはしないでおいてね」
命令。
内心でその言葉を反復して、彼は少し考えた。
(皇帝……に対立する勢力が、帝国内にあるのか? だったら、随分際どいことをやる)
目下のところ、おそらく彼自身こそが、皇帝の一番興味深い玩具。
玩具にすぎないんだ。
それをただ取り上げて、何か危険度以上のメリットはあるか?
メリット――
少なくとも、自分にはある。
今の状況じゃ、皇帝の言う通り、いつかは彼女を発見されてしまう。
だったら、僕が先に見つけて、守らなきゃ。
迎えに行かなきゃ。約束した通りに。
いちいち考えるな。それで、十分じゃないか?
少年は剣を抜き、自分の足で立ち上がった。
「後は自分でやれる」
「む、無茶言わないで! 兵士たちと戦っていく気!?」
「なるべくなら見つからないようにしていくさ。アウザールの城だったら、昔何度か来たことがあるから、別に道案内もいらない。君は自分の場所に戻ってるといい」
「違う、私の言いたいのは!」
階段下から出ようとした少年に、少女がしがみつくようにして止める。
「そんな身体で無理しちゃ駄目ってことよ! ずっと……私が看てきたんだから、貴方がどういう身体なのか、分かってるのよ!?」
触れた手から、温もりが伝わってくる――
つまりは、そういうことなんだ。
「大丈夫だよ」
彼は笑って――初めて笑って、自分と同じくらいの少女の頭を、小さな子供にそうするように撫でてやった。
この温もりを伝えたい。自分の生に待ち受けているのは、冷たくて痛くて熱くて苦しいだけはないんだと、知りたい。教えたい。
「名前は?……君の」
尋ねると、少女は首を横に振った。俯く少女の頭を最後にもう一度軽く撫で、少年は歩き出した。
「……ブラン・シャルード……」
聞こえてきた、小さな声。
少年は、振り向かずに答えた。
「ありがとう、ブラン。僕の為に泣いてくれて」
そして、彼は走り出す。
雨。
気づいたときには、雨はもう降り出していた。
雨脚はあの日の嵐ほどには強くない。だが、彼の最後の体力を温存させうるほどには弱くなかった。
(つーか、どこだ、ここ……)
気づいたときには、雨の中、彼は瓦礫の山に突っ伏していた。
今迄彼が捕らえられてた帝国――アウザールには程遠い風景だった。
容赦なく地面と彼を叩き付けてくる天空からの無数の細い槍に傷口を抉られて、気を失わんばかりの痛みに彼は表情を歪めた。
痛い。
当たり前の単語を繰り返す。生きていれば当たり前のはずの。
何だか無性におかしくなって、傍から見たら衰弱して痙攣しているようにしか見えないであろう笑いを彼は洩らした。
よく分からない。だが、散々彼を追い掛け回していた人の気配はない。
唯一人。廃虚で。唯一人。
ふと、思い出した。頭を上げる気力はなかったが。
ここは――
雨の中。風が吹く。懐かしい風。緑の大地。蒼穹の空。それらはもう、ないものだけれど。
永遠の始まり。終わりの場所に、戻ってきた、実感。
故郷。
(ここから、僕は始まるんだ……また……)
何故、元いた場所より遠く離れたこんな所に自分がいるのかはよく分からない――おそらくは、帝国から逃げようとして無意識のうちに、空間転移の魔術を使ってしまったのだろうとは思う――が、ようやくスタート地点に辿り着いたのだ。
(旅に出なきゃ。エルフィーナを捜すんだ。あ、その前に怪我を治すのが、さすがに先かな……)
先程までおいかけっこをしていた兵士たちに、更に傷をつけられるようなへまはしなかったが、はっきりとした重傷であれだけ動き回って――閉じかけていた傷口もそうでない傷口も、再びその口から赤い体液を吐き出すようになっていた。
ふと気づく――
指一本動かない。
戦慄、というよりむしろ間抜けな恐怖を憶える。
(ちょっと待ってよ! 折角帝国から逃げて、故郷まで来たってのに! こんな身体で長時間雨に打たれてちゃ、いくら何でもそろそろ死ぬだろ! じょ、冗談じゃないよ!)
慌てても、声すら出ない。助けも呼べない。それ以前に、ここは滅んだ国である。近隣に人がいるかも定かではない。
なすすべもなく、体温は急速に奪われる。意識が遠のく。
このままでは駄目だ。こんな所に来て、一番の危機に直面するなんてズルだ! 卑怯だ! 神様の馬鹿野郎!
「我らの運命を紡ぐ全能神ミナーヴァは女神だ。野郎ではない」
どうでもいい訂正が横から入ってくる。ふと、雨脚と光が弱まったことに彼は気がついた。
違う。誰かが影になったのだ――
奇跡的に、視線だけは上に持ち上げる事ができた。目に雨粒を入れながら、ぼんやりと仰ぐ。
雨の中に佇む、神官のような重いローブを纏った、目つきの鋭い青年……
「死……神……?」
呟きを発するのが、最後の力だった。彼の意識はそこで絶えた。
気を失った少年の身体を、男は静かに抱き上げた。
通常なら手の施しようのない重傷の上、ひどく冷え切っている。危険な状態には間違いないが、治癒魔術を得意とする彼にしてみれば助けられないというほどではない。
肩に抱いた成長期前の少年を横目で見ながら、彼は静かに嘆息した。
「お前の弟は失礼な奴だな、リュート。未来の大神官を死神呼ばわりしたぞ」
延々と、繰り返されていた鎖の輪。
それがほどけて、長い道の始点になった瞬間。
- FIN -