闇が、地上を飲み尽くす。
そう錯覚させるほどにそれの作り出す影は、とてつもなく大きいものだった。いっそ、広大、と言ってもいい程に。
その影の主は、直に目で見ても信じ難いほどの巨躯を持った猛禽だった。正確に言えば、猛禽の姿をした何か、というべきであろう。姿形は鷹に限りなく近い造形であったが、おぞましさを通り越して畏れすら感じる赤黒く照り光る硬い羽毛の巨体に、小さな家の屋根ならば鷲掴みにしてちぎり取ってしまえるだろう凶悪な形状をした鉤爪の足、樹齢数百年の大木をも羽ばたき一つでなぎ倒してしまえそうな巨大な翼を持つその生物は、およそ地上にあってよいものではないと見たもの全てに直感的に感じさせる異常性を湛えていた。
事実――と言うべきか、その怪物は、全能の女神が造りたもうた生物ではない、と言い伝えられている。女神に封じられた、呪われた混沌の世界から漏れ出てくる、本来この世にあらざる暴悪の魔獣――『闇の獣』と称される、危険極まりない獰猛な害獣の一種であった。
「総員緊急戦闘態勢!! 総員、位置へ着け!!」
「弓兵隊、構え!! 撃て!!」
突然の脅威の来襲にも、宮廷の敷地内であるこの宿舎付近で警備に当たっていた騎士たちの対応は迅速だった。鎧を着込んで馬を操り槍や剣を持って戦うのが一般人が騎士という言葉に思い浮かべる姿であるが、レムルスの騎士たちはそれだけに留まらず全般的な戦闘のエキスパートとして訓練されており、このような人外の脅威との戦闘方法にも熟達している。――闇の獣の絶対数が極小であるため戦闘自体に熟達しているとまでは言い難いが。
地上から号令と同時に一斉に放たれた数十もの矢が、怪鳥の腹部に狙い違わず突き刺さった。瞬時、騎士たちの間に、仕留めたりという歓喜が一筋流れる、が。
「ぎゃるううううううううううううううッ!!」
怪鳥の嘴から迸り出たのは悲鳴というよりは先ほどと同様の威嚇の声に近いもので、事実、怪鳥はダメージを受けたことを全く感じさせることのない視線の鋭さで足元の人の群れを睨みやった。
「ひっ……」
屈強なはずの騎士の口から声にならない悲鳴が漏れる。
「ぎゃおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
敵対者の怯んだ隙を見てか、地上への攻撃の意図を込めた急降下に転じた怪鳥に、地上の一隊は、指揮官の退避命令も待たずに蜘蛛の子を散らすかのように逃げた。
「おいおい……実戦でこれをやらかしちゃ、爺さんの怒号が飛ぶぜぇ……?」
「止む無きことだろう。あんなものが相手とあっては」
窓から地上の様子を目に入れながら、ツァイトは己の額に浮かぶ汗を棚に上げて軽口を叩いたが、サージェンが現実に引き戻す一言を告げる。
「それよりも窓から離れていろ。ライラもレスリーも。すぐこちらに戻って来る」
地上への攻撃は牽制だったのか、それよりも気になるものがこちらにあるということなのか、地表すれすれを舐める様に滑空してから再浮上した怪鳥は、この調理場のある階と高度を併せて中空をぐるりと旋回した。そして、サージェンの言に違わず、鼻先をまっすぐにこちらへ向けて、急突進してくる。
「きゃああああああああああっ!?」
ライラとレスリーが思わず抱き合いながら上げた高い悲鳴をもかき消す轟音とともに、鳥の巨体が宿舎の壁に衝突した。石造りの頑丈な建物全体が、強烈な地震にでも遭ったかのようにぐらぐらと揺れる。しかしそれほどの衝撃にも怪鳥はびくともしない様子で、その衝撃などよりも目的物に到達できなかったことの方に苛ついたかのようにぎゃあぎゃあと荒く鳴いた。なるほどこれほどの頑丈な肉体を備えるならば、あの鳥の尺度から見れば爪楊枝に等しい弓矢など取るに足らないダメージだろうなとツァイトは感心した。
……感心している場合ではないけども。
「な、な、……これっ、なっ……どっ……」
青ざめた顔のままのライラが言葉にならない声を上げるのが聞こえる。「ど」というのは「どういうことか」ということだろうか。サージェンの説明した理由を信用するならば、答えは想像もつくというものだが。
つまりあの鳥は、この調理場の中にある(と思っている)大好物を力ずくでも食らわんとしているのだ。実際にはその好物はここにはないわけだが、一体、それがないと気づいたらあの鳥はどうするだろう。好物と言うからには逆を言えば別にそのパテルなんとかしか口にしないというわけではないだろうので、餌を求めてやって来てそれが入手できないとなれば、動物の行動を推理するに当たって一番素直な結論は、代わりにその近辺にある別の肉を食おうとする、というものになるかもしれない。となると、この調理場の中で身体にそのにおいをまとわりつかせてしまっている自分たちなどは、あの鳥から見たら妥協するには最適な、非常においしそうなソースがかかったレアステーキなのではないだろうか。
ツァイトは何気なく天井を見る。今の衝撃でどこかが崩れたか、天井から砂粒のような破片がぱらぱらと落ちてきているのが見えた。あと一撃で破壊される、ということもないようだが、あの巨体に頑張られたらこの砦が陥落するのも時間の問題のように思えた。一旦この猛獣と自分たちを隔てる壁が崩されたら最後、どこに逃げようとも、あの飛行速度と強靭な足で人間なんぞひょいっとつまんでぱくっ、であろうことは想像に難くない。今のうちに戸外に退避することも考えはしたが、その瞬間にあの鳥が、中々取り出せない箱の中に入った好物よりも、外に転がり出てきた好物味の肉の方を選ばないとも限らない。
「……よう、サージェン、これどうしたらいいと思うよ?」
同僚の聖騎士団員とはいえ女性であるライラとレスリーを背後に庇う位置関係で窓を見やりながら、ツァイトは自分の横に立つ剣士に声をかけた。ライラの慌てぶりを見ているうちに自分の動揺の方は逆にだんだんと収まって来ていたが、しかし落ち着いたからといって巨大鷹に襲撃されるなどというついぞ想像したこともないような状況に対する効果的な方策が思いつけるわけでもない。
サージェンはしばし考えてから、薄く唇を開いた。
「墜とすしかあるまい」
「そりゃそうだが、どうやってだよ。魔術士でもつれてくるか?」
自由に空を飛ぶ生き物に地を這うことしか出来ない人間が挑んだ所で勝ち目があるとは思えない。地上でいくら剣を振り回したところで空に逃げられてしまえばそれきりだ。とはいえ、遠距離攻撃をするとしても先の弓矢の斉射やらあの突進力やらを見れば使える手段は限られてくる。試して効果がありそうなのは、魔術攻撃くらいではないだろうか。
「魔術士は、今頃騎士団の方で教会に手配しているだろう。来るまでにこの壁がもてばいいがな」
レムルス王国軍に魔術士の正規部隊はない。獣や強盗集団の討伐等でどうしても魔術士の力が必要な際はその都度ファビュラス教会に魔術士の派遣を依頼することになっているのだが、いかんせん組織が違う為に出動の要請にはどうしても手間と時間がかかる。
サージェンは剣を手に提げたまま、静かに窓際へと歩み寄った。流石にツァイトもそれには慌てる。
「お、おい、サージェン!?」
「止むを得まい。魔術士が来る前に調理場を全壊されでもしたら、夕飯の支度に困るからな」
そんな悠長なことを困っている場合ではないと思うんだけど――
そんなツッコミをツァイトが口に上らせるよりも早く、サージェンは窓枠に手をかけ、一飛びでその外に身を躍らせていた。
「きゃあぁっ!? サージェンっ!?」
血相を変えて、ライラがサージェンの注意を忘れて窓に駆け寄った。この調理場は地上三階だが、これはサージェンならば本来は無事に着地することが出来る高度だった。が、今は恐るべき魔獣がすぐそこにいる。目指す窓から出てきた何かを、怪鳥が見落とす筈も無い。ライラと一緒になってレスリーもツァイトも窓に駆け寄り、サージェンの行方を目で追うと――
サージェンは、地上に落ちるのではなく、三人の目の前で怪鳥と共に上空に急上昇していく所だった。
「!?」
見て訳が分からなかった訳ではないがツァイトは自分の素直な驚愕の感情に任せて目を剥いた。サージェンが飛び降りた先は地面ではなく、周回を続けていた怪鳥の背だったのだ。確かにこれならば敵を逃がすことなく剣の間合いの中に置ける、が――余りにも無茶過ぎる!
当然のように怪鳥は背中に取り付いた異物を振り落とそうと、元より高速であったスピードを更に上げた。サージェンは片手で硬い羽毛にしがみついてその乱暴な飛行に耐えている。耐えながら、空いた手に持った剣の柄を指先で回し、逆手に持ち変えるのが見えた。
空を上へ下へと疾る怪鳥が、窓から見える空の中央に舞い上がったその時、サージェンが剣を振りかぶり、鳥の翼の付け根に垂直に突き立てた。
「ぎゃうんッ!!」
怪鳥が一声短く鳴く声が空に響いた。苦痛の声――のようだが、飛行の速度は全く低減せず、かの魔獣に致命的なダメージを負わせることはなかったらしきことが伺えた。さしものサージェンの剣とはいえ、あのような体勢から繰り出されたのでは普段の威力になり得るわけがない。
「ふむ……」
と、サージェンが実際に言った声が、窓から見守るツァイトたちに聞こえたわけではないが、表情と仕草から恐らく彼はそう呟いたようだった。
「サージェンっ! もういいわ、危ない、戻ってっ!」
窓から身を乗り出して、ライラが声を張り上げた。その声はサージェンにも届いたようで彼はつとこちらに顔を向けたが、剣を持っている方の手の人差し指を立てて口の前に立てて見せた。
「サージェンっ!?」
「静かにしてろ、ライラ」
サージェンの意図を把握しかねたらしきライラを、仕方なしにツァイトが言葉を補足して黙らせる。
「折角サージェンがケダモノの気を引いて時間を稼いでくれてるんだ、こっちに意識を戻させるな」
サージェンが飛びついてから怪鳥はこちらへの攻撃を止め、サージェンを振り落とすことに躍起になっていた。所詮は鳥頭ということか。この状態のまま魔術士の到着を待てれば、どうにか撃退することが出来るかもしれない。
しかしライラは、ツァイトに噛み付くように言った。もしかしたら、サージェンの意図が分かってなかったわけではないのかもしれない。
「魔術士が到着するのはいつよ!? 三分後!? 三十分後!? 三時間後!? サージェンはいつまでああしてればいいのよ!?」
それはツァイトに答えられる問いではなかった。前述の通り魔術士の出動要請には時間がかかる。本来ならば数日の間書類をあちこちに行ったり来たりさせてようやく申請が通るのだが、流石に今は緊急事態なので諸手続きを可能な限り省いてはもらえるだろう。三時間後、は流石に無いにしても、三十分程度でくれば想像以上に迅速であると言えるくらいだが、それでもあんな無茶な体勢を取り続けるには十分過ぎる長時間だ。サージェンがいくら常人離れした体力の持ち主だと言っても、汗でうっかり手を滑らせる事だって起こりうるかもしれない。
「だからって、なあ……」
ツァイトはそれ以上発する言葉を思いつくことが出来なかった。別にサージェンにこうしていて貰った方が自分が安全だから躊躇しているというわけではないが、他に何らかの策を提示できるわけではなく、何よりあの同僚が戦闘に関しては実に現実的で、恐ろしいほど頭の回る男だということを知っていたからだ。サージェンは作戦上有効と思えば無鉄砲と思えるほどに躊躇なく何でも試すが、それが無理だと判断すればツァイトなどよりも余程早く次の手を考案して実行に移す機転を備えている。
その事実を証明するかのように、サージェンは二人が会話しているうちに既に次なる手段に移っていた。宿舎の壁に急接近したその瞬間、怪鳥の背を蹴って建物の壁に向かって跳躍する。
「いやああああっ、サージェンっ!!」
ライラが頭を両手で抱えて絶叫した。彼女とて、サージェンの無類の身体能力を熟知しているはずなのだが、それに対する信頼よりも今は心配の方が上回っているらしい。如何にサージェンが大柄といえどもあの化け物から見れば猫の子の様な大きさなのである。これで冷静にこの対戦を観戦していろという方が無茶かもしれない。
壁に向けて飛んだサージェンは空中で身体を反転させ、水泳のターンでもするかのように壁面を蹴り、再度鳥のいる方角へと飛んだ。剣を前に突き出すようにして、恰も自らが一本の矢になるかのような形、速度で怪鳥に迫る。
怪鳥の死角を突いたその一条の矢は、怪鳥の横腹に大剣の柄までめり込むほどに深々と突き刺さった。
「ぎぃあああああああ…………ッ!!!」
怪鳥は、今までにない声で絶叫した。聞く者の背筋を凍らせるような鋭さをいまだ保ちながらもその中に苦悶の掠れが明らかに入り混じっている。
ツァイトはサージェンの繰り出した鮮やかな攻撃に指を鳴らした。傷の深さから考えても、どう見ても致命傷である。怪鳥の身体が空中でぐらりと傾いだ。このままではサージェンもろとも墜落することになるかもしれないが、それくらいの危機ならばサージェンは難なく回避するだろう。
しかし――
直後、声すら出ない驚愕に、ツァイトは見舞われる。
怪鳥は、そのまま地に落ちるよりも先に、傾いだ体勢を立て直したのだ。大きな翼をばさりとはためかせ、空中にその巨体を留まらせるのを見て、ツァイトをはじめとして誰もが声を失った。
信じがたい光景だった。怪鳥の脇腹からは、体毛と似た色で酷く分かりにくいものの赤黒い液体が絶え間なく溢れ、地上に滴り落ちている。それほどの深手であるのに尚、あの獣を墜とすことはできないというのか。何という生命力だろうか。
「流石は神の仇敵たる古の魔獣と言うべきか」
怪鳥の背の上のサージェンが妙に詩的な物言いでそれをそう評し、しかし行動の方は冷酷なまでに淡々とした様子で、怪鳥の体液で黒々と光る剣で止めを刺さんと再度振りかぶる。
が、魔物は尚も人知を超えた存在であることを見せ付けてきた。サージェンの剣は振り下ろされることなく、突如、虚空を独楽のように回ってはじけ飛んでいた。
それを成したのは、怪鳥の長い尾羽だった。普通の鳥ならば能動的に動かせるとは思えない尾羽を鞭のように操って、自分の死角でもあるサージェンの背後から彼の腕を痛打したのだ。
「ほう……っ」
サージェンは苦痛の声の代わりに感嘆の声を上げた。まだこんな隠し技を持っていたとは、この獣は侮れん。そんな場違いな賞賛を魔獣に感じているようだった。
武器を失ったサージェンは、最初に飛び出した窓へと一時撤退する決断をした。本当ならば仲間のいない別の窓にでも戻りたかったのだろうが、彼の脚力を以ってしても現在位置から届く窓はそこしかなかった。高速で移動する怪鳥の背から窓に再接近した瞬間飛び移り、腕を窓枠にかける。怪鳥にしてみればようやく背の邪魔者を取り払えた形になるが、怒りに燃えた手負いの獣はそれだけでは満足しなかった。どす黒い体液を空中に撒き散らしながら素早く旋回し、窓枠の外のサージェンをまっすぐに見据えそれをそのまま圧し潰さんとばかりに突進してくる。
これだけの傷を負いながらもいまだ圧倒的な威圧感を撒き散らし急速に視界の中で巨大化してくる想像を絶する獣を前にし、ツァイトは手近にいたレスリーの肩を掴んで後方に引き倒すので精一杯だった。この場合は、より経験の浅いライラの方を庇っておくべきだと瞬間後悔したが、そんな余裕などなかった。ましてや窓の外のサージェンをどうこうすることなど出来よう筈もない――手を貸した所で、間に合う体勢ではなかった。
「いやああああああああっ!! サージェンーーーーー!!!!」
ライラは窓際から逃げることすら出来ていなかった。仮に、逃げることが可能だったとしても、彼女の心情的にはそれは無理なことだっただろう。ライラはその場に立ち尽くしたまま絶叫し、無我夢中という様子で手に持っていたものを、襲い来る鳥に投げつけた。
それは――先ほど彼女が調理に使用していた、鍋だった。
猛り吼える鳥の口の中央に、それが吸い込まれるように入り込む。
突如口中に入ってきた豆粒のような何かに怪鳥はまさに一瞬、豆鉄砲を食らった鳥のような顔をした。そして――
「ぷピーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!?」
突然、口の中で強烈な魔術が爆裂でもしたかのような勢いで奇声を上げて天高く飛び上がり、そのまま彼方へ飛んで行き――
ついには雲間のいずこかに……消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
誰もが――
それを、呆然と見上げる事しか出来なかった。
「……あ、れ……? な、なんで……?」
絶対なる沈黙の中で、鍋をぶん投げた体勢のまま固まっていたライラが、ぽつりと声を上げる。
あんな小さな鍋一つが当たった所で、手負いといえどもあの化け物にダメージを与えられるものでもなかったはずなのに。一体何が……。
そんな疑問に瞳をたゆたわせる彼女の肩に、後ろから歩み寄ったツァイトはそっと手を置いていた。
「……よくやったぞ、ライラ。お前の毒ぶ……料理がなければ、この国は滅んでいたかもしれない……。原因もお前だけど、世界を救ったのも、紛れもなく……お前だ」
振り返ってきたライラの瞳に、ツァイトは何か酷く生ぬるい視線で彼女を見る自分の姿を見た。
そしてそのツァイトの横を抜けて走り寄ってきたレスリーに、彼女はひしと力一杯抱き寄せられる。
「ライラぁっ!! あなたがいてよかった! あなたの料理の腕があってよかった! 本当によかった!!」
女聖騎士は感極まった声でそう叫び、滂沱の涙を流した。
そして、窓から腕一本の力で登ってきたサージェンも、ライラの側に立ち、彼女の功績を賞賛した。
「ライラ、何かは俺には分からんが、特殊開発した最終秘密兵器を投入してくれたのだな。有難う。お前のお陰で、助かった」
「……へ? ……へ??」
自覚のない救世主は、感激に咽ぶ三人に囲まれていつまでもいつまでも目を白黒させているのみだった。
「……という有難い逸話を持つ彼女の料理だ。醤油味でもいいじゃねえか。心を込めて食ってやれよ」
「うん。そんなのをつまみ食いした自分に今心底後悔した上絶望した。」
滔々と昔語りを語り終えたツァイトは、いつぞやの自分と同じ生ぬるく遠い目をしているウィルをどこか親近感にも似た感情を持って眺めた。
食堂の椅子に何故かふん縛られ、その前にほのかに焦げしょっぱ臭い黒ずんだクッキーに見えないこともない何かを山積みにされていた青年を発見し、一体これはどういった拷問もしくはプレイなのかと尋ねたら、先ほどライラのクッキーを何の気なしにつまみ食いしてそのあまりにも想定外な味に耐え切れず吐き出したらライラとサージェンの二人がかりであえなく捕獲され、食べるならちゃんと味わって食べなさいよおいしいからとかありえないことを命じられてこのような状況に至ったという旨を説明された。この山積みのクッキーを食べて健康を害さずにいる自信がないのでこの縄を解いて解放してくれないかとの要請を受けたのだが、ツァイトは幼馴染のよしみでライラに協力することにし、ウィルの食欲を増進させるために先の昔話を聞かせてやったのだが……
「あれ、逆効果だった?」
「ライラさんとかサージェンさんだったら素で聞いてるんだろうなと判断するけどツァイトさんは絶対分かってて言ってますよね」
ひどく冷静な分析をする軍師の青年の頭を、ツァイトは賢い賢いと撫でてやる。頭を振って嫌がりはしないもののその代わりに、呪ってやると言わんばかりの目で睨まれた。そんな青年に笑顔で言ってやる。
「まあなんだ、言いたかったのは、昔に比べたら大分マシになったって部分だ。何せクッキーくらいの簡単なシロモノなら、少量なら口にしても人が倒れずに済むまでのものを作れるようになったんだからな。超進歩」
「あ、やっぱ大量に食べたら倒れるんだ俺」
これは百パーセント悪意のない完全なフォローのつもりで言ってやったつもりなのだがやはりこの解放軍の軍師たる青年は聡明で、あるいは悲観的で、知らなくていい情報をまた一つ得てしまったようだ。ひょっとしたらこれ以上は何も言ってやらないほうが彼の為かもしれない。
「所で」
と思った所で今度はウィルの方から声をかけてきた。
「そのテルニの祭日の贈り物は、結局ライラさんはどうしたんです?」
「んー? さあ、うやむやのうちに結局何もやらずに終わったんじゃね? 魔獣襲撃の所為で結構あのあと忙しかった覚えがあるし。まさか誰も原因がライラの料理だなんて思わなかったから、お咎めがあったわけじゃねえけど」
「ふぅん」
自ら聞いておきながらさして興味があったふうでもない吐息のような声をウィルは漏らした。単に現実から目を背ける時間を稼ぐのが目的だったのかもしれない。往生際の悪い奴め。
「まあ、悪あがきせずにさっさと食べてやるこった。もしかしたらあの二人にあやかって恋愛の聖人サマのご加護が得られるかもしれねーぞ? お前に丁度今必要なモンだろー?」
からかってやった所で初めて冷静な青年の仮面が剥がれる。
「……っ! 人のこと言ってる場合ですか四捨五入すれば三十路の独り者がっ!」
返す刀で切りつけられた感じだが。
「……何をぅ。俺は結構もてるんだからな?」
「飲み屋の女の人にもてたってもてるうちには入りませんよ?」
「……ちくしょうッ! 銀の夢亭のニーナちゃんは俺の心の嫁だッ!」
「あああっ!? 頼むから縄ほどいてから走り去って!?」
悲鳴のような痛切な声が聞こえたが、心に傷を負ったツァイトはそれを無視して食堂から走り去った。
きっと俺だって、いつかはあんなラブラブな彼女が出来る、はず。出来れば料理はうまい子で。