「お加減はいかがですか、父上」
大きな花瓶に生けた花を自ら抱えて、少年は、父の寝室へと足を踏み入れた。この所は眠っていることも多かった父は今日は珍しく目を覚ましていて、広い寝台の上に緩く積んだクッションを背にして身体を起こしていた。
「ああ、今日は少し気分が良い。この所胸の苦しい日が続いておったが、今日は幾分ましなようだ」
「降臨祭でのご公務の疲労が出ていたのでしょう。少し、窓を開けましょうか?」
太陽はもう大分高く上がっている時刻ではあったが、もう随分前に、王自身の希望で直接日の差さぬ場所に移されたこの寝室は、薄布のカーテンを引いただけで随分と暗くなる。
「頼む」
了承を得てから少年は薄いカーテンを開け、窓を少しだけ開いた。冬にしては暖かな風がそよそよと、澱んだ室内に清々しい空気を運び入れてくる。
「降臨祭では苦労をかけたな」
しばしの間その清涼な風を楽しんでから、王は少年に語りかけた。
「いえ。王太子として当然の務めですから」
「うむ。皆が口々に、お前が立派に公務をこなしたことを賞賛しておる。私も鼻が高いぞ。これほどまでに優秀な息子を持てた私は果報者だな」
「そういうのを親馬鹿と称するそうですよ、父上」
弱々しくも機嫌よく笑う父王に、少年は苦笑を返した。と、そのうち笑いが過ぎて噎せりはじめるのを見て、慌てて傍に寄り背をさする。医師を呼ばなくては、と少年はその場から立ち上がりかけたが、それは枯れ木のように細くなった指で腕を掴まれて遮られた。父王は、こほこほと軽い咳をして自ら呼吸を整えた。
「大事無い。……しかし、良い時期に降臨祭の主催国となれたものだった。此度の件にて諸外国にも聖王国の王太子の有能振りは知れ渡る所となったことだろう。今ならば、王位を継いでも侮られることはなかろうな」
「……父上」
少年が諌めるように幼い声を低めると、病んだ王はこけた頬に笑みを浮かべた。
「己の身体のことは己が一番よくわかっておるよ。お前も、医師団より私の病状については聞いておるのだろう」
諦観の口調ではなく寧ろからかう様な明るさを含んで言うその声に、しかし王太子は肯定も否定も返せなかった。それが、この王の病状の深刻さを強く物語ることになるというのは彼自身も分かってはいたが、真実はそのまま告げることが出来るほどに軽いものではなく――だからと言って既に何もかもを悟っているこの父の前で安直な嘘をつくことも憚られた。
我知らず、緩やかな悲しみの表情を浮かべていた少年に、父王はからかいが過ぎたことを謝罪するように目を細めた。
「許せ。お前に苦しい思いをさせたい訳ではなかった」
「……いえ」
少年は首をゆるゆると横に振って見せた。今、誰よりも辛く苦しい思いをしている父を前にして、自分の苦しみなどどれ程のものだというのだろう。
「済まないな、ウィル」
久しぶりに、父に愛称で呼ばれて、少年ははっとして顔を上げた。父は病で倒れてから、つまりは少年が王の名代として公務をこなすようになってからは、幼い頃から父が使ってきた――母親の胎内にいた頃は母も使ったというその愛称で少年を呼ぶ者は誰もいなくなっていた。
「まだ幼き身だと言うのに、国というあまりにも重い重石を背負わせて、一人残すことになろうとは。せめて成人するまでは、私が護ってやらなくてはならなかったのに……本当に済まぬ。女神の国にて私を待つお前の母にも申し訳が立たぬことをする」
父の目の奥に滲む微かな涙を、少年は見た。幼い頃からずっと、病に倒れてからですらも常に聖王国の王として相応しく、毅然としていた父の目に見た初めての涙だった。
それほどまでに病はこの父の心を弱めてしまっているのかと一瞬、少年は思ったが、父の瞳を無言で見ているうちにそうではないことを悟った。父の瞳の強さは以前と全く変わらない。病に心を折られた訳では決してなく、揺ぎ無い心を以ってしても抑えきれない、深い、あまりにも深い悔恨の涙。
――少年は、父に笑いかけた。病身の父を慰める為ではなく、己が持つ自信をそのまま表しての笑顔だった。
「国は平穏で、良い兄も、良い臣下もいます。他国との関係も依然良好です。重石もこれだけの荷車の上に乗せておいて頂ければ、力無い僕でもどうにか動かすことが出来ましょう。父上は、何にも心煩わせることなく養生して下さればよいのです」
兄、という少年の言葉に王は少し安心したように潤んだ目を細めた。遠くファビュラスからわざわざ招いた少年の「兄」は、息子に遺してやる事の出来た最高の贈り物だと、王は自負していた。
「リュートは……あれはよくできた子だ。決してお前を裏切ったりはせぬだろう。リュートの言うことをよく聞き……幸せに、」
幸せに暮らせ、という言葉を口にしかけて、王はその本心をそこで押し留めた。彼は、少年一人の父親である以前に、常にこのヴァレンディアの国王だった――彼自身の願望が何処にあるかを問うことなく。それは、王太子たる少年のほんの僅かばかりの寂しさでもあったが、同時に大きな誇りでもある。
「このヴァレンディアを、宜しく頼む」
「畏まりました、父上」
王太子は国王に、公式での場で行うのと同じく正式な最敬礼の姿勢をとって、その下命を拝受した。そのまましばらくじっとその言葉を噛み締めてから、頭を上げて父の目を見、そっと付け加える。
「ヴァレンディアの王太子として……父上の子として生まれてこれて、幸せでした」
「そうか」
王は今度こそ、全ての憂いを掃い去った表情で、満足げに微笑んだ。
その日の夕刻、聖王国ヴァレンディアの国王は眠るように息を引き取った。長く病床にあったにしては苦しみの無い、安らかな最期だった。
翌日、弱冠十一歳の幼い王太子が王位を継ぐ。
降臨祭の閉会より僅か十日後のことだった。
- FIN -