「ライラ・アクティ。貴殿にレムルス王国聖騎士の称号を授与する」
厳かに告げられて、少女は玉座の王に恭しく頭を下げた。偉大なる騎士の国、レムルスの王。それにかしずくのは、宮廷騎士たる者の崇高なる義務。そして、王より煌びやかな黄金と赤い房のついた勲章を賜るその瞬間こそが、騎士の最高の栄誉の瞬間であった。
少女、ライラ・アクティは、弱冠十五歳という史上他に例を見なかった若さで、生涯において最高の栄光をこの日、手にした。
声は、いつだって聞こえていたのだ――
曰く。将軍の姪という血縁関係をかさに着た、単なる七光り。経験浅い優等生。頭の悪い者などは、尻の青いガキとか小娘とか、芸のない雑言を吐く。
(言っていればいい。言っていられるうちに)
白い大理石の床に軍靴で硬い音を刻みながら、ライラは自分に敬礼を向けてくる二人の初老の騎士に鋭い視線を送った。どちらも彼女とは親子ほどに年の違う騎士ではあったが、彼らが聖騎士の位階にない以上、王宮内ですれ違った、聖騎士ライラ・アクティに敬意を表さないというのは許されまじ非礼である。従って彼らの行った動作というのは当然のものだったのだが、彼らも影で彼女のことを卑下する者どもの一味だと知るライラには、そんな形ばかりの礼など不愉快極まりない侮辱でしかなかった。
何か厭味でも言ってやろうかと足を止めかけたが――考え直す。意味のないことだ。そもそも、嫌悪の対象でもある人間と会話を交わすような真似を自ら進んでやることもあるまい。表情を変えないように意識して、ライラはそのまま歩みを進めていた。今は、彼らの如き低劣な輩を相手にしている場合ではない。全てに優先する国王の命を、滞りなく遂行するのが彼女の義務であり、光栄であったのだから。
まず、国王陛下が彼女に対し下した命は、言ってしまえば人事に関する事だった。新たなるメンバーを加える事になる聖騎士団の中で、彼女がどのような位置に就けばいいのか。ある男の指揮下に入れ、という指示に、ライラが了承以外の返答をするはずがなかった。
だが――
冷たい石の温度が大気に染む廊下。周囲に人の気配がない事を確認し、ライラは小さく溜息を吐いた。許されるならば、頭を抱えてしまいたい。が、聖騎士たる彼女にそれは許されなかった。偉大なる王の考えに不満を漏らすなど、許される事ではない。だが、外に出すつもりのないものが勝手に出てくるという事を、とどのつまり漏らすというのだ。そんな、屁理屈を考える。屁理屈は嫌いだったが、勝手に思考回路は、一見理に適っているような文句を即座に紡ぎだす。自分の、レムルスでも有数の由緒ある貴族の家柄という出自を考えれば、それは仕方のない事なのかもしれない。屁理屈屋の気質はきっと先祖譲りだ。
ともあれ、ライラの気分は晴れやかとは言えなかった。いや、むしろはっきりと憂鬱だった。
(……よりにもよってどうして)
眉間に皺を寄せながら、彼女は廊下の角を曲がり、そのまま先に続く階段を降りていった。階段は一階の廊下につながっており、丁度その正面にあった外への扉をライラは開いた。開け放たれた南向きの扉から目に飛び込んできた陽光を避け、手を目の上に翳す。日の光は眩しかったが、外気は突き刺すような冷たさで、ライラは小走りに外へと出た。一旦城の外に出たその先の兵舎が、彼女の目的地だった。
レムルスの聖騎士団にはいくつもの伝統がある。
そのうちの一つが、新しく聖騎士団に配属された新入りには、教官――つまりは教育係がつけられる、といったものであった。一度に何名が入隊しても、その数だけ教官がつけられる。つまりは完全に一対一の関係で、聖騎士たる心得を叩き込まれる、というのだ。
それはいい。そのしきたり自体は歓迎すべきであろう。
聖騎士として召し上げられるには無論、騎士としての修練をそれも優秀な成績で終えていなければならず、当然そのような騎士であれば身構えなどとうに出来ている。とはいえ、宮廷騎士団最高位の位階である聖騎士となればまた、今迄とは勝手の違う事も出てこよう。故に、教育係の制度は要らぬ節介では決してないのであった。
それはいいのだ。だが、何故――
ライラは、閉ざされた扉の前に立った。何の変哲もない、兵舎の一室である。
こんこん、と扉を叩くと、中からは「何だ?」と声が聞こえた。およそ騎士らしからぬぶっきらぼうで、粗野な返答。或る意味、それは当たり前なのかもしれない。
相手は騎士ではないのだから。
「聖騎士団所属、ライラ・アクティ、参りました」
憮然とした態度が声に出ないよう精一杯努力しながらライラが言うと、中からは同じ声が「入れ」と返してきた。
ライラの不服の理由はこれだった。
名をサージェン・ランフォードという彼女の教官は――騎士ではなかったのだ。
話によると、彼は国王陛下御自らに剣の腕を買われ、雇われた傭兵であったらしい。その上何を気に入られたのか、その得体の知れない出自の者は聖騎士団への配属を許される。レムルス国内の数多の騎士たちが憧れて止まない聖騎士団に、騎士以外の人間が抜擢されるなど、異例中の異例であった。士官学校を出ていないサージェン・ランフォードには騎士の位は、武勲を挙げるなどしない限り与えられない。この平和な時世にそんな機会もあろうはずなく、結局彼の身分は未だ傭兵のままである。
それどころか、それでは立場もなかろうと勿体無くも思われた陛下が、騎士の位を授けようとした所、自分が欲しいのは名誉ではなく金だ――などと言ったとか言わないとか。これは、彼女も同じく身に振り掛けられる、いわれ無き噂の一つに過ぎないが。
とはいえ、それを差し引いても――つまり、彼が騎士ではないという事実だけで、聖騎士たる自分が騎士ですらない者に教えを請わねばならないという事実だけで、彼女が不服を感じるのには事足りていたのだ。
入室を許された以上ドアノブを引かねばならない。陰鬱に目を伏せながら、ライラは扉を開けた。と――
思わず――そのまま何も見なかったことにして扉を閉めようとしてしまう自分を、何とか彼女は自制した。目の前の光景を見ながら、そして吹きすさぶ寒風を肌で感じながら、脳髄は他のいかなる感情をも締め出して喧々囂々(けんけんごうごう)とした会議を始めていた。
整理する。兵舎の一室。作りは普通の部屋だ。扉の正面に窓がひとつ。この寒いのに開け放しになっている。まず間違っている一つ目だ。
そして、その氷も張る外気温と全く変わりない室内で、上半身裸で抜き身の剣を一心不乱に降り続ける若い男。これが決定的に間違いなのだ。正解が一縷足りとも含まれない、完全な間違い。
硬直するライラを横目で見て、男は剣を下ろした。生っ粋の剣士らしい仕草で剣を腕に下げながら、身体を彼女の方に向ける。
「サージェン・ランフォードだ。……早速だが、脱げ」
「イヤです」
ライラは即座に言い放った。突発的ではあったが、自分の言った事を理解していないというわけではなかった。聖騎士を拝命し、一日にして完璧に上官反逆の汚名を着るとは想像だにしていなかったが。ああ、厳格な父は何と言うだろう。だが同時に誇り高い父の事である。上官とはいえこんな得体の知れぬ男の前で肌を晒す屈辱に、よもや娘をまみれさせてまで聖騎士の位にしがみついていろとまでは言わないだろう。心の中で、純潔の生け贄に捧げた己の運命に祈る。
しばし、男――サージェン・ランフォードは静かに何かを考えながら瞑目していた。首を傾げながら、目を開く。
「……防寒具を脱げという意味だ。別に全部脱げとは言っていない」
「え」
それはそうだ。絶句して――ライラは赤面した。
「失礼ですがランフォード教官、貴方は言葉が足りないように思います」
煮えくり返るような羞恥心――怒りではない、羞恥心だ――を歯を食いしばって押え込み、ライラは喉を震わせながら言葉を発した。悲しい事に、顔の紅潮は中々収まりそうも無かった。それを見てこの男が笑っているような気配はないが、腹の中はどうだか知れない。
防寒具といってもそう重装備を身につけているわけではなかった。コートを一枚羽織る下に着ていたのは、聖騎士団の制服。だが、それも脱げと言われ最後に残ったのは丈夫な生地のズボンとチュニックだけだった。上着を脱いでしまうと、この気温はかなり堪える。
「まさか、私もこの格好のままここで剣を振れと?」
前の疑問の答えはまだ得ていなかったがどうせ回答を求めていたわけでもない。それよりも気になった次の疑問を投げかける。と、教官は少々驚いたようだった。
「剣を振らずに訓練になるか?」
「それではなくて、この気温で……」
「動けば体も温まる」
にべもなくそう言って、彼は再び、黙々と素振りを開始した。唖然として見続ける――
(何なの一体、この男っ!?)
今度の失言は心の中だけに止め、ライラも彼に倣って、素振りを開始した。
小気味よく、空を切る音が狭い室内に響く。
士官学校騎士課程で学んでいた頃――と言ってもほんの数ヶ月前までの話だが――その頃は毎日今のように延々と素振りをさせられたものだった。そのような訓練は、殆ど室内の訓練場で行っていた。冬場は、気温こそ外気と変わらないが、少なくとも吹きすさぶ風はなかった。だが、今はそれがある。寒さというよりこれは痛みだ。思い起こした学び舎の思い出に、懐かしさを感じなかったのは、この苦行の所為であろう。
浮かんだ疑問は的を射ていた割にはおかしなものだとは思ったが、頭が凍り付いていたのかもしれない。ライラはそれを言葉にした。
「ランフォード教官、何故、窓を閉めないのです?」
「締め切った部屋の中で汗だくになってみたいか?」
「その方が幾分ましです」
きっぱりと言ったライラを、教官が横目で見る。だが、彼の唇はすぐには動かなかった。真っ直ぐ、正面に瞳の位置を戻す。そうしてから、声だけを、ライラの方へ向けてきた。
「教官と呼ばれるのは慣れていない。サージェンでいい」
てっきり、口の過ぎる生徒に対する処罰の言葉が吐かれるかと思っていたライラは、思いもしていなかった言葉に、思わず目を丸くして彼の方を見た。素振りも止めなかったし、数秒後には落ち着きを取り戻したので、この男が気づいたかどうかは定かではないが。
「承諾できません。騎士たる者立場には厳格であらねば」
「俺は騎士ではない。騎士の作法など知らない」
――ぴたり、と。
ライラは、素振りを止めた。それにつられて、教官も剣を止める。
「どうした?」
「……教官、騎士の作法を知らずに私に何を教えようというのです?」
声のうちの怒気を隠そうともせず、ライラは呟く。だが、サージェン・ランフォードは全くの平然とした口調で、返してくる。
「陛下からは、新入団員に剣術を教えてやれと言われたが」
ライラの中で何かが弾ける。だが、衝動をねじ伏せ、理性的であろうと努めた。
「剣術であれば、騎士課程でみっちりと叩き込まれました。だからこそ今、私は聖騎士という立場でここにいるのです。今更基礎など必要ありません」
「そう急くな。これは準備運動のようなものだ」
「私は、子供の頃より聖騎士になる事だけを目指し、修練に励んできました。今更外法の剣を教授されても迷惑なだけだということです!」
それは、もしかしたら禁句に属する言葉だったのかもしれない。だが、頭に血の昇っていたライラには、それを口に出す前に制する事は出来なかった。口に出してからも――自分を見下ろしてきた視線に、明確な怒りがなかっただからだろうか、その発言を失敗と感じる事はライラにはなかった。
「……若いな、ライラ・アクティ」
何の感慨も無い一言の呟き。それを聞いて、ライラの顔が朱に染まる。噛み付かんばかりの視線で、見上げる高さにあるサージェン・ランフォードの目を睨み上げる。だが、その視線もこの男の感情を微動させる事すら出来なかったようだった。同じ口調でゆっくりと告げてくる。
「上官反逆は当然として、国王陛下のご決定に、明確に異を唱え、反抗しようとさえした。国家反逆の罪に問われても反論は出来まいな」
「えっ……」
静かなその台詞に、ようやく己の立場を思い出し、表情を凍り付かせたのは、ライラの方だった。
「さて、ライラ・アクティ。以上の罪に対する罰とは、いかようなものか? 優秀な貴殿なら存じている事だろう」
「……う……」
呻く。してやられた、という思いを胸に抱きながら。上官反逆ならば、軽くて戒告、減給――重くても謹慎程度か。だが国家反逆の罪であれば、どれだけ軽くても、騎士として最大の不名誉である、除名処分が待っている。無論重ければ――言うまでもないが、極刑である。
のしかかるようなショックを感じながら、ライラは胸中で首を振っていた。この男にしてやられたのではない。自分が浅はかだったのだ。
だが、
「とまあ、騎士であればそう言うのだろうな。だが俺は言った通り、騎士ではない」
この若い男は小さく肩を竦めて、こともなげに呟いた。
「子供に噛み付かれたくらいで大人げなく怒りはしないさ」
ぱんっ!
空気が十分に詰まった風船が爆ぜるのにも似た、何かを強く打ち付けたような音――回りくどい言い方をするのを止めれば、ライラがサージェンの頬を平手打ちにした音が、室内に響いた。