Crusade Other Story 片翼の想い人に(後編)

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 羽根に触れる柔らかさで、ソフィアの赤らんだ頬をウィルは撫でた。思わず――だろうか。ソフィアは横手に向けた目を見開いたまま、硬直する。
「……それが嫌なら、忘れるんだね。貸し借りなんてどうでもいいことだ」
 ――挑発――
 少女は、動けない。
 頬に手を添えたまま、ウィルが立ち上がっても、ソフィアは回避すると言ったような行動を起こさなかった。緊張し、強張った表情は解けない。顎に手をかけられてウィルの方を向かせられた時、初めて、何か呟こうとしたのか口を小さく開いたが――
「っ……」
 彼女が息を飲む音を、ウィルは間近で聞いた。――いや、口内で、か。
 彼女としてはそういう意図ではなかったのだろうが、開かれた唇はまるで口付けを誘っているかのようだった。いざなわれるままに、口唇を彼女のそれに押し付ける。その先に進む事も、簡単だった。力の入っていない下顎を、こじ開けるまでもなく押し開いて、その奥に隠された舌に触れる。
 その頃になってようやく忘我の淵から戻ってきたのか、ソフィアは少し強い反応を見せ始めた。それまで力を抜いて下ろしていた手でウィルの腕を掴み、爪を立てる。だがしかしそれはウィルに痛みを与える程の刺激でもなく、彼は更に、ソフィアを上向かせて彼女の奥深くをねぶる。
「……ん……っ」
 やや苦しげな、鼻にかかった声が唇の隙間から漏れ、ウィルは惜しみながらも唇を一旦、放した。反射的に、口の中に溜まった液体を嚥下する彼女の白い喉の動きは、彼女がウィルの体液を体内に取り入れたことを確固たる事実として伝えて来る。
 それは非常に妖艶な光景だった。少なくとも、ウィルの精神のたがを二、三個まとめて外すには十分過ぎた。
 本当は――
 挑発……というか、からかう程度でやめておくつもりだったのだ。少し脅かして、軽いキスでも頂いて。いつもの冗談の延長で。
 だったのに。
 ソフィアを引き寄せ、その身体を手荒くベッドに押し付ける。さほどクッションの効いていないベッドに唐突に背中を打ち付けられ、小さく彼女が息を吐き出すのが見えた。彼女と、その上にのしかかる自分の体重を受けてベッドがぎしり、と軋む音に、理性を攫われる。
 ウィルは再度、ソフィアの唇を貪った。
「だめ……」
 その言葉は唇が触れる直前に、彼女が発したものだった。それすらをも飲み込んで、口付ける。左半身で彼女の腕を押さえつけ、右手を彼女の頬に添える。指先でソフィアの外耳をくすぐると、彼女はびくりと首を竦めた。
「感じるの?」
「違……っ! くすぐった……い、って、やっ……!」
 ソフィアの声が途中で止まる。ウィルがその、彼女の弱点を軽く舐めた瞬間だった。
 ウィルの二の腕を掴むソフィアの手を、彼は握り締めてシーツへ押し付ける。抵抗を封じたまま耳朶を甘噛みし――尖らせた舌で首筋をなぞる。鎖骨の少し上、滑らかな素肌に唇を押し当て軽く吸い上げると、月の白い光に照らされる肌に、赤い斑点が浮かび上がった。
「ちょ、ウィルっ!」
 何をされたか気づいたソフィアが慌てた声を上げる。この位置は、彼女の持っている服では隠れない。その朱印の隣に下にと、次々と跡を残してゆく。
「や、やだ! やめてってば!」
「やめない。……対等になりたいんだろ。我慢しな。今まで俺が我慢してきたんだからね」
 顔を上げてウィルは満足げに、自分のつけたあざを見下ろした。きめ細やかでなめらかな肌に映える所有のしるし。彼女は。彼女の心は。彼女の身体は。誰にも渡さない。
 ソフィアの片腕を固定していた右手を放し、タンクトップの中に手のひらを滑り込ませて、撫でる。へその周囲から……脇腹へ。
「……あ……」
 耳元で、ソフィアの小さな抗議の声を聞きながら、指で触感を確かめていく。線が細く、無駄な肉など一切ついていないしなやかな身体は官能的とは程遠かったが、愛する恋人に触れているという事実は、それだけで十分ウィルを興奮させるに値した。
 指を、上へとずらしてゆく。その行き着く先を察してソフィアが身体を強張らせる。
「ん……っ」
 ウィルがソフィアの豊かではない胸を手のひらで包み込むと、彼女は溜息に似た声を漏らした。
 その部分には、今までも布越しでなら触れた事はあった。けれど、それと何にも邪魔されることなく直に触れてみるのとでは、感触は天と地ほどの差があった。柔らかさ……熱……彼女の鼓動までもが、直接身体の中に響いてくる気さえする。何にもたとえようのない吸い付くようなぬくもりが、ウィルの手を満たす。
 抱きたい。
 その言葉が――その欲情が。良心や自制心に束縛されることなく魂を支配する。今まで耐え続けてきた自分を全てかなぐり捨てて。今すぐこの服を剥いで、彼女の全てをこの眼に焼き付けたい。
 彼は今一度、ソフィアの唇にキスを落として、彼女のタンクトップの裾を鷲掴みにする。
「だめっ……!」
 ソフィアが声を上げる。だが、もう遅い。彼女の声、涙を以ってしても、もう、彼を元の位置に戻す事は出来なかった。彼女の肢体を覆い隠す薄布を押し上げ――
「やだぁ……やめて、陛下ぁ……」
 その瞬間。掠れた啜り泣きの声で、ソフィアはそう呟いていた。

 脳裏を――
 過ぎったのは、幼い少女の泣き顔だった。
 当たり前だ。彼女の声で、彼女が呼ぶ名で呼ばれたのだから。
 亜麻色の髪の、年端も行かない少女。エルフィーナ。
 目を開いて――いや、ずっと開いてはいたのだが、平静を取り戻してという意味で――自分が組み敷いている相手の顔をウィルは見下ろした。そこにいるのは、亜麻色の髪の、少女の域からはそろそろ脱しようとしている年頃の女性。しかし、ぽろぽろと涙を零しながら鳴咽する姿は、元より実年齢より幼く見えがちな印象をその点においてより一層際立たせる。
 それもあってだろう。全く同じ顔で、全く同じように泣く、幼い姫君の姿が、ソフィアの上にぴたりと重なって見える……
 つまり感じるのは……十歳の女の子を手込めにしているような……そんな錯覚だった。
 …………。
 ……どうしろというんだ。
 しゃっくりで痙攣するように泣き続けるエルフィーナ……いや、ソフィアから目を逸らして、ウィルは自問する。彼女の顔を視界から外したのは更にまずかった。泣き声だけを聞いていたら、最早錯覚どころでなく本気で幼い頃と変わらない。
 いや、分かっていた。
 どーもこーもない。
 『エルフィーナ』を連想した時点で――言ってしまえば、身体的事情がダメだと告げていた。
 残念ながらそういう趣味はないのだ。
「…………ッ!」
 身体の方は強制的に収まっても、心の方は全く収まりのつかない状態で放り出されたことになる青年は――声にならない叫びを上げて、少女の上に突っ伏していた……

「馬鹿馬鹿痴漢変質者! 最低! ひどい! 強姦魔!」
 ベッドの上から妙に語呂よくなじってくるソフィアの言葉を、床に座らされてウィルは頭から素直に浴びていた。ソフィアは怒りながら叫び、叫びながらまた怒ると言った調子で、実に効率的に怒りを生産していた。ああ、確か教会の同僚に、エネルギー生産に使用した燃料の残り滓を再精製して新たな燃料にして再び使用するという研究をしていた魔術士がいた。それに似ているな。実用化されれば文明にきっと画期的な変化を与える事になるだろう。素晴らしい事だ。実に素晴らしい。
「人の話全然聞いてないでしょう!? ちょっとそこ座りなさい!」
 もう座ってます。とは突っ込めない。どんな正論も彼女の猛りを鎮める事は出来ない。いくら現実逃避に努めても素早く察知し現実に連れ戻す。何ていう嫌な勘の持ち主だ。
「分かってたわよ、ええ、分かってたわよ! ウィルがそうやって隙あらばやらしーことしてこようとかいう妄想癖持ってる事くらいは! でも何!? 人に弱みに普通つけこんだりする!? あー! 何でこんな人心配してたんだろう! あたしの馬鹿っ!」
 じたばたと手を振り、あまつさえベッドに叩きつけながら彼女は全身で怒りを表現していた。ここまで自分の感情を率直に表現できるのもまた、凄いと思う。と、またやや関係ない事を考えていたのを悟られてしまったのか、険悪な表情のソフィアは、わしっ、と両方からウィルの頬をつねる形で掴んできた。
「痛い……」
「良かったわね気持ちいいって感じなくて。正常よ。……もーウィルなんか対等なんかじゃないから。下僕よ下僕」
「今までって下僕じゃなかったん……痛いイタイ痛い」
 無駄な反論をしようとした口に、罰が降りかかりウィルは半分泣きそうになって悲鳴を上げた。ぎゅむぎゅむと拷問のような仕打ちを受け、ようやく解放された時には頬は腫れてはいないものの酷く熱を持って、異様にじんじんとした。
「うっうっ……あんまりだよ……恋人同士なのに……」
「こういうのは結婚してから!」
「じゃあ今すぐ結」
「やだ!」
「しくしくしくしく」
 みなまで言わせてもらう事すら叶わず拒絶され、ウィルは本気で泣きたくなった。どん底まで突き落とされた男の姿にようやくある程度溜飲が下がったのか、ソフィアはベッドから足を下ろして下に置いてあったスリッパを爪先で捜した。
「もー……疲れてるってのに寝る時間なくなっちゃったじゃない」
「別に何する予定もないんだから昼まで寝てればいいだろ」
「……それもそーね」
 ウィルの提案に同意し、スリッパに足を突っかけてソフィアは立ち上がった。そのまま横を通ってドアに向かう彼女に、ウィルは立ち上がりながら呼びかけた。
「ソフィア」
「何?」
 彼女は振り向かなかったが、冷たくも、緊張してもいない、普通の声音が返ってくる。少し前まで感じていた違和感も、最早ない。今まで彼女が座っていた自分のベッドに、今度はウィルが腰を落としながら低く呟いた。
「愛してる」
「……は? 何を唐突に」
 さすがにその台詞は想定していなかったか、ソフィアが声を裏返して視線だけをウィルの方へと向ける。
「愛してる……から。いつか、君が許してくれたら、君とひとつになりたいって思ってるのは……誤魔化さない。それは間違いのない事だから」
「…………」
 いつもならば怒り出しそうなウィルの発言に、しかしソフィアは怒りでも、戸惑いですらない瞳を彼へと向けたまま、沈黙していた。促されるようにして、ウィルは一人、言葉を続ける。
「ひとつになりたいのは、身体だけじゃなくて……心。もう、俺達はお互い、相手がいないと飛べない片翼の鳥だから。……俺の事で悩む必要はないし、それでも悩んだら、溜め込む前に全部、俺にぶつけてくれて、いいんだ」
 囁き声にまで減じてしまった音量で何とか言いきって。ソフィアが何か言葉を返そうと、視線を動かしたのを無視して、ウィルはベッドの中に潜り込んだ。
「もー何でもいいや。とにかくそんな感じの方向で。おやすみ」
 毛布を頭から被り、すぐに、作り物の寝息を立て始めるウィルに、ソフィアは込み上げてきた笑いを押し殺すような声で、一言、返した。
「おやすみ、ウィル」
 窓の外は闇から暗い青に色づき始めてきている。

- FIN -

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