片翼の想い人に
「はぅあ……やっと……着いた……」
空も森も静まり返る真夜中。足をふらつかせながらもどうにか扉をくぐって、ウィルがまず最初に上げた声は、そんな心からの感嘆の呟きだった。辿り着いた山間の宿は、山小屋が少々大きく豪勢になったという程度の代物だったが、今の彼には、傷つき疲れた旅人を癒す教会にも等しい神聖さに満ちた場所のように感じられていた。言葉を紡ぐ気力も最早失せかけていたが、それでも呟いておかねばならなかった。これは生への賛歌。神への感謝。感謝はどれだけ捧げても足りないくらいだろう――これだけの試練を生きて乗り越えることができたのだから。ああ、神様、天国の父さん、母さん、ありがとう……
「何、今ちょっと奇跡の生還をしてきましたみたいな声出してるのよ」
この世もあの世も含めた全てに対し感謝の祈りを上げていた彼に、冷たい雨粒のような声が振りかかる。彼はやや視線を下げて、隣に立つ少女の姿を目に映した。見慣れた、亜麻色の髪の少女――ソフィアが、白けた視線で彼を見返してきている。
「……実際かなり奇跡の生還な状況だったんですが」
「たかだか一日半ちょっとそこらへんで遭難しただけでしょうが」
「雨の降りしきる冬山でな! 運が悪けりゃ十分死ぬ条件だって知ってるか!?」
「運が良かったんだから文句言ってんじゃないわよ!」
「良くないんだよ遭難してる時点で! って言うかそもそも完全に人災だっていう自覚しとけよ!?」
この三十六時間ほど、何回か繰り返してきたのと同じ内容の口論を再度勃発させる。疲労はピークをとうに過ぎ、自分がどれだけ不毛な行為をしているかすら判断できない状況に彼は立たされていた。彼女の方も概ね彼と同じ状況下にあったはずなのだが、殆ど疲れた様子も見せず言い返してくる。体力の差だろうか。情けない話ではあったが、自分の体力のないのは今更だったのでウィルはそれについては考えない事にした。不毛だと判断する能力が彼女の方にはあったはずだが、何か言われたら彼女はとりあえず言い返さなければ気が済まないたちだ。
「まったくもー……」
フロントの従業員が眉をひそめながら持ち場から出て――時間が時間だったので、客室案内の係がいないらしい――こちらへ近づいてくるのに気がついて、ウィルは最後に一言ぼやいてから口論を終結させた。まずは部屋をとって、何よりも先に一息つきたい。それが一番最初だ。折角の温泉宿だが、今からのんびりと温泉に浸かる気分でもない。とはいえ昨晩から雨に降られたためこのまま休む訳というにも行かない。湯でも分けてもらおう。そんな事を考えながら、ウィルがその男性従業員の方に足を進めようとした時、それよりも早くソフィアが動いていた。従業員と一言二言会話を交わし、フロントに戻って慣れた様子でてきぱきとチェックインの手続きを行って、ウィルの方に引き返してくる。
「はい、鍵」
「あ、ありがとう」
「今フロント、彼しかいなくて離れられないから、荷物は自分で運んでって。貸して」
昨日――いや、今となってはもう一昨日か――馬車の中でそうやってきたように、手を出してくるソフィアにウィルはその時と同じように「いいよ」と首を振った。が、ソフィアはひったくるようにして彼の荷物を奪っていた。
「む。結構重いわね」
「ああ、だからいいって」
「必要じゃないものとか持ってきてるんじゃない? 長旅になるんだから、簡単に調達できるようなものは持ち歩かない方がいいわよ」
言葉を無視し、ソフィアはウィルの大鞄と、自分のナップザックを肩に担いで足元をふらつかせながらも歩き出していた。彼女のそんな様子が少し気にはなったが、疲れきっていたウィルはあまり気にせず、黙って彼女の後ろについていった。
その後、軽く食事を取って部屋で身体を拭いて、ウィルは寝る事にした。
腹は減っていたが、それよりも身体の方が限界だった。
隣の部屋を取ったソフィアは、温泉が二十四時間開いている事を聞いて入りに行ったようだった。彼女が部屋から出ていく音は聞いたが、それからすぐにウィルは眠りに落ちた為、彼女の戻ってくる気配は感じる事が出来なかった。
それに彼が気づいたのは、おそらく、かなり経ってからの事だった。
「……どうしたの? ソフィア」
眠い目をしぱしぱとさせながら、ウィルはいつのまにか自分のベッドのすぐ傍にかがみ込んでいたその少女に声をかけた。半分寝ぼけながらも、内心で、ここは自分の部屋であることと、トイレにでも行った後、間違えてソフィアの部屋に入り込んだりはしていないことを確認するのは怠らなかった。唐突に目を覚ましたウィルに、彼女は余程驚いたのか飛び跳ねるような勢いで顔を上げた。
「ご、ごめん」
見られたくないものを見られてしまったかのようにしどろもどろしながら、しかし、今まで握っていたものは手放すことなく彼女は謝罪してきた。視線を、彼女の手元に向ける――それは、自分の手元でもあった。動かず、感覚すらない左手が彼女の白い指の中に包まれているのが、窓からの薄い光の中に見えた。
「ごめん、あの、触っても感じないって言うから、起こさないと思ったの」
「……確かに感じはしないけど。さすがに枕元で手、握られてちゃねぇ」
等と言いつつ、どれだけの間彼女がそこにいたかも彼には分からなかったのだったが。身体を起こそうとしたが眠さに負け、彼女の方を向いて横向きになることで彼は妥協した。
「で、何か用? 夜這い?」
「……馬鹿」
笑みを声に含ませて言うと、ソフィアはじろりと彼の顔を睨んだ。思わず顔を緩ませる。
話があるのだろうか。ただ眠れないのだろうか。彼女も、疲れていない訳ではないだろう。答えを待ちながらじっと見ていると、ウィルの手を握り締めたまま、ソフィアが少し俯いた。
「ウィルの手……冷たいから」
「? そりゃね。殆ど血が通ってないから。……もしかして、昨日気に障った?」
前の晩、野宿をしたとき、寒くないようにという思いとほんの少しの下心から、彼女の身体を抱きしめつづけていたのだが、よく考えたら外気温とさほど変わらない左手で接触していたのは、逆に彼女を凍えさせただけだったかもしれなかった。
しかしソフィアはすぐに首を横に振った。だったら何だろうかとウィルはしばらく、俯いている……いや、ウィルの手をじっと見つめているソフィアを眺めていたが、彼の手を硬く握り締めたまま、彼女は結局何かしらの理由を告げることはなかった。
よくは分からないが、心配してくれているんだろう。ウィルはそう解釈して、肩を落としている彼女に微笑みかけた。
「大丈夫だよ。冷たいけど、それで痛みを感じるわけでもないんだし」
「分かってる」
小さく、雫を落とすかのような声でソフィアが呟く。ウィルの手を握る指に力が入る――のが分かったは、彼がそれを見ていたからだ。彼女のその力が徐々にと言った様子で強まっていく。それに同調するように、次の彼女の声も先程よりは大きな、押さえた叫びになっていた。
「分かってるけど……っ! でも、だって、昨日なの……気がついたの。こんなに冷たくなってたこと……」
「ソフィア?」
呼びかけながら、彼はベッドの上に身体を起こした。ソフィアの、決して大声ではない叫びは一瞬にしてウィルの眠気を取り払っていた。その彼女は変わらず顔を上げない。
先程――チェックインした時も、どこか少し様子が変だった。いや――
もしかしたら、もう少し前から変だったかもしれない。前、とは言っても、それほど前ではない。ついでに言えば、それほど劇的な変化ではなかったと思う。せいぜいが、疲れているはずなのにそんなそぶりを見せず、いつも以上に活発に振る舞っていたりと言うくらいで……
彼女の今の発言の符丁と一致する。昨日から、だ。
右手を、彼女の肩に伸ばす。……が、それが触れる直前に、彼女は空いた方の手で、ウィルの手を振り払った。しかしそのこと自体忘れているのか、握ったままのウィルの左手を彼女は離そうとしなかったので、数秒後には彼は難なくソフィアの腕を捕らえていた。
「やだ、離してよ痴漢!」
「痴漢ってねー……」
意地でも顔を上げようとせず暴れ続けるソフィアをどうにか押さえ込みながら、ウィルは眉を寄せて思案した。思案したのは彼女の対処法にであって、彼女の行動をいぶかしんでいたわけではなかった。疑問に思う点などない。彼女の目元から散った水滴が、彼女が寝巻きに使っているタンクトップに暗い染みを作るのが見えている。
「もー。何泣いてるんだよ」
「いいじゃないの! 放っといてよ!」
「あのなぁ。放っとけるわけないだろうが」
彼女の言いように、最早呆れてしまう。
「今まで、俺が泣いた君を放って置けたことなんてあった?」
囁き声で告げると、瞬時、ソフィアの抵抗が収まった。その隙をつくようにして、ウィルは彼女を抱き寄せた。彼女が見られたくないと思っている泣き顔を見ないでいてやれるように、深く強く抱きしめる。ソフィアも、それ以上抵抗することなくごく自然にウィルの胸にすがり付いてきた。彼女も覚えていなくはないだろう。泣いた彼女を抱きしめてやることなんて、昔なら日常茶飯事だったことだ。彼女がウィルの胸に涙を擦りつけるのも、彼女の柔らかい髪を撫でてやるのもなじみの仕草だったが、彼女が昔のように声を上げて泣いたりはしなかったのが、少し寂しい気もした。
「全く……何いきなり理由なく人の部屋来て理由なく暴れて理由なく泣いてるかね、このお嬢さんは」
「理由、なくないもん……」
苦笑混じりにウィルが呟くと、顔を埋めたままくぐもった声が返ってくる。小さく、鼻をすする音をさせてから、彼女はウィルの服の胸元をきつく掴んだ。
「……ごめんなさい……」
「は?」
唐突な謝罪の理由が本気でわからず、ウィルは視線をソフィアに向けた。だが、彼女の後頭部しか見えなくては、彼女がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか理解することは難しいように思えた。少々躊躇いを感じたが、ウィルは意を決し、彼女の身体を引き離してその顔を覗き込んだ。一瞬、小さな肩はそのウィルの行為を嫌がって震えたが、すぐに諦めて、涙の浮かんだ瞳でソフィアはウィルの顔を睨み返してきた。
「……あたしが、ルドルフの誘いに乗りそうだったから、止めるために無理矢理治したんでしょう? それさえしなければ大神官様に、ちゃんと動くように治してもらえたかもしれないのに……」
そう来るか……。瞬間、顔をしかめそうになったが何とかこらえ、ウィルは反論の声を上げた。
「それはいくらなんでもこじつけっぽくないか? そんなこと言い出してたら世の中の物事大半が自分の所為になっちゃうぞ?」
「こじつけなんかじゃない! 大神官様も、怪我自体はちゃんと治ったって言ってたもの!」
「あのなあ、もし俺があの時自分で魔術治癒をしてなかったら、治るよりも先に死んでたっての。そっちの危険もあったからだよ、無茶したのは」
「も、ってことはあたしのこともあったって事じゃないっ!」
「うっ……」
と、言葉に詰まってしまったのは、最大の敗因だった。ソフィアの濡れた瞳が、意思の強さを失わせずに、宝石のような涙を次々と産み落とす。
「ウィルと……、やっと対等になれたって、思ってたのに……っ、あたしには傷も残ってないのに、ウィルの手はこんなに冷たくて……! あたし、全然わかってなかった……! ウィルの怪我を治す薬を見つけようと思ってたけど、絶対見つけられる保証は無いし、子供の時の怪我だって……っ」
そのあたりが彼女の限界点だったようだった。あとは嗚咽にかき消され、何を言おうとしているのか十分に聞き取ることは出来なかった。喉の痙攣を止めようと無駄な努力をする少女の頭にウィルはそっと手を置いた。
「馬鹿だな。そんなことで悩むなよ」
「馬鹿って何よ!」
「だってさ、対等も何も今だって別に……」
お互い、貸したり借りたりが出来る時点で十分に対等だと思うけれど。
呟こうとしたが、それを口に出す直前に、不意に彼女の言っている意味がわかった気がして、彼は台詞を変えた。
「あー、つまりは、何? 君的には俺に借りっぱなしのこの状態は気に食わないってことか?」
実際にはそれほど貸しが込んでいるとは思えないが、彼女が借りがあると感じているのなら、彼女の中ではそれが真実なのだろう。ウィルの言葉を反芻するように少しの間沈黙していたソフィアが、やがてこくりと頷いた。
……ふう……
ウィルは目を閉じてひとつ、深く息を吐く。
静かな部屋――。つと、ソフィアから、意識を放して周囲の気配を感じ取る。夜はもう遅い――到着したのが十分に夜中だったから、今はもう明け方に近いくらいだろう。周囲の部屋には目を覚ましている宿泊客はいないようだった。世界の静寂に、彼女と自分だけが取り残されているように感じる。たった二人きり。
「分かった。じゃあ、今、返してもらおうか」
瞼を開きながら彼は告げた。ウィルが視界の中に捕えたただ一人の少女は、まばたきをしてから彼の目を見つめ直す。
「返……せるなら、返したいけど」
「返せるさ」
彼女の前に、ウィルはベッドに腰を下ろしたまま、ダンスを誘うような形で手を差し伸べた。きょとんとしてその手を見下ろすソフィアに向けて、ウィルは笑いもせず、呟く。
「来いよ」
「来い、って」
「決まってるだろ、ここにだよ」
言って、自分の座っているベッドに、手を移す。ウィルの手を目で追って、視線をベッドに移したソフィアが、はっとした様子でウィルの顔を再度見た。
「君は、俺の身体に負わせた借りを返済したいんだろ。だったら君だって、身体で返すべきじゃないか?」
「なっ……!? どういう理屈よ! それとこれとは話が違うわよ!」
怒りか、羞恥かに頬を多少紅く染めたソフィアに向けていた目を、ウィルはすっと細める。
「どのあたりが?」
「どのあたりって、全然……!」
反駁しながらソフィアは、揺るがない眼差しでじっと自分の瞳を見つめるウィルから目を逸らした。動物の戦いとは別次元の話ではあるが、人間同士とて分が悪い方が先に目を逸らすのは常である。彼女は目に見えて焦っていた。理由は単純な事だろう――いつも通りの冗談を口にするウィルが、いつものように笑ってはいないからだ……