Crusade Other Story 肌の温度

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 肌の温度

「振られてしまわれたんですってね?」
 唐突に声をかけられて、振り向く。
 そこには、随分と見覚えのある女。
「失礼な言い草ですわ。あなた様の童貞を頂いて差し上げた女に向かって」
 久々に、こうしてまともに顔を合わすというのに、こんな事を言う。
 ……変わっていないな。
「久々と言っても一年と少し。そんなもので人がそうそう変わるわけはございませんでしょ?」
 まあ、確かに。
「……そんな寒々しいお顔をなさっているのでしたら、わたくしが今一度、暖めて差し上げましょうか?」
 弱っている心の隙を突いて、そうやって人を惑わす小悪魔。
 その辺りも、変わっていない。
「まあ、失礼ですわね」
 妖艶な誘惑者はくすくすと笑って、私を堕とす。

 一時の、切ない快楽に。

 二人分の吐息が、狭い室内で混ざり合う。
 濡れた音、瞳、声。
 甘いというよりはただ熱く、全てを忘れる麻薬の代わりに。
 激しく身体を重ねあわせて――意識を、飛ばす。

(こういうのは、止めようと思っていたのだが……)
 重い溜息を吐いて、彼はベッドの上に身を起こした。
 一過性の火照りの収まった裸身に、部屋の空気が冷たく染み込んでくる。
 隣を見下ろすと、こちらを向いて横向きに寝ている彼女の肩が毛布からはみ出ていたので、彼はそっと掛け直してやった。
 白い滑らかな肌。このような性格ではあったが、この女は正真正銘の貴族の出で、まさしく色も肌つやもその由緒正しき家柄にふさわしく、何の混じりけもない、新雪のようであった。ふと、女を見下ろしながら彼は自分の想い人を思い浮かべる。彼女の手足や顔以外の素肌など見たことがあるわけではないが、恐らく、この女に優るとも劣らない美しさであろうなと、考える。考えてしまってから、あまりにもその思考は不謹慎であったと彼は自分を戒めた。
 想い人にとっても――この女にとっても。
 彼女の安眠を妨げないよう、ゆっくりとベッドから出て、傍らの椅子に放り出していた衣服を身につける。
 シャツを着て、ズボンをはき、ベルトの金属音に眉をしかめながらもう一度、彼は深く嘆息する。最後に上着を取ろうとして、自分の指先が空を切ったので、彼は訝しく思って視線を椅子に動かした。一分ほど前には確かにその場所にあった上着が、ない。
「お手を」
 再度、後ろから声をかけられる。いつのまにか目を覚まし、薄布の衣服を着けていた女が、彼の上着を手に涼しげに笑う。
「いつ、目を覚ました?」
「たった今。……あなた様が溜息ばかりおつきになるんですもの。そんなにわたくしがもの足りのうございました? ああ、何と悲しいこと……」
 彼の上着を抱き込んでベッドの上に泣き崩れる女に向けて、彼は、腕を組んで小さくもう一度嘆息する。
「上着、返してくれ。皺になる」
「んまー。冷たすぎですわ」
「君の手管は分かりきっているつもりだ」
「手管だなんて、わたくしを下賎の女と同列に扱うんですの? きー悔しい」
「はいはいはい。上着。寒い。君も寒いだろう?」
 言うと、両手を合わせ、ふるふると悲嘆に暮れるそぶりをしていた女がようやくその体勢を崩し、ちっと舌打ちをした。
「舌打ちは止めなさい、舌打ちは」
「わたくしをこんな女にしたのはあなた様ですわ」
「……君の父君に対し謝罪せねばならないことは多々あるのは認めるが、舌打ちは教えた覚えがない」
「随分とお口が達者になられましたこと」
 美麗な眉の間に縦皺を刻みつつ、女が彼の上着を持ち上げる。それに彼は袖を通し――最後に上着の分だけではない重量を感じて三度、振り返る。
「あったかいですわぁ」
 彼の肩にのしかかるように抱きつく女が、うっとりと声を上げる。
「早く、君も服を……」
「あなた様の方があったかいですわ」
「それはそうだろうが。……でなくて。ほら、いつまでもこうしているわけにもいかないだろう」
「そうですわねぇ。完璧にきっぱりと恋敗れたとはいえ、つい先日まで一途に一人の女性に思いを寄せていたと知られるあなた様が、まったくそれとは関わりのない女と寝ていたなどと世間にバレてしまいましたらすさまじく体面が悪うございますものねぇ」
「…………。」
「全力で困ってらっしゃいますわね。ああいい気味」
 気分よさそうに笑う女に、幾度目にかなる嘆息が漏れそうになった瞬間、暖かく柔らかいものが唇を塞いできた。女の唇。
「溜息を一回つかれますと、一日寿命が縮むそうでしてよ。あなた様の寿命が縮まれては、みなが困るのですから自制なさいませ」
「……私が言っているのは、私のことではない」
 自分の衣服を整えはじめた女に、彼は呟く。小さな声であったが、すぐ側の彼女に届いていないわけはないだろう。だが彼女は聞いたそぶりを見せず、淡々と自分の服の帯を締めていた。
「君のことだ。……未婚の令嬢が、このような売春婦紛いの行為をしていると知られれば、家の名に関わる」
「簡単に誘われるく、せ、に」
「……それは詫びる」
「別に詫びなくともよろしいのですわよ。わたくしはそれが楽しくてお誘いしているのですから」
「だからそれを止めろと言っているのだ」
「お説教ですか? 年下のくせに生意気ー。ですわ」
 まともに言葉を聞く気など微塵もない女に、彼は顔をしかめる。小さく息を吐いて、彼は、呻くように呟いた。
「私は、何かあっても君と結婚することはできない。君のことは人間として好きだが、恋人としてはもう愛せないと思う」
 血を吐くような表情で告白する青年に、彼より五つほど年かさの女は、しばし驚いたようにその顔を見詰めてから、やがて、ころころと少女のような笑声を上げた。
「大丈夫ですわよ。わたくしとて、それは同じ事。ついでを言えばわたくしも父もあなた様のお家に興味がある訳でもありませんしね。ご安心なさいませ。わたくしも、あなた様とただ同じなだけです。人が、恋しいだけ」
 あなた様自身を愛しているのでなく。
 愛しているのは、そのぬくもりだけ。
 女の唇が、艶めかしくそんな言葉を産み落とす。
 自分が口にしたことと同じ言葉を聞かされただけだというのに、胸にちくりと針が刺さる。
「いやですわ、そんなあからさまに傷ついた顔をしなくても。それじゃまるでわたくしが悪女みたいではないですか」
 笑い声の続きで、言葉を綴る彼女に、青年は小さく、首を振る。
「……済まない」
「いいえ」
 何が、どう済まないと思っているのだか、告げた当人すらも理解できない囁きに、しかし女はただ静かに返事を返してくれた。
「また、あなた様が寂しい思いをしていらっしゃるときに、お誘いしますわ。願わくば、もうあなた様の肌の温度を知ることがないように」
「そう、願いたい」
 一年以上前に別れたそのときと、似たような言葉を交わして――青年と女は別れた。


− FIN −

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