絶望ノ甘イ蜜


 くち、くちと篭った水音が耳の奥に響く。
 自分の口中で、主に自分が発生させているその音をどこか他人事のようにぼんやりと聞きながら、けれども一心にヨアヒムは目の前の唇を食み続けていた。相手の首に腕を回し、顎先に当たる相手の髭の感触にこそばゆさを覚えながら半開きの口に舌を割り入れその中を探り、吸い上げ、飲み下し。煙草の香りがする唾液はこれまでに味わったことのある誰のものとも違っていて、先程食事をしていたときに飲んだ酒と身体の中で混ざり合って酔いを早める。
「ディーターさぁん」
 キスとキスとの合間に身体の内側に巣食う情欲をそのまま音にした声で呼びかけると、間近にある瞼が二、三度まばたきをして、焦点の合わない近さで瞳がこちらに向けられた。どこか無感情な瞳。そういえば、こんなに一生懸命キスをしてあげているというのにこの男は抵抗もしないが応えてこようともしない。
 自然と苦い笑みが零れる。彼の煙草の匂いの様に。
 ヨアヒムはディーターの唇の輪郭を端から端までつうと拭ってから顔を離し、改めて彼に苦笑を向けた。
「ディーターさん、楽しいことしてるんだから、もっと楽しそうな顔しようよ。そんなに俺とするの、嫌?」
 ソファーに浅くかけるディーターの上に、向かい合わせに座った格好でヨアヒムは小首を傾げてみせる。男の自分がやったその仕草をディーターが可愛いと思ったかどうかは定かではないが、少なくとも嫌悪の感情は見せてこなかったのでヨアヒムは笑みの中の苦味をほんの少し取り去った。
 尤も、ディーターが、ヨアヒムが今口にした行為を本当に嫌がっているわけではないということはヨアヒム自身理解してはいた。ディーターの腿の上に乗せている尻を彼の身体に擦り付けると、ヨアヒムが持つのと同じ硬い熱さが布越しに肌に伝わってくる。ふふ、と軽やかな笑みを漏らして、熱を感じられる位置を保ったままヨアヒムはディーターの広い胸に身体を預けるように寄りかかった。シャツの襟から指を滑らせて、その中にある小さな突起につつと指を這わせる。と、ほんの僅かにディーターの身体が震えたのを感じた。ヨアヒムは笑みを深める。身体は正直だ、等とは使い古されて錆が浮いたような文句だが、確かにその通りだ。この男も、誰も彼も、正直なのは身体だけ。
 男の厚い胸板にもたれながら敏感な部分を探して弄んでいると、ディーターの唇が何か言葉を紡ごうとして開かれる兆しが見て取れた。
「……ヨアヒム、お前はオットーと」
 つまらぬことを発しかけた唇にヨアヒムの唇が覆いかぶさる。
「意外。ディーターさん、気にするんだ? そんなこと」
 挑発するように言うとディーターは小さく舌打ちをした。余計なことは言わないでいい。考えないでいい。それは本来のこの男の流儀のはず。欺瞞に満ちた言葉なんて要らない。正しいのなんて、信じられるのなんて、この身体の熱さだけなんだから。
 不意にヨアヒムはディーターの厚い手のひらにぐいと頬を拭われて片目を閉じた。なんだろ。そこになにかあったっけ。理由はわからないか何故かぼやけている視界の中でディーターが面倒くさげな溜息をついている。観念したように、ヨアヒムの肉の薄い尻を引き寄せる大きな手の感触に満足して、ヨアヒムは目の前の男の逞しい首に腕を回した。



END


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なにがあったんだこれ。