パン屋と青年。その3


「むにゃむにゃ……すぴー」
 オットーの店の片隅には小さいテーブルが一つと椅子が二客、置いてある。窓際の日差しがよく差し込むその場所は、パンの陳列棚が置けなかったために代わりに年寄りの多い村人が休憩にでも使っていってくれればと設えてみたのだが、いつのまにやらすっかりとヨアヒム専用の昼寝席になっていた。差し込む日差しの暖かさが実に具合がいいらしく、今日も散々オットーにまとわりついて喋り疲れたヨアヒムは、オットーの当初の思惑などお構いなしにそこで寝息を立てていた。
「全く。どこの幼児だお前は」
 カウンターの中からその様子を見てオットーは呆れた声を上げた。柔らかい笑顔にも似た安らかな表情で寝こけるヨアヒムはまさに何の不安も抱かず眠る幼児そのものである。と、眠ったままのヨアヒムがおもむろにもごもごと唇を動かした。
「むにゃむにゃ……はうん……ああん、そんなに無理矢理突っ込んだら……俺壊れちゃうぅ」
「……?」
 なにやら不可解な寝言に、オットーは眉を顰める。陶酔したような声で呟かれる青年の寝言は尚も続いていた。
「オットーさんのって、太くて長くて……すごくいい……あふぅ」
「……!? おいこらてめヨアヒム」
 看過し得ぬことを聞いたような気がしてオットーはカウンターの椅子を蹴って立ちあがり、寝入るヨアヒムに床板をずかずかと踏み鳴らして近づいた。何の夢を見てやがるんだこいつは。叩き起こそうと伸ばした手がヨアヒムの胸倉を掴む寸前、ヨアヒムの唇がさも幸せそうに緩んだ。
「オットーさんのパンは、やっぱり最高……だけど、口に押し込むのはやめてぇ……」
「……いっぺん寝言も言えない位深い眠りに叩き落すかコイツ」
 と、冗談などでは決してなく真剣にそう思ったが、とてつもない脱力感に殴る気力を押し流されて、オットーはがっくりと肩を落とすと青年に背を向けた。
 重い足取りでカウンターに戻ろうとした丁度そのとき、からんからんと入り口のドアベルが鳴ったので、オットーは立ち止まり背後のドアを振り返った。
「いらっしゃい……よう、パメラか」
「やっほー」
 ドアからひょこりと顔を出したのは、顔馴染みの近所の村娘、パメラだった。オットーの店の常連客でもある彼女はすやすやと眠るヨアヒムの頭を「今日も相変わらずお馬鹿っぽく寝てるわねー」とぽんぽん叩いて通り過ぎ、カウンターに戻ろうとするオットーの後について歩いた。
「今日は何が入り用?」
 前を向いたまま、オットーが後ろのパメラに気楽に声をかける。パメラはゆっくりと店内を見回して、視線をひたりとオットーの背中で止めた。
「そうねえ……今日は……」

   * * *

「ふあぁ」
 窓から差し込む日差しも傾き始めた頃、ようやく長い昼寝から覚めたヨアヒムは満足そうに伸びをした。いつもの癖で真っ先にカウンターを振り返ったがオットーの姿はない。厨房に入っているのだろうか。寝覚めに大好きな顔を見られなかったことをヨアヒムは少し残念に思ったが、ふとすぐ傍に人の気配があったことに気がついて顔をそちらに向けた。
「おはよ、ヨアヒム」
「あ、パメちゃん、来てたんだ」
 ヨアヒムとテーブルを挟んで向かいにある椅子に、足を組んで腰掛けていたパメラが軽く片手を振ってきたので、ヨアヒムはにこりとして応じた。
 しかし、パメラの姿を確認してヨアヒムは不思議に思い、再度カウンターの奥の厨房の方を振り返った。彼女が店にいること自体は別に珍しいことではない。……のだが、店にいるのがヨアヒムだけで、そのヨアヒムが昼寝をしているなら、オットーはヨアヒムを放って厨房でパンを焼いていることも多いが、パメラまでいるのならオットーは裏に引っ込まず、店先で接客をしているのが普通なのである。どうしてオットーがこの場にいないのだろう。そもそも、厨房の奥は静まり返っているようで、オットーが作業をしているような気配すらも感じない。
「ねえ、パメちゃん、オットーさんは?」
 パメラの方を振り返ってそう尋ねると、パメラはおもむろに、にまりとした笑顔を浮かべた。
「オットー? オットーならここよ」
 そう言って自分のおなかをくるり、と撫でる。
「ここ、って……?」
 パメラの言わんとしていることがよく分からずヨアヒムが首を傾げると、彼女はヨアヒムの問いには答えず、口元の笑みを深めた。
「ねえ、人狼って知ってる? ヨアヒム。人間を頭から、ぱくぅ!って食べちゃう、こわぁい狼」
「知っ……てる」
 一般的な物事をよく知らないヨアヒムだったが、人狼についてなら知っていた。その古い昔話ならばこの村に住むものなら大人から子供まで誰もが聞いたことがあるだろう。普通に暮らしていた村人の中に突如として目覚めるその化け物は、夜な夜な村人を襲い、一人ずつ喰らっていくという。ヨアヒムも小さい頃にベッドの中で母親に語り聞かされて、夜にトイレに行けなくなった経験の持ち主だ。
 そんな話を、パメラは何故今語っているんだろう……?
 凍りついたように目の前のパメラを見つめていると、彼女はすっと目を細めた。それは笑顔だったが、ヨアヒムには獲物を狙う人狼の眼差しのようにも見えた。
「うふふ。オットーは、バターの匂いが染み込んでて、とっても美味しかったわぁ……ヨアヒムも、ほっぺたのお肉なんか柔らかくって、さぞかし美味しいでしょうね?」
 囁くように言ってパメラの細い指先がヨアヒムの頬を優しく撫で――
 その瞬間、ヨアヒムが弾かれたように立ち上がった。
「ばかばかばかっ! パメちゃんのばかあ! オットーさんを返せっ! 返してよおっ!」
「えっ、も、もう食べちゃったもの」
 普段は温厚で悪く言えばのろまとすら言える青年の、突如の剣幕にパメラは目を丸くして身を引いたが、ヨアヒムは尚も彼女に詰め寄った。
「吐き出してよ!」
「ええ……? そんな無茶言われても、って、よ、よあふぃっいたたた」
 ヨアヒムにほっぺたを引っ張られて、頬に彼ほどの伸縮性を持たない娘はたまらず悲鳴を上げる。しかしそんな声などヨアヒムは全く聞く素振りを見せず、両手でパメラの頬を掴みにかかった。
「きゃー、ごめんヨアヒムあれは冗だ……」
 パメラの声にかぶって、店の玄関のドアがからんからんとベルを鳴らす。
「ただいま、パメラ留守番ありがと。……って何やってんの、お前ら」
 大きな紙袋を抱えて入り口から入ってきたオットーは、パメラの頬に掴みかかるヨアヒムと困った顔でそれを宥めようとするパメラを見て訳がわからずきょとんとした。ヨアヒムは体格は普通の青年なので、女性であるパメラに暴力を加えようとしている様はあまり冗談にならない構図なのだが、その青年の頭の中身を知り尽くしているオットーにはそれが大人にぽかぽかと殴りかかっている小さい男の子のように見えてしまってどう反応していいものか咄嗟には分からなかった。それも、ヨアヒムがぼたぼたと大粒の涙を零しているとなれば尚更だ。
 訳がわからない、という感想を持ったのはヨアヒムの方も同じであったらしく、ぽかんと口を丸く開けて、入り口に立ち尽くすオットーを見つめていた。
「あ……え……? オットーさん……? パ、パメちゃんに食べられたんじゃ……」
「はぁ? 何言ってるんだお前」
 眉根を寄せて素っ頓狂な声を上げるオットーに、ようやく頬を開放されたパメラは頬を撫でつつばつが悪そうな苦笑を浮かべた。
「あはは……ほら、人狼って昔話であるじゃない、ちょっとそういうネタでからかっちゃって」
「お前なー……」
 まずオットーはパメラの方に呆れた声を投げ、そのままそれをヨアヒムの方へも向けた。
「ってかヨアヒム、そんなペーターでも引っかからんよーな子供騙し以下に引っかかるなよ。全く、どこの乳児だお前は」
「え、だ、だってパメちゃんが……パメちゃんがぁ……」
 気が抜けたようにそのまま床にへたりと崩れ落ち、声を上げて泣き出すヨアヒムを、パメラはごめんねごめんねと真剣にあやし、オットーはやれやれと首を振った。

   * * *

「全く。お前はだな、たまには自分の年齢というものを思い出した方がいいぞ。歳相応の精神年齢になれとかいう無理は言わん。ただもう少し、ほんの少しだけでいいからそこに近づくように意識だけしてみせろ。な?」
「らってぇ……」
 オットーが与えてやったパンをもぐもぐとしながらヨアヒムは、くぐもった声で抗弁してきた。それは口がふさがっているからか、いまだに鼻がつまっているからか。全くもって子供の仕草である。この青年が青年になれる日は果たしていつかやってくるのだろうか。
「あれはパメちゃんが悪いんだよう。あんな不謹慎な冗談を言うなんて酷いよ」
「不謹慎とか。お前にしては難しい言葉知ってるな」
「そこは注目するポイントじゃなーいー」
 ぷうっと頬を膨らますヨアヒムにオットーは思わず苦笑してから、その頬についているパンくずをつまんで取ってやる。もぐもぐごくんとパンを飲み下して、ふしゅんと頬の膨らみを引っ込めたヨアヒムが、ふとテーブルに視線を落として小さく呟いた。
「オットーさんにもう会えないって思ったら、凄く怖かった。……本当に人狼がやってきたら、どうしよう。本当にオットーさんが食べられちゃったら、俺……」
 そんな化け物が現実にいるわけないだろう、と鼻で笑おうとしたがオットーはその寸前で思いとどまった。俯くヨアヒムのテーブルを睨むその瞳が、茶化すにはあまりにも真剣だったので。
「食われねえよ」
 一言、低く呟くとヨアヒムははっと顔を上げた。いまだ涙に潤んで煌く子供のような純粋な瞳から顔を逸らし、ただ声だけは真っ直ぐに青年に向ける。
「お前を残して食われたりなんてしない。……毎日わんわん泣かれちゃ村の皆が困るからな」
 テーブルに肘をついた手の上でぼそぼそと呟くと、しばらくびっくりしたような目でオットーを見ていたヨアヒムは、やがて顔を花が咲くように綻ばせた。まなじりの涙が、花びらに溜まった朝露のように頬を伝って零れて落ちる。
「じゃあ俺も食われないようにするね。オットーさんが泣いたら困るから」
 泣かねえよ、とは返せなかった。
 こいつがいなくなったら、多分俺は泣く。


- INDEX -

突っ込んだら俺壊れちゃうぅネタはどこかでやりました。