パン屋と青年。その2


 最近、ヨアヒムが店に来ていない。
 だからどうした、とか、それに何の不都合があるのか、とか聞かれると、いや別に。としか答えられないのだが、単に事実として今週になってからヨアヒムはただの一度たりとも俺の店に顔を出してはいなかった。
 俺がこの村に戻ってきてここに店を構えてからこちら、ヨアヒムがこれだけ長いこと店に来なかったことなんて一度もない。最初のうちはまだ遠慮がちに二日か三日にいっぺん程度来るくらいだったのだが、今や大体連日、雨が降ろうと風が吹こうとあいつはやってきては俺に纏わり付いてきた。時たま風邪を引いても馬鹿ゆえか大抵一日で治してまたやってくる。まだぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしながら来た時には流石に即座に叩き返したが、ともかくそんな調子であいつは店に来てただ意味もなく過ごしていくことを完璧に日常の一部にしていやがった。
 別にヨアヒムが来ないこと自体については仕事の邪魔をしに来る奴がいなくなるということなので大層結構なのだが、日々の日課が何の前触れもなくぱたりと止むというのは俺を少し不安にさせた。怪我とか、馬鹿でもかかる重い病気とかで来れなくなってしまったのではないか、と心配してしまうのは友人としては当たり前のことだろう。
 ヨアヒムの家の近くにあるレジーナの宿にパンを配達に行った時、それとなくヨアヒムに何かあったのか聞いてみると、女将は何でそんなことを聞いて来るんだ?というような不思議そうな表情をして、いいや別に、と答えてきた。昨日も道端でヨアヒムを見かけてお互い挨拶したが、そのときも特に変った様子はなかったという。
「ヨアヒムの事だったらお前さんの方が詳しいだろう。今朝も出かけていったようだけど、いつもみたいにお前さんの店に行ったんじゃなかったのかい」
「出かけていった?」
「ああ。別に村の外に行こうとしてたわけでもなかったから、あたしゃてっきりお前さんの所に行くもんだとばっかり思って、どこへ行くのかとも尋ねなかったけど」
「ふうん」
 自分の漏らした相槌の声がなんだかため息みたいに聞こえて俺は少し自分にがっかりした。

「あっ」
 レジーナの店を出ると、向こうから歩いてきたヨアヒムと、それこそばったりというタイミングで出くわした。俺を見つけて驚いた声を上げたヨアヒムは、しかしいつものように俺の名前を連呼しながら駆け寄ってくることはなかった。
「……よう」
 久しぶりだな、とうっかりつけてしまいそうになったが、まだこいつが店に来なくなって五日位しか経っていない。久しぶりでもなんでもない。
 ヨアヒムは俺を見つけて丸くしていた目をぎこちなく逸らしながら、問いかけてきた。
「どうしたの、オットーさん。こんな所で……」
「どうしたのって、仕事だよ。配達」
「……あ、そうなんだ。そうだよね」
 珍しいことに、ヨアヒムの言葉の歯切れが悪い。いつもだったら無駄にいろんなことを矢継ぎ早に喋る口を持っている奴なのに。
 ヨアヒムはどこか困ったようにきょろきょろとしてから――無理矢理作った笑顔で言った。
「あ、あの俺今忙しいから……、またねっ!」
「ああ」
 いつもだったら、いい歳して定職もついてない暇なお前に忙しい時なんてあるわけないだろう、等と軽口を叩いているはずの俺の口も何故か重かった。
 立ち去り際のヨアヒムの挙動が、顔を合わせたくない相手の前から早々に辞する言い訳を探しているかのように見えて。
 せわしなく駆けて行くヨアヒムの背中を見送って、自分も店へと足を向けながら、レジーナの言葉を思い出す。ヨアヒムは今朝「も」出かけていった、と彼女は言っていた。つまりは今週も、俺の店に来ていた時と同じように毎日家を出ていたのだということなのだろう。
 ヨアヒムは、俺の所に来なくなったかわりに、俺の所でないどこかに足繁く通っていたということだ。
 そういうことか。
 俺の所以外の居場所を見つけから、だからもう俺の店に来る必要は無くなったのだ。
「……だから何だってんだ」
 俺は吐き捨てるように呟いた。
 一体何を気にしてるんだ俺は。別にそもそもヨアヒムは最初から、毎日俺の所に来ると約束して来ていたわけでもなんでもない。ヨアヒムがどこへ行こうともあいつの勝手じゃないか。あいつがいないお陰でここ数日は仕事が捗って非常にやりやすい。
 ただ、厨房が嫌に静かだというだけで。


     * * *


 今日で一週間か。
 ――何をという主語をつけずに考えたその時。それは唐突にやってきた。
「オットーさんオットーさんオットーさあーんっ」
「だーッ! 一回呼べば聞こえるっての!」
 はた迷惑な呼び声に思わず叫び返していたのは、条件反射だった。
 そうやり返してから俺は、その声が降りかかってきたという事実に混乱したが、しかし相手は俺に悠長に戸惑っている暇など与えてはくれなかった。
「えへへっ、オットーさん大好き会いたかったぁ!」
 満面の笑顔でそう叫んであいつは――両手を上げて真正面から俺の胸へと飛び込んできやがったのだ。まるで久々に再会した恋人のように。
「わっ! 何考えてるんだお前っ、俺には男色の趣味はねえってのっ!!」
 全力で俺を抱きしめるヨアヒムを引き剥がしながら慌てて叫ぶとヨアヒムはくすくすと笑いながら言った。
「えー、やだなあ。そういう意味じゃないよう」
「じゃあどういう意味なんだよ!?」
「えー? …………えー、そんなの、口に出しては言えないよー」
「おいっ!?」
 ぽっと頬を染めて横を向いたヨアヒムに俺は本気で危機感を感じ声を上げる。しかし次の瞬間にはヨアヒムは何事もなかったかのようにくるりと振り向いた。
「オットーさんに渡したい物があったんだ! はいこれっ!」
 そう言ってヨアヒムが両手で差し出してきたのは、赤いリボンとピンクの包装紙でやけに可愛くラッピングされた包みだった。
「お誕生日おめでとうっ!」
 ……。
 ……ああ、そういえば。
 言われて漸く思い出した自分の誕生日は確かに今日である。カレンダーは毎日目にしてはいるがそこに書いてある数字は大量注文の配達日や小麦粉の発注日などを表す記号であって、あまり意識には残していなかった。
 なんとなく目をやっていた壁のカレンダーから目の前に視線を戻すとヨアヒムがなにやらそわそわもじもじしながら俺の顔を見つめていた。俺がこの包みを開けるのを今か今かと待っているらしい。その期待に答えて過剰に巻かれたリボンを解いてみると、その中からはこれまた名状しようがないほどひたすらに可愛らしいミトンが出てきた。
「それね、雑貨屋さんで一目見た瞬間にね、オットーさんにぴったりだーって思ってね、働いてお金貯めて買ったんだよ! 間に合ってよかった!」
「お前の中で俺はどういうイメージなんだよ……ってか、働いたぁ!? お前が!?」
 どこの聖人君子がこのアホを雇ってくれたというのだというオットーの心からの疑問は、尋ねる前にヨアヒムが自分で語ってくれた。
「そうだよぅ。カタリナちゃんの牧場でね、一週間働かせてもらったのー! ねっ、カタリナちゃん?」
 丁度この瞬間を待っていたかのようなタイミングでからんからんとなったドアベルに、ヨアヒムは後ろを振り向いて、今店の扉を開けて入ってきた女、村はずれで牧場を営むカタリナに同意を求めた。多分最初はヨアヒムと一緒に歩いてきていたが、途中でヨアヒムが走り出して置いてけぼりにしてきたという所だろう。
「ええ。羊小屋の掃除なら、多少元より散らかっても元から散らかっていますから目立ちませんし」
 微笑みながら、カタリナがさらっとひどいことを言う。いや、カタリナ自身はフォローのつもりだし、そんな何の役にも立たないばかりか却って仕事を増やすだけの存在たるヨアヒムに、小遣い程度とはいえ給金をくれてやった彼女は聖女のような存在なのだが。
「喜んでもらえてよかったわね、ヨアヒム」
「うん、カタリナちゃんありがとうっ!」
「いいえ」
 まるで親子のようなやり取りではあるがカタリナは俺やヨアヒムと大差ない年齢の若い娘だ。
 ヨアヒムは雇い主に一通りの礼を済ますとくるりと俺を振り向いて、満面の笑みを浮かべた。
「ねえねえオットーさんおなかすいた! パン食べたいな! オットーさんのパン!」
 そんな、いつも通りの要求をしてくるヨアヒムに、俺はこれ見よがしにため息をついてやった。
「給料入ったんなら金払えるんだよな? 払ったらいくらでも食わせてやる」
「ええっ、プレゼントで全部使っちゃったよー」
 多分そんな所だろうなとは思ったが。やれやれとばかりに首を振り、余りもののパンを取りに厨房へ戻ろうとした俺に、近づいてきたカタリナが、そっと告げてきた。
「一週間、頑張ったんですよ、ヨアヒム。農場で埃にまみれたあとにあなたのお店に行ったらまずいからと、あなたに会うのすら我慢して。……まあ、あなたと会ったら嬉しくて秘密のプレゼント計画を全部暴露しちゃいそうだったから、というのもあったみたいですけれど」
「……馬鹿な奴」
 苦笑して言った俺の言葉の主語をカタリナは正確に読み取れたかどうか。
 馬鹿な奴なのは俺だ。
 ヨアヒムがそこで笑っているだけで、こんなにも嬉しい。


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べたぼれオットーさんの巻。