Lunatic


 誰もが御伽噺だとばかり思っていた人狼という存在が村の現実の中に入り込んできたのは四日ほど前のことだった。山をひとつ越えた所にある小さな村が人狼という怪物に滅ぼされたという噂話を、村に月に一度やってくる行商人が持ち込んできたのが、事の発端だった。
 人狼というのは普段は人間の姿をして村人の中に潜み、夜な夜な獣の本性を現して人を食らうとされる化け物で、村の人間なら子供の頃は誰しも親から「悪いことをすると人狼に食べられてしまうよ」などと一度ならず脅された事があるような、身近と言えば実に身近な存在ではあった。
 勿論そんな脅しは幼い子供にしか通じない。そんな怪談にもならない噂話を、村人たちははじめは当然笑い話として扱った。なんだいアルビンさん、いまどきそんな使い古しの作り話じゃ女の子は引っ掛けられないよ――
 しかしその翌日から、異変は始まったのだった。
 前の晩に、一緒にその噂を笑い話として楽しんでいた村の若者が、次の朝、村外れで見るも無残な姿で発見されたのだった。その遺体の状況は実に凄惨で、村一番の荒くれ者であるディーターですら正視に耐えきれず目を背ける程の有様だった。まさに人ならぬ者の手によって殺められたことを、如実に示していた。
 村人は、恐慌に陥った。我を失うほどに取り乱した者こそいなかったものの、彼らが村の中に潜む人狼を殲滅するために講じた策こそが、住民全員が錯乱していたことをこれ以上ないほど物語っていた。
 村人が取り決めた人狼を滅ぼす方法、それは、一日一人ずつ、人狼であると村人が判断した者を処刑していく――という悪魔の方法だった。

 言い伝えによると、人狼という化け物が村に現れると、村人の一部に村を守る為の能力に目覚める者が現れるとされている。物語の中から人狼という存在を呼び出してきた現実は、その伝承もまた忠実に再現していた。
 オットーもまた、その特殊な能力に目覚めた一人だった。
 昨日と具体的に何が変わったというわけではないのに己の中に突如目覚めた「占い師」としての力を認識したオットーは、村を救う助けになればと即日、皆の前でそれを申告した。
 しかしそれに引き続き、村長であるヴァルターが、自分こそが本当の占い師であると宣言したのだった。
 古くからの伝承に長じる村の長老モーリッツが語るには、人狼の災禍に見舞われた村に現れる占い師はたった一人だけという。
 どちらかが人狼だ、と誰かが言った。

 多分、皆に人狼だと思われているのは自分だ。
 この数日間、皆の視線を受け続けてオットーはそのことを痛感していた。
 これまで、自分なりに真摯に説得を続けてきたつもりではあったが、疑心暗鬼にかられた村人たちに声を届かせるのは酷く難しいことだった。自分は、村長のように弁が立つ方ではないし学もない。そもそも、一介のパン屋と村の有力者とでは、その言葉の信用度が端から違う。
 狩人、という、人狼を退ける力を持つ能力者も現れたと聞くが、それが自分などを護っていることもあるまい。村を救うためにとそう信じて、より本当の占い師と思われる村長の方を護ることだろう。オットーが狩人でもきっとそうしている。
 もし村長が気の触れた人間ではなく本当に人狼であるのなら、オットーが本物の占い師であることも人狼はとっくに知っているということになる。村人に信用されていない自分を、すぐにでも襲いに来ることだろう。
 それが今夜であっても、何らおかしいことではなかった。

 こんこん。
 夜の静けさの中に唐突に響いた急かすようなノックの音にオットーは心底驚いて、思わず椅子を蹴って立ち上がった。飛び出さんほどに激しく鼓動している胸をエプロンの上から押さえつけて、外に気配を気取られないようにそっとドアに近づく。
 立て付けの悪いドアの隙間から覗いてみると、そこにあったのは見知った顔だった。余りにも見知りすぎていて気が緩み、その場にしゃがみこみそうになる。
「何だよ、ヨアヒムか。脅かすなよ」
「人狼かと思った?」
 声をかけながらドアを開けてやると、その隙間からひょっこりと顔を覗かせた、どこかあどけなさの残る青年は、笑みを浮かべてそう言った。本人的には、人の悪い笑み、という感じをイメージしたのかもしれないが、元来のあけすけな性格からか純朴な笑顔にしか見えない。
「人狼ならわざわざドアをノックしてやってきたりはしないだろ」
 オットーが肩をすくめると、ヨアヒムは「それもそっか」と笑った。
「一体何の用だよ、こんな時間に」
「オットーさんに会いたかっただけだよ」
 ヨアヒムは、自分の家であるかのような気楽さでコートを脱いでダイニングの椅子の背もたれに放り投げながら言った。
「今日ちょっと街に行っててさ、今戻ってきたばっかりなんだ。宿に顔を出したんだけど、もうオットーさんは店に戻ったって言うから、来ちゃった」
「街に行ったんならそのまま逃げちゃえば良かったのに。こんな訳のわかんない魔物のいる村なんて捨てて」
「そういうわけにも行かないよ。トーマスさんのことは聞いたでしょう?」
 初めての犠牲者が出た夜。化け物のいる村になどいられるかと、皆が止めるのも聞かずに村を出て行ったのは屈強な木こりのトーマスであった。
 しかし彼がふもとの街までたどり着くことはなかった。朝になってから、村を出てすぐの森で冷たくなっている姿が発見されたのだ。最初の被害者のような外傷は一切なかったが、昨日まで病の一つもせずに過ごしていた頑健な男が突然死するというその不自然さがより皆を恐怖させた。村人たちは、人狼の呪いだと囁きあった。
 人狼を滅ぼさない限りは、逃げることすら出来ない。
 しかし、それと前後する時期に、街にパンを配達に行くオットーと行商人のアルビン、そして神父のジムゾンがそれぞれ村から出ているのだが、しかしこの三人は生きて帰ってきている。
 オットーは村に帰ってきてからトーマスの話を聞いてさすがに翌日街に行くことは控えたが、街の教会で孤児を養っているジムゾンはそれでも街へと向かった。だが、やはり彼は次の日も何事もなく村に帰ってきた。最初はそれこそが神父が人狼の証であると指摘するものもいたが、神父が占いにより人間であることが確認され、またアルビンが確実に村側に与する能力者、共有者であることが分かってからは、現在は村を出ようとも逃げる意思さえなければ呪いは降りかからないのでは、という辺りで話が落ち着いている。
 と――
「おなかすいたぁ」
 ヨアヒムが唐突に自分の腹を撫でて声を上げた。村中が極限状態に追い詰められていてもこの青年だけはいつもこんな調子だった。この明るさが、ともすれば緊張のあまり理性の糸が切れて発狂してしまいそうなオットーや、他の村人たちの心をどれほど救ってきたかということを多分この青年は知らない。
 そんなヨアヒムにオットーは、全くうちは食べ物の店だが飲食店じゃないんだぞ、と苦笑しながら台所に立った。
「売れ残ったパンと夕食に作ったオニオンスープくらいしかないぞ」
「十分十分」
 オットーは手早く鍋にあった夕飯の残りのスープを温め、パンとバターを用意して出してやった。ヨアヒムは質素なそんな食事にも、ごちそうを前にした子供のように嬉しそうに顔を輝かせる。無邪気にパンを頬張る姿に、オットーは作り手としての嬉しさと共に、言葉では言い表せない直感を覚えた。
「なあヨアヒム」
「うん?」
「本当は何しに来たんだ?」
 ヨアヒムの手が止まる。
 ゆっくりと食事からオットーの顔に移されたヨアヒムの視線は、細波一つない湖面のように静かだった。
「……オットーさんに会いにって、言ったじゃない」
「どこに人狼がいるかもわからない夜の村をわざわざ歩いてきてか」
「オットーさん?」
 ただただ真っ直ぐに見つめ返してくるヨアヒムの瞳が見ていられなくなって、オットーはテーブルの上に肘をついて組んだ手に顔を伏せた。
「分かってるんだよ、俺が占い師として信用を得られてないことくらい。狼だったら今が俺を始末する絶好のタイミングだろう。信用がなかろうとも占い師は占い師だ、下手に生かして仲間にいらない嫌疑をかけられるよりは、早々に殺した方が得策な筈だからな」
「オットーさん、どうしたの。……心配なのは分かるけど、ほら、狩人って人も護ってくれてるかも知れないし、きっと……」
「どんな狩人が、村人にも信用されてない占い師を護るんだよ!」
 ばん、とテーブルに手のひらを叩き付けた瞬間、ヨアヒムがびくりと首を竦ませるのを見てオットーは胸に小さな針が刺さるのを感じ――肩から力を抜いた。
 その怯えた様子は演技のようにはとても見えなかったが……多分ヨアヒムは、人狼であったとしても、ヨアヒムなのだと思う。とぼけた態度も皆を和ませる純粋な明るさも決して作り物ではなく。昔馴染みを殺しに来るときもこうやって、優しい。
「お前が狼なんだろう、ヨアヒム? 俺を食いに来たんなら、それでいい。俺、お前になら食われてもいいよ」
 ヨアヒムは青年にしては大きなつぶらな瞳を更に大きく見開いて、オットーをしばし見つめ――そして、目を伏せた。
「……分かった」
 小さい呟きと共に、かたんと軽い音を立ててヨアヒムは椅子を立ち、対面の椅子に座っていたオットーの側までゆっくりと歩いてきた。オットーが目の前にある淡い色の色の瞳を見上げると、その瞳の持ち主は軽く溜息をついて、オットーを抱き上げるようにして立たせ、そのままテーブルの上にやんわりと突き倒した。
 場違いながらもオットーは、食事だからテーブルの上に置くのは当たり前なのか、と思ったが――続けてヨアヒムがエプロンの中に手を潜り込ませ、腹を撫でてきた時には流石に喉から声が漏れた。
「ちょ、……なっ?」
 オットーの抗議にもならない疑問の声に、ヨアヒムは全く聞こえたそぶりもなくそのままエプロンを剥ぎ取り、無感動にシャツも引き剥がす。上着を全て脱がされ終わり、流れ作業のように淡々とズボンのジッパーに手が伸びた所で、
「や、待っ、待てっ!?」
 どうにか手を掴んで制止するとヨアヒムは理不尽なことを言われたような眼差しを向けてきた。
「何で止めるの? 食われたいんでしょ?」
「食われたい、じゃなくて食われてもいいってだけで……ってそうじゃなくてだな! 何で服を脱がすんだよ!?」
「服を脱がさなきゃ食えないよ。みかんだって皮剥かなきゃ食えないでしょう?」
 さも当然のことを告げるような口ぶりのヨアヒムに一瞬納得しかけて、その一瞬後にそんな自分にオットーは心底がっかりした。
 目を閉じてひとつ大きく息を吸い込んで、勢いをつける心地でかっと目を見開く。
「嘘付けっ!? 人狼が人を素っ裸にしてから食ったことなんてねーだろ!? この色ボケ変態馬鹿狼早く退け殴るぞ!!」
 本当に腕を振り上げてオットーがそう怒鳴ると、ヨアヒムはにこにことしながら存外素直にオットーの上から身を退けた。
「そうそう、その意気。狼が来たとしても殴り返すくらいの迫力がなきゃオットーさんじゃないよ」
「は……はぁ?」
 拳を振り上げるオットーに手のひらを向けて無抵抗を示しつつ、ヨアヒムが眉を寄せた笑みを浮かべる。
「大体いきなりなんで唐突に俺が狼ってことになるんだよ。パンとスープだけじゃ足りないなー、あと肉もくわせろーって? 確かにオットーさんはおいしそうだけどだけどさあ……口に出しては言えない意味で」
「き、気持ち悪いことゆーな!」
 脱がされた上体に鳥肌を立てながら反論する。口に出しては言えない意味というのはどういう意味だとかその辺を突っ込みたかったがちょっと真剣に怖くて聞けない。
「ただ、貞操の危機的については重々注意すべきだと思うけど、食料としてはどうかな。オットーさん肉付き悪くておいしくなさそうだしね。狼だってきっと食べたがらないよ。だから安心していいんじゃない?」
 小首を傾げてそんなことを言ってくるヨアヒムに、オットーはしばし訳がわからずぱちぱちとまばたきをしてから――それが不安を覚える自分への慰めの言葉であったのだと漸く気付く。このたちの悪い冗談も、襲撃の恐怖に怯えるオットーへの彼なりの慰撫だったのだ。
 ヨアヒムはそっとオットーの髪に手を触れた。男にしては長めの黒髪をさらりと指でからめとるようにしてから、すぐに手は離された。
「さてと。じゃあ俺、そろそろ帰るね。晩御飯ありがと」
 髪からヨアヒムの体温が離れて、それがオットーの頭を急速に冷やす。オットーは、自分がヨアヒムにとんでもない暴言を吐いていたことを思い出した。
「ヨアヒムっ! ごめん、本当にごめん、俺……」
「え、何がごめんなの? ご飯はいつも通りにおいしかったよ?」
 本当に何も分かっていないかのようにきょとんとして言うヨアヒムに、オットーは誓うつもりで言った。
「占い師がこんなんじゃダメだよな。俺が諦めたら村が滅んでしまう。どんなにきつい状況でも皆の為に最後まで、頑張んないとな」
「……うん、頑張って。オットーさんならきっと大丈夫」
 コートを着ながらヨアヒムは微笑んで、ふと気付いたように付け加えた。
「それよりオットーさん、早く洋服着たほうがいいよ。色っぽすぎて俺困っちゃう」
「誰の所為だよ馬鹿!」
 オットーが放り投げたスリッパがヨアヒムの頭に上手い具合に当たった。

 村を包む人狼の妖気にあてられてか、虫の声すら聞こえない静謐な夜道で――
「本当は、村なんてどうでもいいんだけど」
 オットーの前では言わなかったことをヨアヒムは一人、オットーの家を振り返り、呟く。
「オットーさんが本物の占い師でも、狂人でも、仮に狼だろうと、別に構わないんだ。俺はオットーさんしか護らないよ。例えそれで村が滅んだってね」
 闇に閉ざされた村を照らす月明かりの下、ヨアヒムは、透き通るほどに無邪気な笑顔を浮かべて弓矢を番える仕草をした。



END


- INDEX -

天然狂人ヨアヒムこえーでござるの巻。
ボケヨアがオットーさんを慰めるって明け待ちの星とネタ被りだけど気にしちゃダメと言うか何と言うか。ワンパターンでごめんなさい。