明け待ちの星


「残念だったな、ヨアヒム」
 オットーとヨアヒム、二人の占師の判定が初めて分かれたことについて興奮したように論議していた村人たちを静めたのは、纏め役であるヴァルターの一声だった。普段は話し合いに余り口を挟まないヴァルターの発言に皆が注目する。ヴァルターは、村人たちの耳目が一身に集まったのを確認してから心なしか誇らしげに背を反らせ、皆に少し遅れてゆっくりと顔を向けてきたヨアヒムに、先の言葉をもう一度繰り返して告げた。
「残念だったな、ヨアヒム。今、お前が黒判定を下したカタリナは私の相方……共有者だ。真占師はオットーで確定だ」
 一瞬――宿の広間に完全なる沈黙が落ちる。
 だが次の瞬間には静寂は爆発のような歓声で破られた。占師の確定は、村に紛れ込んだ人狼の排除に極めて有効な武器だ。これで生き延びる道が見えた――人狼の災禍に見舞われた村に久々に訪れた希望に皆が喜びの声を上げる中。
 たった今、偽占師と、狼の手勢と断定されたヨアヒムは、
「……ちぇ、折角上手くやってたのに」
 ほんの些細な悪戯がばれた子供のように苦笑して、小さく呟いていた。



 宿に程近い、村の自警団の小さな詰め所にひとつだけある粗末な牢屋。
この数日の間、何人かの疑わしい村人を収容し、処刑台に送り出してきたその場所に、彼は会議場から離れて一人、足を運んできていた。
 薄暗く微かに湿った空気が篭る、石壁に囲まれた廊下の突き当たりにある小部屋の前に立って格子越しに中を見る。視線の先には、天井近くに設えられた格子の嵌まった小さな窓から微かに漏れてくる白い星明かりを浴びて、部屋の片隅に置かれた硬そうなベッドに腰掛けてただぼんやりと虚空を眺めている青年がいた。その姿は、ただ放心しているようにも、物思いに耽っているようにも見えたが、悲壮さは感じられなかった。
 明日の夜明けと共に処刑されることが決定されているにもかかわらず。
「ヨアヒム」
 その場に立ったまま声をかけると、それまで微動だにせず空を見上げていたヨアヒムは、即座にこちらを振り向いた。声で分からなかったはずはないであろうのに、自分に声をかけた相手の姿をその目で直に認めてから、ヨアヒムは初めて夢から醒めたように腰を浮かせた。
「オットーさん? 何してるの、こんな所で」
「飯」
 牢の扉の小窓を開き、持ってきたトレイを差し入れながら簡潔に告げる。
「ありが……とう」
 ヨアヒムは礼を言いながらそれを両手で受け取り、見下ろして、困惑した表情を浮かべた。トレイの上に乗っているのは、柔らかな白パンと大きな肉が入ったビーフシチューと彩りの良いサラダとチーズが三切ればかり。こんな場所には不釣合いなほどに華やかな晩餐だった。
 白い湯気が穏やかに立つ夕食を見つめたまま動かなくなってしまったヨアヒムを、オットーは顎を上げて促した。
「暖かいうちに食えよ。腹、減ってるだろ」
「……減ってるけど、これ」
「皆が宴会してる所から持ってきたんだよ。変なものは入ってない」
「俺なんかに持ってきて、誰かに文句言われなかった?」
 そんなヨアヒムの言葉に、オットーはふんと鼻を鳴らした。
「誰も何も言わないよ。言わないし、言わせない」
「でも、だって、俺は」
 狼の仲間なのに。もっと直接的に、狼なのに。だろうか。
 声に出しては言わなかったが、そんなことを告げてくるヨアヒムの瞳に、オットーは険悪に歪めた自分の顔を映した。
 そんなオットーの怒りの形相を見て、ヨアヒムは怯えた子犬のようにきゅっと目を伏せる。
 ヨアヒムの態度にオットーは何かを叫ぶかのように一旦口を開いたが、実際にそこから漏れたのは、深く静かな溜息だけだった。
「馬鹿じゃないのか、ヨアヒム。だから何だって言うんだ」
「何、って……」
 呆けた声を上げるヨアヒムから、オットーは目を逸らしそれ以上は何も言わなかった。意地を張るように黙りこくったままのオットーを見て、ヨアヒムは硬いベッドに座り直してフォークに手を伸ばした。
 しばし、かちゃかちゃと食器の触れ合う音のみを響かせて、ヨアヒムは黙々と食事を口に運んだ。
「……おいしい」
 ふと、囁くようにヨアヒムが漏らした。
「当たり前だろう、俺が作ったんだから」
「え、レジーナさんじゃ」
 反射的に呟いたヨアヒムは、そこでぷつりと言葉を切った。
 村一番の料理の名人、宿屋の女主人のレジーナは、もうこの世にはいない。二日前に人狼に襲われ、見るも無残な姿で発見されたのだった。
 ――ヨアヒムはもそもそとサラダを口に押し込んだ。
「もう……戻りなよ。こんな所にいたら、危ないよ」
 食事の様子をいまだ黙って見つめているオットーに、ヨアヒムは声をかけたが、オットーは首も振らずに答えた。
「レジーナは宿の自室で殺された。ディーターは酒場で殺された。別に夜道やお前の傍が特別危険ってわけじゃない」
「それは、そうだけど」
 ヨアヒムはまだ逡巡しているようだったが、意思を曲げるつもりのないオットーに諦めたふうに溜息をついた。こんなときのオットーに何を意見した所で無駄だということを、ヨアヒムは知っているのだ。
 そう……知っている。
 村に突如現れた人狼や狂人は、何も村の外部からやってきて、村人に化けたわけではなかった。
 今まで同じ村に暮らしていた村人の中に、本人すらも知らず眠っていた人狼の血が突如目覚めたのだった。占師や、共有者などの村側の能力者もそうだった。
 だから、ヨアヒムは知っている。長年付き合い続けたこの幼馴染のオットーという男が、どれだけ強情で、ぶっきらぼうなのに……優しい人間なのかを。
 村人も、ヨアヒムの事を知っている。子供の頃から泣き虫で、活発なオットーやディーターの後をいつも追いかけるようにして育ってきたヨアヒムの事を。
 オットーも……
 ――唐突に、
 オットーはエプロンのポケットから鍵束を取り出して、その中のひとつを扉の鍵穴に差し込んだ。回すと、かちゃりと小さな音が冷たい石壁に反響する。
「オ、オットーさ……?」
 驚愕に目を見開くヨアヒムの前でオットーは扉を大きく引き開けて狭い牢獄の中に入った。
 格子越しでなく、直に二人は向かい合う。
 ヨアヒムはオットーの挙動に対する驚きの余り声すらも出ないらしかったが、二、三、呼吸する間をおくと、ようやく気が戻ってきたらしい。オットーの肩に触れようと手を伸ばしかけ――けれどもそれは躊躇して、手のひらを胸に引き戻してからヨアヒムは震える声で言った。
「ダメだよオットーさん。分かってるでしょ、俺は、狼かもしれないんだよ」
「どこにいたって一緒だって言っただろう、さっき」
「でも」
「でもじゃない。お前が狼なら逃げろよ。今ここで俺を食い殺して。扉は開いてる。簡単だろう」
 重ねて言い募る口調で言うとヨアヒムは溜息のような音を漏らして顔を背けた。ヨアヒムの横顔に目を向けると、その口元がゆがんでいるのが見えた。溜息でなく苦笑であったらしい。自分の処刑を前にして、悟ったようなそんな表情を浮かべるヨアヒムを見て、オットーの胸のうちに湧き上がってきたのは哀れみでもなんでもなく、怒りだった。ヨアヒムの襟元を掴み上げる。
「何で諦めるんだよ。どうして逃げないんだよ。牢屋の扉は阿呆な占師が開けてしまった。お前はそこからただ外に走って逃げればいいんだよ!」
「だって、こうなることは最初から覚悟していたもの」
 オットーの手を払いのけもせずに、ただ少しだけ困ったような笑みを浮かべてヨアヒムは言う。
「占師を騙った俺の仕事は、仲間を生かすことだから。だから自分が処刑されるのも仕事のうちなんだよ。それに、俺が逃げたらオットーさんが困ることになる。いくら占師だと言っても……そこまでしちゃったら、皆に許してもらえない」
「俺はッ!」
 叫んで――白い手の甲に血管が浮き出るほどに強くヨアヒムの襟首を掴んでいたオットーの手から、急速に力が抜けていく。オットーの肩に生まれた戦慄きが震えに変わり、腕を伝ってヨアヒムの首筋に触れた。
「俺はお前がいなくなるのなんて、いやだ。一緒に逃げよう。それが無理なら殺して。どこへでもいい、一緒に連れて行ってくれ」
「オットーさん」
「狼でも何でもいい。お前はお前だよ、ヨアヒム。お前がいない世界に生き残ったって何も意味なんてない……」
 オットーは襟首を掴んだままくず折れるようにヨアヒムの肩に額を寄せてきた。気丈なオットーが年下のヨアヒムにこのように縋り付いてくることなど、今迄一度たりともなかったことだった。
「オットーさん……」
 ヨアヒムは、暫くの間力なく俯く頭を見下ろしてから、先程は触れるのを躊躇った手を、意を決したようにオットーの首に回して肩を抱きしめた。そして、幼子にそうするように優しく語りかける。
「まずね、オットーさん。仮に俺が狼でも、俺はオットーさんを殺せない。オットーさんが俺が死ぬのがいやだって言うなら、俺だってオットーさんを死なせたくないって思ってるのは分かるでしょ?」
 そっとオットーの柔らかい黒髪を手で梳くと、オットーは微かに頭を頷かせた。それに満足して、ヨアヒムは微笑みを浮かべる。
「俺は仲間を裏切れないし、オットーさんも村の皆を裏切っちゃいけない。だから、一緒に逃げることも……ごめんね、できない」
 今度は反応はなかった。が――聡いオットーの事だ。本当は、ヨアヒムがどう答えてくるかなど、最初から分かってはいたのだろう。
 叶う事のない願いだということは、最初から分かっていたはずだ。
 鏡が運命を告げた最初の日、自分の目の前で名乗り出たもう一人の占師を目にしたあの瞬間から。
 ヨアヒムはまたオットーの髪を梳いた。それはオットーを落ち着かせる為でもあったが、何より自分がそうしていたかったからだった。
「俺ね、少し安心してるんだ。少なくともオットーさんが村人の手で処刑されるなんてことはなくなったから。本当の占師なのに、村人のために力を尽くしているのに、村人に疑われて殺されるなんて酷いよ。それも……俺がオットーさんの立場を騙ったばっかりに。俺のせいでオットーさんが殺されるなんて……」
 ぎゅ、と、オットーの髪に絡ませた手に力を込める。掴んだまま、もう二度と離れなくなる程に。
「俺、そんなの耐えられなかったから。だからこれでよかったって思ってる。仲間には……悪いことをしちゃったけど」
 オットーは、もう答えなかった。ヨアヒムも、もう何も言わなかった。二人とも、一言も発しないまま互いの肩を抱いていた。オットーの震えはもう止まっていた。
 やがて――
「全く、お前は、いくつになっても馬鹿なまんまだな。いつだって考えるのは人の事ばっかりで……いつも自分が損をする」
 顔を上げたオットーの表情からは弱弱しさは消え、冷静そうな顔の目元だけにいつもの、頭は悪くとも愛らしくて仕方がない子犬を見るかのような笑みが浮かんでいた。
「たまには自分だけの望みを言えよ」
 そんなことを呆れ交じりの溜息のような声で呟くオットーに、ヨアヒムは少し驚いたように目を見開いてから、ふわりとそれを細めた。
「じゃあ、ひとつだけお願い」
 満天の星空を切り取って映す、小さな天窓を仰いで、囁く。
「あと少しだけ、ここで一緒に星を見ていて」
 ささやかな。本当に、悲しいくらいささやかな願い。
 次に生まれ変わったときは、生涯二人で共に歩める存在に、生まれることが出来ますように。
 ゆっくりと、ゆっくりと、星は地平に、夜明けに向かっていく。



END


- INDEX -

初めてこのコンテンツで小説らしい小説を書いたなあ、とは思う。
とりあえず、作風が自分のものとは何か違う気もするが、思いつきなのでこれでおk。