何の変哲もない真夏の夜
「ごめんなさい。私、スズキが好きなの」
罪悪感は感じるのか、長い睫の並ぶ目を伏せて、彼女は囁く。ツマにはスズキが寄り添っている。僕のコイの居場所は最早、どこにもないようだった。
「……僕はコイが好きなのに」
掠れて消えそうな僕の呟きに、彼女は力無く首を左右に振り、唇を震わせた。
「コイって何か泥臭いんだもん。川魚ってちょっとね」
「スズキだって臭い奴は臭いじゃん……」
僕は少し唇を尖らせながら、ぷりぷりとしたスズキの洗いに箸を伸ばし、わさび醤油で頂いた。
お詫びに少し珍しいお酒を出してあげる、と、彼女が冷えたグラスに注いだのは、淡い琥珀色の液体だった。ウィスキー? いや、香りが違う。なんとなく紹興酒っぽい気もするが、どこかで嗅いだことがあるような、初めて嗅ぐような芳香だ。
ちびりと舐めてみると、ひんやりと冷たく、少しとろりとしていて濃厚な甘みがある。だがアルコール分はそこそこに強いものらしく、舌がぽうっと熱を持った。
「これは?」
「『本直し』って言うそうよ」
「『本直し』?」聞いた事がない銘柄。……銘柄ではないのかも。
「みりんを焼酎で割ったものなのよ」
「へぇ? みりんって、料理に使うあの?」
「そう」
正直、料理の知識の殆どない僕は、本来みりんがどういう味のする物なのか全く知らない。というか料理酒とみりんの違いすらも分からない。そう言うと、妻は「どっちもアルコールだけど、料理酒は日本酒にお塩とかが添加されたもの、みりんは忘れたけど確か醸造方法が根本的に違ってて、凄く甘いのよ」と教えてくれた。へぇ。
「江戸時代あたりでは割とメジャーなお酒で、暑気払いに、井戸で冷やして飲んでいたそうよ」
「それは風流」
妻の講釈を聞きながら、グラスを口に運ぶ。独特な風味とどこか懐かしい甘さが鼻を抜ける。
真夏の盛り、涼やかな風鈴の音を聞きながら、江戸前の白身魚をつまみに飲まれていた冷たく甘い酒。薄暮に彩られた縁側で、庭木の間を抜けて来る風を感じながらそれを呷っている情景を思い浮かべ、しがないマンション暮らしには到底手の届かないその贅沢さを空想の中で楽しんだ。
ああ、甘露。
ま、よく考えれば、熱帯夜の暑気を遮るクーラーの効いた部屋で、ダイニングテーブルの対面に座る妻の顔を見ながら本直しを飲みスズキに舌鼓を打つのも、負けず劣らずの贅沢かもしれない。
グラスを口元につけながらふっと笑った僕に、テーブルに肘をついて何気なくテレビを見ていた妻がふと気付き、少し怪訝な表情で首を傾げた。
「何でもない。明日も仕事頑張ろうって思っただけ」
何の変哲もない真夏の夜は、バラエティ番組の笑声に乗って、今日も変わらず更けていく。
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