幸せの漸近線


「他に好きな女が出来た」
 男は女に静かに言った。
 男の顔を色の失せた顔でただじっと見ていた女は、やがて長い睫の並ぶ瞼をそっと閉じ、ほろりと涙を流した。
「ごめん」
 心変わりをなじる声もなく、ほろほろと透き通った涙を落とし続ける女に、男はただ、謝っていた。
 珍しいかもしれない、よくあることかもしれない、一つの恋の終わりの風景――



「っぽく見えるだけで実は誰も失恋なんてしてませんでしたとさ」
「ひ、酷い和也。こんなに完全無欠の失恋をした直後の女の子に向かって」
 風薫る並木道にチャリンコを気持ち良く走らせる俺に、背中から愕然とした声が投げかけられてくる。後部座席から、先程、彼氏であった男に別れを告げられた時にも一切露わにしなかった怒りをぶつけくる女に俺は一瞬だけ進行方向から視線を外してじっとりとした横目を向けた。
「嘘つけよ。お前恋なんてしてないじゃないか」
「失礼な! 今回はしてた筈ですよ! 坂下君はとても優しくていい人でした」
 女は憤慨した声で叫ぶと、一転萎れたように俺の背中にぎゅうっとしがみついて、失われた思い出をひとつひとつ大切に拾い直して行く声で呟く。
「映画を沢山見ました。遊園地にも連れて行ってくれました。おしゃべりもいっぱいしました。楽しかったです。もう二度と一緒に遊べないと思うと胸にぽっかりと穴が開いた気分になります」
 その痛切な、大切な人との別れに打ちひしがれた声音だけを聞けば説得力らしきものも感じられたかもしれないが、けれどもよく内容に耳を傾ければそんなものは全然ない事が分かる。愛を失った事じゃなく、遊び相手がいなくなった事が悲しいってきっぱり言ってますよねそれ?
「それは親友が遠くに転校する悲しみと何が違うんだ?」
 恋じゃない。絶対にその感情は恋と定義すべきものじゃない。思わず俺は嘆息するが、それは俺にとってもこの女にとってもあまりにも今更過ぎる指摘だった。この女自身、自分にある種の感情が欠落している事は重々承知している。
 この女はどういう訳か、恋愛という感情を全く理解出来ないのだった。
 けれども女は往生際悪く、唇を尖らせて不服を表明する。
「それまで親密に付き合っていたというのに恋人関係が終了した途端に疎遠にならざるを得ないという現実には本当に納得行きません。憎しみあって別れたのならともかく、他により好きな人が出来たくらいで交際を断絶する必然性なんてないのに」
「二股はいかんだろ」
「男女交際という意味ではなくて。私が、肉体関係を複数人と持ち続けることを推奨しているわけじゃないのはあなただって知ってるでしょう。寧ろそれはきっぱりと非推奨です。万が一複数人を同時に妊娠させてしまったり、誰が父親なのか分からなくなったりしたら色々と深刻な問題に発展しますもの。そうじゃなくて、他に好きな人が出来たならその人と改めて恋人の契りを交わせばいいとは思いますが、だからって元の恋人との交友関係まで切ることはないじゃないですかー。寂しいよううわあああん」
 ……こいつは決して冷淡で愛情に欠けている訳でも、節操がない訳でもない。寧ろ逆だと言っていい。
 彼女の心の中は愛で満たされていて、聖人の如くそれのみで満たされ過ぎていて、自然と誰も彼もを平等に愛してしまう。親も友人も恋人も、全てが等しく大切で手放したくない存在ではあるが……誰かを一番にするという事が出来ず、一緒にさえいられれば相手の一番である事にも拘らない。だから、この女の恋人となる男は、恋人気分であっては決して耐えられない。決して本当の意味で自分だけのものになってくれることのないこの女と接していると、愛されているという自信がどうしても揺らいでしまうのだ。この女は絶対に相手を裏切らないから、或いはいずれ家族愛に移行する結婚相手としてならこの上ない相手なのかもしれないが……。
「お友達でいてねって言えばいいだろ」
「言ってお友達でいてくれた人なんてあなたしかいないんですよう。後は単純に避けられるとか、彼女が嫌がるとか言われて会ってくれなくなるとか。酷いのは、会ってはくれるんですけど再び肉体関係を結ぼうなどという不埒者がいるということです!」
 息巻いて叫んでから、女の気配が急速に冷えた。その理由には微妙に心当たりがあるので俺は黙り込む。
「あなたも前はそうでしたけどね。まったくもって失礼な話です。私はそんなに尻軽じゃないです」
「あの頃は、お前の複雑過ぎる性格をいまいち把握しきれてなかったんだよ」
 別れてからも親しげに話し掛けて来られたら、そりゃまだ俺に気があるのかなって思うじゃないか。なのに、次に付き合った女と些細な喧嘩をしてしまった時、親身になって話を聞いてくれたこいつにうっかり手を出そうとしたら、烈火の如く怒られた。喧嘩中と言っても彼女がいるのに何を考えているんですか! 私はそういう思いやりのない行動を取る人と友達になった覚えはありません! 不潔! 不誠実! 最低鬼畜無責任男! ちん○もげろ!
 あの剣幕を思い出しながらぶるっと身震いした俺に、背中から腰に回される彼女の白い手が何の前触れもなく俺の腹をくるっと撫でた。うわくすぐってえ!? チャリに乗ってる時になにすんだこの馬鹿!
 発作的に振り向きそうになる寸前、耳の真後ろに近づいていた温かな気配がそっと艶めかしい音を漏らす。
「恋人になってくれますか? なってくれたら構いませんよ。丁度今、フリーになった所です」
 そんな熱気を帯びた不意打ちを注ぎ込まれて、不覚にも俺の雄の部分が鎌首を擡げた。元々、この女とは身体の相性は良かった――
 だが、衝動をぐっと理性で抑え込む。
「嫌だ。どれだけ頑張ったってお前は俺に恋しないんだもん。そんな不毛な恋人関係はもうこりごり」
 この女の一風変わった思考回路を理解した上で、一度はそれでもいいと思ってよりを戻したこともある。彼女にとって恋人は、肉体関係を許可した友人にしか過ぎなかったけれど、一番近くで付き合っていれば、いつか俺だけの事を見て、俺だけの事を一番に想ってくれるんじゃないかと夢見ていたから。
 けど、だめだった。俺は恋愛には恋が必要な人間で、彼女は執着に戸惑いを感じる人間で。
 お互い、余計傷ついただけだった。
 だから今は親友でいる。これが互いにそれなりに満足していられる幸せの漸近線だったから。
「ドキドキが味わいたいなら吊り橋でも渡っていればいいのです」
 恋する者を彼女はそう非難する。それでいて、こう賛美もする。
「恋とは一体どんな素晴らしいものなのでしょう。きっとわたあめのようにふわふわしていてきらきらしていて甘くって、それはそれは夢のように美しい気持ちだと思うのです」
 こんな憧れが、もしかしたら恋に近いのかも知れませんね、と彼女は笑う。まさしく恋に恋する女ですね、と綺麗に笑う。
「ねえ和也。私をときめかせてくれませんか」
「もう二度と不毛な戦いには参戦しないことにしたの俺」
「くそう。この短時間に二人もの人に振られるなんてえ」
 ぎりぎりと歯噛みするような、心の底から悔しそうな声で女はそう言って、しかしすぐさま声色をころりと朗らかなものに変える。
「ところで、失恋する度にこうやって和也に迎えに来てもらって一緒に帰るのは実は私、ちょっと楽しいんです。悲しい失恋イベントの唯一の楽しみです」
「失恋を楽しむな」
「神様は、世界のありとあらゆる所に楽しみの種をこっそり潜ませてくれているのです。悲しさに打ちひしがれるばかりで隠された楽しみを見出せなくなったら勿体無いですよ」
「次はちゃんと種から芽が出るといいな」
「むむう、そうやって傷を抉るような事を。和也は何でそんなにいつも冷たいんですかね」
 ぶぶうー、と尖らせた唇から小汚い音を漏らす女に、俺は前を向いたまま、きったねえなあと呟いて、口の端に笑みを浮かべる。俺は今、この女に恋はしていない。していないけれど、こんな時に彼女が俺を真っ先に頼って来るのは……嬉しい? 楽しい? 誇らしい? まあ、その辺のどれかだ。多分、昔の女の為にいそいそとペダルを漕ぐ俺は、傍から見たら失笑する程に阿呆な男なんだろうが。
「恋がしたいよう」
「出来るといいな」
 風を切り、恋に恋する女と都合のいい男を乗せたチャリンコは、並木道を軽快に走ってゆく。


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