注文の多いあの店の話


「どうも遭難したみたいだてへぺろ」
 と、連れの友人が某洋菓子店の人形宜しく舌を出したのは、濃緑の天蓋の下を小三時間程も歩きに歩いたその挙句の事だった。俺は死んだ魚のような瞳を友人に向けたものの特に文句も言わずに頷いた。うん、知ってる。観光案内所で貰ったハイキングコース案内の栞には所要時間四十五分とか書いてあったしな。
 特に意味も理由もなく野郎二人で突発ハイキングという、実に学生らしい無鉄砲且つ無邪気且つ無価値且つ無彼女な休日の消化を行いに、今朝方遥々高速を飛ばして隣県のとある森にまでやって来た我々だが、小三時間程前やはり突発的に友人が、人の引いたレールの上を歩むのは我慢ならんと道なき道に足を踏み入れたのが運の尽きだった。教訓、遊歩道から外れてはいけません。人様の引いたレールの上は割合安全です。
 下草を掻き分け草木の合間に隘路を作って行く連れの足取りが実に自信に充ち溢れたものだったのでよもや遭難したとは思わなかった、等と弁明するのは甘えだろう。少なくとも一時間程前にはまずいんじゃないかこれと気付きつつ、現実を直視する勇気を絞らなかった時点で十分自分も同罪である。いやコースを外れるのを止めなかった時点で既にか。とりあえず本日我々の青春の一ページに刻まれるのが日常の延長たる下らない遊びの記録のみならず、捜索及び救助されるというご迷惑と恥の履歴となる事だけは回避すべく黙々と森林を徘徊し続けていたのだがどうにも上手い事行かず、友人はついに一つの節目を付けるべく冒頭の文句を発したようだった。
「おなかすいたな。何かおやつ持ってない?」
「ない」
 特に緊張感もない友人の声に俺は短く答える。平板な行楽地と高を括ってやってきた為パーカーのポケットには何の非常食も持ち合わせてなどいない。普段着と変わらぬ軽装が酷く不安となった。人の手の入っていない森林は足場も悪く見回せど目に映るのは特徴のない景色ばかりで、ここが文明世界の一角であるという事の方が嘘のように思えて来る。
 と、その時何の脈絡もなくごうと風が吹き、周囲の木々を激しくざわめかせた。耳を風が切る音に眉を顰めながらその突風が止むのを待ち、落ち着いた所でふと何とはなしに背後を見やる。
 そこに、一軒の建物が建っていた。
 それはレトロモダンな雰囲気の瀟洒な洋館だった。唐突としか言いようのない建物の出現に、俺は心底戸惑った。森はどうしようもなく鬱然としていたが、いかなこの枝葉でもこれ程近づくまで建物の存在に気付かせずにおく事が可能とはどうしても思えなかった。大体こちらの方向から俺たちは歩いてきたのである。まるでこの建物が、何もなかった場所に突如湧き出たようにしか思えなかった。
 しかし友人はただ僥倖とばかりに洋館の玄関ポーチに近づいていく。
「助かった。こんな所に民家があるなんて」
 その玄関には看板が掛かっていた。
『レストラン 山猫軒』
「…………。」
 きっかり三秒程、俺は硬直した。固まるなという方が無理だ。突如家屋が現出するという怪奇現象も寧ろ納得する。何の捻りもなく『注文の多い料理店』ぢゃねーか!
「レストランだなんて渡りに船だね。早く入ろう」
 笑顔で促す友人に、俺は錆付いたような首をギギギと動かしてどうにか告げた。
「なあ、俺んちの先祖伝来の家訓でな、遭難しても『山猫軒』にだけは入るなって言われてるんだが」
「何それ。そんな代々言い伝えられる程不味い店なのか?」
「不味いっていうか拙いっていうか」
 本来俺はこんな白昼夢じみた超常現象なんぞに怯えるようなタチじゃない。が、その俺の感性を以ってしても回避が当然と判断させうるナニかがこの状況にはあった。
「まあ、この際味はどうでもいいじゃないか」
 しかし友人は何ら疑念を抱かぬ顔をして、立てた親指で建物の扉を示して見せた。
『どなたさまもご自由にお入りください』
「ほら、こう書いてある事だし」
「いやいやいや! だめだろうこれ、本格的にだめだろう!?」
「なにが?」
 きょとんとした目を俺に向けたまま玄関のドアを開き、友人は中に入っていく。このまま見送ったろかいとも思ったが、悲しいかな俺はそこまで薄情な人間ではなかった。ていうかここに一人取り残されるのも怖い。
 玄関に足を踏み入れるとそこは真正面に扉のある廊下となっていて、その扉にも貼り紙がしてあった。
『太った方、若い方歓迎し』
 ガチャ。
 ……。
 別に貼り紙の文句が中途半端にしか書いてなかった訳でなく、俺の目がその辺までしか追わない内に友人の手により扉が開けられたのだった。余程腹が減っているのか、若しくは取説読まないでゲーム始めちゃうタイプか。
 その先も同じような扉で遮られた廊下で、奥の扉にも貼り紙は貼ってあったが、
『当店は注文の多い料理店』
 ガチャ。
 案の定完全スルーの勢いだ。こんな店に同情する気はないが大概せっかちな野郎だな。読んでやれよ。
 その次の扉の前には小さいテーブルがあり、上にブラシが置いてあった。
『髪を梳かして靴の泥を落として下さい』
 ガチャ。
 えー。注文もスルーかよ。注文の多い料理店形無し。
『コート』
 を脱いでその辺に掛けて下さい、という旨の注文に対しては、友人は初めて従う姿勢を見せた。恰も次の注文が既に分かっていたかのようなスムーズさで、歩きながら脱いでいたコートを足を止めずに壁に掛けててくてくてくガチャ。何だその華麗な流れ作業。
 次の扉の前には硝子の壺が置いてあった。
『クリームを手足に塗って下さいオネガイシマス』
 何か懇願されてるぞ。
 視線を向けると、友人はひたりと足を止めた。無下に扱い続けた姿無き相手に対し漸く憐憫の一つも覚えたのかと思いきやどうやらそうでもないらしい。俺の位置からだと友人の姿は背中しか見えず、その表情を窺い知ることは出来ないのだが、どういう訳か奴が酷く剣呑な視線で壺を見下ろしているのが判った。あれか、これが背中で語る男という奴か。多分違う。
 そのまま繁華街のチンピラ宜しくその壺を蹴り転がして先に進むかと思ったが、存外にも友人は壺の中に手を突っ込み、中のミルキーなクリームをたっぷり手に取って手足にや顔に塗りたくった。え、何でよりにもよってこんな不可解極まる注文には素直なんだ? 正直来客を料理にして食っちまおうという伝説の店の意図よりも我が友人の行動基準の方が分からない。
 扉を開け次へ進むと今度は金の香水瓶が置いてあった。
『香水を頭からかけて下さい』
 大元の物語ではここで出て来るのは何だっけ。酢か。クリーム塗って酢をまぶすとかどういう料理だよ、と幼心に突っ込んだ記憶がある。やはり何故かこの指示にも従順に従う友人が置いた瓶の匂いを俺は嗅いだ。しかし予想に反してその液体は、匂いらしい匂いが殆どしなかった。ごく僅かにどこかで嗅ぎ覚えのある香りがしたような気がしたが、これ何だっけ。
 首を傾げながら先へと進む友人に続く。
『これで最後です。この粉を全身によく擦り込んでください』
 壺に入っているのは粉だった。塩……にしては、どうも茶色い。訝しく思ってこれもまた手に取り嗅いでみると樟脳みたいな匂いがする。ああ、嗅ぎ覚えのある香りはこれだ。どうでもいいが、いやあんまりよくないが、樟脳まみれにされた俺たちは一体どこへ行くんだろう。
 友人はその粉を掴み何の躊躇もなくぶわっと浴びると塩を撒く関取の如く何故か俺にも浴びせかけた。何をすると睨むと、友人は真顔で一言宣った。
「なあ、これって何か、レストランにしてはおかしくないだろうか」
「えっ今気付くのそれ!?」
 ここまで疑問を覚えなかった方が寧ろすげーよ。俺はこれ以上ない程驚愕して茶色い粉まみれの友人の顔をまじまじと見た。友人もまじまじと茶色い粉まみれの俺を見返した。
 が、野郎同士の見つめ合いは、最後の扉の奥から聞こえた、かりかり、と何かを引っ掻くような音に遮られた。
 かりかり。まるでそれは猫が爪を研ぐような、獲物を前にした肉食獣が捕獲の準備をするような音だった。きらり。その扉の鍵穴の奥が輝く。まるでそれは猫の目が光を返しているような、目の前の獲物を余さず見定めているような輝きだった。
「う、うわあ」思わず俺は『料理店』の男のように呻いた。背後のノブをガチャリと回したが、扉はある種の約定通り一ミリたりとも開かない。動転した俺は隣の友人に早口で喋りかけた。
「『注文の多い料理店』って結末どうなるんだっけ!? 食われるんだっけ、どうにかして逃げるんだっけ!?」
「ん? 序盤で死んだはずの犬が颯爽と現れ、今まさに二人の男を誘い入れ調理しようとしていた山猫(多分)を退治してくれて、店の幻が消えるっていう夢オチに近い終わり方だね」
「犬いねー! っていうかヲイお前何さらっと答えてんの!? 今の問いにノータイムで返答出来る程度に『注文の多い料理店』を把握してて何で『山猫軒』で引かないのお前!?」
 俺は思わず発作的に友人の襟首を粗暴に掴んだが心中は察して頂きたい。
「引くとか訳が分からないよ。児童文学を軽視する発言は慎んでくれたまえ」
「そんな発言は微塵たりともしてねえ!」
 あまつさえがくがく暴力的に揺さぶったが心中は以下略。
「しかし君の言う事にも一理ある。作中における犬の蘇生自体については、死んだ時点で既に夢だった、素人判断による勘違いだったと色々考えられるけれども何にせよ男達にとっては『犬が死んだのは事実』だった。でありながら犬再登場時にそれに関してのツッコミがただの一言も入らないという点が実に気にかかってね、確かに僕も子供の時分、この物語を心からは楽しめなかった」
「何の話!?」
「うん、ご尤もだ。今思えば実につまらない事を気にかけたもんだと思う。そう、君の指摘する通り全くどうでもいい点なんだよそこは。物語を通じて賢治が読み聞かせ伝えたかった部分はそこじゃない。だからこそ犬の復活については敢えて触れずに特性たる語り口のリズムを保」
「もう訳分かんねえよ!」
 前には捕食者後ろは扉、横では宮沢賢治論。理解不能の四面楚歌に絶叫した瞬間、目の前の扉がきいと開いた。ぎくりとして凝視すると、細く開いた扉の隙間から何かがわらわらと這い出て来る。
 それは猫だった。瞳孔の丸い瞳を爛々と光らせて、興奮にぴんと尻尾を立てた様々な毛色の猫が次から次へと、向こうの部屋は四次元ポケットかという程に際限もなく出て来ては廊下に押し寄せて来る。やべえ可愛いモフりたい。
 しかしそんな人間としてごく当然な感想はこの場に於いては蒙昧なる愚者の言だった。絶える事のない清水のように湧き出でて来る猫の群が、じわじわと廊下を埋め尽くしながら葉擦れのような声で囁いている――「人にゃー」「久々の人にゃー」「さりさりするにゃー」「存分にさりさりするにゃー」さ、さりさり?「ご先祖様たちは愚かだったにゃー」「そうにゃー。塩、あれは良くないにゃー」「塩分は猫の敵にゃー」「猫は腎疾患には最大限の注意を払わねばならないにゃー」「猫ならこれにゃー」「これでさりさりするにゃー」「さりさりするにゃー」ね、ねえ、これって? さりさりって何?
 数多の愛らしき猫たちの発する精神的物量的双方の圧力に俺の声は出ない。隣の友人の様子を見やる余裕もない。
 一塊となった猫の波が緩慢にけれども確実に押し寄せて来る。三方を毛玉の群に取り囲まれ、俺たちはなすすべもなく猫の海へと埋没する。

 さりさりさりさり。
 あっー。

 ……気がつくと、俺たちは二人揃って息も絶え絶えに草むらに倒れ伏していた。着衣は崩れ肌の露出している部分は唾液にべとべとに汚されて、まるで暴漢に襲われた乙女の如き有様だった。ただ唯一違うのは、我々二人の表情を形作っているのは絶望ではなく法悦とも言うべき恍惚だった。
「あれは樟脳ではなくまたたびだよ」
 友人は甘く切なく蕩け切った声で言った。芳醇なるまたたびエキスと濃厚なまたたび粉にまみれた我々はあの後猫たちに逆棘の如きざりざりの突起がびっしり生えた猫の舌で全身くまなくさりさりと果てしなくさりさりと嗚呼さりさりと。いやこの体験は無暗に言葉に表すべきものではない。心の奥底の宝石箱にそっとしまっておく事にする。
 ともあれ甘美なる幻想的体験から生還した我々は、いまだ冷めやらぬ体内の熱に浮かされるままに荒く息を吐きながら呟くのだった。
「また来よう」

【FIN】


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