漆黒の魔術士


「くふふ……お前ともあろうものが、油断したな」
 頭の上から降ってくる枯れた嘲笑を、俺は無様に床に転がったまま聞くより他は無かった。麻痺毒だろうか、身体が全く動かない。生まれてこの方受けたことがないほどの屈辱を覚えているのに、この拳を目の前の野郎の鼻面に叩きつけることはおろか、怒りに震わせることすら出来ない。
「き、さま、この俺にこんな真似をして、ただで済むと思うなよ……」
 辛うじて動いた唇を戦慄かせて、俺は精一杯の呪いの言葉を吐いたが、目の前の男はおどけて怯えた素振りを見せるのみだった。
「おお怖い怖い。確かにお前の体調が万全なら、俺など一瞬のうち消し炭にされてしまうだろうな。だがしかし今はどうだ。最強と名を馳せた貴様も、芋虫のように惨めに床に転がるばかりではないか。そのざまでよく大口が叩けるものだと逆に感心するわ」
 調子付いて喋る男の顔に唾を吐き掛けてやりたいがそれも出来ない。抑えようのない怒りが俺を支配するが、それを発散させる術は、口惜しいばかりだがこの男が言ったように今の俺にはなかった。黙れ、クズが……いつまでもこのままでいると思うなよ――百億もの呪いの言葉を脳裏に浮かべ射殺さんばかりに睨めつけている俺を、勝利の歓喜に満ちた目で見下ろしていた男が、ふと何かに気づいたように部屋の扉を見た。そして、さも楽しいことを思いついたように呟く。
「ただ殺すのはつまらんな。お前には、死よりも辛い屈辱を味わってもらわねば、この積年の恨みは晴らせようはずもない……」
 そのときになって、漸く俺の耳にも規則正しい物音が聞こえてきた。とんとん、と軽やかに階段を登ってくる足音。
 妻だ。あいつは何も知らず、二階の俺の自室に招いたこの男をただの客だと思って、茶でも持ってきたのだろう。
 急に俺の背筋に冷たいものが這い上がってくる。全身を包んでいた炎のような憤怒が、氷の如き恐怖に摩り替わってゆく。
 だめだ――来るな、来るな、エリーナ……!
 しかし俺の願いも空しく妻は何の警戒もなくドアを開いた。その前に立つ男と、床に這い蹲る亭主という想像もしていなかったであろう室内の光景を目にして、妻の大きな瞳が見開かれた。同時に、男が舌の上で甘い蜜を転がすように呟く。
「後悔するがいい、漆黒の魔術士よ」

 絶対、殺す――紫暗の魔術士、貴様だけは、絶対に。

◆ ◆ ◆

「紫暗の魔術士と名乗る男を捜している」
 その男が店主にそう声をかけたのは、まだ酒場に賑わいが訪れるには早い夕刻だった。開店の札は出してあったが店内には他に客はおらず、店主はカウンターの内側で手持ち無沙汰にグラスを磨いていた。とはいえそのような時刻であろうとも、通常ならば店のドアが開くや即座に顔を上げていらっしゃいと声をかけ、すぐさま望みの酒を出す店主だったのだが、この時ばかりは何故か、立て付けの悪いドアが開く気配にもその男がカウンターに近づいてくる靴音にも気づくことが出来なかったので、声をかけられた瞬間彼は心底驚いて、危うくグラスを取り落としそうになった。
「……なっ?」
「表には開店中とあったが、違うのか?」
 男がちらと背後の扉を振り返り、静かに問いかけてくる。その声で我に返り、店主はようやくいらっしゃいと口を開いた。ドアの音は知らず知らずのうちに聞き逃していたのだろう――少なくとも目の前にいる男は、足音もなく忍び寄ってくるような幽霊には見えなかった。
 見た所、十代後半か二十代に入ったばかりくらいの若者であった。黒髪黒瞳で、装いも黒で統一しているのは特徴的ではある。身長は中背だが体格は分厚い旅行用の外套を羽織っていてもなお線の細い印象があった。目鼻立ちもいっそ女性的と言えるほどに整っており、旅人というよりは学者というか、机について本でも読んでいる方が似合いそうな大人しげな容姿である。
 職業柄、得体の知れぬ流れ者を相手にすることも多い店主は普段の癖で客の身なりを検分するが、男の方も慣れているのか、そのような視線を意に介す様子はなく、カウンターの椅子を引いた。
「バーボンのダブルをロックで。そしてこの子に、蜂蜜入りのホットワインを」
 と、男がカウンターの陰になっていた足元から抱き上げてスツールに座らせた同行者を見て、店主は再度目を丸くする羽目となった。先程鎮めた驚愕には満たないものの次に見たそれも十分に驚くに値するものであった。カウンターの影から顔を現したのは、小さな、五歳くらいの男の子であった。男と同じ黒髪黒瞳で、やはり何処か男に似た雰囲気の、女の子と見紛うばかりの愛らしい顔立ちをしている。加えて、揃いの生地で作られた丈夫そうなフード付きの外套を羽織っているということは――
「子連れで旅をしているのかい」
「ああ。わけありで」
 店主が問うと、男は頷いて肯定した。
「そうかい、若いのに大変だな。……もしやその、何とかつう魔術士に関係して?」
「まあ、そのような所だ。……その言い方では紫暗の魔術士の名に心当たりはなさそうだな」
 やんわりと話を逸らされたことには気づいたが、そうされてこれ以上の詮索をする気は店主にもない。念の為改めて最近客席から聞いていた話題を脳裏でさらい、そんな名前が僅かにでも出ていなかったか思い起こそうと努力してみたが、やはり思い当たる節はなく、首を横に振った。
「いや……こんな田舎だと魔術士自体がそうそういねえから、そんな『名』のついた魔術士の話であれば記憶には残ると思うんだが……悪いね。聞き覚えがない」
「いや、有難う」
 グラスを唇を湿らせる程度に舐め、それに僅かに顔を顰める。
「あの、何か?」
「……いや」
 呟いて、グラスを置いた青年は誰もいない店内を振り返り、視線を入り口のドアへと向けた――
 それと同時にバタンと大きな音を立て、そのドアが開かれる。
「ああ、ここにいらっしゃったのね!」
 転がるようにして駆け込んできた娘が、感極まったように叫んだ。
「リンダ?」
 それは店主の顔見知りだった。よくこの店にもやってくる鍛冶屋の親父の娘で、今口にした通り名をリンダという。職人の娘らしく蓮っ葉で、「いらっしゃった」などというすました言葉遣いをするような所を見たことがなかったので、店主はよく似た別人かとも一瞬思ってしまったが、そうではないようだ。かつかつと木靴を鳴らして近づいてきたリンダは、黒衣の青年の前に立ちおもむろに頭を下げた。
「先程はありがとうございました、あの、漆黒の魔術士様……ですよね?」
 これまた見たことがないほどしおらしい娘の所作にも驚くが、しかし今度はそれよりも、彼女が口にした名の方に、店主は驚愕した。
「し、漆黒の魔術士!?」
 カウンターの中で仰け反った店主に一瞬青年はなんとも言い難い視線を投げる。その細面は噂に聞く最強の魔術士とはどうしても思えず、店主は続けて声高く叫んでいた。
「あ、あんたがあの、『アカデミー』出身の『名』付きの魔術士の中でも歴代最高の実力を持ちながらも冷酷にして残忍にして暴虐にして傲慢な気性故に王宮での要職に就くことを許されなかったというあの漆黒の魔術士……!?」
 目の前の青年が、こほんと咳払いをする。
「一つ言わせてもらうと、許されなかったわけではなく、興味がなかったから断っただけだ」
「これは失礼……しましたごめんなさいどうかお許しください後生だから堪忍してください」
「…………いや。そう言われるのは慣れているし殴らないし魔術で店ごと焼き払ったりなどしないので謝って頂かなくても大丈夫」
 多少うんざりしたような声音で言ってから青年は、視線をリンダに戻した。
「いかにも俺は漆黒の魔術士だが、何故それを? 先程は名乗らなかったはずだが」
「黒髪黒瞳で黒い旅装に身を包み、小さな男の子を連れて旅をしている魔術士の方なんてそうそういるものではないですよ」
 リンダの方は全く臆した風もなく、頬を高潮させて言った。成程、と呟き、話を促すようにして黒い瞳がリンダを見る。事情がさっぱり飲み込めない店主も同じようにして顔馴染みの娘の事を凝視していると、今になって人の店にいきなり飛び込んだ自分に気づいたらしい娘がこちらを見た。
「さっき、大通りでごろつきに絡まれている所を、わざわざ助けてくださったの」
「たまたま通りすがった所で騒ぎを起こしていたからに過ぎない」
 肩を竦める魔術士だがそれを無視する形でリンダは声のトーンを高くする。
「それは凄かったんだから。三人もの大男を手も触れないでふっ飛ばしたのよ!」
「……それで? 礼なら先程聞いたからもう不要だが?」
 視線でそれとなく促すのは効果が薄いと察したのか、言葉で告げる黒衣の男に、リンダはようやく本題に立ち戻った。
「あっ、すみません。……あの、私、さっきの男たちのことでお願いが……いえ、依頼が、あるんです。漆黒の魔術士様」
 真っ直ぐに男の方に向き直り、リンダはほんの僅かにだけ目を伏せて、それから意を決したように視線を上げた。
「あいつらは、この街を根城にするギャンググループの一員なんです。……お願いです、あいつらからルークスを、私の恋人を助けてください……!」
 店主は、リンダの台詞の半ばで彼女の訴えたい事を悟っていた。この娘の数年来の恋人であるルークスは、この街に住む職人見習いで、元々は真面目な青年だったのだが、一時から悪い仲間と付き合い始め、いまやギャンググループに出入りするまでになってしまっていたのだ。度々、このリンダの父親がその件について気炎を揚げている姿を見た事がある――娘をたぶらかす不良のクソガキめが、今度おめおめと娘の前に現れやがったら縊り殺してやる!――元々職人は往々にして気の荒いものだが、それに加え元はそれなりに覚えのよかった青年の豹変なので、娘の親として怒りもひとしおなのだろう。そのことで親に似て血気盛んなリンダは父親と揉める事もあったようだが、彼女までもが悪い道に走るということはなく、どうにかして恋人を正しい道へと戻そうと腐心している(それがまた父親の、ルークスへの憎しみとなるわけだが)。
 その辺の事情をぽつぽつと説明し終えてから、リンダは真っ直ぐに青年の黒い瞳を見つめて哀願の言葉を紡いだ。
「お願いです。お噂に聞くあなた様ならきっと、あの田舎ギャングどもなんて目じゃないはずです。ただ、奴らは『名』付きの魔術士を雇っているとも聞き、それだけが気がかりですが、漆黒の魔術士様なら……。報酬は、奴らには領主様からも賞金が掛かっていますし、私も、少しだけなら蓄えがあります」
 多分それは結婚資金だろう。
「……商工会でもあのガキどもにはほとほと困ってる。多分、こっちもいくらか謝礼を出せると思う」
 リンダに同情して、店主も付け加えて言ってやった。商工会の会合で、度々奴らについての議論が持ち上がるのは本当だ。
 一言も口を挟まず訴えを聞いていた青年だったが、一瞬、『名』付きの魔術士を雇っている、というくだりで反応を示したのは店主も気づいていた、彼は隣のスツールの少年をちらと見てから、その視線をリンダに固定した。
「いいだろう。もう少し、詳しく話してくれ」

* * *

 リンダという娘に示された通りに山道をかき分け進んでいく。身軽に岩の上に飛び乗ってから、俺はぜいぜいと肩で息をしつつも文句の一つも言わずに健気についてくる連れの手を引いてやった。旅慣れた男にとってはなんということのない程度の勾配だが、体力のないこいつにとっては過酷な山道だ。とはいえ、一人で宿に残していくわけにも行かず、こうして無理を強いている。常々、申し訳なくは思うが――仕方がないことだった。あの日、あの屈辱の瞬間から、俺たちはそう生きざるを得なくなった。
 それから小一時間ほど登った先の目立たない崖の一角に、洞窟が口を開いていたのを俺達は見つけた。見た所天然の洞窟のようだったが、周囲の土を見ると明らかに人の出入りの形跡がある。場所もおおよそ聞いた通りだ。ここが件のギャングどものねぐらに相違なかろう。――ギャングだのという都会派っぽい集団を名乗るくらいなら大人しく街中に居を構えていればいいものを、何を好き好んで山の中にたむろしているのだか。低脳なガキどもの考えることは全くもって分からない。
「行くぞ。絶対に俺の側から離れるな」
「……はい」
 連れに囁き声で告げて、俺は足を踏み出した。連れも俺の服を掴んで、並ぶようにしてついてくる。後ろに隠れるのではなく横に付こうとするその気持ちを誇らしく思いながらゆっくりと洞窟に入る。あくまでもただの穴ぐらを装うつもりであるのか、洞窟の中には明かりは用意されていなかったので、俺は手を前にかざし、短く呪文を唱えた。
「出でよ、蛍火」
 俺の命に従い、周辺に漂う魔力が俺の元に集い、光に変化する。大人の握り拳大ほどに凝縮した熱のない柔らかな光の玉を俺は手のひらの上に浮かべ、再び歩き出した。

 ぴちょん、ぴちょん……
 洞窟の中のひんやりとしたしじまの中に水音だけが木霊している。囁き声の一つすら聞こえない。一見無人のように感じられないこともないが――俺は鼻で笑った。あれで隠れているつもりであるとは俺を舐めるのも大概にしろと言いたい。
 しばらく湿った岩の合間を歩いていくと、やがて細い通路は少し開けた場所に突き当たるようだった。魔術の明かりを点しているとはいえ、光量をさほど上げているわけではないので視覚では認識しにくいが、二十歩ほど先に、黒い穴でも開いたかのようにぽっかりと闇が広がっているのが空気の流れで分かる。
 俺は一つ息をつくと、宙に浮かぶ明かりの光量を更に落とし、足元を照らし出すのも難しい程度の明るさにしてから、変わらぬ歩みの速度でそれだけを先に進ませた。
 光の玉だけが、広間状になっている空間にゆるゆると入っていく。
 その瞬間。丁度広間の入り口に当たる場所で、光の四方八方から鈍く光る細いものが突き出され、その辺の空間を貫いた。――それは何本もの剣だった。がっかりする程に想像通りの対応である。脳たりんどもの挙動というのは、分からな過ぎるか分かりやす過ぎるかのどっちかしかないのだろうか。
 数秒、時間が止まったように静止していたその剣――剣の持ち主どもは、手ごたえのなさに困惑を覚えたらしく、「刺したか?」「いや」「あれ?」などと間抜けな事を言い交わしながら剣を引き、ぞろぞろ姿を現した。こちらの視界のど真ん中で油断しきったその挙動はまるで的にしてくださいと言わんばかりである。
 宜しい、この漆黒の魔術士様が望みを叶えてやろう。
「消し飛べ、青二才どもが!」
 俺の叫び声に呼応した魔力の奔流が、その数人の男たちを紙人形の如く吹き散らした。

 邪魔者のいなくなった入り口を、俺は腕組みしたままくぐった。場合によっては救い難い鳥頭どもが、馬鹿の一つ覚え的に再度同じ攻撃を仕掛けてくることもあったかもしれないが、実を言えばあんななまくらな剣など俺と連れを覆う防御障壁にはじかれて終いなので全く恐れるに足らないのだった。
 しかしさしもの阿呆どももそれは単純に過ぎると自覚していたか、入り口に第二波は配置されてはおらず、俺と連れは何事もなく広間に入った。しかし俺の感覚はわだかまる闇の向こうにいくつかの気配を認めていた。そのうちの一つ――真正面から野太い男の声が響いてきた。
「ふっ……流石は『漆黒の魔術士』ラウルィス。噂に違わぬ見事な手並みだな」
 その声に答えるように、さあっと広間の所々に明かりが点され、淡い明るさに周囲が浮かび上がった。――魔術だ。
 面積はちょっとした街の広場ほどか。百人程度なら一堂に集まってもまだ狭苦しさを感じない程度の広さがある。想像していたよりは随分と広大な空間だった。そしてその広間の中央に、泰然と待ち受ける体で一人の男が立っていた。濁ったようなやや赤みを帯びた褐色のローブに身を包んだ、魔術士にしては随分と体格のよい、てかついた禿頭が目障りな男だった。……見たことのない顔である。多分。こんなくどい容姿ならいっぺんでも見たことがあれば頭の隅くらいには入っているはずだ。
「しかし、この俺、『赤銅の魔術士』グリムが雇われているとも知らずにのこのここんな場所までやってきたのが運の尽き。悪名高い貴様を倒して、我々の名を更に上げさせてもらうぞ」
 やはり記憶になかった名前を名乗り上げられると、それと同時にざざあっ!と、周囲の岩陰から十数人もの男たちが躍り出た。
 ……頭いてえ。思わず俺は眉間に手を当てた。
 俺に頭痛を与える要因はいくつもある。まずは雇われている魔術士とやらがあの紫暗のクソ野郎ではなかったこと。まあ、これはそうならラッキーくらいの気持ちでは来ていたから、まだいい。紫暗の野郎でないことを確認したしもういいや依頼とかどうでもいいから帰ろうかなと一瞬思ったのは連れには内緒だ。
 俺を倒して名を上げる、という、斬新さのかけらもない寝言も実に片腹痛い。決め台詞か何かのような物言いだが、『子連れで旅をする漆黒の魔術士』は、ネームバリューと比較してどうも与し易い部類と勘違いされているらしく、そういう愚か者どもに襲撃されたことはこれまで一度や二度の話ではない。――が、今何事もなくここにいることから分かる通り、その悉くを俺は返り討ちにせしめてきた。そんな俺に、戦慄を覚えろと言う方が無茶な話であるのは言うまでもないだろう。また、十数人のごろつきで取り囲んでにやにやと俺たちを眺めている何とか言う魔術士そのものにも呆れ返らざるを得ない。何だそのどや顔は。まさかたかだかその程度の人数でこの俺がどうにか出来るとでも思っているのかこのど阿呆が。
 そして何よりも。
「どこ見てやがんだ、クソボケが。俺はこっちだ」
 俺の顔より大分高い位置に固定されている男の視線を察して、俺は親切にも見当違いの方向を眺めている事を相手に指摘してやった。今まで凝視していた『青年』の口元が全く動いていない事に気付いた男が、戸惑ったように視線をさまよわせた後、ようやく移された。俺の連れの顔から俺の方に。
 連れの身長の半分ほどの高さにある、俺の顔に視線を定めて、魔術士は呻いた。
「な……? 子供……?」
「子供ですが何か? それでてめーになんか迷惑かけたかハゲ。ハゲは黙ってハゲ散らかしてろよ」
「も、もうー……、ラウルィス、あんまり酷いことを言ったらだめよ」
 基本的に俺の罵詈雑言はスルーしてくれるがハゲにずばりハゲと言う事は可哀想と認識したらしい連れ――俺の妻がたしなめるように、今は一般人が周囲にいないので本来の口調で言うのを見上げて、俺は肩を竦めた。
「ハゲだとまだ語感的には格好がつくと思わないかエリーナ。濁音のみの発音にはある程度の締まりがある。だがしかし、もしこれがハゲではなくパゲだったらどうだ。半濁音が醸し出す中途半端加減によってより一層、頭髪と共に観察眼にも乏しく俺と違って不細工で残念なあの男には似合いの語となるぞ。なあパゲ? そう思わないかそこのパゲ?」
 目の前の男に同意を求めると、何故かそいつはこの薄暗さの中でも分かるほどに顔を真っ赤にした。
「随分と舐めてくれるじゃねえか、クソガキがァ……容赦しねえぞ……!」
「馬ァ鹿。この俺に容赦出来るとか想像するだけでおこがましいんだよ、表面だけでなく脳みその中までつるっつるか、パーゲ」
「…………!」
 そこで怒りを怒号にせず呪文にし始めたのは、曲がりなりにも聞いたことのない程度でも『名』付きと褒めてやってもいいだろう。まあ、戦闘を生業とする魔術士であるなら当然であるのだが。ぶつぶつと呟き始めた男ににやりと笑って俺も悠然と呪文を唱え始めた。

◆ ◆ ◆

「ではおいとましますよ、奥方」
「あ。はい。お構いもしませんで」
 床に倒れた俺を放ってさりげなく立ち去ろうとする紫暗の魔術士に俺の愛妻エリーナは行儀よく頭を下げた。こらこらこら! 亭主が倒れてる現場から立ち去ろうとする男を慇懃に通さない! 現実問題下手に歯向かって危害を加えられても困るので無抵抗で帰すのは結果的に正しいのだが多分判断的にはあまり正しくない。しかしながらそんな天然な所も彼女の魅力だからまあそれはいい。俺は逃げ去る男に手を伸ばそうとして、漸く僅かながらにその腕を上げる力が回復してきたことに気がついた。全力を振り絞っても身を起こすのでまだ精一杯だが、この様子ならばさほどの時を要さずして回復することが出来るだろう。
 ……しかし何故こんな程度の毒を?
 俺を憎みに憎んでいた奴にしては手ぬるいと、そんな違和感を抱いたのと同時に、俺が纏っていた漆黒のローブがずるりと肩からずり落ちて俺は鬱陶しさにそれを払った。……なんだ? 確かに魔術士のローブというのはゆとりのある衣装だが、ここまで邪魔くさく纏わりつくようなものでもなかったはず。まるで服が数倍の大きさに伸びてしまったかのようだ……
 本格的に怪訝に思って肩のあたりと己の手を視界に入れて――俺は硬直した。細い。小さい。まるで子供の手だ。まるで?……否。正真正銘、どこからどう見ても、子供のそれ以外には見えない。つまり服が伸びたのではなくて、俺が縮んだ?
 慌てて俺はその手で顔に触れた。柔らかく、丸みを帯び、髭の跡もない滑らかで絶望的な感触が指に伝わってくる……。
 認めざるを得なかった。紫暗のクソ野郎が俺に嗅がせた薬はただの麻痺毒ではなく、弱化の――年齢弱化の魔法薬だったのだ。よもやこんな驚異的な効果の薬を開発しやがるとは。効力を調整すれば需要は死ぬほどあるだろうから黙って売って億万長者にでもなっていればいいものの何才能無駄遣いして復讐になんて使ってんだあの馬鹿は。
 エリーナは驚愕に目を丸くして、口元に手を当てた格好でかたかたと震えていた。衝撃のあまりか、突然、がくんと膝を折り床に崩れ落ちる。
 そして、
「あら……あらあらあらまあ、可愛い」
 俺の手を取って、彼女は歓喜すら含む声でそう呟いた。あ、ショックじゃなくて感激でしたかそうですか。
「ラウルィスよね? あなたって子供の頃、こんなに可愛かったのね。いやーん子犬みたいー」
 妻はこんな姿になっても俺を一目で看破してくれた。それは実に嬉しいことなのだがそれに続いたさも愛らしい物に対する感嘆が俺の胸をナイフでぐさりと突き刺した。悪気はない、というか多分褒め言葉なんだろうがこれは屈辱極まりなかった。今でこそ眼光も輪郭も鋭く漆黒の魔術士という通り名もしっくり来る容貌となっているが、少年から青年になりかける多感な時期あたりには実はどうしようもないくらい童顔で、当時の俺はそれを酷く気にしていた。少年期でさえそうだったのにあろうことか幼児。最早女の子と見まごうばかりなのは鏡を見なくとも分かる。少なくともエリーナにだけは死んでも見せたくなかった。
 ……ナルホドネ。これはある意味死よりもキッツイ屈辱だ。ガキの頃から同じ学び舎で学び続けた十数年、首席の俺に金魚のフンよろしく二番手でまとわり付き続けたあのクソは、俺がどれだけこの姿を忌み嫌っていたかもよーく知っている。
 …………。
 あいつ殺す……ぜってーぶっ殺す。髪全部ブチブチ引っこ抜いて百年消えねえインクでバカって書いて全裸で街中に放り出す。そんでこの親切な俺が全力で蹴り潰して無残な作りの顔面を少し美形に作り変えてやる。
「つーわけで。あのクソ探して口ン中に牛のクソと小石詰め込んで蹴り転がして歯ァ全部折れて中のクソがビチ漏れるまで徹底的に踏んでくる為に旅に出る」
 妻に抱っこされつつ俺は宣言したが、エリーナは俺をきょとんと見下ろして冷静に呟いた。
「そんなこと言ってもどうやって。どこにいるかもわからないんでしょう?」
 もう奴が立ち去ってしばらく経つ。既に、空間転移か何かの術で手の届かない場所に移動してしまっていると思って間違いはなかろう。
「どこにいるかとか関係ねえ。どこの地の果てにこそこそ隠れていようがぜってー見つけ出して生まれてきたことを千回くらい後悔させてやる」
「その身体で旅とか出来るわけないでしょう。迷子として役場に保護されて優しくあやされるのがオチよ」
「ぐぬ……」
 それは確かに屈辱というレベルを超越する事態だ。街中は比較的安全だが、城壁から出て小麦畑を抜けて人影が薄れると世の中は途端にその危険度を増す。山野には盗賊や野生の獣がはびこり、旅慣れた商人たちとて極力寄り集まったり護衛をつけたりして歩くのが通例であるそんな場所に子供が一人でちょろちょろ歩いていたら悪意がある奴は当然としてそうでない奴も俺を必死でとっ捕まえようとするだろう。善意で。
 今の俺はなりこそ子供となっているが、薬が不完全だったのかはたまたそういう仕様なのか、記憶にも魔術にも別段問題は生じていないようなので、盗賊や獣の一匹や十匹や五十匹程度物の数ではないのだが……流石に善意の市民その一みたいなのを片っ端から吹っ飛ばしたりは出来ない。いやそのうち色々面倒くさくなって吹っ飛ばしかねないがそれはそれで厄介なことになりそうだ。
 どうしたらこの姿でも面倒なく旅を出来るか熟考する俺の前で妻もまた何か考えているようだったが、不意に名案を思いついたように一人で首肯した。
「女の私が連れ歩くんじゃまた大変な気がするけど……連れがもし男親だったりするならまだどうにかなりそうよね」
 そう言うが早いかエリーナは、テーブルの上においてあったナイフをひょいと掴むと、無造作に束ねた後ろ髪に刃を当てた。ぎょっとして目を見開く俺の目の前で、腰まであった黒髪が束のままあっさりぽてりと落っこちる。王都の女のように高価な油や香で手入れなぞしないというのに艶やかで色っぽい、それは美しい髪だったのに。
「私は幸い女にしては背が高い方だし、これで旅装をそれなりにすれば結構分からないものじゃないかしら。ね? あなた」
 少年のように髪を短くした妻が、魅力的な笑みを俺に向けた。

◆ ◆ ◆

 あの日から俺たちは、あの忌まわしきクソ魔術士を磨り下ろして捻り潰して引き裂いて捻じ切って肥溜めに打ち捨てるその為に旅を続けている。道中での面倒を避ける為、当初はただの父子連れの旅人として通すつもりだったのだが色々あって――エリーナに言わせると、「もう、ラウルィスったらお短気さんなんだからぁ」と表現されるような些細な出来事が何度かあって、漆黒の魔術士であるという事自体は隠すのが困難になってきた為、普段はエリーナの方を漆黒の魔術士であると偽装して過ごしている。尤もいちいち意識して偽装せずとも普通にしていれば誰も疑いやしないのだが。
 と、余裕で回想している間に決着はついていた。奴の後から悠々と唱え始めた俺の呪文は、超偉大な魔術士である俺の頭脳によって高度に効率化されて圧縮され、相手の呪文に先んじて完成した。それからわざわざ相手の術の完成を待ってやり、敢えて同時に撃ち出すと、俺の魔術は至極あっさり、向かい来る攻撃もろとも奴を飲み込んだ。魔術士は声もないまま壁際まで吹っ飛んでそのままぼてっと倒れたが、洞窟内なので一応威力も絞ったし多分死んではいないと思う。知らんけど。
 最早身動きの一つもしない(あれ、やっぱ死んだかな?)魔術士からは視線を離し、俺はその魔術士が元いたあたりの左右に展開していた男どもをぐるりと眺めやった。
「で? ルークスとか言う奴ぁどいつだ? あ? 二秒で出て来いよ?」
 俺の声に、一部の男の視線がある方向に集まる。その視線の先で、どこにでもいそうな平凡極まりない顔をした若造がぎくりとした風に身体をこわばらせた。ざっざっと靴を鳴らして進み出ると男の膝がぷるぷると震えているのが見えた。おぉこれはいい反応。こういう反応を見ると心がほんのり温まるよな普通の人間の感性として。そのままションベンでも漏らせ漏らせ。
「俺の可愛い女房が勿体無くもお前の女に同情して、お前をまっとうな道に戻してやる為にはるばる来てやったんだ。何もかも悔い改めて、真人間に戻る事を可及的速やかに誓うがいい。……所でお前らろくでなしどものルールでは、組織と縁を切る時って小指とか切り落とすんだっけか? ん、それは別の地方だったかな、まあいいや」
 呟きの中に呪文を織り込んで、俺は虚空から左手の中に剣を出現させた。奴らどもの持つなまくらとは違う、真の武具の輝きを持つ剣だ。指の一本や二本、バナナを切るほどの力も入れずに切り落とすことが出来る。
「おら早よ手ェ出せや。親切な俺が手伝ってやっから」
 ルークスとかいう若造は紫っぽくなった唇をがたがたと振るわせたがそれ以上の反応は示して来なかった。もしかしたら恐怖の余り身動きすることすら出来ないのかもしれないがそんな事情は知ったこっちゃねー。この俺直々の命令に従わないとは許し難い反逆である。
「ああン? 女神の如き俺様の女房の暖かい善意が受け取れないってか? こいつは罰当たりな奴だなあ。残念ながらこの世の中にカミサマなる存在なぞ実在しないので、俺が代わりに罰を与えてやらねばなるまいな。ってことでお前ら……ルークスとかいうガキだけじゃなくお前ら全員だぜ?」
 言いながら、剣の切っ先をすいーと動かして、男達の端から端までを見定める。
「俺の女神様の恩恵が理解できない可哀想なお前らを改心させる為、今からタマぁぶっこ抜いてほっぺの中に一個ずつ詰め込んで破裂するまでパンパン殴り潰す刑に処することに決めましたー。逃げたらそれに目ン玉が加わりまーす。さあぁ元気に無様に逃げ惑い、俺を楽しませるといいですよー?」
 一息に宣告して、剣を持つのとは逆の右手を掲げた俺に、集団の一番端にいた一味の男が恐らくは無意識に、怯えたように一歩あとずさった。俺はその僅かの挙動も見逃さず、右手の小指をくっと曲げる。その瞬間、見えない巨大な手で押し潰されたように男がその場に崩れ落ちた。圧倒的な力で地べたに押し付けられた男が、かはぁ、と搾り取られるように息を吐きつつ必死の形相でもがくが、ははは。この俺の魔術から逃れられるわけがなかろうに。
 踏みつけられたカエルのような男を俺は心が癒されるような気持ちでしばらく眺めていたが、何故か他の男たちにとってはそれは余り心地よい光景ではないようだった。全員が顔面を蒼白にして、口から沫を吹きぴくぴく痙攣し始めてきたそれを眺めている。
 その光景にも飽きてきた俺は、ゆらり、と残りのおもちゃどもに視線を移した。
 さぁ、次はどれで遊ぼうかな――――?
 俺が心からの愉悦を存分に表した満面の笑みを向けると、ルークスとかいう男は勿論のこと、その場の全ての男どもが一斉に土下座した。
「ごめんなさいなぶりころさないでください。」



「……ん、臨時収入にしては中々の稼ぎになったな」
 俺は役所と街の商工会とでそれぞれ受け取った金貨の入った袋をじゃらりと鳴らしてにんまりとした。小さな街での些細な出来事だから報酬については大して期待はしていなかったのだが、二重取りが功を奏して合わせるとそれなりの額になった――この額ならわざわざあのリンダとかいう小娘のはした金には手をつけることもないと思えたので、心優しい俺はそちらからは徴収しないでおいてやった。全世界の愚民ども、俺を賞賛する権利をくれてやるぞ。
 そうそう。小娘と言えば……あの男。名前なんだっけ、まあどうでもいいや、ともあれあの例の男を保護し連れ帰ってやると女は泣いて狂喜した。雪山から奇跡の生還を果たしたような、或いは地獄の淵でも覗いて来たようなそんな変わった震え方をしている男の肩を揺さぶって、何やら必死に呼び掛けていたが、あの様子じゃあ一週間くらいは頭の中の異世界からは戻ってこれなそうだなあの男。一体何があったんだろうな。はっはっは、へんなのー。
 ……まあそんなこたあどうでもいい。
 あの小娘どもについてはすっきりと忘れ、俺は手の中の袋を再度鳴らす。これだけあれば当面の旅費を差し引いても、いつも苦労をかけるエリーナにプレゼントもしてやれるし旨いものも食わせてやれる。何を買ってやろうかなあとほくほくしている俺を見下ろして、エリーナもまたにこにことしていた。エリーナ自身は全くと言っていいほど物欲のない女だから、金額に喜んでいるわけではなく俺が喜んでいることを単純に喜んでいるのだ。何て可愛い女なんだ。思いが募ってエリーナの足にぎゅうと抱きつくと、エリーナは俺を抱き上げて抱きしめ返してくれた。抱き方がとっても幼児抱きだが……うー。まあしょうがない。
「愛してるぞ、エリーナ」
「私もよ、ラウルィス」
 はたから見たら仲のよい親子にしか見えない抱擁を交わしたまま、愛を囁き合う。これもこれでなんだか暖かい気持ちにならんでもないが……いやいやいや。あの紫暗の下痢グソ便所虫野郎の所業を許すわけにはいかない。いつかあいつを八つ裂きにしてはらわた引っ張り出してルームパーティーの部屋飾りにしてやるというささやかな復讐心を胸に秘め、必ず元の身体で愛する妻を抱きしめることを固く誓いながら、今は子供の小さな手で妻の首に抱きついていた。

【FIN】


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