愛の行方
「ねえ……あなた。愛って本当に、あったのかしら」
妻は、私にというよりもまるでテーブルの上に置かれた一枚の紙に囁きかけるように一言ぽつりと呟いた。その妻の真正面に座る私の位置からは、俯く妻の瞳は垂れ下がる前髪に隠れて見ることは出来ない。テーブルの上の紙を睨みつけているのか、あるいは目を閉じて、その紙に書かれている内容を反芻しているのか。目に見えない以上それは想像するしかないことではあったが、その想像が何らかの意味をなすかと問われれば、そうではないと答えるしかないのだろう。私はテーブルの上で組んでいた指を一旦外し、再度組み直した。これもまた特に意味のある動作ではなかったし、ただむやみに流れるばかりの沈黙の時間をやり過ごすにも全く事足りなかったが、私は想像を巡らしながら無意識にそうしていた。それから、紙とペンと印鑑を前にしてそれを睨みつけたまま――結局私の想像力は、彼女はそれを凝視していると結論付けていた――微動だにしない彼女に、静かに告げた。
「あるよ。最初からずっとそう言っているだろう」
「嘘」
「嘘なんてつくものか」
私が告げる言葉を妻はかたくなに否定する。彼女の中ではもう既に、私の言葉は偽りであると――愛などないのだと決定しているらしいく、私が何度言っても頑として聞き入れようとしない。
嘘なんてつくものか。
言葉に出さず、私はそう繰り返した。嘘などつくはずがない。そんなこれまでの前提を全て覆すような嘘など。ついて何の意味があると言うのだろう。
けれども愛などないという、その考えに凝り固まってしまった今の彼女には、私の言葉は届かない……
ふう、と私の口から漏れた疲れた溜息に、妻ががばっと顔を上げた。
「あなたがそういう態度を取るから私はっ」
「それは関係ないだろう」
むやみに当り散らしてくる彼女に私は努めて冷静に返した。しかしそれは結果、彼女の神経を逆なでするだけのようだった。テーブルの上に乗せた手をぐっと握り締め、搾り出すように声を上げる。
「だって……っ! 山はあるのに谷はないってこれは分かるのよ! あと秋はあるけど春はないのも分かる。和はあるけど洋はないもオッケー、長はあるけど短はないも見当つくけど、愛はあるけど恋はないってこれだけがおかしいのよ、愛ないってばー!」
「……あるって」
「嘘嘘絶対ない」
「いやそんな嘘ついたらゲーム成り立たないし」
「だってほら上からずっと言ってっても愛なんてつか……あっ」
思いついたらしい。あ、と口を開けたまま止まってしまった妻に「そらみろやーいばーかばーか」と半眼で言ってやる。しばらく気まずそうに視線を天井の方へ向けっぱなしだった彼女だが、徐に視線を私のほうに戻すと、「てへ」と舌を出した。いい年しててへと来たか。いや、私の発言もあまり年齢相応では無い気がするけれど。
「あるわねー。なんだあ、愛、あるじゃない、やーねー」
「そうだね。すっきりした所でそこの印鑑、しまっておいで。大事なものをそうやって意味もなく置きっぱなしにしておかない」
「分かってるわよう」
妻はそれまでにらめっこをしていた、「ある」と「ない」のカテゴリにいくつかの漢字が書かれた紙をくしゃくしゃと丸めてごみ箱に投げ、宅配便でも受け取って放置していたのであろう印鑑ケースをたんすの中にしまいに行った。
【FIN】
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