トマト


「トマトをですね、作っているのです」
 何してんの? という俺の問いに、彼女はにっこりと笑ってそう答えてきた。
 彼女の前にはどこから持ってきたのか、素焼きの植木鉢があり、そこから五センチほどの緑色の芽が出ている。それに、彼女は水色のぞうさんじょうろで水をやっているところだった。
「トマトって、何でまたいきなり。別のことやってたんじゃなかったっけ?」
「え? ああ、これもですね、その一環なのです」
 やはり変わらない笑顔で、彼女。
 俺は首を傾げる他なかった。俺的考えでは、絶対に彼女がやりかけてる例の作業とトマトの栽培との関連性は、ない。
 しかし、俺とは多少――いや大分――むしろ完全に、頭の構造が違う彼女のやることだ。何かあるんだろう、彼女の中では。どうせ暇なんだ、と俺は尋ねてみることにした。
「聞いていい?」
「何ですか?」
「さっきまでさ」
「はい」
「絵、描いてたんだよな?」
「そうです」
「で、何でトマトの苗を育て始める?」
「夕日を描きたかったのです」
 …………
 しばし熟考。
「何でトマト」
 再度、同じ問いを発すると、
「夕日を描きたかったのです」
 一言一句違わない、答え。
 とりあえず諦めと割りきりが肝心だと俺は悟る。
「んで、そのトマトをどうするわけ?」
 見下ろす。目の前の苗はまだまだ彼女の待ち望む――つうか、何を期待してるんだか想像すると少々怖いのだが――赤い色の果実をつけるにはまだ少しかかりそうだ。
「この実がなったら」
「なったら?」
 ……ああどうか、この色を見ながら夕日を描くとかいう可愛らしい発想でありますように。
「手の上に乗っけてぎゅっと潰してそのお汁を」
 …………やっぱり直でそれ使うのか。
「握り潰すな。絵の具にするな」
「いい色が出そうじゃないですかぁ」
「いくら植物っつったって何か残虐だろ、笑顔で何か握り潰してる女の指と指の間から漏れ出てくる赤いどろっとした液体というか固体というか半端に緑色とかも入り交じり」
「そんな豊かな想像力働かせなくても」
「まあそれは置いとくとしても、トマトなのか? 夕日はあんたの中じゃ」
「違いますか?」
 いや、違いますかとか言われても。
「似てるっちゃ似てる……けど、とりあえず俺はあんたの想像力の方を誉めたいぞ」
「ありがとうです。えへへ」
 嬉しそうに笑いながら、彼女は植木鉢を見下ろしている。くどいがさっき植えたばかりのこの苗が実をつけるのは後しばらく先だ。
「ずっと見てるつもり?」
「ええもちろん」
 マジですか。
 いや、俺も彼女がそういう気が遠くなるようなことを好むってのは、知ってるが。
 だからあんな、彼女の人生をしても最大級に気の遠くなる作業をやり始めたわけなんだし。
 彼女はトマトの前に腹ばいで寝そべって、先端の若葉を人差し指でつんつんと揺らしている。ものすごく楽しそうだ。何が楽しいんだか俺にも分かるように教えてくれ頼む。
 放っておいたら本気で、このままトマトが実をつけるまでその場で待っていそうだった。まあ、それはそれで別に構わなくもあったが、俺は一応忠告してやることにした。
「……あのさ、他のところから塗ってれば? まだまだいっぱいあるんだろ?」
「ありますけど特に急いでいないですしー」
 動く気配はナッシング。そんなに気に入ったか、トマト。
「いいけどさ、太陽は描いたの? 昼間の」
「まだですよ」
「太陽がないとトマト赤くなんないって知ってる?」
「嘘ぉ!?」
 苗の前で頬杖をついて、完全にその場に根を下ろす体勢だった彼女が初めて悲鳴を上げてひょこん、と跳ね起きる。
「そうなんですか!?」
「……そーだよ」
「それは大変ー! だったら早く描かないと!」
 慌てて彼女は、その辺に転がしてあった筆を手に取った。それ以外に道具はない。彼女に、キャンバスは要らない。
 太陽を描く為に、筆を持った右腕を高々と掲げる。目の前に無限に広がる青い空と白い雲は、しばらく前に描き終えていた。何しろ無限なので、流石の彼女もこれにはずいぶん時間を取られたようだった。青と白の空間にそよぐ風もその何日か後に描き上げていて、今はそれが雲や彼女の髪を和やかに揺らしている。
「ちょ、ちょっと聞いていいですか?」
 彼女は、空に向かって筆を向けた体勢で固まりながら、顔だけを俺の方に向けてきていた。
「どした?」
「太陽って何色ですか?」
「ん? 黄色……かな?」
「黄色……きいろ、何かありませんか、黄色いもの!?」
「そんな使う色、まだ作ってないのかよ?」
「いえ、そそそそのへんに確かひよこが」
「ひよこは握っても絞っても黄色は出てこねえぞッ!?」
「あああ、トマトがトマトが!」
「ほんっと計画性ねえなあんたは! そもそも何でひよこなんてもう描いちゃってるんだよ! じょうろとかさ! 物事には順序ってもんがあんだろうが!」
 よくよく考えてみれば、あと何分で実がなるって訳じゃないんだから、ここまで焦ることもなかったんだろうが、この時の俺は完全に彼女につられていたようだ。
 ひとしきり二人で叫びまくって、息を切らして膝をつく。
「万事がこの調子で……この『地球』とかいうの、描き終わるまで後どのくらいかかるんだか……」
 うんざりと、ぼんやりと。目眩を起こしながら呟いた俺に、
「とりあえずあと数十億年ほどあれば、何とか」
 彼女はへらへらと笑いながら気の長い答えを返した。





 こいつは後日談なんだが。
 彼女が、結構長い時間をかけて描いたこの作品の出来は、それなりに中々よかったと思う。あんまりそういうの、詳しくない俺でもそう思えるほどには。
 けどその後、どういった成り行きだったんだか、この『地球』は、どうやら彼女が隅っこの方に走り描きしておいたらしい、彼女以上に計画性のない創造物に委ねられ――

【FIN】




この作品は突発性競作企画『紅に帰る(アカニカエル)』に応募いたしました♪




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