ro  「論点が違うー」


「先輩先輩、N先輩っ! 助けて下さいあなただけが頼りなんです何となく!」
 絶妙に微妙な言い回しで助けを求められた俺は、キーボードを打つ手を止めて、パソコンのディスプレイから目を離した。眉間に皺を寄せて振り返る――のは、別に声の主がどうのこうのという話ではなく単純に目が疲れていたからだ。普段の視力は別に悪くもないんだが、ディスプレイに顔を近づけすぎる癖のある俺は、そこから急に目を離して別の場所を見ようとしても、すぐにはぼんやりとしか見えないので、眉間に力を入れて焦点を合せようとするんだが、これはたまに「Nさん、機嫌悪い?」とか聞き返されたりする癖なので、今後の為にもなるべく直すようにした方がいいのかもしれない。
 ともあれ――
 目の前にぼんやりとある、声をかけてきた後輩、Aの顔を俺は見上げる。まだ色の付いた影って感じにしか見えないが、まあ、後数秒もあれば見えるようになる。
「何? 何か問題で……も」
 見えない時間は適当に喋りながら間を繋いで、ようやく彼女の顔を確認した俺は――思わず、凍り付いていた。
 女の人の容姿を語るというのは失礼な話だが、彼女の容姿をあえて言葉にしてみると、「平凡……?」といったような感じだった。
 入社当初、彼女は別の部署に配属されていたので正確な年齢は知らないが、二十歳のどこかではあるはずで、もっと範囲を狭めれば二十歳前半であるのは間違いない。後半だったら俺より上になってしまう。平均的な身長。平均的な体型。ごくごく平均的な顔立ちには化粧っ気はまるっきりない。髪すら真っ黒な地毛。基本的に平凡、の一言で済みそうな感じだが、この世代で脱色もしてない方がはっきり言って珍しいご時世では平凡の後に?をつけてみた俺の表現に、そんなに疑問の声が上がったりはしないだろう。
 結局のところ、いまどき珍しいタイプだが、稀有って程では全然ない、くらいが妥当だろうか。少なくとも、いきなりその姿を見て思わず硬直してしまう、というテの容姿ではない。そもそも毎日つき合わせている顔だ、どんな顔であったとしても今更驚いたりするわけがない。
 それでも今日は、今回ばかりは驚いた。心底驚いた。ていうか引いた。
 ただ単に、いつも見ている顔の上に、いつもは見ていないモノがくっついてただけなんだが……ごめん、これは普通引く。
 漫画みたいな明らかな寝癖がはねていたりはさすがにしないが、絶対に気を使って手入れはしてないことが断言できる黒い髪の上に。
 ピンクの花が咲いていた。コスモスが。ぴょこりと一本。
「助けてくださいぃぃ」
 彼女と一緒に、揺れていた。

 場所を休憩室に移してから彼女が話し始めた内容は、更に俺を遥か彼方に突き飛ばす内容だった。

 ――今朝ですね、いつものように、家から駅まで自転車をこいでいたんですよ。
 私が毎朝電車に乗っている駅は、厳密に言えば自宅からの最寄り駅ではなく一駅先の駅なんですが、定期代を浮かしてピンはねする為もとい、自身の健康促進のためにですね、十五分ほど自転車を毎日かっ飛ばしていくわけです。家から乗車駅までの道のりは、その半分くらいは川の堤防の上の道を通ることになるので、そりゃあもう比喩でなく、心行くまでかっ飛ばせます。川と平行して緩やかなカーブを描く見晴らしの良いジョギングコースを殆ど誰にも邪魔されることなく突っ走るこの快感は一度覚えると中々やめられるものではありません。私はですね今まで隠していましたが、これでもかつてはご近所で、チャリンコ暴走族のボスと恐れられた人間でしてね、十年ほど前は多数の手下を引き連れてブイブイ言わせていたりしたものです。今思えばあの頃は若かったなあというのが素直な感想ですが、若いときに羽目をはずすことって、実は人間の人格形成においてとても大切なことなんじゃないかななんて思ったりする今日この頃です。
 え? いやですね、これはコスモスとは全然関係ありませんよ? あるわけないじゃないですか、コスモスとチャリンコ暴走族がどう繋がるんですか先輩ってばおちゃめさん。
 あ、痛い。何で殴るんですか、誉めてあげたのに。
 ――ともあれ土手を自転車で爽やかに走り抜けていたんですよ。雨の日や真夏日や風が冷たい日なんかは、遮るものが何もないので辛いことこの上ないんですが、今日みたいに晴れ渡っていて清清しい風の吹く小春日和なんかですとね、本当に爽快です。見晴らしも素晴らしいんですが堤防の下り坂になっているところにですね、市のボランティアの人が花壇を作っていて、それもまた素敵なんですよ。春はパンジー、夏はサルビア、秋はコスモスが咲きまして、通行者の目を楽しませてくれるんです。ボランティアって言ったらただですよ。ただ働き。ただ働きであんなにいい仕事しなくてもよさそうなものなのに、勿体無いですね。私だったら私のグッジョブに金出せやゴルァって殴り込みですよ。……市役所のどの窓口に殴り込むのがいいんでしょうかね。全く違う窓口に顔を出したら、きっと職員さん、困ってしまいますもんね。
 え、コスモス? 折角コスモスが出てきたのに何で話を遠ざけよう遠ざけようとするんだお前はって? そうですか? 遠ざかってますか? これは関係ありそうな感じだと思ったんですけどね? もーせっかちさんなんですから。早い男は嫌われますよ?
 あ、痛い。そんなにポコポコ殴らないで下さいよ。善意の忠告じゃないですか。
 えーとですね。コスモス。そう、今はコスモスの時期なんですよ。何百メートルも続く花壇にですね、一面に白やらピンクやらのコスモスが咲いているんです。ね、素敵でしょう? 素敵だと思ったんですよ、私も。今日の朝は割と余裕もありましたし、私は自転車を降りてですね、押しながらゆっくりその道を歩いていたんです。そうしたらですね、どこからか、声が聞こえてくるんですよ。さっきも言いましたけどこの道はあんまり人通りの多い道ではなくって、犬の散歩をしてる人とすれ違うくらいなんですけれど、その時は見回しても、視界の中に誰も見当たらなくって。でも、確かに声が聞こえるんですよ。
「受粉したいー…………」って。
 受粉。ええ、私も聞き間違えかなーと一瞬思ったんですけど、受粉。土手の坂道転げ落ちて怪我して助けを呼ぶ声にしてはちょっと変ですよね。あ、結局そういう理由じゃなかったんですけど、その時はそういう事情だとばっかり思ってて、変わった人だなーと思った訳ですよ。
 怪我をしているんなら早く救急車呼ばなくちゃ、あ、でもこんな土手に救急車入ってこれるのかしらまあ多分大丈夫ね、夏の花火大会とかこの土手でやるんだし、そういうことをする場所ならもしもの時に救急車輌が入ってこれるようにはなってるでしょう多分とか思いながら、私は声の主を捜していた訳なんですよ。偉いですか? 我が身を省みず人命救助ですよ? 現代の若い者だってそうそう捨てたものではないということを世間一般のコメンテーターの皆様に思い知らせるチャンスです。まあ省みずも何も私に何らかのデメリットがある状況ではなかったですけどね? 会社も遅刻するとか、そういう概念ないですしね、うち。フレックスって便利。
 そんなこんなで自分の地位と名誉をかけた捜索活動が始まったわけです。考えて見ればこれが失敗というか運命の分岐点というか地獄の一丁目だった訳なんですが純朴な少女はそれに気付かなかったのです。ああ、か弱く可憐な乙女の運命やいかに!?
 あ、痛い。何で殴るんですか。今の話のどこかに殴りポイントありましたか? もう信じられませんね、こういう男の人が将来結婚したりしたら奥さんや生後四ヶ月の子供を撲殺したりして新聞の社会面のヒーローになったりするんですね。先輩の名前が出てたら黄色いマーカーでライン引いて大笑いしてやりますよ。ハハハN先輩ったら恥ずかしいなあ、こんな所で有名人になるなんて。虐待で名前知られるのは性犯罪の次くらいに恥ずかしいですよね。
 って先輩の将来はどうでもいいんですよ、今は私の将来についてちょっと相談したいことがあるっていうのにどうしてそんな話に持っていくかな、先輩ってば。あ、何立ち去ろうとしてるんですか、煙草吸い終わった? そんなの理由になりません。煙草を吸わない私が折角この喫煙所まで来てるんですよ。誠意には誠意を返すべきではありませんか? 煙草はもういいですからここ座って、ここ。
 という訳でしてね、受粉したがっている怪我人を、私はコスモス畑の中で捜していたんです。辺りは静かで、声の聞こえてくる方向は分かったので、すぐにここらへんだなという見当は付きました。けれども、そのあたりをいくら捜しても誰もいないのです。でも、確実にその辺りから聞こえてくるんですよ声。不思議ですね。不思議なんですけどとりあえず、捜しはじめちゃったものはちゃんと捜しきらないと気持ち悪いじゃないですか、だから、お花畑に耳を近づけて、一生懸命捜しました。
 そうして見つけたのが、この、喋るコスモスだったんです。

 そこまで言って、彼女は自分の頭の上を指差した。俺も、それに倣って視線を上に持ち上げる。
 一輪のピンクのコスモスは、やはり先程と同じように頼りなげに揺れている。――いや、頼りなげに揺れているのは実はAなんだが(多分癖なんだろうとは思うが突っ込むと面倒そうなんで突っ込まない)、それと一緒になってコスモスも、風になびくように揺れている。
 俺は立ち上がって、Aの頭の上に咲いているコスモスをいきなり掴み、引っ張った。
「あ、痛いですってばっ! きゃーっ!」
 悲鳴を上げる、後輩――そして、びくともしなかった、コスモス。
 手を離す以外に、ない。
「もー、何て事するんですか。さっきから狂暴ですね。社会面じゃ不服ですか? 一面飾りたいんですか?」
 口を尖らせて文句を言ってくるAの顔を見て、もう一度コスモスに視線を戻す。
「……こいつ、喋るの?」
 そんな事を、俺は聞いてしまっていた。
「喋りますよ。声聞いたから見つけたんだって言ったじゃないですか。今は喋っていないですけどね。人前とかで喋ると、独りごと言ってるみたいで怪しいので喋らないでって頼んだんです。電車の中とかで、白い目で見られたりするの、さすがにいやですもん」
「ええと……」
 多分問題はそこじゃないと思う。……ていうか電車、この格好で乗ってきたってことか、それは? 独り言よりもそっちのがよっぽど……ってか、それもそれで今回の重要な問題って訳じゃねえよな……
 三秒くらい目を閉じて考えて、でもやっぱり彼女の身の上に起きたこの事件を理解する事が出来なかった俺は、もう少しだけ彼女の話を聞くことにした。
「で? 受粉したがってたコスモスに、何でお前は寄生されてる訳? それが受粉された結果?」
「あー。これはですねえ、違うんですよ」
 Aは、妙に得意そうに人差し指をぴんと立てて、再度語り始めた。

「受粉ー。受粉したいのぉぉー……」
 その花を発見したときは、さすがの私もびっくりしましたね。だって花がですよ、受粉したいだなんて自己主張してるんですよ。花って言ったらもうちょっと、お淑やかで控えめなイメージがありませんか? それなのに受粉したいだなんて。受粉って言ったらあれですよ先輩。人間流に言ったら受精ですよ受精、卵子と精子の結合ですよ? ……ん、違いますね、そう言えば生物の時間に植物にも受精って概念があるように習いました。そうそう、めしべの先に花粉がついたら花粉から花粉管とか何かそのまんまな名前した管が伸びてきてめしべの奥の胚珠に到達し受精するんでしたね。え? いいえ、生物はそんなに得意じゃなかったんですけど。これって何か卑猥な感じだったので記憶に残ってるんですよ。受精を行うにはやはり植物も挿入……
 あ、痛い。何で殴るんですか。どうせ先輩だってぴちぴちの高校生の時代にはそんなようなことを考えてにやにやしてたくちでしょうに。あーいやらしい。むっつりってこれだから嫌ですね。
 ……だっかっらっ、何で立ち去ろうとするんですか! もー、むっつりは人の話も聞けませんか? あーはいはい違うのは分かりましたから座って座って。
 何はともあれ、折角ボランティアの人が丹精込めて育てた花ですし、私も毎日楽しませて頂いているのですからと、ボランティア精神を発揮して、その花の悩み相談に乗って上げることにしたんですよ。どうしたんですか、受粉したいならすればいいじゃないですか。ここはお花畑なんですから選り取りみどりですよ。そう、私は言ったんですよ。そうしたらですね、こいつ、何て言ったと思います?
「好みのタイプがいないの」
 そんな事をのたまったんですよ。自己主張が激しい上に何ともわがままなコスモスなんでしょう! 驚きを通り越して呆れましたね。ねえ先輩もそう思いませんか? ていうかコスモスって自家受粉じゃないんですか? 知りませんけど。とにかくその辺り、少々納得出来ないものがあったのですがとりあえず、先を促すことにしたんです。好みのタイプっていうのは、どんな感じの花なんですか、見つけられたら持ってきてあげますけど。今度はそのように聞きました。すると、花は今度はこう答えたんです。
「背は高い方がいいわ。最低でも百八十は欲しいわね。年齢は行っても三十まで。きりっとした商社マンって言うのよりは、今流行りのIT関係の仕事に就いてパソコンとかバリバリ使って仕事してるような感じの方が好きかも。ああでもボサボサでブクブクしたオタクは絶対嫌よ。その辺りの若造っぽいのをもうちょっと落ち着かせた感じの、少し遊んでそうな、ワイルドな感じの人って結構心惹かれるのよね。そんな人が咥え煙草で足でも組みながらキーボード打ってたりするのってちょっとよくないかしら? 年収とかまで問うつもりはないけど、まあ将来性がないよりはある方がそりゃあいいわね。でも、新入社員のうちから車とかのローン組んだりして毎月ひーひー言ってたりするのも可愛げがあってアタシ的にはありだとは思うわ。車持ってるのってやっぱりポイント高いし。あとは……ああ、まあ当然、テクがある男じゃないと駄目。だって目的は受粉だし? 折角だしキモチよくなりたいし、ねえ?」
 何かこう、無性にむかむかしてきちゃいましてね。だって、何かノリが総務のSに似てません? 私あいつ嫌いなんですよね、トイレの洗面台よく占領してるし。しかもあいつの使った後の洗面台って髪の毛とか落ちててすっごい汚いんですよ、片づけてくのくらい常識ですよね。あんまりにも腹が立ったんで、問答無用でこのコスモス、ぶちっとひっこ抜いてやったんですよ。ああいい気味、いつかあのSの首根っこもこーやってぷちっとなしてあげたいくらいなんですがさすがに私は社会面のヒロインは嫌なのでやりません。
 とまあ引っこ抜いたんですが、けれど瞬間的な怒りが喉元を過ぎてしまえばこれはよく考えるとSではなかったわけで、あらちょっと悪い事しちゃったかしらと思ってコスモスを見てみたんですよ。そうしたらですね。
「まあ、丁度いいわ」
 とか言って、私の頭に植わっちゃった訳です。
 受粉の相手を、自分で探しに行く事にしたんですって。

 ぼんやりと、Aの長い長い長い長い事情説明を聞き終わった俺は、眠気覚ましに頭を軽く振った。昨日は家に帰ろうとした矢先に、今やってる仕事にちょっとした問題が出て、結局家に着いたのは午前一時。今日は朝から瞼が重かったんだが、この話を聞いて更にキた。
「……で? 何? 何だっけ……ああ、受粉相手? 捜すのを手伝えって、そういう事?」
 何か色々話題が遠回りしまくった所為でよく分からなかったが、結局はそういう事なんだろう。単純といえば単純だが……うわ。ありえねえ。コスモスの恋人捜し? 頼む、これはこの眠気が見せる幻覚や幻聴だと言ってくれ……
 ……その痛切な願いが通じたんだろうか。
 Aは、いいえ、と首を横に振って見せた。おお?
「捜すのをお願いしてるんじゃありませんよ、だって」
 俺の顔を見上げて、にっこりと、無邪気な――そう、完っ全に邪気など欠片もない、花のような笑みを見せる、A。
「丁度いいのがここにいるじゃないですかあ」
 その指先は、真っ直ぐに俺を指していた。おおッ!?
「なんっ……!?」
 しまった! 話を聞いている間に気付いておくんだった。身長百八十(ジャストだが)、年齢三十未満、IT関係、やや遊び気味、年収はナニだが車のローン地獄って所まで、まんま俺じゃねえかそれ!?
「てめえこの野郎、最初っから俺をはめるつもりだったな!?」
「はめてなんてないじゃないですか。ちゃんとあなただけが頼りだって言ったのに。はめるふりすらしてませんよ今日は」
「今日はってなんだ今日はって、いや何となく分かるけど!?」
「分かってるなら……」
 唐突に、Aの手が俺の頬に触れてくる。不覚ながらも一瞬、どきりとした。こんな、ドラマみたいな……いや、ドラマでだって今時こんなくさいシーン使わねえよな――映画みたいな風に女の子から触れられるなんて、さすがにそうそう経験したことはない。
 受粉――
 ふと、さっき彼女が言っていた生物の授業がどうのって辺りを思い出す。
 受粉って、人間にとっては……
 椅子に座った俺に、Aは真っ正面からのしかかるようにして迫ってくる。ゆっくりと、ゆっくりと。
「ちょ……っ、お前、やめろ、こんな所で……」
「どんな所ですか……?」
 言われたときに、俺は不意に気付いた。いつのまにか辺りの照明が、白い蛍光燈なんかではなく、オレンジがかった間接照明になっていたことに。俺達が座っているのも喫煙所のパイプ椅子じゃなく、白いシーツのベッドだった。
 小洒落た雰囲気の、シティホテルの一室――
「ね、先輩」
 いつになく、Aの声が、脳髄に甘い。
 緩くウエーブのついた黒い髪をそっとかき上げて、半裸になった彼女が俺の眼前に唇を寄せる……
「受粉、さ、せ、て」

 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……
 電子音のアラームを発するAを俺はすんでの所で突き飛ばして、跳ね起きた。
 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……
 それでもAのアラームは、抗議するかのようにいまだ鳴り止むことがない。
 ……アラーム?
「うわあッ!!」
 叫んで俺はようやく、目覚し時計の頭を叩いた。……ぴ。電子音が止まる。
 白い光。部屋を照らしているのはホテルの間接照明でも喫煙所の蛍光燈でもなく朝の太陽で、その部屋っていうのも見回して確認するまでもなく、六畳一間の俺の部屋。
「なんっ……!?」
 なんなんだ、なんだったんだ今のは。
 ベッドの上で頭を抱えても、答えなんてその切れっぱしさえも見えて来ない。
 ただその代わりのように思い出したのは、
「やべえ! 今日朝一で会議だ!」
 神経質な課長の顔で、俺は慌てて毛布を跳ね飛ばした。

 ことん、と机の上に何か、湯飲みみたいなものが置かれる気配がして、俺はパソコンのディスプレイから顔を離した。
 うちの会社には、コピーやお茶汲みなんかを女子社員がやるとかいう習慣は特になく、特にお茶なんかは給湯室ってもの自体が何故か存在しないので(接客の必要性のある部署にならあるんだろうが、うちのフロアは客を入れることはないから)、机に湯飲みを置かれる、なんて経験は入社してから六年、いまだかつて一度もされたことがなかった。不審に思ってそれを視界の中に入れると、それは湯飲みではなかったことに気がついた。
 それは一輪挿しの花瓶だった。そこに生けてあるモノを見て、俺は思わず腹の奥底から呻く。
「コスモス……」
「あれ、N先輩、コスモス嫌いですか?」
 心底意外そうな口調で、すぐ傍に立っていた女が驚きの声を上げる。Aだった。
「嫌いって……わけじゃねえけど……どうしたんだ、これ?」
「今日ですね、来るときに通りがかったコスモス畑でですね、手入れをしていたボランティアの人に内緒で分けてもらったんです。あ、市が管理してるお花畑なんですけど」
「……川の土手の?」
「よく知ってますね、私、言ったことありましたっけ」
「……多分、あったんだと思う……」
「そうでしたか」
 俺は曖昧に答えたが、あまりこちらの返答に頓着していない様子で、Aはにこりと笑った。
 ……まあ、普通に笑ってるだけなら、可愛い女だと思わないこともあったりなかったりしなくもなくもなくないという感じはするんだが……どっちだ、俺。まあ、何でもいいんだけどさ。
 どうせあれは、彼女の事を俺がどうのって訳でもなんでもなく、単純な若気の至りって奴で……って二十八にもなってああいうユメを見るのはみっともないことこの上ないんだが……たまたまこいつが、一番距離が近い女だったから、こいつの顔が出てきたってだけだったんだ。絶対そうに決まってる。
「そのコスモス、差し上げます。ので、ジュースおごって下さい」
「は?」
 そのAの、毎度お馴染みの唐突な物言いに、俺は声を上げる。
「今日お財布忘れちゃったんですよ。おごってくれないと、そのコスモスの汁だけ強制的に差し上げます」
「汁ってナニ……いや、ジュースくらいいいけどよ」
「良かった。これで何とか生命体として今日の分のカロリー摂取出来ます」
「あーあー昼飯もおごればいいのね、分かったから」
「まあ、先輩ってば何て優しい。お嫁さんに欲しいですね」
「俺はお前みたいな旦那は金貰ってもいらん」
「嫌ですねえ、何言ってるんですか先輩。男の人は普通旦那さんなんて貰わないものですよ? もしや先輩はそういう趣味の人ですか?」
「てめ、この女……」
 唸って睨んでやっても、この後輩は全く動じた様子も見せない。なんつうふてぶてしさだ。今に始まったことじゃねえけど……
 心底、不覚に思う。何でこいつであんな夢を。……いや、あんな夢じゃ、こいつ以外に出演可能な女子社員はいないか、いくらなんでも。
「ひとつ、俺もお前に言いたいことがあったんだ」
 ふと、夢の中から何度も言おう言おうと思っていた言葉があったことを思い出して俺は呟いた。何ですか? と首を傾げてくる彼女にぴっと指を突きつける。
「お前、いちいち全部論点が違うーッ!!」
「どっ、どこがですかぁ?」
 全部だ全部。本気で訳が分からなかったらしく、目を白黒させる彼女に、俺はそう付け加えた。

【FIN】


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